改めて小説版の「秒速5センチメートル」を読むと、その物語の特異性に驚かされた。
「君の名は」で昨今有名作家に鳴ったが、新海誠さんの「秒速5センチメートル」を中心に、彼がいかに特異な世界を描いているかを解説したいと思う。
物語を語るという性質上、様々な方面で大きくネタバレしている。特に「時をかける少女」と「秒速5センチメートル」については物語の核心を語る内容となっているので、未視聴の方は出来るだけ視聴をされてからこのエントリを読まれることをおすすめしたい。
秒速の物語性
千と千尋「千尋」
古典的に、物語の構造は大きく2つに分けられる。一つ目は、「旅に行って帰ってくる」物語だ。
- 主人公が何かを喪失する
- その喪失したものを取り戻しに主人公が異世界(あるいは非日常)へ向かう
- その過程で主人公は成長し、帰還する
- めでたしめでたし
というのが、「旅に行って帰ってくる」物語のおおまかなあらすじだ。
ドラクエではお姫様がさらわれ、マリオではピーチ姫が性懲りもなく捕まるのはこの構造が最もベーシックだからです。神話で言うと、イザナギノミコトがイザナミノミコトを取り戻しに黄泉の国へと向かうのもこの構造だ。
ハリウッドであろうがゲームであろうが、世の中にある多くの物語は、この構造に則って「喪失→回復」の過程を描いている。
日常に回帰するときに異世界において獲得したものはほとんどのものを失ってしまうものの、かつて持っていたものは取り戻し、その過程で主人公は成長している。
宮崎駿さんの映画「千と千尋の神隠し」はこの構造に則った、典型的な「異世界での成長」物語だ。
彼女は様々な経験をし、結果として両親を取りもどし人間的成長を遂げる。しかし、日常に回帰する代償としてハクとは別れ、ほとんどの記憶は失われる。
宮崎駿さんの作品は(後述する「崖の上のポニョ」や「ハウルの動く城」など一部を除いて)ほとんどが異世界への旅とその帰還を描いている。原点とも言える原作版ナウシカでも、最後はシュワの墓所から風の谷へと帰還するのはご存知のとおりだ。
これは、宮崎さんが「指輪物語」や「ゲド戦記」などの古典的ファンタジーに大きく影響を受けているからだろう。
時をかける少女「真琴」
もう一つは、「異邦人が来て戻っていく」物語だ。古典で言うところの竹取物語だ。
異邦人がやってきて、日常がかわり、しかしあるとき異邦人は帰ってしまうことでまた平凡な日常が戻り、でも主人公はその過程で成長している…というのがストーリーの主眼だ。
ETも帰るし、ドラえもんも未来に帰るし(戻ってきたけど)、異世界からの素敵な恋人はたいてい消え、非恋物語に終わるのが常だ。
さて、細田守さんによる「時をかける少女」は典型的な「異邦人が来て戻っていく」物語だということがわかる。
「来て戻っていく」も「行って帰ってくる」も、非日常からの日常回帰がストーリーの主眼だ。
真琴にとってはタイムリープをしたり、千昭とキャッチボールをしたり告白されたりする時間こそが「非日常」だった。
「来て戻っていく」話だからこそ、真琴は日常を失うことなくその後の人生を生きられたのだ。
真琴はその経験を通し、喪失を知り、そして未来へと向かう第一歩を踏み出す。「時をかける少女」の本質は、真琴の成長にあるのだ。
余談ですが、両作品とも完全なる日常回帰ではなく、異世界からの帰還において変わった部分がフォーカスされる。千と千尋でいうところの髪留め、時かけでいうと絵画の修復を始めるなど。これは成長のメタファーだ。
秒速5センチメートル「明里」
ここまで二つの大きなフレームをお伝えしたが、千と千尋も時かけも「切ない」お話ではある。
しかし、「秒速5センチメートル」は、どちらも根本的にこの2つのお話とは違う。なぜなら、秒速は「異世界に行ったまま帰ってこない」お話だからだ。
秒速の明里は最初から貴樹の隣にいる。それがある日から転校してしまい、その後…というのが秒速のメインストーリーだが、普通の作品であれば最終的には主人公のもとに帰ってくるはずだ。
しかし、秒速では(ご存知の通り)明里は他の人と結婚してしまいます。
これは、他のストーリーで例えるとゼルダがガノンドロフと結婚しちゃったままリンクがコキリの森で生活し続けるくらいの衝撃だ。
このような物語構成は一歩間違えると単なるバッドエンドになりかねない。「行ったまま帰ってこない」物語はほとんど死に直結しているメタファーだからだ。
崖の上のポニョ「宗介」
例えば、異世界に向かう物語である「千と千尋の神隠し」や「ナウシカ」では高い評価を得ている宮崎駿さんも、行ったまま帰ってこない物語の典型である「崖の上のポニョ」においては評価が芳しくない。
(ポニョはそのものズバリ世界の崩壊を描いているので、死に直結するメタファーを選択するのは当然だし、死を描く作品がなかなか一般受けしないのもこれまた当然かと思う)
ポニョを見てもわかるように、「行ったまま帰ってこない」というストーリーを選択した場合、観客は死の臭いをそこに嗅ぎ取り、その臭いにもやもやしたままカタルシスを全く得られない作品になってしまう危険性がある。
これを回避するためには、世界は主人公の犠牲によって救われる」という、主人公を世界からみた異邦人としてメタに捉える手法か、いわゆるセカイ系(エヴァ・ガンダムZ)のように主人公の心のなかの救済を描く手法があるが、秒速は普通の恋愛物語ですので、そんな手段は使えない。
どうすればいいのだろうか?
この危険を回避するために新海誠さんが取った手法が、「二人の主人公」だ。
主人公としての秒速5センチメートル「明里」
秒速の主人公は貴樹ではあるが、見方を変えれば明里も主人公だ。
第一章の「桜花抄」のラストで明里は自分の手にした手紙を渡そうとするものの、それをせずに「貴樹くんは、きっとこの先は大丈夫だと思う!絶対!」と叫ぶ。
対して、貴樹は「明里も元気で!手紙書くよ!電話も!」と答えている。
ここにおいて、二人の明確な対比が描かれている。明里が伝えているのは「貴樹くんは私がいなくても大丈夫」あるいは「私は貴樹くんがいなくても生きられる」というメッセージだ。
この瞬間、明里は貴樹を失い、貴樹がいない世界を生きることを選択している。だから、明里は手紙を渡さなかったのだ。
「手紙から想像する明里は、何故かいつも一人だった」というような描写があるが、明里にとって貴樹はほとんど唯一の友達だった。
その彼女が(小説版の中で)書いた手紙の中で、「私はこれからは、ひとりでもちゃんとやっていけるようにしなくてはいけません」と書き、貴樹くんのことが好きだった、と述べているのだ。
ここにおいて、明里の中での貴樹は失われた。
対する貴樹のメッセージ「手紙書くよ!電話も!」は「一緒にいられた日常を続けよう」という意味だ。明里は喪失した自分自身であり、魂の片割れであり、取り戻すべき存在なのだ。
明里は貴樹の来訪と喪失により成長し、転校した土地、貴樹のいない世界を「日常」にし、そしてその地から旅立って結婚する。
明里から見た時には立派に「異邦人が来て、喪失により成長する」物語が成立しており、秒速5センチメートルが明里の成長物語として成立しているからこそ、物語が単なるバッドエンドで終わらないのだ。
秒速5センチメートル「貴樹」
さて、貴樹にとっては一見救いようのないのないストーリーだが、明里に遅れて十数年、貴樹が救われる瞬間が訪れる。
それが、小田急線の踏切において描かれるラストシーンだ。
貴樹は明里の姿を踏切で見かけて振り返り、電車が通り過ぎたあとに彼女の姿はなかったものの、少し微笑んで歩き始める。これは、正式に明里を「失うことが出来た」瞬間だ。
秒速5センチメートルは貴樹が明里を喪失し続ける過程を描いている。
だからこそ、貴樹が明里を正式に失うことによって、明里が中学生時代に貴樹に「貴樹くんは大丈夫!」と言ったのと同じように、明里を非日常としてみなすことが出来るようになったのだ。
10数年来の二人のすれ違いがようやく解消されるのがラストだ。だからこそ、我々は長かった喪失の過程が終わったことに安堵し、心地良い喪失に身を委ねることが出来るのだ。
こうしてラストの数秒で「秒速5センチメートル」は貴樹から見た「来て戻る」成長譚として成立することが出来た。
天才・新海誠
最後の最後、この瞬間にのみ成立しうるタイミングで喪失を描き、エンディングで深い余韻を残す。
これが僕が新海誠さんを天才だと思う理由だ。
そんな綱渡りと博打の上に成立した「秒速5センチメートル」という日本が誇る傑作。
もしこのエントリで何かを感じて頂ければぜひもう一度、秒速を見ていただきたい。