ハイエクの理想が現実化しつつある

フリードリッヒ・フォンハハイエクは、1976年に刊行したDenationalisation of Money(『貨幣の非国家化』)において、貨幣発行の自由化を主張した(本書の90年版は、Ludwig von Mises Instituteがウェブに公開しているので、全文を読むことができる。以下、ページ数は90年版)。

インターネット上に登場しつつあるビットコイン等の仮想通貨を、ハイエクの考えと関連づけてみることとしたい。

ハイエクが国家による貨幣管理に反対する大きな理由は、国債の貨幣化によって放漫財政が生じることだ。彼は言う。「現代における政府活動拡大の大部分は、貨幣発行によって財政赤字を賄ったことでもたらされた。これによって雇用が創出されるという口実に基づいて」(33ページ)。同じ考えは、繰り返し表明される。すなわち、「政府支出の増加は、政府がマネーをコントロールできるようになったために生じた」(118ページ)。「政府の赤字は貨幣の創出で賄われてはならない」(120ページ、等々)。

銀行が独自の貨幣を発行することとすれば、各銀行が慎重に流通量を調整するので、無秩序な増発はなくなる。

ここで、中央銀行は不必要になることに注意しよう。ビットコインに対する批判として、「中央銀行がない通貨制度はあり得ない」と言う人が多いのだが、その考えは誤りである。中央銀行が必要になるのは、部分準備での銀行貸し出しが認められ、信用創造が行われるからだ。そのような制度では、預金取りつけによって信用制度が崩壊するのを防ぐため、中央銀行が最後の貸し手になる必要がある。

しかし、部分準備を認めなければ、中央銀行なしの通貨制度はあり得る。それがハイエクの提唱する世界だ。中央銀行が存在しない世界は、単にあひ得るばかりでなく、「望ましいものだ」とハイエクは主張しているのである。

現実の歴史を見ても、部分準備制が始まったのは、17世紀のことだ。中央銀行が登場するのも17世紀になってからである。それまでは、中央銀行なしの貨幣制度が機能していた。

なお、中央銀行は銀行間の決済機能をも果たしているが、これは現代の技術では自動化できる。

貨幣自由化への具体的な道筋は?

ハイエクの議論で十分に強調されていないと思われることが、二つある。

第一は、貨幣自由化に至る具体的な道筋が示されていないことだ。第23章で、旧来のシステムへの回帰圧力があることを述べているが、そもそも現状からの改革をどう実現するかは、明確でない。

第2版への覚書の最後で、ハイエクは、「理論経済学者と政治哲学者の主要な責務は、世論に働きかけることによって、いまでは政治的に不可能であるとされていることを、政治的に可能ならしめることであると、強く信じている。したがって、私の提案が現時点では政治的に実行不可能であると反対されても、私は提案を撤回しない」と述べている。彼は、具体的な手順の提示は自らの仕事ではないと考えていたのだろう。

しかし、現実社会と彼の理想社会との間には、大きな隔たりがある。銀行業はどの国でも政府の厳しい監督下にあり、業務内容を自由に選択することはできない。政府は国債貨幣化により利益を得られるのだから、その特権をやすやすと放棄して、貨幣自由化を容認するとは考えられない。全力を挙げて、自由化を阻止しようとするはずだ。したがつて、貨幣自由化は国家権力との闘争とならざるを得ない。

自由化は、銀行制度の外で、貨幣に代替するものが多数出現し、それが現存する貨幣を侵食することによって実現するはずだ。ビットコインなどの登場が、まさにそれだ(すでに200近いものが存在する)。

侵食するには、従来の貨幣よりも優れていなければならない。送金コストが低いことは明らかな利点だ。いまは登場後日が浅いため、使い勝手が悪い。しかし、関連サービスは急速に成長しつつある(ATMは、その一例だ)。これによって、多くの人が簡単に使えるようになるだろう。価値はどうか。いまは変動が極めて大きい。しかし、多くのコインは、発行総額を限定化しているので、長期的には安定していくだろう。

インターネット上の貨幣は、中央銀行がなく、部分準備の貸し出しもできない。したがって、信用創造も起こらない。これらの点で、ハイエクが描いた世界と同じだ。それだけでなく、特定の管理主体も存在しない(ハイエクの世界では、民間の銀行が自らの貨幣を管理する)。その意味では、さらに理想に近い。もしハイエクが生きていたとすれば、必ずや、貨幣自由化の実現と評価したに違いない。

外国通貨への逃避が政府を制約する

ハイエクの著書でいまひとつ強調されていないのは、外国通貨への逃避がもたらす効果である。

国が財政支出を国債貨幣化で賄い続ければ、キャピタルフライトが起こり、為替レートが減価して政府は引き締めに転じざるを得なくなる。つまり、国は勝手に貨幣化を続けることはできず、通貨価値の安定を強いられることになる。国内で銀行間の競争が起きなくとも、このようなルートを通じて、国の恣意的な政策は制約されるのである。

ハイエクは、第23章で、国家制約からの個人の自由を論じているが、初版が刊行された時点では、為替に実需原則が適用されており、貿易と離れた国際間資金移動が厳しく制約されていたため、キャピタルフライトを現実的なものとは考えていなかったのだろう。通貨に対する国民の信頼が落ちても、国は心配する必要がなかった。

しかし、実需原則が撤廃された現在の世界では、事情は異なる。例えば、ユーロがなかったとすれば、放漫財政をコントロールできないギリシャからは大量の資金流出が続き、ギリシャ国民は緊縮財政を受け入れざるを得なくなったはずだ。

現実には、ユーロが導入され、ギリシャがそれに加盟したため、こうはならなかった。つまり、現実の通貨制度は、ハイエクが目指したのとは逆の方向に進んだわけだ。

ビットコインは、外国通貨への逃避を容易にすることによって、こうした現状を打破する。国と国の競争、あるいは国家通貨間の競争を促進するのである。

そもそもビットコインが広かったきっかけは、既存の通貨への不信だ。キプロスや中国で起こったことがまさにそれだ。日本でも、前回述べたような事情(放漫財政と国債貨幣化)と日本銀行の独立性喪失を考えれば、同様の事態があひ得る。これまで日本国民は、そうした事態に反対の意思表明ができなかった。しかし、いまではできる。

もちろん、政府は、こうした動きをつぶしにかかる。中国では金融機関のビットコインへの関与を禁じた。日本でもそうだ。しかし、ビットコインをつぶしても、他の通貨が現れる。例えばすでに、リップルという有力な代替物が現れている。これと現実通貨の交換所(「ゲイトウェイ」と呼ばれる)は中国に存在するので、これを利用して人民元からビットコインやドルヘ逃避することは、現状で可能なはずである。

ビットコインに関して、「規制と監視が必要」としばしば言われる。しかし、規制と監視が本当に必要なのは、国の通貨なのだ。

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