こんにちは、天使の心を持つJKことDACです。以後お見知りおきを(*‘ω‘ *)。
さて、あたしは最近心荒む世界に嫌気がさしまして、もう少し家庭的な何かについて考えねばと常々思いを巡らせておりました。
そこに葱しょったカモが…もといお悩みを抱えた若きお母様りかさん(id:rkssd0717)が登場しました。お子様の靴の履き方に違和感を感じるとのことです。皆様ご存知のようにあたしは身体はピチピチのJKですが、心は既に悟りの域にありますのでお話を伺ってみました。
お話の切っ掛け
「これででかける!」という、息子。
— りか (@rikaboomama) 2017年6月4日
私は、止めたけど。
「いいじゃん。やりたいなら、やらせよう。」という夫。
私には、こういう許容力が、足りない。 pic.twitter.com/s7yTVD9mxn
なるほど!見事に左右が違いますね!アンシンメトリー最高です(*´ω`)。そこであたしはこう受け答えた訳です。
つまり、旦那様とお子様のおおらかさは、りかさんには許すべからざる振る舞いなのです。普段寝食を共にし心より愛しているというのに、急に皮を剥がして言葉の通じない宇宙人が現れたような心境となってしまったのです。それはそれはご心痛も大きいことでしょう。
まあ、そろそろおふざけは止めましょうか。
まずは自分なりの解釈として、旦那様とお子様側に肩入れした感じでお話してみます。
仮説
あたしがまず提示したい仮説*1は以下の3点です。
- 大人は基本的に成熟した均一性を好む
- 子どもは個々に未成熟で不確定性を好む
- 子どもの感性は当初は多様だが、成長に伴い社会性を持つことで収束する
つまり、成長に伴う社会性を持つことにより子どもと大人の好むものは変容し、その二者においては明確ではないものの双方の許容を超えたくびきがあるのだろうと思いました。
あたし自身両方分かると言ったのは「習慣づけとして一定以上の均一性を好ましいと思いつつも、混沌と散らかった居心地の良さも捨てがたい」と思っています。*2そこを踏まえつつこういうプロセスなんだろうとまずは考えてみました。
念のためですが、確定事項ではなく仮説です。
大人は基本的に成熟した均一性を好む
大人にとってみれば、モノの存在はもとよりモノの属性、モノと人の関係性が考えるまでもなく存在します。そこに見栄え、秩序性、収まりの悪さが来て次に清潔性や機能性といった価値観を紐付けるのは当然でしょう。
大人である旦那様が鷹揚であるのは、別に旦那様が不均一な混沌をこよなく愛するからではありません。大人は基本的に成熟した均一性を好むけれど、その許容範囲は個人によって様々であるということでしょう。
子どもは個々に未成熟で不確定性を好む
子どもの段階では世界は色々と複雑で難しく、そして新鮮な発見と喜びに満ちているのです。そこには大人なら大抵は持ち合わせている「これならこうでしょ」という前提的な歯止めや固定的なお約束などありません。
そもそもそれが何かすら知らないし、モノの存在があるとすら認識しえない可能性があります。大人は忘れてしまっていますが、かつて自分も通ってきた道です。概念的には理解出来る筈です。
子どもの感性は当初は多様だが、成長に伴い社会性を持つことで収束する
最初は子どもはいろんなモノや事をなんとなーく触ったりなるようにしたり、自分が面白いと思ったように扱うのです。
でも、成長段階で子どもは社会性を獲得します。一番最初のそれは親の視線や受け答えです。大きくなれば学校で先生や友達、家のそばでは近所の方とも触れ合います。
次第に他の人がどう感じるかどう反応するかで自分の言動や反応を変えるようになります。最初は無秩序と言ってよい多様性を持っていた感性、反応も社会性の獲得にともなってある程度の収束します。
お絵描きの事例
仮説だけを書いても、裏付けが全くない状態だと「そうも言えるけどね。屁理屈っぽくない?」となるでしょう。そこで検証は出来ないものの類似事例としてぬり絵の話をします。
子どもの絵は本来「自由画」しか存在しない
「自由画」とは何か?
定義はこうです。でも、お堅いですね(*‘ω‘ *)。「そもそも
自由に題材を選び,自由に表現した絵。特に,大正期の美術教育運動の中で児童の個性と創造性の開発をめざして山本鼎(かなえ)によって提唱されたものをいう。
山本鼎(かなえ)ってどこのどいつじゃ?」となるのは目に見えます。要は、写生のようにあるものを見た造形に忠実に書くという画一的な描き方とは異なり、画材でぐじゃぐじゃーーーって好き勝手に子どもが描いた絵と思って貰えばいいです。
自由画の場合、何を描いたかは重要ではありません。実はそれが絵であるという必要すらありません。ただ、クレヨンとか鉛筆とかを使って画用紙とか壁とか床とかに好き放題に何でもいいから好き勝手に描き出す(出力)することが大事です。つまり、それが人や風景や食べ物みたいにそこにあるものである必要はなく、グジャグジャーーーっと丸まった線だか塗りつぶしであっても良いのです。
大人は「自由画」の意味を理解できないことが多い
大人は普通そこにあるものを見たように描くことを絵だと思っています。何を描いたのか分からないような線や塗りつぶしを絵とは認めません。
例えば、そこにリンゴがあるとしましょう。子どもがリンゴを見ながら絵を描いていた場合、親は子どもがリンゴの絵を描いていると思います。
しかし、そうではないことが多いのです。子どもは何となくそこにあるリンゴを見ていますが、それが何であるかを理解していません。またリンゴの外形や属性(赤い、丸い、模様がある等)も認識していません。それをぼんやり見ながら、手では手慰みのように画材をもってグジャグジャーーーと何かを描きます。そこに相関性はありません。単にグジャグジャするのが楽しいか、偶然手にした画材で反射的に動いているだけです。
大人は「自由画」に干渉する
もし、子どもがリンゴを見ながら外形を無視して奇妙な色の得体の知れないものを描いていたらどうするか?
人によりますが「こう描いたらどう?」と声をかけたり、赤い色のクレヨンを渡してあげたり、見本の絵を描いてあげて見せたりするのではないでしょうか?
そうすると子どもは親の望むところを知ります。一番近くにいて自分を大切にしてくれる大好きな人が言うことです。その影響は甚大です。顔色も見ます。「そこはこう描いてみたら」という言葉は「こう描いたら喜ばれる」「こう描いたら安心だ」と受け取ります。赤い丸い外形を「お手本」に見せて学習すると、リンゴといえば赤い丸を描けばいいんだと思うようになります。
干渉を受けると「自由画」は描けなくなる
大人の干渉は悪いことか?
干渉するものの例として親を挙げました。最初に干渉する可能性が高いからです。しかし、別にこれは一概に悪いものではありません。
冒頭の仮説に書いたとおり、社会性を得るのは子どもの成長において必然だからです。親が干渉せずとも公園、保育園、幼稚園、小学校と外での活動時間が増えれば他者との繋がりが出来ます。その結果、自分とは違う相手がどう反応するかで行動を変えるということを学習します。
つまり、いずれは何かしらの干渉は必ず受けるのです。いつそれを受けるかの違いがあるだけで間違えではありません。
「自由画」の意味
表現とはその結果としての形を高度なものにするものが大事なことではなく、表現する過程を子ども自身が味わい、もっとやってみたくなることが幼児期の基本
です。「自由画」を描く意味とはおおよそ以下のようなものです。
- 手を動かすことで指先や手の動かし方を身体で少しづつ覚えます。(一般に精密な手の動きを習得完了するのは小学校低学年でそれ以前は精密な操作は出来ません)
- あるべきの描き方ではなく、自由で柔軟で制限のない何かを出力することが出来ます。
- 制約がない行動を許容されることで萎縮することなく、自分が楽しいと思うことに自信を持てるようになります。
- 情緒をそのまま発散することに肯定的な認識を持つことが出来ます。
「なんだ。それじゃ野生児じゃないか」「理屈はそうだろうけど、うちでは無理!」と反射的に考えるのは保留して下さい。子どもというのはいずれは遅かれ早かれ社会性の獲得はするのです。ただ、この過程を親の意志で早めることが本当に的確かという話です。
強制的に干渉した結果起こりうる事
丁度「自由画」の意味合いの逆に作用します。
- 手を精密に動かすことを模倣をもって学ぼうとします。本来の習得可能時期より早いため、正確には出来ないのですがそれらしいことをするようになります。
- あるべきの描き方を知り模倣することを覚えます。但し、あるべきの手本がわからない場合や技量的に実現できない場合、絵を描かない場合もあります。
- 制約の外の行動は否定されるので萎縮します。自分が楽しいと思うことより周囲が認めることを実現しようとします。
- 喜怒哀楽を明確に出すことを忌避しようとします。見た目大人しく上品ですが、情緒を表現すること自体を忘れることもあります。
ぬり絵の弊害
子どもを静かにさせる手段というのは親にとっては喫緊の課題でよく話題に上がります。例えば、スマホを貸し与えるとか、ネットの動画を見せるとか。
お絵描きに関してはよくぬり絵をさせると、子どもは静かに素直に熱中して行うそうです。親にとっては良い結果かもしれません。
しかし、先の「自由画」の観点では弊害があります。最初から印刷された線の中に指定された色を塗りつぶしていくだけです。端的に言って、それは作業です。誰がやってもほぼ同じような結果しか出力されません。塗りムラがあるか、色を正しく選択しているかなどはありますが、正解とされる唯一の正解に近づけるための作業です。自由に手を動かしたいという欲求は押し潰され、すり潰され、元から無かったように消えていくでしょう。
ここまでの論建てにどう感じましたか?
「なるほど!」と思ったでしょうか?
あたしが予測する反応はそうではありません。一言で言えば「小賢しい!」です。実を言えば、あたし自身そう思っています。
親の立場で実際に子どもと接するということは、理屈が介入する余地が無い真剣勝負の現場です。親の汗と血と涙、自分がもちうるほぼ全てのリソースを投げ打って、疲れ果てながら向き合うのです。場面場面では誰の助けを得られることもなく、確たる正解など示されること無く、朝に昼に夜に深夜に一日二十四時間使って何とか最善を尽くしているのが親です。
第三者の理屈などは、仮にそれが一定の整合した合理性を持っていたとしても「それが何か?」となるのが自然な反応の筈です。
種明かしをしましょう
さて、ここで一つ種明かしをしましょう。
仮説自体はあたしが一から考えました。しかし、それだけでは論立てが薄っぺらい。そうかといって仮説を検証するだけの環境は無い。何故なら自分にとっての現場はあくまで自分の子に対しての特定の限定されたものです。一般化するのは無理があります。
そこで、成長期の発達過程における学説や論文にあたることにしました。お絵描きの事例の種は「子どもの絵のお話-自由画について」という南九州大学人間発達学部子ども教育学科美術教育研究室の古賀隆一氏編著の論文の首っ引きです。原文はより細かく実証例や考察がありますので興味が湧かれたなら是非お読み下さい。
また、併せて見て回った論文に以下のようなものがあります。いずれも勉強になります。
- 「形の感性を科学する」酒 井 浩 二 ・ 山 本 嘉 一 郎
- 「子供の描画における感性的表現研究の動向と展望」古池若葉
- 『 感性を働かせている子どもに寄り添い、想像力を豊かに発揮できる』授業
拙速で集めましたから、恐らく他にも同系統の研究でより良いものがあるでしょう。特に海外の研究機関の論文はまだまだ色々あると思いますし、自分も興味があります。
あえて弱点を晒すとこれらの研究はまだ実証性が高いとは言えるものは多くありません。子どもの内実を外部から観察して定性的な結果を得ることが容易ならざることは少し考えれば分かると思います。
正解とは何か?
あたしは、あえてリカさんの感性から来る姿勢に対してカウンター的に仮説を組み立てました。そして、その論立てを補強するのに学説を使いました。
しかし、それが正解かと言えば「NO」です。正解など誰にも分かりません。無責任な話に見えるかもしれないですが、ここでリカさんの肩を持つことも、旦那様やお子様の肩を持つことも出来ません。ここで正解とはこれであるとする方が無責任というものです。
それでもあえてカウンターをあてたのは、リカさんの考えに対してそれ以外の切り口をぶつけるためです。それがいかな屁理屈でも構わないのですが、鼻にもかけられず一蹴されるようなものにならなければ良いと考えました。実際、あたしは冒頭に書きましたように「習慣づけとして一定以上の均一性を好ましいと思いつつも、混沌と散らかった居心地の良さも捨てがたい」と自分の現場を通して思うからです。
それは決してリカさんの結論に対して劣るものでもなければ勝るものでもありません。ただ、リカさんが今この瞬間も一生懸命ぶつかっている子育ての現場で何かしら自分なりの正解を見出すための刺激になれば嬉しいと思い本エントリをしたためました。
終わりに
親が子育てを手探りで正解なき中をもがきながらも最善を尽くすように、子どももまた手探りで正解なき中楽しみながら自分の出来ることを探し求めます。そこにこれが正しいこれが間違いなどと決めつけて言うことは、いかなる権威であっても許されないことです。
ただ、自分がそういった限られた判断に頼っているかもしれないこと、そこから漏れ出す何かがあるかもしれないと思うことは無駄ではないと思います。
所詮は人がすることです。完璧など実現は出来ませんし、目指すべきでもありません。自分なりの最善を選択し実行するだけです。お子様はいずれ親の手を離れ、お子様なりの最善を自分の意志で選択することになります。そのときにお子様が自分なりを信じ、自分なりを果敢に試行錯誤する自立性があると素敵だなと思います。
「親の心子知らず」「子の心親知らず」と思う人も多いです。でも、親の真摯な思いはいつかは分かりませんが必ず子に伝わります。あたしも自分の親の思いがこうだったのだろうか…と気付いたのは自分が子育てに面した時、既に父が亡くなって数年経った時でした。遅きに失したと思う面も少なからずありますが、それもまたなりゆきです。
自分は父にも母にも今更ながら強く感謝していますし、自分を育てた親の姿に思いを寄せる時があります。いずれ自分が自分の子にそう思われることもあるのかな…などと思いながら目の前を一生懸命に頑張っています。
かなり元の話から風呂敷を広げすぎましたが、あたしなりの思ったことをあなたにお伝え出来たなら嬉しいです。