「昭和考古学」として、現在JR阪和線になっている阪和電気鉄道(以下、阪和電鉄)シリーズを書いていきましたが、やはり阪和電鉄は伊達じゃない。もうネタはなかろう・・・と思ったら、まだあるのです。ネタが尽きないのはいいのだけれど、書いている方は疲れるばかり。ある意味私も困りました(笑
この記事で、阪和電鉄は他の私鉄の例に漏れず、住宅地経営にも乗り出したと書きました。
・上野芝向ケ丘、霞ヶ丘
・信太聖ヶ丘(今の北信太駅前の住宅街)
・泉州泉ヶ丘(くどいですが、泉北ニュータウンとは全く別もの)
・富木の里(募集はしていたものの、戦後の航空写真を見ると家一軒建ってない。たぶん計画倒れに終わったんではないかと)
その中でも、今回は阪和電鉄が最初に経営を始めた「上野芝向ケ丘」を採り上げたいと思います。
上野芝の由来
「そもそもなんでここは『上野芝』って言うの?」
見方が斜め上なのか細かすぎるのか、私はいつも変なところに疑問を持ってしまいます。
細かいことが気になってしまうのが、私の悪い癖です。
ほっとけ!と言われるとそれまでですが、こういう、ホンマどうでもいいことを調べることによって出てきた事実が、今まで漠然とした疑問や謎の解決への突破口になることもあるから、止められない。
どうでもいいことは、本人もいちおう自覚はしているんです(笑)
「上野芝」を分解してみると、
「上野」
「芝」
に分けることにできます。
「芝」はそのままとしておいて、「上野」は何なのか、どこなのか。まさか東京の上野ではあるまい(笑)
そこで調べてみると、「上野芝」の「上野」は、元々「上の」または「上之」だったということがわかりました。
これで、「上の(上之)」は場所を指す可能性が高いと。
さらにほじくってみると、もっと前は「神の芝」と呼ばれていたそうです。
「神の芝」とは、
上野芝駅のすぐ近くにある履中天皇陵のこと。
すぐそこに、天下にその名が鳴り響く仁徳天皇陵があるので知名度は低く見逃されがちですが、この古墳もけっこうデカいです。
それも、発掘が出来ないので確定ではないものの、仁徳天皇陵より古いんじゃないか!?という説もあります。
仁徳天皇は16代目で履中天皇は17代目。
仁徳天皇陵より古いということはあり得ないはずですが、古いということを前提にすれば、我々が仁徳天皇陵と言っているのは実は「ハッタリ」で、「本当の仁徳天皇陵」は履中天皇陵だと唱える人もいます。
日本の古代史は本当に謎が多いので、ここあたりを是非とも科学的にはっきりさせて欲しいと希望します。
現在、堺の古墳群を世界遺産に登録しようと運動中ですが、まず本当に「仁徳天皇陵」なのか「履中天皇」なのか、科学的調査が必要じゃないかと個人的には思うんですけどね。
ユネスコ「それが『とても古くて天皇の古墳である』という科学的な根拠は?」
日本「そう言われているから間違いない。国も認めている」(意訳:お察し下さい)
ユネスコ「WHAT?? そんなことは聞いてない!」
って流れになって却下されてしまうんじゃね!?と思うんですけど、大丈夫ですかね?
「上野芝」までの流れを時系列的に説明すると、こうなります。
その昔履中天皇陵の周りに芝生が生えていて、天皇陵の周りの芝なので「神の芝」、またはそれがきれいだったので付けられたと言います。
それがいつの間にか「上の(之)芝」に変わっており、そのまま使い続けられていました。
「上の芝」が「上野芝」に変わったのは昭和4年、阪和電鉄の上野芝駅が出来てからです。「上の芝」だと駅名としてなんだかな・・・漢字にして締まりを良くしよう!というのが、その理由だったそうです。
上野芝駅
上野芝駅は、今は各駅停車しか止まらないローカル駅となっています。
特急や快速でビューンと飛ばす人には、ここにそんな駅あったっけ?という次元の駅であります。
上野芝駅が作られた根拠は、もちろん阪和電鉄最初の直営住宅地、「向ヶ丘」のためでした。
「向ヶ丘」とは上野芝駅の南部に広がる住宅地、今の上野芝向ヶ丘町のことで、鬱蒼と茂る森を阪和電鉄が買収、そこを住宅地にすべく開発したのが始まりです。
しかし、向ヶ丘住宅地が実際に分譲開始になったのは、駅が開業した翌年のこと。
駅ができた当時は、荒涼たる荒れ地の中にポツンと寂しく建つ駅でした。
これは戦後に建て替えられた二代目の駅舎ですが、右側の駅舎が阪和電鉄独特の形状なので、初代のままだと推定できます。
最初の住宅地ということで、購入者には
1年間阪和電鉄乗りたい放題
という特典がありました。
天王寺駅の怪と阪和電気鉄道の歴史-前編にも書いた通り、電車は大衆の足として定着してはいるものの、決して安い乗り物とは言えませんでした。天王寺から和歌山まで96銭でしたが、大工の日給が2円だった時の96銭。今なら3~4000円くらいの感覚です。
それで1年間乗りたい放題は、かなりおいしい特典だったと思われます。
この特典を利用して、和歌山方面に新婚旅行に行った夫婦もいたそうです。
向ヶ丘という名前の由来
(向ヶ丘自治会ブログ様の画像を一部加工)
向ヶ丘住宅地のそもそもの名前は、「踞尾村」でした。
「踞尾」というどう読むのかわからない漢字の地名は、「つくの」と読みます。今は「津久野」と書きますが、これは踞尾の地に公団(今のUR)に隣接した駅を作る時、「踞尾」なんて馴染みのない名前はダメ、という国鉄の方針で「津久野」になった経緯から。今は地名まで「津久野」になってしまい、「踞尾」が化石地名と化してしまう、何とも笑えぬ結果になってしまいました。
向ヶ丘界隈を「つくの」と言うのは、地元の地理に詳しい人であればちょっと違和感を感じます。
まあ、近くと言えば近くなのですが、なんだか違うよねという距離感もある。
これは私が半地元だから思うことかもしれません。大多数の人にとってはどうでもいいことでしょうし(笑
しかし、「踞尾村」という広い区域の一部だった地が、「向ヶ丘」という名前がどこから湧き出てきたのか。そこが気になるのです。調べて掘り当てて金塊が出るなんてことはないと、そんなことはわかっちゃいるけどやめられない(笑
さて、急に湧いて出てきたような「向ヶ丘」という地名は、どこから出てきたのか。
地図ではわからないのですが、
この矢印の方向から見た地形は以下のようになります。
駅からいったん急な下りになり、百済川という川を跨いでいったん平坦となります。
そこから一気に急傾斜の上り坂に。
この地形を見るとわかるように、「上野芝」から見た「向こう側の丘」、すなわち「向ヶ丘」と名付けられたと私は推定しています。
今でこそ見渡すかぎりの住宅地ですが、当時は
こんな風に見えていたのでしょう。堺市立図書館所蔵の、昭和8年頃の上野芝駅前の下り坂から向ヶ丘を臨んだ絵です。向ヶ丘に住んでいたのでしょう、帽子をかぶった女学生がおそらく家路につく様子を絵にしたものだと思います。ここに住んだこともないのに、何だかノスタルジックで、我々が置き忘れた何かがこの絵に含まれているような気がします。
しかし、この写真が実は上野芝向ヶ丘町に残る謎のキーポイントとなります。
「向ヶ丘」という名前は、地元のブランド名になったのか、地元のいろいろな場所で使われ始めます。
上に書いた「踞尾」が「津久野」になった駅前の現在は、「サンヴァリエ津久野」というお高いUR賃貸住宅が並んでいますが、ここが「サンヴァリエ」になる前は「向ヶ丘第一住宅」という公団住宅でした。
ここについては、まあ別記事で書きたいと思いますが、今の「津久野駅」は「踞尾」と共に「向ヶ丘」という名前も候補にあがっていました。というか駅名としてしっくり来やすい「向ヶ丘」が最有力候補だったのですが、地元の反対で「津久野」に落ち着くことに。
上野芝の向ヶ丘は元々「踞尾(津久野)」だったのに、いつの間にか本家(踞尾)が分家(向ヶ丘)に名前ごと飲み込まれそうになるところだったのです。
感の鋭い方は、上に「第一団地」と書いているからには「第二団地」もある(はず)、と思うことでしょう。
正解です。「第二団地」もあるのです。
本家の第一団地がなくなり、ここの敷地の半分も払い下げられ分譲住宅になったものの、全面リフォームされ現役の団地として残っています。
昭和30年代後半から40年代に作られた団地の構造を色濃く残している団地なのですが、ここも「昭和考古学」の対象となりそうですね。
そして、何の関係もなさそうな、阪和電鉄から離れたこの土地にも、地元の人すらほとんど知らない隠れた「阪和伝説」があるのです。
それは一体何なのか!?・・・「デザートはいちばん後に食べる」、これが私の主義です(笑
何が言いたいかというと、一地名であった「向ヶ丘」という名前が、時代を経てブランドになってゆき、他の地域へと伝播してゆく歴史が、手に取るようにわかってゆくということです。
再燃!阪和電鉄vs南海鉄道バトル
さて、鳴り物入りで分譲・入居を開始した向ヶ丘住宅地ですが、これがとんでもないことに。
家は雨漏りするは、水道の水は濁って飲めないなど、クレームが続出。
最初の直営住宅地なので経営ノウハウがなく、何かとトラブル続きなのは仕方ない面もありますが、これはとんだ欠陥住宅だ!と怒る方にも理があります。
しかし、阪和電鉄もお客様に耳を傾ける姿勢で、自治会や住民との関係は良好だったそうです。
そして何より、重要なライフラインである電気が通らない。
住民は激おこぷんぷん丸で、
「電気完備って広告に書いてたやんか!詐欺やんか!」
というクレームが当然やって来ます。
しかし、どうすることも出来ずほとほと困った阪和電鉄。
電気が来ないその理由とは・・・
立ちはだかるは、あの永遠のライバル南海鉄道(現南海電鉄)でした。
時代は蒸気機関車から電車へ移る時代、鉄道会社にとって電気は経営を左右する死活問題。
そこを「他社」に任せていては経営は安定しない。
鉄道会社は電気会社や発電所を買収、自社の財産にしていきました。
当時電気は一般家庭にも電化が浸透し、伸び盛りの新興産業。鉄道会社にとってはメインの鉄道収入に次ぐ収益率の高い事業となりました。
南海も大正後期には堺や岸和田などにあったローカル電気会社を買収していき、今の堺市より南、泉州地方の電気事業を独占していました。
それも子会社を作るなどではなく、南海の直営。関西電力ならぬ「南海電力」ですね。
私鉄が電力会社を所有し、沿線の電気供給を独占する方式は、戦争中に電気が国家に強制的に没収されるまで続きました。
南海が独占していたエリアに阪和が住宅地を作る。
電車の電力は、おけいはんこと京阪電鉄が手中にしていた和歌山の電気会社が供給していたのですが、住宅地になると話は別です。
南海は、ここぞとばかりにいじめモードに入ります。
「なんで商売仇の阪和の住宅地に、おめおめと電気供給せなあかんねん!」
ほぼ原文ママの南海の言い分ですが、大阪商人に「敵に塩を送る」という考えはありません。
武士道ならぬ商人道は、潰す、潰す、潰せる時に潰す。それのみ。
まあ正直なところ、これは南海の言い分に一理ある気がする。
血も涙もない鬼の南海は、ひたすら向ヶ丘への電気供給を拒否。困った阪和と向ヶ丘の自治会は、
「ちょっとどないかしてーなー!ライフライン止められたらたまらんわ!」
と大阪府に訴えます。
大阪府も、
「南海さん、ちょっとそれはひどいんちゃう?」
と仲裁に入り、南海は仕方なしに電気を供給することになりました。
しかし、さすがは南海。転んでもただでは起きぬ。いじめる時は徹底的にいじめる。
渋々電気を通すことに同意した南海が、自治会に提示した月の電気料金がこれまたすごい。
当時のお金で100戸あたり2000円。
向ヶ丘住宅地の初期の戸数が120戸なので、単純に割ると一戸あたり約16.6円となります。
16円といっても、当然今の16円ではありません。
当時の一般的な職業だった大工の平均日給が2円だった時の16.6円。
今関西のド短期バイトの日給が¥8,000~10,000くらいなので、2円はだいたいそれくらいに値します。
感覚的な換算だと約6~8万円となります。
電気代に月6万は今から見てもぼったくり以上の何かですが、当時も
「それ、ぼったくりやんか!!」
と自治会が大騒ぎ。でも、これは大騒ぎしますわな。いくらなんでも高すぎ。
結果どうなったのかは記録に残っていなかったのでわかりませんが、まあ、どうにかなったのでしょう。
ヘタなヤクザ以上のえげつなさ。それが南海イズム。
それでも、電気が開通するまでは石油ランプで過ごしていたらしく、向ヶ丘に最初に入居した人は数ヶ月間石油ランプで過ごし、この時の生活を忘れないと「家宝」としてランプを保存していたそうです。
向ヶ丘住宅の完成から3年後の昭和8年、逆の方向に霞ヶ丘住宅が作られます。
ここも高級住宅地として開発され、阪和電鉄の初代社長もここに家を構えていました。
今でも閑静な住宅街として現存し、一時は野球の南海ホークスで活躍し、ダイエーホークス(今のソフトバンク)の監督を務めた杉浦忠や、漫才コンビの「やすしきよし」の片割れにして最後の破滅型芸人横山やすし、作家の黒岩重吾も住んでいました。
杉浦氏は、亡くなった時の自宅も「大阪府堺市上野芝町7-3-36」だったので、最後までここに住んでいたのですね。
この時、上野芝駅は始発・終着駅を除く、現在の堺市内の駅利用者数ナンバー1に躍り出ます。
戦前の利用者数は、戦前から快速が止まっていた鳳駅より多かったのです。
最新のデータの利用者数は、
上野芝駅:8,765人
鳳駅:18,001人
ダブルスコア以上離されているので想像つかないですが、それほど上野芝は勢いがあったのです。
上野芝向ヶ丘町は、その勢いのまま、「向ヶ丘デパート」という今のスーパーのようなものを開きます。
向ヶ丘住宅地にお店がなかったので、ひとまず作ろうと入居者数人が共同で作ったものでした。
写真などはないので、どれくらいの規模か計り知れないですが、おそらくコンビニにうぶ毛が生えた程度だったでしょう。
しかし、入居者の思いつきで始めた「武士の商売」だったか、全く儲けにならず数年でなくなってしまったんだとか。
今となってはどこにあったのか、場所すらわからないですが、当時の勢いや活気がわかるエピソードです。
阪和電鉄も、そんな向ヶ丘の住民にやさしい配慮をしてくれました。
そのうちの一つは、準急の上野芝停車。
阪和電鉄は私鉄なので、いまと比べて色々な列車種別がありました。
超特急:阪和間ノンストップ
特急:鳳など一部停車
急行:鳳・和泉府中・砂川など。今の快速の停車駅とあまり変わらない
準急:南田辺・杉本町・堺市・上野芝から各駅(天王寺~久米田間)
などがあり、「直急」という、東岸和田まで各駅、その先は「急行」になるヘンテコな列車も、1年間のみ走ってました。
向ヶ丘の自治会は、最終的には急行を止めてもらおうと働きかけていたようですが、昭和15年までの時刻表を見るに、急行が上野芝に止まった記録はなく、実現はしなかった模様です。
また、阪和電鉄は客に鉄道を利用してもらおうと、「そこまでするか!」と口に出てしまうほどイベントを開催したのですが、
イベント関連の列車も多数走らせていました。
今では信じられない、夏の海水浴客向けの天王寺~東羽衣ノンストップ急行や、天王寺~山中渓のハイキングノンストップ特急などもあり、
今でも大晦日などにある「終夜運転」も、昭和一桁から行っています。っても、これは阪和電鉄だけではないですけどね。
とても貴重な、阪和電鉄の観光案内パンフです。
あまりに貴重すぎて、今でもヤフオクでたまに2000円くらいで売り出されています。
中身を見てみると、和泉府中から先が点々(建設中)となっているので、昭和4年の開通時の案内なのでしょう。
しかし、ちょっと笑えるのは、ライバルだから当然かもしれないけれど、海沿いを走っているはずの南海をガン無視していること。線くらいで書いてやれよと思ったりするのですが、無視っぷりがあまりに露骨すぎ。
青い丸で囲んだ場所に、以前記事で書いた砂川奇勝が描かれていますが、ここの山中渓あたりに注目。
今ではカケラもない温泉地が複数見受けられることがわかります。「小川温泉」「境谷温泉」と書かれていますが、カケラもないこそ、なんだか興味をそそる地ではあります。
しかし、果たして今でもそのカケラが残っているのか。それが問題です。今度大阪に帰省した時に、ちょっくら掘ってみますか!?
現代の上野芝向ヶ丘町
昭和23年(1948)年の上野芝向ヶ丘町の航空写真ですが、写真上端が上野芝駅です。
周辺と比べ阪和電鉄の向ヶ丘住宅地がまるで海に浮かぶ島のように存在していることがわかると思います。
住宅地の部分は名前の通り丘となっているので、遠くから見ると天空の城ラピュタのようだったかもしれません。
昭和初期に開発された住宅地なので、今でも昭和モダニズムの面影を残す当時の建物が残っています。
ここからは、小休止代わりに近代建築の写真をお楽しみ下さい。
門柱が地味に昭和初期の洋風の粋を残している家。
玄関の装飾が地味に凝っているお宅。
和風ながら大正時代~昭和初期に流行った丸窓がアクセントになっている住宅。
草垣からわずかに見える丸窓が素敵な洋風の住宅。
磨りガラスだけでも昭和モダニズムの匂いがプンプンするのに、そこに近代的な装飾を施しています。出来た時はさぞかし「モダン」だったことでしょう。
少しリフォームされていますが、建築当時の面影を色濃く残している住宅。かなりデカいです。
昭和初期モダニスムの流行を色濃く残している住宅です。曲線を採り入れながらロボットのような形をしているのが特徴です。
一つの家に和風と洋風の建物が混在している、一風変わった建物です。
既に老朽化が進んだか、洋風の方はガラスの部分が板張りになっており、なんだか痛々しい気もします。
私は向ヶ丘出身ではないですが、中学の校区がここと被るために友人・知人が多く、中学生の頃はよく通っていたエリアでした。
中学生時代には毎日とは言いませんが、かなりの頻度で界隈を自転車で走っていました。もう約30年前になります。
地元の人の話によると、その時は向ヶ丘住宅地が開発された建物がもっと多く残っていたらしく、ハウステンボスのような(by地元の人)洋風屋敷もあったそうです。今思えば、天王寺の予備校に通っていた時、阪和線の車窓からも見える巨大な屋敷が見えていました。いつの間にかなくなっていたのですが、あれも「ハウステンボス」の一部だったのか!?
今でこそこういう趣味を持ってアンテナが鋭くなっていますが、そんなものを持っていなかった中学生当時の私は、ゴールドマイン(金鉱)の中を自転車で走り、友達と遊んでいたということになる。実にもったいないことをしたものだけれども、中学生にそんなことを求めるのは無茶なこと。
向ヶ丘にかかる謎の橋
上野芝駅から向ヶ丘の住宅地へと向かう道の途中に、「月見橋」という橋がかかっています。
月見うどんを食べたくなるような名前の橋ですが、この先に謎の建築物があります。
地元の人以外、いや地元の人だからこそ目を向けることのないものですが、コンクリート製の橋の片割れに見えます。
上に書いた通り、中学~高校生前期の頃は、住んでいる場所は別だったものの、ほとんど縄張りのエリアだったので、ここも何十回と通っていたはずですが、これに気づくことはなかったです。
この建造物の存在に気づいたのはいつか忘れたのですが、一時上野芝在住だった黒岩重吾文学にハマっていた頃に、上野芝を訪ねた時だったと思います。
その時は既にこのような歴史探索なるものを行っていたため、中学生の時には気づかなかった細かい所に気がつく能力が身についていたのでしょう。
上野芝駅から逆の方向には、
「月見橋」
と書かれたプレートも残っています。
今の月見橋とは違う橋、「旧月見橋」が架かっていたことは確かなようです。
ふつうに考えると、
「ここに川が通ってたのかな」
と思います。事実、すぐ横に百済川という川が流れていますし。
しかし、何かがおかしいんです。この違和感は一体何なのか。
これがニュータイプのプレッシャーというものか(違
このえも言われぬ違和感を解消しようと、大昔の航空写真をほじくり出します。
昭和23年(1948)の写真です。
黄色矢印の部分に「つきみばし」はあるのですが、そこに川は流れていません。
川が流れていない所に、何故橋を架けたのか?
謎はますます深まります。
「つきみばし」は「月見橋」と書き、向ヶ丘住宅地が開発された頃から存在していました。上の絵は、昭和8年頃の絵です。
月見橋の名付け親と言われている上野芝向ヶ丘住宅最初の住人、吉川万次郎氏はその時の情景をこう述べています。
「上野芝駅に出るためには誰もが通らなければならない長い陸橋である。
夕刻上野芝駅に下車して橋にさしかかったとき、田を隔てた丘の森の上から昇る円かな月を背に影絵のように浮かび上がる丘の家々や街の灯を目にする時、たちまち一日の労苦は忘れられ、我が家に帰り着いた安堵感と喜びが湧いてくる。自然、『月見橋』として親しまれるようになった」
吉川万次郎氏の回想
この絵を見ると、ある謎が浮かびます。
上の回想にも月見橋は「陸橋」と書かれている通り、川にかかった橋ではないようです。
しかし、川もないのに何故橋をかけるのか?
何故川のないところに橋を作ったのか
月見橋の部分は湿地帯で、住宅地になった今も一部跡が残っています。
橋の跡の左にある緑の部分が、湿地帯の跡です。
湿地帯を埋め立てて道路を作るのは当然ですが、なにも金がかかる橋を作る必要はないと思います。ただでさえ資金難でピーピー言ってた会社なのに
橋は川や堀などを跨ぐ建造物ですが、日本では伝統的に「娑婆(俗世界)と別世界を分ける境界」という考えがあるように思えます。
ここで、
『千と千尋の神隠し』の『油屋』を遊廓とすると、遊廓という別世界と娑婆を渡す橋が、ボーダーになっている。
と言及しましたが、遊廓や花街では、実際に川や堀で隔離されているところが多かったものの、そこに橋を架けることによって、別世界観を演出する働きがありました。
惚れた男と女が橋の向こうだけでは「男女」になれる。しかし、橋を渡り娑婆に戻ればそれは夢は幻の如く。
決して結ばれることのなき二人、この密かな愛を結ぶのは、赤色に塗られた一本の橋のみであった。
と小説を作っている場合ではありません。
もちろん、上野芝は遊廓でも花街でもないのですが、「舞台装置」と考えればなかなか面白い仕掛けではないかと。
上野芝駅から向ヶ丘の住宅地へ向かうと、まず下り坂が待っています。
下り坂が終わったところで平地になり、そこに月見橋がかかっています。
月見橋の端に差し掛かると上り坂が始まり、そこが住宅地の入り口となります。
ディズニーランドもUSJも、ゲートにインパクトがあり「これから別世界に行くんだ」というワクワク感があります。
月見橋の端が向ヶ丘へのメインゲートという建築的事実もあるので、これはやはり「演出」だなと。
出来た当時の下り坂から月見橋を通して住宅地を見ると、月見橋が「別世界」へ架かる橋に見える。
その奥には、まだ自然の森が残る我が家の住宅地が。
月明かりと橋の電灯が橋を照らし、さらに別世界への入り口ぶりを演出する。
これを狙っていたのではないかと推定しています。
ああ、私に絵のセンスのカケラでもあったら、この情景を絵にしたいのですが、美術の先生に美的センスゼロの烙印を押された
ほどの絵心ゼロ。いや、ゼロどころかマイナス。
頭の中では、風景が出来上がりアニメになり映画になっているのです。セリフまで声で出ているんです。
しかし私が絵にすると、絵という名の何かに変わってしまうので。
「ぐわぐわ団」のまけもけさんの上の記事のような阪和線の路線図を自分で書きたいのですがね~。こういう絵やイラストをサラリと描ける人がホント羨ましい。
これくらい書けるだろって?いや無理無理無理無理絶対無理orz
これでもね・・・すごく精一杯描いたんです。この画力が私の限界なんです(笑
絵と経理係だけは、私に依頼すると間違いなく破滅します。
それはさておき、月見橋には、もう一つの謎があります。
月見橋のもう一つの演出!?
資料によると、月見橋の欄干の上には電灯が灯り、夜はライトアップまでされていたと記録にあります。
この絵にも、橋の上に「何か」がついていたことがわかりますが、それが街灯かどうかはわかりません。ただの装飾という可能性もある。
今の月見橋の跡の上を覗いてみると、「何か」が上に載っていた跡が見受けられます。
そこで、いろいろな角度から月見橋のこの謎を探り当てました。
しかし、私一人の力では限界があります。
そこで、「助手」にヘルプをお願いしました。
公共図書館員のお仕事は、本の整理や管理はもちろんですが、もう一つ重要な仕事があります。
それは、利用者が探している資料や書籍などを探すこと。利用者は、ある資料を探していると館員に伝えれば、ちゃんと調べてくれることがあります。
都道府県級、や政令指定都市級の図書館になると、「調査課」という部署があったり、「専門調査員」という郷土史の専門家が常駐していることがあります。経験が浅いバイトの館員では太刀打ちできない、マニアックな人たちの大きな味方です。こういう人をフル活用するっきゃない。
堺市立図書館には運良く専門の調査員が常駐しているので、向ヶ丘やその他のことを調べていると伝えた上で、ヘルプをお願いしました。まず挨拶として向ヶ丘と書いている資料を全部持って来いと。
調査員の方も、なかなかマニアックな奴が来た、いい暇つぶしだと喜んでくれたようで、けっこうノリノリで探してくれていました。
調査員の方が持ってきてくれた資料の中に、戦前の月見橋の写真がありました。
昭和7年か8年頃の月見橋の写真ですが、これは百聞は一見に如かず。橋の上に明らかに街灯が据えられています。
また、橋が途中で欠けているように見えますが、おそらく手前が百済川に架かる部分で、途切れているように見えるところが小道になっており、その奥が「陸橋」の部分だと思われます。反対側も同じような構造になっていました。
現在の反対側の先端部分ですが、このように途切れています。
現在は、向かって左側しか残っていませんが、昔は右側にも橋が残っていました。
それがいつなくなったのか。これも航空写真で確認しました。
昭和36年(1961)の写真ですが、まだ原型をとどめています。
その10年後の昭和46年(1971)5月9日撮影の写真ですが、まだ原型をとどめています。しかし、住宅化の並がすぐそこまで迫っていますね。
しかし、昭和50年(1975)1月24日の写真では。現在のように片側が商店街になり、現在の形となっています。
これでわかることは、月見橋が片側だけになったのは、昭和46年5月から昭和50年1月の間のどこかということ。
だからと言ってなにがわかるというわけではないのですが、今後同じ疑問が沸いて調査する人への問題提起として。
何度も出てくる絵ですが、ついでにこのアングルで、平成29年(2017)現在の風景を撮ってみました。
84年の月見・・・もとい月日を隔てた風景がこれ。
風景がすっかり変わっていますが、向かって右側の奥にある旧月見橋がわずかに存在感を出しているかなと思わないこともない。
くどいようですが、上野芝向ヶ丘町は中学時代に友達を訪ねてしょっちゅう通っていた地域でした。その時は当然、ただの住宅街にしか感じず「宝の山」を目の前にして何もできなかった悔しさが今になってこみあげてくるのですが、あなたが「ただの住宅街」と思っている場所も、掘ってゆくととんでもない「お宝」が見つかるやもしれません。
それは金やダイヤのように光り輝いていないけれども、新たな歴史という好奇心の宝石を発見できるやしれません。
そこから好奇心の羅針盤を好きなように進め、未知の海原へ漕ぎ出してゆくのも、また面白い航海になると思います。
毎日がつまらない、何のために生きているのだろうと悩んでいる若い人には特に伝えたい。あなたは大きな海原の前の海岸で、小さな貝殻を拾っているだけなのだと。
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