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この作品「八階の住人」は「伊奈スレ」「【腐】A/Z」等のタグがつけられた作品です。

2014/11/23に投稿したやつ。まとめなおしました。■都市伝説：異世界に行く...

八階の住人

そんなまさか

2016年2月6日 18:31

2014/11/23に投稿したやつ。
まとめなおしました。
■
都市伝説：異世界に行く方法エレベーター編。
ねごと：寝言に返事をすると脳がダメージを受ける。
夢追横町：創作。
落ちる少女：マンションではよくあること。
？階：マヨイガ。
帰らない駅：きさらぎ駅。

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2014/11/23

[chapter:都市伝説]

「ねえスレイン。よろしければ、噂のマンションまで行ってみませんか？」
その日の夢は、そんな少女の言葉から始まった。

夢の中のスレインは、やや明るい黄土色のブレザーを着ていた。特に目立った可愛らしさや格好よさ、洗練されたものはない、至って普通の高校の制服である。スレインに話しかけた少女もまた、同じ制服を着ていた。相違点を挙げるなら、当然が彼女は女生徒の為スカートを履いていた点か。
夢の中のスレインは、この少女がとてつもなく好奇心旺盛であることを知っていた。その興味は日常の些細なことからそれこそ宇宙レベルの疑問まで、幅広い。お互いの両親の仲が良好だったので、彼女とは小学生からの付き合いだ。高校生になった今、幼馴染というには短く、友人というには長い期間を共に過ごしてきた。その中で培われたこの胸中の淡い憧れになんと名前を付けるべきか、スレインは未だに悩んでいた。
彼女の好奇心は、最近はどういう訳か都市伝説やら心霊スポットやら転生やら――――、つまりはオカルト方面に傾いてきた。話を聞くに、特にパラレルワールドなどといった方向にその興味は向いているようだった。何気なく理由を聞いたとき、珍しく彼女は言い淀んでいたのが印象深い。
「だって、そういうのが本当にあるなら、なんだか素敵だと思いませんか？」
誤魔化すような言葉だったが、とりあえずスレインは納得することにした。立ち入ってはいけない領域に危うく足を踏み入れかけたような、そんな決して心地よくない感覚を感じたためだ。
今日の彼女の興味は、二人の通学路にある最近増築の話が持ち上がっているマンションだった。正確に言及するならば、そのマンションのエレベーター、である。
「異世界に行く方法とやらも、そこで試してみたいんです」
きらきらと輝く青空のような双眸に否やを唱えられる人間がいたならば、是非会ってみたいものだと思った。
曰く、そのエレベーターのあるマンションはそれなりに古いものである。随分前にも一度増築の話が持ち上がったらしく、その当時入居者の一人であったＡさんは、何気なく荷物を抱えエレベーターに乗ったそうだ。すると、見覚えのない五階へ行くためのボタンがあった。このマンションは当時三階建てである。Ａさんは興味本位でボタンを押す。
するとどうだろうか、エレベーターは動き始め、無事五階へ辿り着いた。Ａさんが外に出ると、外は既に五年経過しており、Ａさんが失踪していたその五年間の間に、マンションは増築されていた、という話である。
「もしかすると、私たちが乗った時も階数が増えてるかもしれません！」
だとしても是非とも増えた階のボタンを押さないでほしい。だらだらと溢れる冷や汗を軽く拭いながら、嫌な想像をして口元をひきつらせた。
所作も美しく万人に優しい良いところのご令嬢である彼女だが、お世辞にも貞淑とは言い難い。意外な元気と行動力をこの少女は持っているのだ。それを侮れば痛い目に遭う。
そのお転婆っぷりを諌め、また監視する役割を負った、自分たちよりも随分小さい従者（正しくはそのようなもの）が彼女にはいるのだが、その従者もいないとあっては、何かあればスレインが行動を抑えなければなるまい。
そんなスレインの心配を知ってか知らずか、少女は「昨日メモしてきたんですよ」と嬉しそうにエレベーターを使った異世界へ行く方法とやらを見せてきた。だが、まず一番最初の項目でスレインは眉を寄せる。
「……これには、一人でやらなければならないと書いてありますが……」
「ええ！ですから、私がちゃんと向こうに行ったかどうかあなたに確認してもらおうと思いまして」
「駄目です！」
間髪入れず入れた否定もどこ吹く風と言わんばかりに彼女は聞き流す。道すがら何度も説得して、最後にはスレインは使いたくなかった奥の手を使うことにした。
それは――――保護者への連絡、である。
「スレイン！それだけは、どうか、それだけは……！」
途端焦り始めた少女に、「でしたら、お一人での行動はおやめください」と要求を突きつける。少しだけ悔しそうな顔をするも、すぐさま表情と態度をしゅん、と萎んだものにしてごめんなさい、と彼女は謝罪を口にした。
彼女の実家はとても厳しい。次期跡継ぎは彼女だと、上に立つ者としての覚悟、自覚、立ち振る舞い、技術。必要なものを全て叩き込んだ。そんな彼女が、オカルトめいた実験を自ら行うともなれば師匠でもある彼女の祖父は怒りに眦を吊り上げることだろう。
スレインとてエレベーターが異世界に繋がるとは勿論考えていない。だが、単独行動の末に彼女の身に何か危険が迫ったりするなど、言語道断なのだ。一人の友人としてそんな不幸が彼女の身に降りかかるなど、スレインは決して許せなかった。
目的地のマンションに辿り着く。そびえ立つ五階建てのそれは、確かに少々古めかしい印象を抱いた。増築工事はとうに始まっているらしく、既に五階の屋上にはたくさんの網やら鉄柱やらが積み立てられていた。
中に入りエントランスを抜ける。警備員もいない、住人認識のセキュリティもない、ないない尽くしのひどい場所だ。今時の女性専用アパートなどのほうが、まだマシである。
エレベーターの前に来た少女は、下向きに尖った三角のボタンを押してうきうきとしていた。瞳は完全に夢見る乙女のそれだ。
何も起こるはずがないじゃないか。そう思いつつも、なんだかんだ彼女の提案に乗っかってしまっている自分がいた。そのことに苦笑しつつ、やってきたエレベーターに二人で乗り込む。後ろからは主婦が談笑しながらこちらへやってきていた。そういえば、と何気なく主婦を見ながらスレインは思う。あの都市伝説には確か、続きが――――。
「スレイン！」
嬉しそうな少女の声が飛びこんできて、そして視線をやった直後にスレインはぎょっとした。本来ならあり得ないはずの数字が、そこには三つ並んでいたのだ。
「六、七、八」と並ぶ番号を彼女はきらきらした瞳で見つめている。そこにはるのは純然たる好奇心だ。細い指が八階のボタンを押すのを止められなかったのと、主婦たちの会話が耳に飛び込んできたのは、ほぼ同時であった。
「そういえば聞いた？七階と八階の増築の話、なんだか無くなっちゃったらしいわよ」
「あら、そうなの？まあ、古いものねえ。だったら改修してもらった方がよっぽどいいわ」

「…………！」

殆ど反射だった。主婦たちの会話を脳みそが理解しきる前に、閉じかけていたエレベーターの扉を掌で無理に押さえ、右腕で華奢な背中を抱く。そのまま押し出すようにして、少女がエレベーターから弾きだされた。短い悲鳴と主婦の驚いた声。そのまま扉を押さえる左手を軸に己も出ようとした途端、通常、センサーが働き閉まるはずのないそれは、俄然勢いを増して指を圧迫した。思わず息を呑み、本能的な恐怖に手を引っ込めてしまう。
「スレイン！」
引き攣った声で少女が叫ぶ。こんなにも狼狽えた彼女の声を聞くのはいつぶりであろうか。じんじんと痛む指の関節だけがいやに鮮明だ。スレインは、情けなく笑うことしかできなかった。空を映した瞳が大きく見開かれた。すぐさま、扉は閉まってしまう。
それから。それから。そして？
「…………どうなるんだろう」
小さく呟いた声は、寝起きの為か掠れていた。むくりと寝床から起き上る。カーテンの隙間からは眩しくも淡い朝日がさしており、肌寒くなり始めた空気にぶるり、肩を震わせた。
手近にあった服を適当に身に着ける。簡素なシャツとジーンズは、履きなれたものだという自覚があるのに、何故か違和感ばかりが肌につく。寝起きの頭はそのことを深く考えず、ただ夢の内容をぼんやりと追っていた。もうほとんど朧げになってしまったが、エレベーターの都市伝説だけはよく覚えていた。
夢は記憶の整理だという。つまり、本人の知る知識しか中には出てこないのだ。スレインはどこかであの都市伝説を聞いたのだろう。どこだったか、とんと思い出せないが。
襖を開くと、洋風のリビングが出迎える。美味しそうな朝食の匂いに、自然腹が音を立てた。
「おはよう、スレイン」
「おはようございます……」
「どうやらまだ寝惚けてるようだね」
否定はできなかった。動きのにぶい頭の回転を、ただでさえ夢の方に割いているのだから、ある意味必然か。
「きょうはがっこうはいいんですか……」
「しっかり喋ろうか。出汁巻き卵とスクランブルエッグ、どっちがいい？」
「だしまきたまごで……」
「残念、今日はスクランブルエッグ」
あって無いような選択肢を与える少年の名を、界塚伊奈帆といった。現在スレインとルームシェアをしている少年で、確か彼はまだ高校生だったろう。今日はあのネクタイとスラックスを身に着けてはいないようだった。さて、今日は休日だっただろうか。スレインは、椅子に座りながらぼんやりと宙を見ていた。
「今日は平日だけど、祝日で休み」
スクランブルエッグを机に置きながら、部屋着のままの伊奈帆はそう言った。なるほど、と納得しつつ伊奈帆が椅子に座るのを待つ。そうして二人でいただきますと手をあわせ、フォークを握るのだ。
「買い物とかは？」
「今日はまだいいかな」
もう冷蔵庫の中は確認済みなのだろう。伊奈帆はよくできた少年だとスレインはいつも思う。高校生とは思えない思慮深さと要領の良さ、そして頭の回転だって随分抜きんでている。すごいと驚嘆すればこそ、うらやましいと感じないのは彼の人となりがなせるわざなのかもしれない。
買い物に行きましょうかと、スレインはぽつりと言う。毎回伊奈帆は「まだいいかな」と答える。きっとスレインが言うまでもなく、学校帰りにでも調達しているに違いない。
すごいなあなんて思いながら、柔らかい卵の感触に舌鼓を打ったとき、ふと、あの都市伝説の続きを思い出した。「あ」と思わず感嘆符が口をついてでる。
「どうしたの？」
そこで、今日見た夢の話をすることにした。彼が休みなら自分も休みなのだ、時間を気にすることはない。朝食にしてはゆったりしたペースで、皿の上の卵を減らしていく。
「ああ、その話なら僕も聞いたことがあるよ」
「そうなんですか？」
これはそんなに有名だったのか、と驚く。伊奈帆がオカルトに詳しいとは初耳だし、何より興味もなさそうだ。だとすれば、この話が有名だと判断するのが合理的だろう。
「うん。だってほら、あのマンションが噂の出どころだし」
言いながら彼は、ベランダの方を示した。視線をそちらに向ければ、古そうでいかにもな雰囲気を放つマンションがあった。そうだったのかとスレインは思わずじっとそちらを見てしまう。
「きみの夢はその都市伝説によく似てるね」
確かにそうだ。スレインは話の続きを思い出す。

数年後、Ａさんは友人を伴って再びあのエレベーターに乗る。次に現れた新しい階のボタンを面白がって押すも、突如人の話し声が聞こえる。曰く、建設の話は頓挫してしまったと。Ａさんは慌てて降りるも、友人は降り損ねた。

――――友人はそれ以来、姿を見せていないという。

[newpage]

[chapter:ねごと]

最近どうも寝起きが悪い。スレインはもぞもぞと布団から起き上りながら、そんなことを思った。太陽は随分と上へ昇りきっているし、家の中に自分の外に住んでいるもう一人の少年の気配はない。
寝床から出て服を着替えるだけでもたいそう疲れていた。ぐっすりと眠っていた覚えもあるし、運動という運動もした覚えがないのだ。
「…………」
いや、そういえば、したかもしれない。ふっと記憶が鮮やかに蘇り、脳は勝手に昨日の夜のことをまざまざと思い出す。
下腹が疼痛に似た疼きを見せた。誰もいないというのに、スレインはあからさまに動揺して乱暴に頭を振る。思い出してしまえば、じれったい熱を抱えている腰や、少し視線を下せば見える赤い情事の痕に狼狽えてしまった。
激しかったな。くらくら、どことなく調子の狂っている脳裏で感想を零した。
縋るように腕を伸ばせば、応えるように大きさのさしてかわらない掌が自らのそれを包む。苛むような快感の波にさらわれそうになる思考を助長する口付けは、やけに熱く柔らかかった。肉杭が埋まる感触をありありと追って、あらぬ場所がきゅうと収縮するのが自覚できた。
「だっ……駄目だ駄目だっ」
無人の部屋の中、顔を真っ赤にして興奮を呼び覚ましている自分が無性に恥ずかしい。すべてを振り払うようにして薄い襖を開け放つ。案の定、机の上に一人分ある朝食だけが寂しくスレインを出迎える。今日の朝食は目玉焼きのようだった。冷めてはいるものの、ベーコンに寄り添う白身と黄身は目を楽しませつつ、実にいい焼き加減で静かに皿の上でかしこまっている。小皿に盛られているのはグリーンレタスのサラダのようだ。少々苦味があるものの、さっぱりしていて美味しい。途端胃袋が空腹を訴えたので、いそいそとスレインは遅い朝食の準備を始める。
勝手ながら食パンを拝借し、トースターを使って焼き上げる。待つ間並行してコーヒーを淹れ、テレビをつければもう昼時であった。主婦向けの芸能界で起きたスキャンダラスなニュースから、かつてあったドラマの再放送までなんでもござれだった。
暫くすると、トースターが小気味よい音を立てて出来上がりを知らせた。熱さを堪えながら別の皿に乗せ、あとは気分でジャムやらを乗せるだけである。もそもそと食パンを食べながら、スレインは丁度映った天気予報のニュースに集中することにした。同居人である伊奈帆が学校に行っていない間は彼が洗濯物を干したり、掃除などを行うのだ。窓の外を見る限り快晴だが、最近はどうも天気が変わりやすい。
それで以前洗濯物を駄目にしたことがあった。その日の夜はたいそう酷かった。苦々しいと同時に羞恥心を刺激する記憶である。
「…………なっ」
スレインはつらつらと思考があらぬ方向に行っていることに気付き、慌ててテレビに注目する。どうも朝から変な気分になってしまっているようだ。よくない、よくない。
綺麗に完食してしまったあとは、一人きりで「ご馳走様でした」と手を合わせた。朝、間に合いさえすれば伊奈帆がこの時「お粗末さまでした」と返してくれるのだが、間に合わなかったのだから仕方がない。自分の寝坊を少しだけ呪いながら、皿を洗うために立ち上がった。
洗剤を洗い流し、元通り綺麗になった皿を片付けた後に、スレインは洗濯機を回すべく脱衣所へ向かった。今日は無事晴れるらしかった。これで外れようものなら見る局を変えようとぼんやり思った。
電源を入れる前に、風呂の残り湯を大きなバケツで掬い、洗濯機の中に入れていく。水道代だってこの世の中ばかにならないのだと真剣な顔をして伊奈帆は言っていた。あの瞳は、確かに歴戦の主婦のものだった。空恐ろしいものすら感じた。
ある程度汲み終ったあとは洗剤と柔軟剤を入れ、スイッチを押す。ごうんごうんと音を立てるそれを少しだけ見守った後、次は掃除だな、と掃除機を取りに行く。
簡単に部屋を手当たり次第に綺麗にすれば、あとは洗濯機が止まるまですることはない。再びテレビを見るも、いつもいつも同じような内容ばかりだ。この家にはパソコンはないし、携帯もスレインは持っていない。
「…………あれ？」
ふと、疑問が舞い降りる。
「僕、なんで携帯持ってないんだっけ……」
それは、ああ、そうだ、確か外に行かないから。買う必要はないよねと伊奈帆が言ったのだ。では、何故外に出ないのだっただろうか。スレインは伊奈帆よりひとつ年上である。高校生である彼と同じく自分にも通学先があったような、そんな気がする。しかしそれを思い出そうとすれば、霞を掴むかのような頼りなさで記憶はするすると逃げていく。思い返せば返すほど、何か、自分の中の大事な所が抜け落ちていくような気さえした。
「…………あれ？」
視界がぐるぐると回るほど混乱し始めた所で、ぴーっという甲高い音が聞こえた。驚きに肩を跳ねさせながら、洗濯機のことを思い出したので慌ててそちらに向かった。脱水の終わったそれを籠に手当たり次第に放り込み、ベランダまで向かった。しゃらりしゃらり。最早日常と化した金属の音をスレインは意識することはない。足首に巻き付く、体温を吸った革の感触もまるで当たり前のことのように受け入れる。
ベランダまで来て、近くに置きっぱなしになっているハンガーや洗濯ばさみを手に取り、せっせと干していく。そのサンダルを履く白い足が三歩も踏み出せば、地上八階から彼は簡単に躍り出ることができるだろう。それを許さないのは、革製のベルトを通じて足首を縛る銀の鎖だった。
それはいつも伊奈帆とスレインが寝起きしている部屋の柱から始まり、玄関のドアノブをぎりぎり捻れる場所で終わる。絶妙に計算づくされたそれにより、スレインの行動範囲は、マンションの一角にのみ限定されていた。
鼻歌を歌いながら、手慣れた動作で洗濯物が干されていく。時折きまぐれに右足を揺らせば、それに合わせてしゃらしゃらと鎖が揺れ、澄んだ音を立てた。
今日することは大体終わってしまった。鎖を全く気にしないまま、リビングに戻った。またテレビをつける気になれず、かといってする事もなく。手持無沙汰のまま、視線を何気なく壁に這わせる。
そこでふと、視界に何かいつもは気にしないようなものが目に入った。写真のようだ。電話の横、それは壁に整然と三つほど並んでいた。
「…………？」
はて。こんなもの、今までここにあっただろうか。スレインは不思議な心持ちで写真に近付く。そこには幼い少年と、伊奈帆の通う高校の旧制服を纏った少女が写っていた。少女の姿はどことなく初々しく、恐らくこれが入学式のときに撮られたものであると察せられた。二人の後ろで、淡く色づいた桜が眩しく散っている。二人は顔のつくりと目元がどことなく似ていた。姉だろうか。
なんとなく、少年の仏頂面は伊奈帆のそれに思えた。何を考えているか判らない無表情は、幼いころから変わりないらしい。幼くまるい頬のラインと、服に着られている感のある正装は微笑ましい。
対して、シックなデザインのセーラー服を着る少女は嬉しそうに、快活に微笑んでいた。肩ほどまでの短さの髪は、うららかな春の日差しに柔らかく照らされ、やや屈みつつその両手は少年の肩に添えられている。仲睦まじい姿だ。
ほかの写真にも目を通す。次の写真は、少年はやや成長していた。中学生になったのだろう、黒い詰襟の学生服の袖が余っていた。隣に映る少女は軍規に従った正装をしており、それで彼女が国家特殊公務員になったことが判る。情景はやはり春だ。場所こそ違うものの、桜が咲き乱れている。
三つめの写真を見る。スレインのよく知る伊奈帆が写っていた。こうして三枚を比較すると、その成長がよく判る。三枚目にもやはり女性は写っており、少女から女性へと変化していく様子は目覚ましかった。肩までだった髪は次第に伸び、三枚目の軍服（というよりは制服だろうか）を着る彼女は、一枚目と変わらない快活さの中に、大人の凛々しさと堂々とした振る舞いを身に着けているように感じた。
スレインは伊奈帆から姉がいるという話は聞いたことがないが、それでも理解できる。この女性は、伊奈帆の姉なのだろう。そう思いつつ、小さな違和感を写真から感じ取った。
「…………両親がいない」
そうだ。こういうイベントの時、親は張り切って子供の姿を残そうとするものである。母が小さい時に死に、父とも早い段階で死別したスレインはそういうことに疎いが、それでもそういうものだとは知っている。一枚くらいは、四人、あるいは父母どちらかと写っている写真があってもおかしくないのに。
けれどもこれは、他人の、それも繊細なプライヴェートな部分だ。触れるのはよろしくない。そう思い写真から離れようとして、
「ひっ」
するりと脇腹を撫でられて、唐突な刺激に喉から引き攣った声が出た。一も二もなく振り返ると、いつの間に帰ってきたか。伊奈帆が無表情にそこにいた。
「お、おかえり、なさい」
「ただいま」
飄々と返されるも、ばくばくと驚きで早鐘を打つ心臓は止まりはしない。一体いつ帰ってきたんだと慄いていると、伊奈帆が「写真を見てたの？」とスレインに訊ねた。
「え、あ、はい……」
しどろもどろになりながら答える。ふうん、と頷く声は素っ気ないが、その後にぼそりと伊奈帆は呟いた。
「やっと内装に意識が向くようになったのか」
「え？」
どういう意味か判らず、思わず真意をねだるように疑問符が漏れた。しかし彼はそれを聞こえなかった為に聞き返そうとした、というものに見做したらしく、「なんでもない」としか言わない。
「……う、あ」
一体写真に何があるのか。少し気を抜いていると、同じ個所を焦れったい動きで掌が辿っていった。疼きがそこから広がって、いとも簡単にスレインはそちらに意識を引きずられてしまう。
「い、伊奈帆さん」
「ん？」
「ま、まだ、昼間、ですよね」
ちらりと空を見る。日の位置はまだまだ高く、空は青々としている。洗濯物がときおり風にそよめいて、揺れていた。
「そんなこと気にしなくてもいいよ」
「き、気にします」
こんな明るい中で身体を見られるなど、溜まったものではない。羞恥できっとスレインは死んでしまう。
だが、当の伊奈帆はスレインの要望を汲む気などさらさらないらしい。あやしく動く手に翻弄されて、ずるずると身体に力が入らなくなる。奥から湧き上がる熱を持て余しながら、微弱な抵抗すらも封じられる。気が付けば、カーペットの敷いてあるスペースまで誘導されてしまっていた。
薄い胸板を手が這う。乳首を抓まれてはびくりと震え、気を良くしたらしい伊奈帆はさらにその手でスレインを高めていく。どこもかしこも蕩けて、その度に甘ったるい悲鳴が真昼のリビングに響いていた。「んあ、あぁあ……！」一際高い嬌声を上げた所で、

「――――っ！」

目が覚めた。
視界にはいっぱいに夜の闇が広がっている。隣では同居人が呑気な声で「あ、起きた」と呟いていた。
なんだか頭が重たい。あー、やら、うーやら意味のない呻きを繰り返していると、「やっぱり噂は本当だったんだね」と伊奈帆が言った。なんのことです、とスレインは寝起きで掠れた声で問う。
「いや、きみ寝言が激しいからよく返事してたんだ。そしたら中々朝起きれなくなったみたいだね。寝言に返事したらいけないって話は本当だったんだ」
なんてことをしているのだ、この同居人は。思わず重い頭を軽く押さえて睨みつけると、「どんな夢見てたか教えてよ」とのたまった。
誰が教えるものかとスレインはふいと視線を逸らした。なんとなく気になって右の足元をさするも、革製のベルトなんてものはないし、ましてや鎖の音もしなかった。度々身体を重ねているのは現実なので、そちらには目を瞑る。
やっぱりあれは夢だったんだなあとスレインは思った。
伊奈帆が自分を鎖で繋ぐ理由なんてどこにもないのだ。枕元をさりげなく見るも携帯はないが、きっとリビングに置いてきたに違いない。深い青色のスマートフォンは、はっきり思い浮かべることができた。
「スレイン」
ねえ教えてよ。ふて寝の姿勢に入ったスレインの耳元で伊奈帆が囁く。本当は全部判っているのではないだろうか。彼の緋色の瞳を覗き込む度、そう思ってしまう。
「……もう僕の寝言に返事しないなら、いいですよ」
「そのつもりだったよ。飽きてきたし」
酷い言い分に追わず苦笑を零す。
伊奈帆と向き合うべく姿勢を変えた時に聞こえたしゃらりという音は、きっと、勘違いなのだ。スレインは左足を殊更意識する事無く、求められるままに唇を重ねた。

[newpage]

[chapter:夢追横町]

珍しく伊奈帆が外に出ようかと誘ってきたので、スレインは驚いた。必要最低限のものを買う以外は外に出ず、ひたすら二人でごろごろと怠惰に過ごすことを選ぶような彼が、こんな発言をするのはそれこそ珍しい。思わず呆けてしまっていたらしいが、ややあってスレインは無事に意識を取り戻した。
「行くって、どこへ」
「夢追横町」
「ゆめおいよこちょう？」
そんな珍妙な名前の町など聞いたことがない。秘密の道があるんだよと言う伊奈帆は、心なしか、悪戯をしかけようとする子供の雰囲気をしていた。
伊奈帆はスレインを玄関から連れ出した。財布と携帯は置きっぱなしだ。いいんですか、と問えば「あそこじゃ財布も携帯も役に立たないからね」と彼は言う。尚更判らなかった。
物々交換なんて原始的なことをする町なのだろうか。ぼんやりと手を引かれながら歩いていると、防火扉の前まで来た。
この八階の突当りだ。右に空き部屋、左には緊急脱出用のハッチがある。火事などが起きた場合、即席の滑り台のようなものを作るアレである。名前がどうしても思い出せず眉根を寄せていると、伊奈帆は躊躇いなくハッチを開いた。同時にばさばさと音を立てて落ちてくる、ドーナツのように真ん中の開いた長い長い布。金属製と思われる輪っかがその形を維持しており、綺麗に空洞を作っていた。ハッチに取り付け投げやれば、暫しの沈黙ののちそれが地面に着いた、ばさりという音が聞こえた。
「さあどうぞ」
「いやいやいやいや」
唖然として何も言えなかったが、これは立派なご近所迷惑だ。いかに冷静沈着かつ淡々と処理としているとはいえ、やっていることは小学生が悪戯で押してはいけないボタンを押すのと同じである。
「でもここからじゃないと行けないよ、夢追横町」
折角出したのに、と伊奈帆は言う。心なしか拗ねているようにも見えた。このような態度を取られるのは本当に珍しく、気付けばスレインは頷いていた。ちょろい、という声が聞こえたのはきっと気のせいである。
好奇心とささやかな恐怖で、心臓が早鐘を打つ。何しろ八階である。そこから、このなんとも頼りない滑り台を降りろというのだから躊躇いもしよう。しかし、同居人は合理主義で無情だった。
「まだるっこしい」
「えっ。――――っ」
どんと背中に衝撃を受けた瞬間、スレインは頭から滑り台へ突っ込んでいた。重力に従い落ちて、胸からその斜面にぶつかり――――凄まじい勢いで滑ることになった。
「うっ……うわあああああああ！」
ほとばしる悲鳴、摩擦熱で痛いくらいの感覚を伝える胴、そして頭から滑り落ちる恐怖。それはもう、周辺に素晴らしく響く悲鳴が喉から発された。愉悦。伊奈帆は短くそう呟いていたが、スレインの耳に入るはずもなく。
悲鳴は途切れることなく、斜面が下るにつれて短いエコーと起伏をもってして長く長く続いた。よくもまあ喉が痛まないものだと伊奈帆が呆れを通り越して感心するころ、流れが穏やかな物に変わる。
「っぎゃあああ！」
最後に一際響く比較的短い悲鳴を上げ、スレインは寸でのところで止まることができた。あともう少し進んでいたら、地面とキスしていただろう。安全な姿勢で降りてきた伊奈帆は、むしろこの滑り台を楽しんでいたらしい。危なげなくスレインに近寄り「吐き気は？」と質問してきた。
「ないですけど、疲れました……」
「ないならよかった。さ、行こうか」
ぱぱっとスレインを立たせ、伊奈帆はその腕を引く。あたりはすっかり日暮れ時で、橙色が満ちていた。長く尾を引く影は、まるで子供を飲み込まんとするかのように伸びている。
先程の無体を非難するべく口を開いたその時、抗議を制するように伊奈帆の言葉が投げかけられた。
「暫く僕の手を離さないでね」
「何故ですか？」
「迷うからだよ。他人の家に」
スレインは決して迷子になりやすい訳ではない。伊奈帆もそれを知っているので、これは別の意図から発された言葉だ。
どういう意味なのだろうと思ったが、なんとなく怖く感じたので、返事のように自分とさして変わらないサイズの手を握り返す。いい子、と伊奈帆が言った。
綺麗に舗装されたアスファルトを、手を繋いだ二人が行く。時折人とすれ違って目で追う度、伊奈帆は咎めるようにスレインの手を引く。少しそちらに意識を向け再び戻した瞬間、すれ違ったはずの人は既に周囲から影も形もない。そんなことが何度か続いた。そうこうするうち、やがて足が止まる。
「ここだよ、夢追横町」
そこは、少しくたびれた印象の商店街に思えた。アーチ状の入り口を示す看板には、確かに「ゆめおいよこちょう」とひらがなで表記されていた。沈みかけの夕日が、あやしくアーチに影をつける。
商店街には賑わいがあった。親子連れ、老夫婦、サラリーマン、ものを売る店員。暫し眺めて、スレインはふと気付く。誰も会話をしていないのだ。あまりにも、その通りは静かすぎた。本来華やかさを演出するための音楽は、今は虚しさを誇張するだけとなっている。
「ここって」
「丁度いい、そこの女子高生の肩を叩いてごらん」
「そんなの失礼ですよ」
「いいから」
伊奈帆はスレインの手を引き、前から歩いてきた髪をふたつに結わえた少女の肩を叩かせた。するとどうだろう、一瞬だけ意識が遠のき、気付いた時には見知らぬ家の中にいた。
「は、」
きょろきょろと視線を彷徨わせるも、商店街も無ければ伊奈帆もいない。ただ、リビングと思われる方向がいやに明るく、何やら声がする。意味もなくそろりそろりと近づき、扉を開ける。
「う、うわっわっ」
途端、犬がスレインの足元までやってきて、わんと吠えた。遊んでとでも言いたげな、興奮した様子だ。
濃い茶色の毛並みをしたミニチュアダックスフントをきっかけに、ドーベルマン、コーギー、柴犬、レトリバー、パピヨン、アスカランマラミュートととにかく犬が溢れてくる。
わんわんおんおん。ちゃっちゃっと床と爪が擦れる音と荒い息遣い。スレインはあっという間に犬の波に揉まれた。顔を舐められ、上にのしかかられ、背中には大型犬がいるのか何やら暖かい。もふもふである。どこもかしこももふもふである。
「な、なに？なんだ？」
困惑しつつも、気付けば手近にいた犬を撫でていた。くうんと甘えたように声を出すのがたまらない。一匹を撫でればそれを皮切りにして我先にと犬たちが迫ってくる。静止しようとするも、犬に人間の言葉は通じなかった、あまりの勢いに目を閉じる。
「――――スレイン？」
「……あれ……？」
ぎゅうと閉じた目を恐る恐る開くと、そこは先程の商店街のままだった。先程の女子高生も見当たらなければ、スレインをもみくちゃにしていた犬もいない。
「あれ？犬は……？」
「あの女子高生は犬と戯れる夢を見てたのかな？」
それにしたって度が過ぎている。伊奈帆は「まあ、夢だからね」と素っ気なく言った。
「とにかく、そういうことだよ」
「どういうことですか……」
疲れた様子のスレインを意に介さないまま、伊奈帆はなんてことはないと言わんばかりに言葉を続けた。
「通りすがりの人に触ると、その人が見た夢を追体験できる場所なんだよ、ここは」
突拍子もない話に絶句したが、確かにそうでもなければあの犬にもみくちゃにされた家のことは説明できない。なんでまたこんなところに、と淡い疑問を吐き出した。伊奈帆はすぐに答えることはせず、全く位置の変わっていない夕日を見ていた。緋色が橙色に染まっている。
「…………から」
ようやく出されたらしい回答は、しかし賑わいに紛れて聞き取れない。え、と聞き返す。感情を滲ませない両目が、まっすぐにスレインを見ていた。
「君の反応を見てみたくて」
「なっ……それだけですか？」
「ん。それだけ」
「なんですか、それ……」
がっくりと脱力しきったスレインは、もうこの場所について深く考えることをやめようと思った。世の中には説明のつかないことの一つや二つ、あるものである。たまたま伊奈帆がそれを知っていて、たまたま自分もその不思議に立ち会っている。それでいいではないか、と無理やり納得する。
「気になる人がいたら触ってみるといいよ」
伊奈帆は動く様子を見せないままにそう言った。ぐるりと周囲を見渡すと、老若男女様々な人がいたが、人の夢を覗くなんて真似はもうできそうになかった。興味がないと言えば嘘になるが、だからといってすすんで見るのも気が進まない。
夢は記憶の整理だという。つまりは、その人が過ごした日々の一端がそこには含まれているのだ。まるでプライヴェートを盗み見るようで、嫌だった。
そこまで考えて、ふとスレインは思いついた。いるではないか。どんな夢を見るか興味がある人物で、お互いプライヴェートなんて筒抜けで、遠慮が必要ない人物。
「えい」
「あっ、ちょっと」
振り向きざま、彼の薄い肩に触れた。珍しく焦ったような声を出すので、らしくもなく気分が高揚する。そして一度瞬きをした瞬間に見えた風景は、

「え、っと」

瓦礫だった。
どこを見渡しても瓦礫。何かのドームだったのか、上を見上げるとぽっかり空いた円から青空がこちらを見渡している。膝丈までなみなみと満ちているのは、透明な水だった。きらきらと日光に反射して輝く度、薄暗い壁に波紋を作っては崩れ、作っては崩れを繰り返している。
ふと視線を横にやれば、どうやらこの瓦礫ばかりの廃墟は何層かに別れているらしく、大きな窪みを見つけた。丁度滝のように水がさらさらと流れ落ちていく。
なんとなく好奇心が疼き、小規模の滝から下を見下ろす。すると眼下に、二人の少年が見えた。一人は金色の髪、一人は黒髪だった、どちらかが怪我をしているのか、透明だった水はどす黒い赤色を与えられては揺蕩っていた。
なんとなく少年たちに既視感を感じて、スレインは一歩後退りした。誰なのかを知るのが怖かった、
黒髪の少年は身体にぴったり張り付くあまり見ないデザインの服装をしていた。フードのように覆い被さる白いヘルメットのような何かがずり落ちる。そこで、怪我をしていたのは黒髪の方なのだと初めて判った。
こちらからでは、金髪の方は後ろ頭しか見えない。対して黒髪の少年が顔を上げれば、ばっちり目が合ってしまうだろう。嫌だ。スレインは恐怖を感じた。嫌だ、いやだいやだいやだ！ぐわんぐわんと鳴り響く警鐘に対し、身体が上手く動いてくれない、
「…………こうもり、」
決して大きくはない、むしろ囁きとさして違わないはずの言葉は、まるで今直接耳朶に吹き掛けられたかのようによく聞こえた。足が竦む。少年がゆっくり、ゆっくりと顔を上げていく。ぽたた、と血が落ちる音がした。
息を呑む。
「い、なほ」
「オレンジ色」
金髪の少年の声とスレインの声が被さるのはほぼ同時だった。黒髪の少年は――――伊奈帆は、薄く微笑んですらいた。
冷たい水に身を浸して、頭と左目から血を流しながらも、彼は笑っていた。素人目から見ても判るあまりの出血量にそぐわない静かで穏やかな表情は、却って空恐ろしいものすら感じさせた。
金髪の少年が、鈍色の銃の照準をまっすぐに伊奈帆の頭に合わせた。やめろと叫ぼうとした声帯は、しゃっくりに似た息を吐き出すだけに終わる。銃を握る白手袋は所々血に染まっており、薄汚い。
うて。
薄い唇が確かにそう形を作る。果たしてスレインが全く動かなかった足を踏み出したのと、少年が引き金を引くのとではどちらが早かっただろうか。呆気ないほど乾いた音が無情にも瓦礫たちに反射して、次いで、ばしゃりと何かが水に叩き付けられる音が後を追った。
スレインの足はそれ以上踏み出せなかった。左腕をきつく掴まれる感触に、すべてを支配されてしまっていた。
「駄目だよスレイン」
左腕を引っ張られると、簡単に身体が後ろへ進む。ゆったりと背中から抱きしめられ、まるで拘束されているようだと思った。
暖かい。スレインの後ろにいるその人物からは確かな体温が感じられる。瞳を閉じる。
「っ、」
次に目を開けた時には、また、あの商店街の通りだった。伊奈帆がこちらを覗き込んでくる。
「帰ろうか」
「…………はい」
あれが伊奈帆の夢なのだろうか。程なくして通りを抜け、再び二人は手を繋ぐ。強い衝撃を受けたのか、思考が鈍い。夢にしては、やたらとリアリティがあった。
あの銃の手触りを、あの無感動な背中を、あの、震えない右手を。スレインは知っているのではないか。
どうしてあんな夢を見るんですかと聞けたならば楽だったかもしれない。けれど、それはできそうになかった。伊奈帆の手を握る力を少しだけ強める。血の巡りと確かな体温がじんわりと伝わり、スレインの掌を暖めた。今は、これで。これさえあれば何もいらないと、スレインは思った。

「戻れないからって連れ出したのは、失敗だったかなあ」
「？何か言いました？」
「ううん、何も」

[newpage]

[chapter:落ちる少女]

最近は寝起きがいい。しかしながら朝はやはり眠いものである。スレインはぼんやりとした瞳のまま、テレビの音声を聞き流していた。世間では男子高校生が一人行方不明になったらしいが、彼には関係のないことだ。もそもそとオムレツを貪りながらチャンネルを変えれば、最近の芸能ニュースに切り替わる。どこを見てもさして変わりない。朝も早いニュースというものは、そういうものだ。
あと半分ほどの大きさになったオムレツの消費に集中しようとして、何気なく窓の外を見た。このような時間だというのに、マンションの別棟の屋上には二人の学生らしき影があった。
そう遠くもない距離だ。二人の髪型と服装くらいはおおまかに確認できる。外国人なのだろうか、少し癖のある猫毛を長く伸ばしてサイドテールにしている少女と、さして長くないが整えられた印象の緩やかな黒髪の少女の、二人だ。外は風が酷いのか、黒と金が艶やかにたなびいていた。
ぼう、とその二人を、見遣る。仲がいいのか、距離は非常に近い。見覚えのある黄土色の制服だ。伊奈帆と同じ高校なのだろうか。
最後の一口を食べようとフォークを握りなおした瞬間だ。屋上の二人に変化があった。

ぐらり。

いっそ呆気ないほど、まるで風に流されたのだと言わんばかりの軽さで――――少女二人は屋上から飛び降りた。
「――――あっ」
金髪の少女が黒髪の少女を引きずりながら落ちていた。
黒髪の少女が金髪の少女を前に押しやって落ちていた。
どちらとも取れるような、縺れ合う様子に似た落ち方だ。ひゅう、と重力に従い二人は落ちていく。髪が混ざり合いスカートがはためき、白い肌を晒している。時間にして数秒もなかったかもしれない。
それでも、スレインの瞳には、二人が互いの手首を赤い糸でぐるぐるに巻きつけていたのが鮮烈に写っていた。決して離れないという意思がありありと判る赤い糸は、手首から小指に繋がっていた。思わず零した感嘆符の、なんと空々しい響きか。遅れてやってくる戦慄き。
どしゃり。
水の入った麻袋を乱暴に地面に叩き付けたような音が聞こえた。頭に暫く残って消えないだろう、嫌な音だ。スレインの右手からは力が抜けて、皿の上にフォークが一回跳ねて転がった。金属質な落下音すら今は気にならない。
一番初めに思ったのは、救急車を呼ぶことだった。慌てて席を立ち、タイミングよく出掛ける準備を終えた伊奈帆に噛みつくように呼びかける。
「いっ、いなほさ、きゅ、きゅうきゅ、きゅ！」
「きゅ？いつ新種の動物になったのスレイン？」
新種の生物になったつもりはないが、そんな伊奈帆の言葉をスルーしてしまうくらいにはスレインは動揺していた。
「ひとが！落ちたんです！女の子が、二人！」
ようやっと絞り出せたまともな言葉だった。伊奈帆は、ああなんだそんなことか、とでも言いたげな表情を浮かべた。想像もしなかった反応だったので、スレインは今度は驚きすぎて二の句が継げなかった。
「その子たちの事なら気にしなくていいよ、至っていつも通りだ」
「し、心中がいつも通りってあなた……」
事実だよ、と素っ気なく伊奈帆が告げる。肩にひっかけた学生鞄から携帯を取り出して時間を確認すると、そろそろ出かける時間だったらしい。スレインに背を向けて、伊奈帆はさっさとその場を後にしてしまう。なんとなく納得がいかなかったが、それ以上言葉が出てこず、玄関まで何も言えずにスレインはついていく。
「女の子だからね。諦めにくいけど、絶望しやすいから」
よく判らない言葉だった。べランダの向こう側を覗く気にはなれない。革靴の爪先を鳴らして、彼がドアノブに手をかけた。
「それにしても、スレイン」
よく彼女たちが心中だって判ったね。
「…………え、」
「それじゃあ行ってきます」
いってらっしゃいと呆然とした声音で告げながら、スレインは自分の発想に驚いていた。確かに、そうだ。普通心中とは男女間において起こるものではなかっただろうか。どこからどう見ても二人は少女だった。舞い上がる長い髪、細く手折れそうな白い手首に巻き付いた赤い糸。舞い上がるスカートと、そこから伸びた男の足にはない柔らかさとしなやかさを持つ下肢。どこからどう見ても、少女だった。
扉の閉まる音はただ乾いていた。いつになく慌てた様子でスレインはベランダへ向かう。齧り付くようにして限界まで身体を出し、別棟を見遣った。
確かに生々しい音を立てて落ちたはずの二人の死体は、どこにも見当たらなかった。なんで、と呆然と呟くも、誰に聞いてもこの不可思議な現象の理由が判らないのはなんとなく察せられた。
なんとなく、余ったお茶が喉を通らない。スレインは勿体ないと嘆きながら、余ったお茶を流しに放り捨てた。のこり一口だったオムレツは、気合で喉に流し込む。
味がしなかった。

その日以降も少女は飛び降りた。繰り返される心中は毎日というわけではなく決まって週の初めのように思われた。少し違うところがあるとすれば、二人の飛び降りる場所が心無しか移動している気がするのだ。
そうだ、ちょうど、伊奈帆とスレインの住む部屋に迫っているような――――、
「…………！」
悪寒が背中を駆け抜けた。時計を見れば丁度『いつも』の時間帯である。伊奈帆はもう学校へ行ってしまった。あれを今日見てしまう訳にはいかない。かみ合わない歯の根を無理に押さえつけてベランダまで走った。十歩あるかないかだというのに、その数秒すらもどかしい。
はやくはやく。ぞわぞわと背筋を這う嫌な悪寒と予感を振り切るべく、カーテンに手をかける。柔らかい緑色をしたそれを引っ掴んで腕を引こうとした瞬間に。それは。
文字通り、落ちてきた。

「う、」

落ちていく二人は、お互いの手をきつく握り合っていた。決して離さぬという意思表示なのか、まるで入水心中でもするかのように、赤い糸をぐるぐるに両手首に巻きつけていた。それはやがて小指へと伸び、おぞましくもささやかに可愛らしく、蝶々結びになっていた。
こちらに背を向けていたのは金髪の少女だった。さして高くない位置でくくられたサイドテールは風圧に逆らわず、流麗な線を描いて舞う。向かいにいる黒髪の少女は、肩ごしにぼんやりとこちらを向いていた。今から死ぬとは全く思えない穏やかな無表情だ。
目が、合う。
違う、と思った。違う。少女は無表情などではない。優しげに眼を細めて、愛おしげに金髪の彼女の両手を握りしめている。白いカップに浮かぶ紅茶を思い起こされる緋色は、一瞬だけ、確かにスレインの目を捉えた。かすかに、わらう。
「――――あ、あ…………」
またあの音が聞こえた。今までよりも随分近い、生々しい結果を知らしめる音。カーテンを握りしめたまま、スレインはへたりこむ。かちかちと奥歯が音を立て、痙攣を起こしているように四肢は震えていた。口許を押さえて、ただ明るい空を必死で見上げた。たとえベランダで見えないとしても、今下を向くわけにはいかなかった。
怖かった。何度も死に続ける二人の少女が。その光景を何度も見ていることが。――――あの黒髪の少女の緋色が、伊奈帆のそれに見えたことが。
「う、あ」
意味のない言葉が喉から零れる。何故なのかはさっぱり判らなかったが、気付けば瞳からは涙が溢れていた。
何故だか無性に悲しかった。

以来、その時間帯が近付く前にスレインはカーテンを閉めるようになった。伊奈帆はそんな彼の行動を咎めるような様子はなく、いつも通りの時間になれば「行ってきます」と無表情に扉を開ける。
今日も、彼女たちは諦めないままに絶望しているだろう。どしゃりという、あの音が聞こえた気がした。

[newpage]

[chapter:？階]

伊奈帆が珍しく忘れ物をした。
そのことに気付いたスレインはまず驚き、そして唸った。珍しいこともあるものだ、と。とりあえずは届けるべきだと思ったので、件の忘れ物である弁当と何かのファイルを持って外へ出ることにする。
このスニーカーを履くのもなんだか久々に思える。スレインは、コンクリートに擦れる靴の音を聞きながら、エレベーターを探した。それなら階段を駆け下りるよりも早いし、何より弁当の中身も崩れない。
「…………あれ？」
しかし、いくら探せどもエレベーターはなかった。なんだか前にもこんなことがあった気がしたのだが、深く考えないことにする。困ったなあと途方に暮れる思いで左手にぶら下がる弁当を見た。伊奈帆は倹約家だ。余計な出費を避けるためにわざわざ弁当を作っているといっても過言ではない。弁当を忘れたとあっては財布を開かざるを得ないし、弁当にかけた手間と時間のことで少し不機嫌になったりするかもしれない。何より、毎朝きちんとスレインの分まで昼食を用意していく彼の姿を見ているからして、なんとかこの弁当を届ける手段はないだろうか、とスレインは頭を捻る。
伊奈帆の携帯に連絡をかけようか。少し考えて、この案は却下された。連絡先をスレインは知らない。
仕方なしに、再びエレベーターを探すべく歩き出した。ぐるぐるとフロアを回るスレインの姿はただ滑稽で、そして哀愁を誘う事だろう。同じ所を繰り返し周るせいで変わらない風景に、このマンションがまるで隔絶されているかのような気分になり、胸中に何とも言えない不気味さが広がる。それでも諦めきれず、行ったり来たり、右往左往を繰り返していると、階段を見つけた。
これ幸いとそこに足を踏み入れる。
薄暗いものの、間隔は全体的に広い。軽快な足取りで階下へと降りていく。
ふとした拍子に顔を上げて見ると、踊り場の突き当りには『４／３』と数字があった。もう三階まで下ってきただろうかと不思議に思うが、少しでも伊奈帆に追いつきたかったので気にせず足を進める。
だが、三階を通り過ぎたにしてはやけに一階に辿り着くのが遅い。再び顔を上げれば、表記は『７／６』になっていた。いよいよ何がなんだか判らない。自分はこんなにも方向音痴だっただろうかと密かにショックを受けるも、ならば人に案内してもらうしかあるまいと、スレインは階段を下りずそのまま部屋の立ち並ぶフロアの方に足を向けた。整然と並ぶ扉たちは彼の住む八階と全く違わない姿をしている。
向かい側から、女子高生と思しき二人の少女が歩いてくる。学校に行くにしては何故か学生鞄を持っていなかったが、とりあえず話しかけてみることにした。
「おはようございます」
「おはようございます」
黒髪で、背の低い方の少女が挨拶を返す。金髪で背の高い方の少女は、戸惑いがちに会釈をした。なんだか独特の雰囲気を持つ二人である。見ているこっちが思わず戸惑ってしまうような、そんな共通の何かが見え隠れしていた。二人きりの世界、という言葉が頭をよぎる。
「もしかして一階まで？」
黒髪の少女が先手を打つ。何故判ったのだろうか。驚愕に目を見開いて、頷いた。金髪の少女は少し困ったように眉根を寄せ、落ち着いた鼠色のスカートを僅かに掴む。
一階までだと迷いますね、と呟くように黒髪の彼女は言う。微妙なニュアンスを感じたが、いまいち上手く掴めなかった。
「わたしたちは今日一階まで向かいませんので、残念ながら案内はできません。……それに、多分わたしたちも迷いますね」
じっと、スレインの足元を見て少女が言う。思わず視線を辿ると、左足首には銀の華奢だがしっかりした作りの鎖と革製のベルトが巻き付いていた。ぎょっとして、身体が跳ね上がる。
「では、これで」
「す、すみません……」
話は終わったとばかりに二人はスレインがそうしたように階段へ向かう。違う点は、二人は階下ではなく恐らく屋上へ向かっている点だろう。もう一度視線を下げると、先程見えた鎖は嘘のように無くなっていた。触っても何の感触もしないのだ。何か、白昼夢でも見ていたようなおかしな気分だった。狐につままれるというのは、こういう事を言うのだろう。
仕方なく、彼女たちの後を追うように階段へ戻った。再び階段をスレインは降りていく。
今回は、とにかく長いようだった。顔を上げたまま降りているつもりでも気付けば視線は下になっていて、数字は決まって『８／７』である。そろそろ嫌気も差してきたし、何より不安だった。来た道を引き返そうかと振り返るも、どうしてか住んでいる八階にも行けない。必ず階段の踊り場であの数字を見ることになるのだ。嘆息が喉から零れ落ちた。
もう何度下っただろうか。またしても下がっていた視線をふっと上げれば、劇的な変化が訪れていた。『３／２』。今、スレインは三階と二階の間の踊り場にいるのである。今までにはなかった階だ。やった、と疲れた歓声が溢れた。
もしかすると、次こそ一階へ行けるのでは。そう思い踊り場を過ぎた階段へ足をかけると、そこへ目的の人物らしき少年を見かける。
「伊奈帆さん！」
よかった、間に合った！安堵のままに弁当片手に急ぎ足になる。二階のホールへ続く通路で、今しがた来たと言わんばかりにその少年はいた。鉢合わせの形だ。スレインの声に気付いたか、明るい黄土色のブレザーを纏った彼は劇的に反応した。
「…………？」
思わず足が止まった。少年からは常には有り得ない、ひどく剣呑な気配を感じたのだ。感情を乗せない顔は僅かばかり焦りが滲み、緋色の隻眼はぎらぎらと光っている。そこで、外見上の大きな差異にスレインはようやく気付いた。遅いくらいだった。
――――スレインの知る伊奈帆は、左目に医療用の眼帯など付けたりはしない。
「コウモリ」
ぼそりと呟くと同時、伊奈帆と思しき少年が強く地を蹴った。反射的にスレインは彼から逃げるような動きを取ってしまう。今まで来ていた道を逆戻りに、長い脚を生かし一段と言わず二段飛ばしで階段を駆け上がる。コウモリと呼ばれた瞬間、何故だか全身に怖気が走ったのだ。あまりに恐ろしく、あまりに威圧的で、そして何故かあまりの罪悪感が胸に満ちた。困惑と恐怖のままに足を動かす。
追ってくる足音はあくまで等間隔だった。ペースが落ちることもなければ早まることもない、常に一定のスピード。機械的とすら言えた。
呼吸が早まる。脇腹が痛みを訴え、喉にはひりつくような渇きが出始めた。それでも、脳が、身体が、あるいは存在し得る第六感が足を止めることを許さない。
もうどのくらい階段を昇ったのだろうか。判らない。どっどっどっ、と重たく響く心臓の音と疲労は正しく比例していた。
ただただ夢中だった。感情に身体が追い付かず、スピードが鈍くなり始めているのにも気付けないほど。

「つかまえた」

声と、身体に回ってくる二本の両腕の感触は、ほぼ同時だった。ひぐ、と喉が悲鳴になりきれなかった呻きを零す。踊り場を通り過ぎ、ちょうど次の段へ足をかけたタイミングのことだった。引き倒されるように身体が傾ぎ、尻餅をつく。全身が熱く、じっとりと汗をかいていた。はー、はー、と荒い呼気は犬のようで、他人事のように耳によく響く。
二本の腕は背中からスレインを押さえつけていた。足は過度の負荷によって痙攣してまともに動きそうになかった。
一本は腹側へ、二本目の腕はそれとは違い、喉元へ。大きく上下する喉仏の近くを這う指の感触に鳥肌が立つ。伸ばされた指が、皮膚に少々食い込んでいた。その気になれば、風穴を開けられる。そのように錯覚してしまう。
「逃げないでよ」
急所を押えておきながら、乞うような、縋るような色を纏った言葉だった。何も言えない。上下する肩と、荒い呼吸と、早鐘を打つ心臓。世界中の音がこれだけになったのかと思うほどの、静寂。
コウモリ、ともう一度伊奈帆の声で少年が囁く。小さく頭を振る。粘ついた唾液が発声を邪魔したが、無理に嚥下することで口を開いた。頭が熱に浮かされたように重たく、熱い。
「あな、た……っは……だ、れです、か」
少年の身体が硬直するのを背中越しに悟る。
「……ぅ……伊奈帆さん、に、似てるけど、ちが、」
言外に、自分の知る人物でないと伝えたかったのだが、果たして通じているのか。ゆるゆると腕が離れていく。どうやらこちらから数歩距離を取ったらしく、背中がやけに涼しくなった。
振り向くことはできなくて、身体を脱力させたまま膝に額を押し付けた。ぜー、ぜー、ひゅう。冬の隙間風のような呼吸の合間に、少年が何かを呟く。
「……コウモリじゃない？ならどこの……八階か？」
僅かに聞き取れた部分を頭の中で反芻するも、考える余力などどこにもない。立てるだろうか。足に力を込める。痙攣は既に収まっていた。そのまま足を引き寄せ、起き上りやすい姿勢を取る。左手にふと意識を向ければ、血の気の失せた指で、それでも弁当とファイルを持っていた。そんな自分に苦笑する。
「いや、もう、いいや」
少年は何かを諦めたような調子で、独り言ちた。いやな予感がする。四肢に力を籠め、深く呼吸をして全身を落ち着かせようと努める。
「もう、君でもいいよ」
不穏な妥協の言葉に顔を上げ、後ろを振り返った。近くで見ると、ますます伊奈帆に似ていた。ただ何故だろうか。何かが圧倒的に、圧迫的なまでに違う。思い出せ。まっすぐに己に向けられるあらゆる感情を凝縮した、この白々しくも恐ろしい違和感の名を、思い出せ。
「――――あいしてる」
危機感が頂点に達した瞬間だった。転げ落ちるような姿勢になりつつ、スレインは足を動かす。針の様に尖る気配をありありと感じて突き動かされたかの如く駆け出した。
思い出した。思い出した思い出した。蜃気楼みたく揺らめいた不気味さを感じた理由を。この恐怖の対象の名を。

――――狂気、だ。

ゆるさないよ、と平坦な声が背中から追いかけてくる。足音は聞こえなかったが、幻聴は絶えずスレインを苛んだ。汗が目に入り視界はぼやけていた。焼けつくような全身を顧みずにただ逃げる。あの一つしか無い緋色が、まだ自分を見つめているような気がした。
止まることは許さない。動きの鈍い足を叱咤していくうち、朦朧としていく意識に身体がついていけなくなりはじめた。壁に左肩を預けてずるりと座り込みそうになったとき、後から肩を掴まれてそれどころではなくなった。焦燥に支配された意識と噛み合わない疲弊しきった足とで、スレインは余計混乱し、息を乱す。
「スレイン。落ち着いて」
いつものあの冷静な声が聞こえる。殆ど反射で、スレインは抵抗をやめていた。
「ゆっくり息吸って、吐いて。大きく呼吸するんだ」
知らず知らず強張り、詰めていた呼吸がゆっくり再開される。背中をさする掌の感触に無性に安堵した。恐怖はいつの間にか薄れており、いなほさん、とからからになった喉で彼の名前を呼ぶ。
「どうしたんだ」
汗まみれの顔をあげると、いつもの伊奈帆がそこにいた。眼帯もしていないし、雰囲気もいつものままだ。
「い、いなほさ……」
明るい黄土色のジャケットに縋りつく。恐怖と混乱で頭がおかしくなりそうだった。変なことが多すぎる。スレインはがたがたと震えの収まらない両手に力を込めた。ジャケットに皺がつくことを咎めもせず、伊奈帆はどうしたのと、殊更優しい雰囲気で再びスレインに問いかけた。
「わ、わすれものとどけようとして、おんなのこがふたりすれちがって、かいだんおりてものぼってもいけなくて、そ、したら……そしたらいなほさんだけどそうじゃないひとがいて、にげて、あの、それで、」
「うん。判った。大丈夫、何にも心配ないよ」
正面からスレインを安心するように抱きしめて、伊奈帆はひたすら大丈夫だと囁く。要領を得ない説明だったが、そんなことも今のスレインには理解できないまま、目の前の体温に縋ることしかできなかった。
伊奈帆暫くそのままでいたが、呼吸や脈拍が落ち着いたタイミングを見計らってスレインを立たせた。目を瞑って、と言い含めて彼はしっとり冷たい手を取って歩きはじめる。
「目を開けたら駄目だよ」
言いながら、伊奈帆はハンカチを取り出してスレインの両目に目隠しを施す。疲れ切っていて抵抗すらできないまま、手を引かれる。ぐらぐらと揺れる平衡感覚のせいで、足元すら覚束なかった。
「がんばって」と少年特有の声変りを終えたばかりの声が叱咤激励する。
やがて扉が開く音が聞こえた。左足を這うこの手の感触は、一体何を意味しているのだろう。そんなことを思うも、瞼が閉じる誘惑には逆らえない。
「…………忘れ物を届けてくれるのはうれしいけど。部屋から出ていけるとは思ってなかった」
頬に冷たい床の感触が伝わる。あまりに心地よくて、スレインは立ち上がることができなかった。くしゃりと己の頭を撫でてくる掌がたまらない。もっととねだるように擦り寄ると苦笑する気配が伝わってきた。頭から手が離れたのと殆ど同時、左足首に何かが巻き付く感触。
「おやすみ」
その声に逆らうことはしなかった。

[newpage]

[chapter:帰らない駅]

がたん、ごと、ん。

電車の揺れる音でスレインは眼を覚ます。眼下に広がった自分の服装はあの見慣れた黄土色の制服で、外は既に真っ暗になっていた。いけない、このままでは叱られてしまうと顔を青ざめさせる。
そういえばここはどこなのだろう。足元からはぶおおおという暖房の音が響き膝裏から下を淡々と温めている。自分以外の乗客はとっくに降りたのかどこにもいなくなっていた。
外へ目を凝らすと辛うじて風景が見えたが、見覚えのない田舎のものだった。離れて立ち並ぶ民家はどれも一軒家で、寒々しい様相を呈する枯れた木々たちがさざめいていた。
無機質な蛍光灯が揺れる車内を感情無く照らしている。車内は暖かいというのにどことなく寒々しい印象すら抱いた。
路線図は無いかと上を見渡すも、広告すらぶら下がっていなかった。こんな殺風景な電車があっただろうか。胸中に広がる不安が明確な形を作っていく。ごくり、と喉が緊張で溢れた唾液を嚥下した。
『つぎは、――――駅、――――駅です。お降りの客様は、お忘れ物のないよう、お気を付けください』
「え？」
駅名が全く聞き取れず、スレインはしっかり聞き取ろうともう一度耳を澄ます。けれど放送がもう流れることはなく、一定のペースで電車はそのまま走り続けた。ここはどこなんだろう。きょろきょろと意味もなく視線を彷徨わせるも、先程確認した通り手がかりになりそうなものはなかった。
慌てて運転席の方へ行こうと腰を浮かす。進行方向へ向かえば確かに操舵している人影はある。よかった、これでこの電車がどこで止まるか判る、と安心してスレインは仕切りの薄いガラス戸を叩いた。
「あの、すみません」
「…………」
車掌は反応する様子を見せない。
「……この電車、どこへ向かっているんですか？」
「…………」
「……すみません！」
またしても反応がない。聞こえていないのかと思い、仕切りを先程より強く叩くも変化がなかった。無視されているとか、そういう次元ではない気がしてきたので大人しく諦めることにする。いざ電車が止まれば判ることだ。そう考えて、この不安と焦燥をスレインは誤魔化すことにした。
がたん、ごとん。電車は変わらず走り続けている。外の景色は暗いままで、果たして今は何時なのだろうかとスレインは携帯を取り出した。
「――――え」
時刻よりも真っ先に目についた異常に息が詰まる。アンテナが立っていないのだ。
「圏外……？」
昨今、携帯の電波が入らない場所はそうそうないはずだ。いよいよこの電車がどこを走っているのか判らず、無意識のうちスレインは鞄を手繰り寄せた。
電話も駄目、メールも駄目、ＳＮＳ系のアプリも駄目、そしてインターネットにも繋がらないときた。外部との繋がりを感じさせてくれていた携帯が、今まさにただのがらくたと化したのだ。不安がじわじわと恐怖へ変化していく。電車の振動と音以外何も存在していなかった。
やがて、電車が減速していく。身体が引っ張られる慣れた感覚に、スレインは咄嗟に近くにあった手摺に掴まった。兎にも角にも車内にいることが恐ろしく、止まった途端に荷物を抱えて外へ飛び出した。冷えた空気が頬を撫でさすり、ぴりぴりとした刺激を与えてくる。
「……無人駅？」
がらんとしている駅のホームには、簡素な天井と照明、そしてベンチが寂しく鎮座しているのみだった。ひらがなで記載されているらしい駅名を見るが、劣化が酷く読み取れない。
スレインは首を傾げた。はたしてこのような駅などあっただろうか。少なくとも、彼の記憶の中には周辺に無人駅などなかった。そうなると、余程遠くまで来てしまったか。
近くに人はいないかと首を巡らせていると、ぷしゅーっという聞きなれた音が響く。驚いて振り返れば、電車の扉は既に閉まっていた。やってしまった！スレインは慌てて駆け寄るも、時すでに遅し。電車は無情にも走り出してしまった。
慌てて再び携帯の画面を見るも、結果は変わらず圏外のままだ。携帯をもとの位置に戻しながら、判りやすく前途多難な状況にがくりと両肩を落とした。どうやって帰れというのだろう。タクシーを拾おうにも、駅のホームは意外に広いうえに照明は頼りない。暗闇で満ちたその先へ行くことを、本能的な恐怖が躊躇っていた。
「…………駅員さんとか、いないのかな」
まだ無人駅だと決まったわけではない。スレインはベンチから見渡せる範囲で目を凝らした。自分から見て右手にはまだホームがあるらしく、まばらな明りが見て取れた。だが改札口らしきものはない。反対の左側は何故か真っ暗である。
――――こちらに来てくれるな、と言わんばかりに。
「…………」
家に帰りたいという欲求と、ささやかな不安の中確かに生じた好奇心が胸元をくすぐった。唾液を飲み込む音がいやに大きく聞こえ、鞄を握る手の力が強くなる。
果たして、この向こうにはなにがあるというのか。単純に照明の寿命が切れただけで、こちら側にこそ改札口があるのではないか。
スレインは先程戻したばかりの携帯を再び取り出し、照明用のアプリを起動した。充電が切れては困るので、なるべく消費が抑えられるようにしてから、操作する。すると、ぱっと携帯から明りが灯る。足元に照らすと、充分な範囲を照らしてくれていた。
一歩。踏み出す。明りで異常がないことはすぐに判るというのに、何故かそちらへ行くにつれて肌が粟立ち今にも逃げ出したくなる気分になった。何もないのに。スレインは恐怖よりも先に戸惑いが先立つのを感じた。鞄を握りしめる掌は、じっとりと冷や汗で濡れていた。
革靴がコンクリートを叩く、呆気ない音ばかりが駅には響いていた。
足元を慎重に携帯の明りで照らしながら、そろりそろりと先を行く。それでもこの革靴は余計な足音を立てるので、その度スレインは意味もなく周囲を伺った。
もう、どのくらい歩いただろう。感覚的にはそれなりの距離を歩んだ気もするが、それはこの怯えきった精神がそう思わせているだけで、実際はさほど歩いていないのかもしれない。後ろを振り返ると、先程まで自分がいたベンチとその明りは随分小さくなっていて、息を呑んだ。もう後戻りはできない。そう感じるのに充分すぎる距離だった。
夜だというのに月はない。点滅する心許ない明りはあれど、心強いのは携帯のそれだけだ。出口は。出口は、どこだ。
星がちかちかと瞬くのが視認できるほどの闇。それは近くに街がないことを示していた。自分一人が世界に取り残されたのか、それとも全く異なる場所に来てしまったとでもいうのか。たった一人、誰もいない上に電車も来る気配がない。
言い知れない不安が体温を下げている。あれだけ慎重に歩みを進めていたというのに、気付けばスレインは走り出していた。はっ、はっ、は。荒い呼吸が耳鳴りのする静寂の中で唯一の物音にも思えた。
やがて明りが見えた。人の気配は変わらずないが、助かったと根拠もなく感じてスレインは一目散にそこへ向かう。ただの駅のホームと変わりない様子だった。照明はきちんとついていて、改札口と時刻表を掲載した掲示板があった。
明りの元へ入って、息も荒いままベンチへ力なく座り込んだ。走ったせいか、寒気がするほど冷たかった身体は暑いと感じるほど温まっている。
呼吸が落ち着いた頃に時刻表を見よう。そう思って確認しそびれていた時刻を携帯で見ようと照明を消した直後。
「おい」
「――――うわああああ！？」
文字通り飛び上がる思いでスレインは悲鳴を上げた。勢いよく後ろを振り返ると、うるさいとでも言わんばかりに顔を顰めた男が立っていた。三十代ほどだろうか、艶やかな金髪と冷めた色を湛えた青の瞳の印象的な美丈夫である。落ち着いた臙脂色の服は、色こそあまり見ないものの駅員のそれとよく似たデザインをしていた。頭上に乗った同色の帽子を見るが、その帽章は見たことがないものだった。
「貴様、どこから来た」
「へ？いや、あの、普通に電車で来ました、けど……？」
男は何とも言えない顔をして、「そんなはずは」「どこかでダイヤが狂ったか」とぶつぶつ呟いていた。駅員にしてはふてぶてしい男だ。体躯の良さと身長の高さも相まって、スレインは少しばかり怯えた。
「……まあ、なんにせよ、降りれて僥倖だったな。あのまま進めば戻ってこれない所だった」
さらりとスレインにとってとんでもない事を告げつつ、男はごそごそと肩から下げていた黒い革に金の留め具があしらってある大きながま口の鞄をごそごそとまさぐった。
中から出てきたのは切符だった。数種類のそれをかざしスレインをよく見る男は、今度は見る見るうちに嫌悪に表情を彩らせて低く唸った。スレインは機嫌が急降下する男に、びくびくと様子を伺う事しかできない。
「……貴様、時間をどこに置いてきた」
「じ、時間？」
「そうだ。……いやこれは、何者かが奪っていったのか？」
なんにせよ、貴様のように自分の時間を持たん下郎を私は好かない。そんな一方的なことを不機嫌そうに言われても、スレインにはとんと見当がつかない。
「じ、時間ってなんですか……？」
「言葉のままだ下郎め。お前に乗っかっているその頭は飾り物か何かか。貴様の過ごすはずだった時間が何者かに譲渡されている状態なのだ。見ろ、その携帯。時間が無いから電波も入らない。それが奪われたのかはたまた渡したのかはどうでもいいが、なんてことだ。切符が切れないではないか」
電波だ。この人、電波だ。言っている意味がさっぱり理解できず、その上おかしなことまで言われたのでスレインは戦慄する。質問に答える気が更々ないのだろう、事情が理解できていることが前提の話口である。
「おい、貴様。どこへ帰りたいか言え」
「え、どこって、」
「時間がないから切符が切れんのだ、もうお前の口から直接行先を聞くしかあるまい。なにも住所だけではない、個人の名や地名だけであっても切符は切れるぞ」
はやくしろ、と男が急かす。どこへ帰りたいかというのは、また曖昧な話だ。スレインは家を思い浮かべる。平屋でそれなりに広い一人きりの家を。家主が帰ってこなくなってもうずいぶん経つが、それを寂しいと感じたことはあまりない。
ただ、帰りたい場所か、と問われると。それは。
「帰る場所……？」
そんなものは、本当にあるのか？
急に黙りこくってしまったスレインに余計神経を逆撫でされたらしく、男は苛々とした様子を隠さず革靴の爪先でこつこつとコンクリートを叩き始めた。等間隔の音は、まだ電車の中にいるような気分にさせた。帰る場所。帰る、場所。
「っ！」
考え込んでいると、ふと、手の中の携帯が急な振動を知らせた。びくりと肩を弾ませると男も着信に気付いたらしく、「なに？」と柳眉を逆立て剣呑な表情になる。
「も、もしもし」
圏外だったのに、と訝しみながらもスレインは電話を取る。着信が途切れるのには間に合ったものの、向こうからはノイズしか聞こえない。耳から離して画面を見ると、アンテナが一本だけ立っていた。
画面は未だ通話状態のままになっている。スレインは、文字化けしている電話をかけてきた相手の名前をなぞる。この文字化けしている名前を、自分は知っているような、知らないような、不思議な気分だ。
「どうする」
男が再び問いかけた。
「……この電話をかけてきた人のところへお願いします」
「何故？そ奴が人間であるという保証はどこにもないぞ」
「別に、それでも構いません」
ノイズの向こうからは微かに声が聞こえる。声と辛うじて判るだけのそれは、男か女かもはっきりしない。この画面の向こうで怪物がぽっかりと口を開けていようとスレインは構わないと思えた。そんな予感はしなかったし、何より無性にこの電話の主に会いたくなったのだ。
「……後悔しても知らんぞ」
鼻を短く鳴らして男が呟くように言った。青い両目に浮かぶのは、軽蔑と嫌悪、そして僅かに滲んだ憐憫だった。
どうしてこの人がそんな目で僕を見るのだろう。どうにも居心地が悪くなり、スレインは瞳を逸らす。
ぱきん、と音がした。切られた切符がずずいと差し出されたので無言で受け取る。その切符も文字化けしていて、全く読めなかった。ただなんとなくあの電話の主に繋がっているのだな、と直感した。通話が切れて、深い青色をしたスマートフォンは先程と同じくただのがらくたに戻る。
「このまま駅のホームで待て。次にやってくる電車に乗り込めば希望の場所へ辿り着くだろう」
「ありがとう、ございます」
「仕事だ」
男はどこか言い辛そうな、何か言いたげな雰囲気を纏っていたが程なくそれは霧散した。くるりとスレインに背中を向けて、ため息交じりにしてようやく彼は唇を動かした。
「……自ら縛られに行くとは、愚かにも程がある」
かんかんかん。踏切がけたたましい警告音を叫んで赤く瞬いた。電車がやってくると判る二つの目に似たライトが迫ってきていた。切符を落とさないように握りこんで、スレインは少し首を伸ばしてそちらを見る。電車は速度を落としながら確実にこちらへやってきていた。
止まった電車はたったの二両編成だった。それでも客は見当たらず、広告もない。嫌な合致だ。
「もう来るなよ」
開いた扉の向こうのスレインに向かって、男がそう投げかける。思わず苦笑を浮かべて頷いた。むしろ頼まれたって、こんな場所にはもう二度と来るつもりはない。
扉が閉まるころには男はもう背を向けていた。何気なく暗いままの風景を見遣ったまま窓の外をぼんやり眺める。電車はゆっくりと、滑るように走り出した。
「――――あ」
駅の隅の隅、艶やかな金色を見留めて思わず声が漏れる。先程の男とは違う、もっと艶やかで長い、女性のものだった。
――――女性はこちらを見ている。あっという間に遠ざかる景色の中、何故か白い姿が酷く懐かしく感じる。
けれどもう届くことは無い。電車は夜闇を切り裂くように進むが、通り抜けた後は再び闇が夜と結託して道を閉ざしていく。スレインは窓から景色を見ることをやめて、大人しく椅子に座りなおした。暖房が腿と膝裏を暖めていく。
トンネルにでも入ったか、やたらと周囲に圧迫感が生まれた。季節外れの、祭囃子の音が聞こえる。賑やかで、楽しそうで、禍々しくて――――寂しそうで。そんな音の間を、電車は縫うように通り過ぎていく。
携帯を握る。一度だけかかってきた番号は受信記録には無く、あの意味の伝わらない文字化けは記憶だけのものとなっていた。
指先が、アンテナの一本だけ立った画面を撫でる。
「もうすぐつきますから」
言い聞かせるように携帯へ向かって独り言を零す。
待ってる、とでも言いたげに一瞬だけ携帯が着信を告げた。

2014/11/23

[chapter:都市伝説]

「ねえスレイン。よろしければ、噂のマンションまで行ってみませんか？」
その日の夢は、そんな少女の言葉から始まった。

夢の中のスレインは、やや明るい黄土色のブレザーを着ていた。特に目立った可愛らしさや格好よさ、洗練されたものはない、至って普通の高校の制服である。スレインに話しかけた少女もまた、同じ制服を着ていた。相違点を挙げるなら、当然が彼女は女生徒の為スカートを履いていた点か。
夢の中のスレインは、この少女がとてつもなく好奇心旺盛であることを知っていた。その興味は日常の些細なことからそれこそ宇宙レベルの疑問まで、幅広い。お互いの両親の仲が良好だったので、彼女とは小学生からの付き合いだ。高校生になった今、幼馴染というには短く、友人というには長い期間を共に過ごしてきた。その中で培われたこの胸中の淡い憧れになんと名前を付けるべきか、スレインは未だに悩んでいた。
彼女の好奇心は、最近はどういう訳か都市伝説やら心霊スポットやら転生やら――――、つまりはオカルト方面に傾いてきた。話を聞くに、特にパラレルワールドなどといった方向にその興味は向いているようだった。何気なく理由を聞いたとき、珍しく彼女は言い淀んでいたのが印象深い。
「だって、そういうのが本当にあるなら、なんだか素敵だと思いませんか？」
誤魔化すような言葉だったが、とりあえずスレインは納得することにした。立ち入ってはいけない領域に危うく足を踏み入れかけたような、そんな決して心地よくない感覚を感じたためだ。
今日の彼女の興味は、二人の通学路にある最近増築の話が持ち上がっているマンションだった。正確に言及するならば、そのマンションのエレベーター、である。
「異世界に行く方法とやらも、そこで試してみたいんです」
きらきらと輝く青空のような双眸に否やを唱えられる人間がいたならば、是非会ってみたいものだと思った。
曰く、そのエレベーターのあるマンションはそれなりに古いものである。随分前にも一度増築の話が持ち上がったらしく、その当時入居者の一人であったＡさんは、何気なく荷物を抱えエレベーターに乗ったそうだ。すると、見覚えのない五階へ行くためのボタンがあった。このマンションは当時三階建てである。Ａさんは興味本位でボタンを押す。
するとどうだろうか、エレベーターは動き始め、無事五階へ辿り着いた。Ａさんが外に出ると、外は既に五年経過しており、Ａさんが失踪していたその五年間の間に、マンションは増築されていた、という話である。
「もしかすると、私たちが乗った時も階数が増えてるかもしれません！」
だとしても是非とも増えた階のボタンを押さないでほしい。だらだらと溢れる冷や汗を軽く拭いながら、嫌な想像をして口元をひきつらせた。
所作も美しく万人に優しい良いところのご令嬢である彼女だが、お世辞にも貞淑とは言い難い。意外な元気と行動力をこの少女は持っているのだ。それを侮れば痛い目に遭う。
そのお転婆っぷりを諌め、また監視する役割を負った、自分たちよりも随分小さい従者（正しくはそのようなもの）が彼女にはいるのだが、その従者もいないとあっては、何かあればスレインが行動を抑えなければなるまい。
そんなスレインの心配を知ってか知らずか、少女は「昨日メモしてきたんですよ」と嬉しそうにエレベーターを使った異世界へ行く方法とやらを見せてきた。だが、まず一番最初の項目でスレインは眉を寄せる。
「……これには、一人でやらなければならないと書いてありますが……」
「ええ！ですから、私がちゃんと向こうに行ったかどうかあなたに確認してもらおうと思いまして」
「駄目です！」
間髪入れず入れた否定もどこ吹く風と言わんばかりに彼女は聞き流す。道すがら何度も説得して、最後にはスレインは使いたくなかった奥の手を使うことにした。
それは――――保護者への連絡、である。
「スレイン！それだけは、どうか、それだけは……！」
途端焦り始めた少女に、「でしたら、お一人での行動はおやめください」と要求を突きつける。少しだけ悔しそうな顔をするも、すぐさま表情と態度をしゅん、と萎んだものにしてごめんなさい、と彼女は謝罪を口にした。
彼女の実家はとても厳しい。次期跡継ぎは彼女だと、上に立つ者としての覚悟、自覚、立ち振る舞い、技術。必要なものを全て叩き込んだ。そんな彼女が、オカルトめいた実験を自ら行うともなれば師匠でもある彼女の祖父は怒りに眦を吊り上げることだろう。
スレインとてエレベーターが異世界に繋がるとは勿論考えていない。だが、単独行動の末に彼女の身に何か危険が迫ったりするなど、言語道断なのだ。一人の友人としてそんな不幸が彼女の身に降りかかるなど、スレインは決して許せなかった。
目的地のマンションに辿り着く。そびえ立つ五階建てのそれは、確かに少々古めかしい印象を抱いた。増築工事はとうに始まっているらしく、既に五階の屋上にはたくさんの網やら鉄柱やらが積み立てられていた。
中に入りエントランスを抜ける。警備員もいない、住人認識のセキュリティもない、ないない尽くしのひどい場所だ。今時の女性専用アパートなどのほうが、まだマシである。
エレベーターの前に来た少女は、下向きに尖った三角のボタンを押してうきうきとしていた。瞳は完全に夢見る乙女のそれだ。
何も起こるはずがないじゃないか。そう思いつつも、なんだかんだ彼女の提案に乗っかってしまっている自分がいた。そのことに苦笑しつつ、やってきたエレベーターに二人で乗り込む。後ろからは主婦が談笑しながらこちらへやってきていた。そういえば、と何気なく主婦を見ながらスレインは思う。あの都市伝説には確か、続きが――――。
「スレイン！」
嬉しそうな少女の声が飛びこんできて、そして視線をやった直後にスレインはぎょっとした。本来ならあり得ないはずの数字が、そこには三つ並んでいたのだ。
「六、七、八」と並ぶ番号を彼女はきらきらした瞳で見つめている。そこにはるのは純然たる好奇心だ。細い指が八階のボタンを押すのを止められなかったのと、主婦たちの会話が耳に飛び込んできたのは、ほぼ同時であった。
「そういえば聞いた？七階と八階の増築の話、なんだか無くなっちゃったらしいわよ」
「あら、そうなの？まあ、古いものねえ。だったら改修してもらった方がよっぽどいいわ」

「…………！」

殆ど反射だった。主婦たちの会話を脳みそが理解しきる前に、閉じかけていたエレベーターの扉を掌で無理に押さえ、右腕で華奢な背中を抱く。そのまま押し出すようにして、少女がエレベーターから弾きだされた。短い悲鳴と主婦の驚いた声。そのまま扉を押さえる左手を軸に己も出ようとした途端、通常、センサーが働き閉まるはずのないそれは、俄然勢いを増して指を圧迫した。思わず息を呑み、本能的な恐怖に手を引っ込めてしまう。
「スレイン！」
引き攣った声で少女が叫ぶ。こんなにも狼狽えた彼女の声を聞くのはいつぶりであろうか。じんじんと痛む指の関節だけがいやに鮮明だ。スレインは、情けなく笑うことしかできなかった。空を映した瞳が大きく見開かれた。すぐさま、扉は閉まってしまう。
それから。それから。そして？
「…………どうなるんだろう」
小さく呟いた声は、寝起きの為か掠れていた。むくりと寝床から起き上る。カーテンの隙間からは眩しくも淡い朝日がさしており、肌寒くなり始めた空気にぶるり、肩を震わせた。
手近にあった服を適当に身に着ける。簡素なシャツとジーンズは、履きなれたものだという自覚があるのに、何故か違和感ばかりが肌につく。寝起きの頭はそのことを深く考えず、ただ夢の内容をぼんやりと追っていた。もうほとんど朧げになってしまったが、エレベーターの都市伝説だけはよく覚えていた。
夢は記憶の整理だという。つまり、本人の知る知識しか中には出てこないのだ。スレインはどこかであの都市伝説を聞いたのだろう。どこだったか、とんと思い出せないが。
襖を開くと、洋風のリビングが出迎える。美味しそうな朝食の匂いに、自然腹が音を立てた。
「おはよう、スレイン」
「おはようございます……」
「どうやらまだ寝惚けてるようだね」
否定はできなかった。動きのにぶい頭の回転を、ただでさえ夢の方に割いているのだから、ある意味必然か。
「きょうはがっこうはいいんですか……」
「しっかり喋ろうか。出汁巻き卵とスクランブルエッグ、どっちがいい？」
「だしまきたまごで……」
「残念、今日はスクランブルエッグ」
あって無いような選択肢を与える少年の名を、界塚伊奈帆といった。現在スレインとルームシェアをしている少年で、確か彼はまだ高校生だったろう。今日はあのネクタイとスラックスを身に着けてはいないようだった。さて、今日は休日だっただろうか。スレインは、椅子に座りながらぼんやりと宙を見ていた。
「今日は平日だけど、祝日で休み」
スクランブルエッグを机に置きながら、部屋着のままの伊奈帆はそう言った。なるほど、と納得しつつ伊奈帆が椅子に座るのを待つ。そうして二人でいただきますと手をあわせ、フォークを握るのだ。
「買い物とかは？」
「今日はまだいいかな」
もう冷蔵庫の中は確認済みなのだろう。伊奈帆はよくできた少年だとスレインはいつも思う。高校生とは思えない思慮深さと要領の良さ、そして頭の回転だって随分抜きんでている。すごいと驚嘆すればこそ、うらやましいと感じないのは彼の人となりがなせるわざなのかもしれない。
買い物に行きましょうかと、スレインはぽつりと言う。毎回伊奈帆は「まだいいかな」と答える。きっとスレインが言うまでもなく、学校帰りにでも調達しているに違いない。
すごいなあなんて思いながら、柔らかい卵の感触に舌鼓を打ったとき、ふと、あの都市伝説の続きを思い出した。「あ」と思わず感嘆符が口をついてでる。
「どうしたの？」
そこで、今日見た夢の話をすることにした。彼が休みなら自分も休みなのだ、時間を気にすることはない。朝食にしてはゆったりしたペースで、皿の上の卵を減らしていく。
「ああ、その話なら僕も聞いたことがあるよ」
「そうなんですか？」
これはそんなに有名だったのか、と驚く。伊奈帆がオカルトに詳しいとは初耳だし、何より興味もなさそうだ。だとすれば、この話が有名だと判断するのが合理的だろう。
「うん。だってほら、あのマンションが噂の出どころだし」
言いながら彼は、ベランダの方を示した。視線をそちらに向ければ、古そうでいかにもな雰囲気を放つマンションがあった。そうだったのかとスレインは思わずじっとそちらを見てしまう。
「きみの夢はその都市伝説によく似てるね」
確かにそうだ。スレインは話の続きを思い出す。

数年後、Ａさんは友人を伴って再びあのエレベーターに乗る。次に現れた新しい階のボタンを面白がって押すも、突如人の話し声が聞こえる。曰く、建設の話は頓挫してしまったと。Ａさんは慌てて降りるも、友人は降り損ねた。

――――友人はそれ以来、姿を見せていないという。 
[newpage]
[chapter:ねごと]
最近どうも寝起きが悪い。スレインはもぞもぞと布団から起き上りながら、そんなことを思った。太陽は随分と上へ昇りきっているし、家の中に自分の外に住んでいるもう一人の少年の気配はない。
寝床から出て服を着替えるだけでもたいそう疲れていた。ぐっすりと眠っていた覚えもあるし、運動という運動もした覚えがないのだ。
「…………」
いや、そういえば、したかもしれない。ふっと記憶が鮮やかに蘇り、脳は勝手に昨日の夜のことをまざまざと思い出す。
下腹が疼痛に似た疼きを見せた。誰もいないというのに、スレインはあからさまに動揺して乱暴に頭を振る。思い出してしまえば、じれったい熱を抱えている腰や、少し視線を下せば見える赤い情事の痕に狼狽えてしまった。
激しかったな。くらくら、どことなく調子の狂っている脳裏で感想を零した。
縋るように腕を伸ばせば、応えるように大きさのさしてかわらない掌が自らのそれを包む。苛むような快感の波にさらわれそうになる思考を助長する口付けは、やけに熱く柔らかかった。肉杭が埋まる感触をありありと追って、あらぬ場所がきゅうと収縮するのが自覚できた。
「だっ……駄目だ駄目だっ」
無人の部屋の中、顔を真っ赤にして興奮を呼び覚ましている自分が無性に恥ずかしい。すべてを振り払うようにして薄い襖を開け放つ。案の定、机の上に一人分ある朝食だけが寂しくスレインを出迎える。今日の朝食は目玉焼きのようだった。冷めてはいるものの、ベーコンに寄り添う白身と黄身は目を楽しませつつ、実にいい焼き加減で静かに皿の上でかしこまっている。小皿に盛られているのはグリーンレタスのサラダのようだ。少々苦味があるものの、さっぱりしていて美味しい。途端胃袋が空腹を訴えたので、いそいそとスレインは遅い朝食の準備を始める。
勝手ながら食パンを拝借し、トースターを使って焼き上げる。待つ間並行してコーヒーを淹れ、テレビをつければもう昼時であった。主婦向けの芸能界で起きたスキャンダラスなニュースから、かつてあったドラマの再放送までなんでもござれだった。
暫くすると、トースターが小気味よい音を立てて出来上がりを知らせた。熱さを堪えながら別の皿に乗せ、あとは気分でジャムやらを乗せるだけである。もそもそと食パンを食べながら、スレインは丁度映った天気予報のニュースに集中することにした。同居人である伊奈帆が学校に行っていない間は彼が洗濯物を干したり、掃除などを行うのだ。窓の外を見る限り快晴だが、最近はどうも天気が変わりやすい。
それで以前洗濯物を駄目にしたことがあった。その日の夜はたいそう酷かった。苦々しいと同時に羞恥心を刺激する記憶である。
「…………なっ」
スレインはつらつらと思考があらぬ方向に行っていることに気付き、慌ててテレビに注目する。どうも朝から変な気分になってしまっているようだ。よくない、よくない。
綺麗に完食してしまったあとは、一人きりで「ご馳走様でした」と手を合わせた。朝、間に合いさえすれば伊奈帆がこの時「お粗末さまでした」と返してくれるのだが、間に合わなかったのだから仕方がない。自分の寝坊を少しだけ呪いながら、皿を洗うために立ち上がった。
洗剤を洗い流し、元通り綺麗になった皿を片付けた後に、スレインは洗濯機を回すべく脱衣所へ向かった。今日は無事晴れるらしかった。これで外れようものなら見る局を変えようとぼんやり思った。
電源を入れる前に、風呂の残り湯を大きなバケツで掬い、洗濯機の中に入れていく。水道代だってこの世の中ばかにならないのだと真剣な顔をして伊奈帆は言っていた。あの瞳は、確かに歴戦の主婦のものだった。空恐ろしいものすら感じた。
ある程度汲み終ったあとは洗剤と柔軟剤を入れ、スイッチを押す。ごうんごうんと音を立てるそれを少しだけ見守った後、次は掃除だな、と掃除機を取りに行く。
簡単に部屋を手当たり次第に綺麗にすれば、あとは洗濯機が止まるまですることはない。再びテレビを見るも、いつもいつも同じような内容ばかりだ。この家にはパソコンはないし、携帯もスレインは持っていない。
「…………あれ？」
ふと、疑問が舞い降りる。
「僕、なんで携帯持ってないんだっけ……」
それは、ああ、そうだ、確か外に行かないから。買う必要はないよねと伊奈帆が言ったのだ。では、何故外に出ないのだっただろうか。スレインは伊奈帆よりひとつ年上である。高校生である彼と同じく自分にも通学先があったような、そんな気がする。しかしそれを思い出そうとすれば、霞を掴むかのような頼りなさで記憶はするすると逃げていく。思い返せば返すほど、何か、自分の中の大事な所が抜け落ちていくような気さえした。
「…………あれ？」
視界がぐるぐると回るほど混乱し始めた所で、ぴーっという甲高い音が聞こえた。驚きに肩を跳ねさせながら、洗濯機のことを思い出したので慌ててそちらに向かった。脱水の終わったそれを籠に手当たり次第に放り込み、ベランダまで向かった。しゃらりしゃらり。最早日常と化した金属の音をスレインは意識することはない。足首に巻き付く、体温を吸った革の感触もまるで当たり前のことのように受け入れる。
ベランダまで来て、近くに置きっぱなしになっているハンガーや洗濯ばさみを手に取り、せっせと干していく。そのサンダルを履く白い足が三歩も踏み出せば、地上八階から彼は簡単に躍り出ることができるだろう。それを許さないのは、革製のベルトを通じて足首を縛る銀の鎖だった。
それはいつも伊奈帆とスレインが寝起きしている部屋の柱から始まり、玄関のドアノブをぎりぎり捻れる場所で終わる。絶妙に計算づくされたそれにより、スレインの行動範囲は、マンションの一角にのみ限定されていた。
鼻歌を歌いながら、手慣れた動作で洗濯物が干されていく。時折きまぐれに右足を揺らせば、それに合わせてしゃらしゃらと鎖が揺れ、澄んだ音を立てた。
今日することは大体終わってしまった。鎖を全く気にしないまま、リビングに戻った。またテレビをつける気になれず、かといってする事もなく。手持無沙汰のまま、視線を何気なく壁に這わせる。
そこでふと、視界に何かいつもは気にしないようなものが目に入った。写真のようだ。電話の横、それは壁に整然と三つほど並んでいた。
「…………？」
はて。こんなもの、今までここにあっただろうか。スレインは不思議な心持ちで写真に近付く。そこには幼い少年と、伊奈帆の通う高校の旧制服を纏った少女が写っていた。少女の姿はどことなく初々しく、恐らくこれが入学式のときに撮られたものであると察せられた。二人の後ろで、淡く色づいた桜が眩しく散っている。二人は顔のつくりと目元がどことなく似ていた。姉だろうか。
なんとなく、少年の仏頂面は伊奈帆のそれに思えた。何を考えているか判らない無表情は、幼いころから変わりないらしい。幼くまるい頬のラインと、服に着られている感のある正装は微笑ましい。
対して、シックなデザインのセーラー服を着る少女は嬉しそうに、快活に微笑んでいた。肩ほどまでの短さの髪は、うららかな春の日差しに柔らかく照らされ、やや屈みつつその両手は少年の肩に添えられている。仲睦まじい姿だ。
ほかの写真にも目を通す。次の写真は、少年はやや成長していた。中学生になったのだろう、黒い詰襟の学生服の袖が余っていた。隣に映る少女は軍規に従った正装をしており、それで彼女が国家特殊公務員になったことが判る。情景はやはり春だ。場所こそ違うものの、桜が咲き乱れている。
三つめの写真を見る。スレインのよく知る伊奈帆が写っていた。こうして三枚を比較すると、その成長がよく判る。三枚目にもやはり女性は写っており、少女から女性へと変化していく様子は目覚ましかった。肩までだった髪は次第に伸び、三枚目の軍服（というよりは制服だろうか）を着る彼女は、一枚目と変わらない快活さの中に、大人の凛々しさと堂々とした振る舞いを身に着けているように感じた。
スレインは伊奈帆から姉がいるという話は聞いたことがないが、それでも理解できる。この女性は、伊奈帆の姉なのだろう。そう思いつつ、小さな違和感を写真から感じ取った。
「…………両親がいない」
そうだ。こういうイベントの時、親は張り切って子供の姿を残そうとするものである。母が小さい時に死に、父とも早い段階で死別したスレインはそういうことに疎いが、それでもそういうものだとは知っている。一枚くらいは、四人、あるいは父母どちらかと写っている写真があってもおかしくないのに。
けれどもこれは、他人の、それも繊細なプライヴェートな部分だ。触れるのはよろしくない。そう思い写真から離れようとして、
「ひっ」
するりと脇腹を撫でられて、唐突な刺激に喉から引き攣った声が出た。一も二もなく振り返ると、いつの間に帰ってきたか。伊奈帆が無表情にそこにいた。
「お、おかえり、なさい」
「ただいま」
飄々と返されるも、ばくばくと驚きで早鐘を打つ心臓は止まりはしない。一体いつ帰ってきたんだと慄いていると、伊奈帆が「写真を見てたの？」とスレインに訊ねた。
「え、あ、はい……」
しどろもどろになりながら答える。ふうん、と頷く声は素っ気ないが、その後にぼそりと伊奈帆は呟いた。
「やっと内装に意識が向くようになったのか」
「え？」
どういう意味か判らず、思わず真意をねだるように疑問符が漏れた。しかし彼はそれを聞こえなかった為に聞き返そうとした、というものに見做したらしく、「なんでもない」としか言わない。
「……う、あ」
一体写真に何があるのか。少し気を抜いていると、同じ個所を焦れったい動きで掌が辿っていった。疼きがそこから広がって、いとも簡単にスレインはそちらに意識を引きずられてしまう。
「い、伊奈帆さん」
「ん？」
「ま、まだ、昼間、ですよね」
ちらりと空を見る。日の位置はまだまだ高く、空は青々としている。洗濯物がときおり風にそよめいて、揺れていた。
「そんなこと気にしなくてもいいよ」
「き、気にします」
こんな明るい中で身体を見られるなど、溜まったものではない。羞恥できっとスレインは死んでしまう。
だが、当の伊奈帆はスレインの要望を汲む気などさらさらないらしい。あやしく動く手に翻弄されて、ずるずると身体に力が入らなくなる。奥から湧き上がる熱を持て余しながら、微弱な抵抗すらも封じられる。気が付けば、カーペットの敷いてあるスペースまで誘導されてしまっていた。
薄い胸板を手が這う。乳首を抓まれてはびくりと震え、気を良くしたらしい伊奈帆はさらにその手でスレインを高めていく。どこもかしこも蕩けて、その度に甘ったるい悲鳴が真昼のリビングに響いていた。「んあ、あぁあ……！」一際高い嬌声を上げた所で、

「――――っ！」

目が覚めた。
視界にはいっぱいに夜の闇が広がっている。隣では同居人が呑気な声で「あ、起きた」と呟いていた。
なんだか頭が重たい。あー、やら、うーやら意味のない呻きを繰り返していると、「やっぱり噂は本当だったんだね」と伊奈帆が言った。なんのことです、とスレインは寝起きで掠れた声で問う。
「いや、きみ寝言が激しいからよく返事してたんだ。そしたら中々朝起きれなくなったみたいだね。寝言に返事したらいけないって話は本当だったんだ」
なんてことをしているのだ、この同居人は。思わず重い頭を軽く押さえて睨みつけると、「どんな夢見てたか教えてよ」とのたまった。
誰が教えるものかとスレインはふいと視線を逸らした。なんとなく気になって右の足元をさするも、革製のベルトなんてものはないし、ましてや鎖の音もしなかった。度々身体を重ねているのは現実なので、そちらには目を瞑る。
やっぱりあれは夢だったんだなあとスレインは思った。
伊奈帆が自分を鎖で繋ぐ理由なんてどこにもないのだ。枕元をさりげなく見るも携帯はないが、きっとリビングに置いてきたに違いない。深い青色のスマートフォンは、はっきり思い浮かべることができた。
「スレイン」
ねえ教えてよ。ふて寝の姿勢に入ったスレインの耳元で伊奈帆が囁く。本当は全部判っているのではないだろうか。彼の緋色の瞳を覗き込む度、そう思ってしまう。
「……もう僕の寝言に返事しないなら、いいですよ」
「そのつもりだったよ。飽きてきたし」
酷い言い分に追わず苦笑を零す。
伊奈帆と向き合うべく姿勢を変えた時に聞こえたしゃらりという音は、きっと、勘違いなのだ。スレインは左足を殊更意識する事無く、求められるままに唇を重ねた。

[newpage]
[chapter:夢追横町]

「え、っと」

瓦礫だった。
どこを見渡しても瓦礫。何かのドームだったのか、上を見上げるとぽっかり空いた円から青空がこちらを見渡している。膝丈までなみなみと満ちているのは、透明な水だった。きらきらと日光に反射して輝く度、薄暗い壁に波紋を作っては崩れ、作っては崩れを繰り返している。
ふと視線を横にやれば、どうやらこの瓦礫ばかりの廃墟は何層かに別れているらしく、大きな窪みを見つけた。丁度滝のように水がさらさらと流れ落ちていく。
なんとなく好奇心が疼き、小規模の滝から下を見下ろす。すると眼下に、二人の少年が見えた。一人は金色の髪、一人は黒髪だった、どちらかが怪我をしているのか、透明だった水はどす黒い赤色を与えられては揺蕩っていた。
なんとなく少年たちに既視感を感じて、スレインは一歩後退りした。誰なのかを知るのが怖かった、
黒髪の少年は身体にぴったり張り付くあまり見ないデザインの服装をしていた。フードのように覆い被さる白いヘルメットのような何かがずり落ちる。そこで、怪我をしていたのは黒髪の方なのだと初めて判った。
こちらからでは、金髪の方は後ろ頭しか見えない。対して黒髪の少年が顔を上げれば、ばっちり目が合ってしまうだろう。嫌だ。スレインは恐怖を感じた。嫌だ、いやだいやだいやだ！ぐわんぐわんと鳴り響く警鐘に対し、身体が上手く動いてくれない、
「…………こうもり、」
決して大きくはない、むしろ囁きとさして違わないはずの言葉は、まるで今直接耳朶に吹き掛けられたかのようによく聞こえた。足が竦む。少年がゆっくり、ゆっくりと顔を上げていく。ぽたた、と血が落ちる音がした。
息を呑む。
「い、なほ」
「オレンジ色」
金髪の少年の声とスレインの声が被さるのはほぼ同時だった。黒髪の少年は――――伊奈帆は、薄く微笑んですらいた。
冷たい水に身を浸して、頭と左目から血を流しながらも、彼は笑っていた。素人目から見ても判るあまりの出血量にそぐわない静かで穏やかな表情は、却って空恐ろしいものすら感じさせた。
金髪の少年が、鈍色の銃の照準をまっすぐに伊奈帆の頭に合わせた。やめろと叫ぼうとした声帯は、しゃっくりに似た息を吐き出すだけに終わる。銃を握る白手袋は所々血に染まっており、薄汚い。
うて。
薄い唇が確かにそう形を作る。果たしてスレインが全く動かなかった足を踏み出したのと、少年が引き金を引くのとではどちらが早かっただろうか。呆気ないほど乾いた音が無情にも瓦礫たちに反射して、次いで、ばしゃりと何かが水に叩き付けられる音が後を追った。
スレインの足はそれ以上踏み出せなかった。左腕をきつく掴まれる感触に、すべてを支配されてしまっていた。
「駄目だよスレイン」
左腕を引っ張られると、簡単に身体が後ろへ進む。ゆったりと背中から抱きしめられ、まるで拘束されているようだと思った。
暖かい。スレインの後ろにいるその人物からは確かな体温が感じられる。瞳を閉じる。
「っ、」
次に目を開けた時には、また、あの商店街の通りだった。伊奈帆がこちらを覗き込んでくる。
「帰ろうか」
「…………はい」
あれが伊奈帆の夢なのだろうか。程なくして通りを抜け、再び二人は手を繋ぐ。強い衝撃を受けたのか、思考が鈍い。夢にしては、やたらとリアリティがあった。
あの銃の手触りを、あの無感動な背中を、あの、震えない右手を。スレインは知っているのではないか。
どうしてあんな夢を見るんですかと聞けたならば楽だったかもしれない。けれど、それはできそうになかった。伊奈帆の手を握る力を少しだけ強める。血の巡りと確かな体温がじんわりと伝わり、スレインの掌を暖めた。今は、これで。これさえあれば何もいらないと、スレインは思った。

「戻れないからって連れ出したのは、失敗だったかなあ」
「？何か言いました？」
「ううん、何も」

[newpage]
[chapter:落ちる少女]

ぐらり。

いっそ呆気ないほど、まるで風に流されたのだと言わんばかりの軽さで――――少女二人は屋上から飛び降りた。
「――――あっ」
金髪の少女が黒髪の少女を引きずりながら落ちていた。
黒髪の少女が金髪の少女を前に押しやって落ちていた。
どちらとも取れるような、縺れ合う様子に似た落ち方だ。ひゅう、と重力に従い二人は落ちていく。髪が混ざり合いスカートがはためき、白い肌を晒している。時間にして数秒もなかったかもしれない。
それでも、スレインの瞳には、二人が互いの手首を赤い糸でぐるぐるに巻きつけていたのが鮮烈に写っていた。決して離れないという意思がありありと判る赤い糸は、手首から小指に繋がっていた。思わず零した感嘆符の、なんと空々しい響きか。遅れてやってくる戦慄き。
どしゃり。
水の入った麻袋を乱暴に地面に叩き付けたような音が聞こえた。頭に暫く残って消えないだろう、嫌な音だ。スレインの右手からは力が抜けて、皿の上にフォークが一回跳ねて転がった。金属質な落下音すら今は気にならない。
一番初めに思ったのは、救急車を呼ぶことだった。慌てて席を立ち、タイミングよく出掛ける準備を終えた伊奈帆に噛みつくように呼びかける。
「いっ、いなほさ、きゅ、きゅうきゅ、きゅ！」
「きゅ？いつ新種の動物になったのスレイン？」
新種の生物になったつもりはないが、そんな伊奈帆の言葉をスルーしてしまうくらいにはスレインは動揺していた。
「ひとが！落ちたんです！女の子が、二人！」
ようやっと絞り出せたまともな言葉だった。伊奈帆は、ああなんだそんなことか、とでも言いたげな表情を浮かべた。想像もしなかった反応だったので、スレインは今度は驚きすぎて二の句が継げなかった。
「その子たちの事なら気にしなくていいよ、至っていつも通りだ」
「し、心中がいつも通りってあなた……」
事実だよ、と素っ気なく伊奈帆が告げる。肩にひっかけた学生鞄から携帯を取り出して時間を確認すると、そろそろ出かける時間だったらしい。スレインに背を向けて、伊奈帆はさっさとその場を後にしてしまう。なんとなく納得がいかなかったが、それ以上言葉が出てこず、玄関まで何も言えずにスレインはついていく。
「女の子だからね。諦めにくいけど、絶望しやすいから」
よく判らない言葉だった。べランダの向こう側を覗く気にはなれない。革靴の爪先を鳴らして、彼がドアノブに手をかけた。
「それにしても、スレイン」
よく彼女たちが心中だって判ったね。
「…………え、」
「それじゃあ行ってきます」
いってらっしゃいと呆然とした声音で告げながら、スレインは自分の発想に驚いていた。確かに、そうだ。普通心中とは男女間において起こるものではなかっただろうか。どこからどう見ても二人は少女だった。舞い上がる長い髪、細く手折れそうな白い手首に巻き付いた赤い糸。舞い上がるスカートと、そこから伸びた男の足にはない柔らかさとしなやかさを持つ下肢。どこからどう見ても、少女だった。
扉の閉まる音はただ乾いていた。いつになく慌てた様子でスレインはベランダへ向かう。齧り付くようにして限界まで身体を出し、別棟を見遣った。
確かに生々しい音を立てて落ちたはずの二人の死体は、どこにも見当たらなかった。なんで、と呆然と呟くも、誰に聞いてもこの不可思議な現象の理由が判らないのはなんとなく察せられた。
なんとなく、余ったお茶が喉を通らない。スレインは勿体ないと嘆きながら、余ったお茶を流しに放り捨てた。のこり一口だったオムレツは、気合で喉に流し込む。
味がしなかった。

その日以降も少女は飛び降りた。繰り返される心中は毎日というわけではなく決まって週の初めのように思われた。少し違うところがあるとすれば、二人の飛び降りる場所が心無しか移動している気がするのだ。
そうだ、ちょうど、伊奈帆とスレインの住む部屋に迫っているような――――、
「…………！」
悪寒が背中を駆け抜けた。時計を見れば丁度『いつも』の時間帯である。伊奈帆はもう学校へ行ってしまった。あれを今日見てしまう訳にはいかない。かみ合わない歯の根を無理に押さえつけてベランダまで走った。十歩あるかないかだというのに、その数秒すらもどかしい。
はやくはやく。ぞわぞわと背筋を這う嫌な悪寒と予感を振り切るべく、カーテンに手をかける。柔らかい緑色をしたそれを引っ掴んで腕を引こうとした瞬間に。それは。
文字通り、落ちてきた。

「う、」

落ちていく二人は、お互いの手をきつく握り合っていた。決して離さぬという意思表示なのか、まるで入水心中でもするかのように、赤い糸をぐるぐるに両手首に巻きつけていた。それはやがて小指へと伸び、おぞましくもささやかに可愛らしく、蝶々結びになっていた。
こちらに背を向けていたのは金髪の少女だった。さして高くない位置でくくられたサイドテールは風圧に逆らわず、流麗な線を描いて舞う。向かいにいる黒髪の少女は、肩ごしにぼんやりとこちらを向いていた。今から死ぬとは全く思えない穏やかな無表情だ。
目が、合う。
違う、と思った。違う。少女は無表情などではない。優しげに眼を細めて、愛おしげに金髪の彼女の両手を握りしめている。白いカップに浮かぶ紅茶を思い起こされる緋色は、一瞬だけ、確かにスレインの目を捉えた。かすかに、わらう。
「――――あ、あ…………」
またあの音が聞こえた。今までよりも随分近い、生々しい結果を知らしめる音。カーテンを握りしめたまま、スレインはへたりこむ。かちかちと奥歯が音を立て、痙攣を起こしているように四肢は震えていた。口許を押さえて、ただ明るい空を必死で見上げた。たとえベランダで見えないとしても、今下を向くわけにはいかなかった。
怖かった。何度も死に続ける二人の少女が。その光景を何度も見ていることが。――――あの黒髪の少女の緋色が、伊奈帆のそれに見えたことが。
「う、あ」
意味のない言葉が喉から零れる。何故なのかはさっぱり判らなかったが、気付けば瞳からは涙が溢れていた。
何故だか無性に悲しかった。

以来、その時間帯が近付く前にスレインはカーテンを閉めるようになった。伊奈帆はそんな彼の行動を咎めるような様子はなく、いつも通りの時間になれば「行ってきます」と無表情に扉を開ける。
今日も、彼女たちは諦めないままに絶望しているだろう。どしゃりという、あの音が聞こえた気がした。

[newpage]
[chapter:？階]

「つかまえた」

声と、身体に回ってくる二本の両腕の感触は、ほぼ同時だった。ひぐ、と喉が悲鳴になりきれなかった呻きを零す。踊り場を通り過ぎ、ちょうど次の段へ足をかけたタイミングのことだった。引き倒されるように身体が傾ぎ、尻餅をつく。全身が熱く、じっとりと汗をかいていた。はー、はー、と荒い呼気は犬のようで、他人事のように耳によく響く。
二本の腕は背中からスレインを押さえつけていた。足は過度の負荷によって痙攣してまともに動きそうになかった。
一本は腹側へ、二本目の腕はそれとは違い、喉元へ。大きく上下する喉仏の近くを這う指の感触に鳥肌が立つ。伸ばされた指が、皮膚に少々食い込んでいた。その気になれば、風穴を開けられる。そのように錯覚してしまう。
「逃げないでよ」
急所を押えておきながら、乞うような、縋るような色を纏った言葉だった。何も言えない。上下する肩と、荒い呼吸と、早鐘を打つ心臓。世界中の音がこれだけになったのかと思うほどの、静寂。
コウモリ、ともう一度伊奈帆の声で少年が囁く。小さく頭を振る。粘ついた唾液が発声を邪魔したが、無理に嚥下することで口を開いた。頭が熱に浮かされたように重たく、熱い。
「あな、た……っは……だ、れです、か」
少年の身体が硬直するのを背中越しに悟る。
「……ぅ……伊奈帆さん、に、似てるけど、ちが、」
言外に、自分の知る人物でないと伝えたかったのだが、果たして通じているのか。ゆるゆると腕が離れていく。どうやらこちらから数歩距離を取ったらしく、背中がやけに涼しくなった。
振り向くことはできなくて、身体を脱力させたまま膝に額を押し付けた。ぜー、ぜー、ひゅう。冬の隙間風のような呼吸の合間に、少年が何かを呟く。
「……コウモリじゃない？ならどこの……八階か？」
僅かに聞き取れた部分を頭の中で反芻するも、考える余力などどこにもない。立てるだろうか。足に力を込める。痙攣は既に収まっていた。そのまま足を引き寄せ、起き上りやすい姿勢を取る。左手にふと意識を向ければ、血の気の失せた指で、それでも弁当とファイルを持っていた。そんな自分に苦笑する。
「いや、もう、いいや」
少年は何かを諦めたような調子で、独り言ちた。いやな予感がする。四肢に力を籠め、深く呼吸をして全身を落ち着かせようと努める。
「もう、君でもいいよ」
不穏な妥協の言葉に顔を上げ、後ろを振り返った。近くで見ると、ますます伊奈帆に似ていた。ただ何故だろうか。何かが圧倒的に、圧迫的なまでに違う。思い出せ。まっすぐに己に向けられるあらゆる感情を凝縮した、この白々しくも恐ろしい違和感の名を、思い出せ。
「――――あいしてる」
危機感が頂点に達した瞬間だった。転げ落ちるような姿勢になりつつ、スレインは足を動かす。針の様に尖る気配をありありと感じて突き動かされたかの如く駆け出した。
思い出した。思い出した思い出した。蜃気楼みたく揺らめいた不気味さを感じた理由を。この恐怖の対象の名を。

――――狂気、だ。

ゆるさないよ、と平坦な声が背中から追いかけてくる。足音は聞こえなかったが、幻聴は絶えずスレインを苛んだ。汗が目に入り視界はぼやけていた。焼けつくような全身を顧みずにただ逃げる。あの一つしか無い緋色が、まだ自分を見つめているような気がした。
止まることは許さない。動きの鈍い足を叱咤していくうち、朦朧としていく意識に身体がついていけなくなりはじめた。壁に左肩を預けてずるりと座り込みそうになったとき、後から肩を掴まれてそれどころではなくなった。焦燥に支配された意識と噛み合わない疲弊しきった足とで、スレインは余計混乱し、息を乱す。
「スレイン。落ち着いて」
いつものあの冷静な声が聞こえる。殆ど反射で、スレインは抵抗をやめていた。
「ゆっくり息吸って、吐いて。大きく呼吸するんだ」
知らず知らず強張り、詰めていた呼吸がゆっくり再開される。背中をさする掌の感触に無性に安堵した。恐怖はいつの間にか薄れており、いなほさん、とからからになった喉で彼の名前を呼ぶ。
「どうしたんだ」
汗まみれの顔をあげると、いつもの伊奈帆がそこにいた。眼帯もしていないし、雰囲気もいつものままだ。
「い、いなほさ……」
明るい黄土色のジャケットに縋りつく。恐怖と混乱で頭がおかしくなりそうだった。変なことが多すぎる。スレインはがたがたと震えの収まらない両手に力を込めた。ジャケットに皺がつくことを咎めもせず、伊奈帆はどうしたのと、殊更優しい雰囲気で再びスレインに問いかけた。
「わ、わすれものとどけようとして、おんなのこがふたりすれちがって、かいだんおりてものぼってもいけなくて、そ、したら……そしたらいなほさんだけどそうじゃないひとがいて、にげて、あの、それで、」
「うん。判った。大丈夫、何にも心配ないよ」
正面からスレインを安心するように抱きしめて、伊奈帆はひたすら大丈夫だと囁く。要領を得ない説明だったが、そんなことも今のスレインには理解できないまま、目の前の体温に縋ることしかできなかった。
伊奈帆暫くそのままでいたが、呼吸や脈拍が落ち着いたタイミングを見計らってスレインを立たせた。目を瞑って、と言い含めて彼はしっとり冷たい手を取って歩きはじめる。
「目を開けたら駄目だよ」
言いながら、伊奈帆はハンカチを取り出してスレインの両目に目隠しを施す。疲れ切っていて抵抗すらできないまま、手を引かれる。ぐらぐらと揺れる平衡感覚のせいで、足元すら覚束なかった。
「がんばって」と少年特有の声変りを終えたばかりの声が叱咤激励する。
やがて扉が開く音が聞こえた。左足を這うこの手の感触は、一体何を意味しているのだろう。そんなことを思うも、瞼が閉じる誘惑には逆らえない。
「…………忘れ物を届けてくれるのはうれしいけど。部屋から出ていけるとは思ってなかった」
頬に冷たい床の感触が伝わる。あまりに心地よくて、スレインは立ち上がることができなかった。くしゃりと己の頭を撫でてくる掌がたまらない。もっととねだるように擦り寄ると苦笑する気配が伝わってきた。頭から手が離れたのと殆ど同時、左足首に何かが巻き付く感触。
「おやすみ」
その声に逆らうことはしなかった。

[newpage]
[chapter:帰らない駅]

がたん、ごと、ん。

電車の揺れる音でスレインは眼を覚ます。眼下に広がった自分の服装はあの見慣れた黄土色の制服で、外は既に真っ暗になっていた。いけない、このままでは叱られてしまうと顔を青ざめさせる。
そういえばここはどこなのだろう。足元からはぶおおおという暖房の音が響き膝裏から下を淡々と温めている。自分以外の乗客はとっくに降りたのかどこにもいなくなっていた。
外へ目を凝らすと辛うじて風景が見えたが、見覚えのない田舎のものだった。離れて立ち並ぶ民家はどれも一軒家で、寒々しい様相を呈する枯れた木々たちがさざめいていた。
無機質な蛍光灯が揺れる車内を感情無く照らしている。車内は暖かいというのにどことなく寒々しい印象すら抱いた。
路線図は無いかと上を見渡すも、広告すらぶら下がっていなかった。こんな殺風景な電車があっただろうか。胸中に広がる不安が明確な形を作っていく。ごくり、と喉が緊張で溢れた唾液を嚥下した。
『つぎは、――――駅、――――駅です。お降りの客様は、お忘れ物のないよう、お気を付けください』
「え？」
駅名が全く聞き取れず、スレインはしっかり聞き取ろうともう一度耳を澄ます。けれど放送がもう流れることはなく、一定のペースで電車はそのまま走り続けた。ここはどこなんだろう。きょろきょろと意味もなく視線を彷徨わせるも、先程確認した通り手がかりになりそうなものはなかった。
慌てて運転席の方へ行こうと腰を浮かす。進行方向へ向かえば確かに操舵している人影はある。よかった、これでこの電車がどこで止まるか判る、と安心してスレインは仕切りの薄いガラス戸を叩いた。
「あの、すみません」
「…………」
車掌は反応する様子を見せない。
「……この電車、どこへ向かっているんですか？」
「…………」
「……すみません！」
またしても反応がない。聞こえていないのかと思い、仕切りを先程より強く叩くも変化がなかった。無視されているとか、そういう次元ではない気がしてきたので大人しく諦めることにする。いざ電車が止まれば判ることだ。そう考えて、この不安と焦燥をスレインは誤魔化すことにした。
がたん、ごとん。電車は変わらず走り続けている。外の景色は暗いままで、果たして今は何時なのだろうかとスレインは携帯を取り出した。
「――――え」
時刻よりも真っ先に目についた異常に息が詰まる。アンテナが立っていないのだ。
「圏外……？」
昨今、携帯の電波が入らない場所はそうそうないはずだ。いよいよこの電車がどこを走っているのか判らず、無意識のうちスレインは鞄を手繰り寄せた。
電話も駄目、メールも駄目、ＳＮＳ系のアプリも駄目、そしてインターネットにも繋がらないときた。外部との繋がりを感じさせてくれていた携帯が、今まさにただのがらくたと化したのだ。不安がじわじわと恐怖へ変化していく。電車の振動と音以外何も存在していなかった。
やがて、電車が減速していく。身体が引っ張られる慣れた感覚に、スレインは咄嗟に近くにあった手摺に掴まった。兎にも角にも車内にいることが恐ろしく、止まった途端に荷物を抱えて外へ飛び出した。冷えた空気が頬を撫でさすり、ぴりぴりとした刺激を与えてくる。
「……無人駅？」
がらんとしている駅のホームには、簡素な天井と照明、そしてベンチが寂しく鎮座しているのみだった。ひらがなで記載されているらしい駅名を見るが、劣化が酷く読み取れない。
スレインは首を傾げた。はたしてこのような駅などあっただろうか。少なくとも、彼の記憶の中には周辺に無人駅などなかった。そうなると、余程遠くまで来てしまったか。
近くに人はいないかと首を巡らせていると、ぷしゅーっという聞きなれた音が響く。驚いて振り返れば、電車の扉は既に閉まっていた。やってしまった！スレインは慌てて駆け寄るも、時すでに遅し。電車は無情にも走り出してしまった。
慌てて再び携帯の画面を見るも、結果は変わらず圏外のままだ。携帯をもとの位置に戻しながら、判りやすく前途多難な状況にがくりと両肩を落とした。どうやって帰れというのだろう。タクシーを拾おうにも、駅のホームは意外に広いうえに照明は頼りない。暗闇で満ちたその先へ行くことを、本能的な恐怖が躊躇っていた。
「…………駅員さんとか、いないのかな」
まだ無人駅だと決まったわけではない。スレインはベンチから見渡せる範囲で目を凝らした。自分から見て右手にはまだホームがあるらしく、まばらな明りが見て取れた。だが改札口らしきものはない。反対の左側は何故か真っ暗である。
――――こちらに来てくれるな、と言わんばかりに。
「…………」
家に帰りたいという欲求と、ささやかな不安の中確かに生じた好奇心が胸元をくすぐった。唾液を飲み込む音がいやに大きく聞こえ、鞄を握る手の力が強くなる。
果たして、この向こうにはなにがあるというのか。単純に照明の寿命が切れただけで、こちら側にこそ改札口があるのではないか。
スレインは先程戻したばかりの携帯を再び取り出し、照明用のアプリを起動した。充電が切れては困るので、なるべく消費が抑えられるようにしてから、操作する。すると、ぱっと携帯から明りが灯る。足元に照らすと、充分な範囲を照らしてくれていた。
一歩。踏み出す。明りで異常がないことはすぐに判るというのに、何故かそちらへ行くにつれて肌が粟立ち今にも逃げ出したくなる気分になった。何もないのに。スレインは恐怖よりも先に戸惑いが先立つのを感じた。鞄を握りしめる掌は、じっとりと冷や汗で濡れていた。
革靴がコンクリートを叩く、呆気ない音ばかりが駅には響いていた。
足元を慎重に携帯の明りで照らしながら、そろりそろりと先を行く。それでもこの革靴は余計な足音を立てるので、その度スレインは意味もなく周囲を伺った。
もう、どのくらい歩いただろう。感覚的にはそれなりの距離を歩んだ気もするが、それはこの怯えきった精神がそう思わせているだけで、実際はさほど歩いていないのかもしれない。後ろを振り返ると、先程まで自分がいたベンチとその明りは随分小さくなっていて、息を呑んだ。もう後戻りはできない。そう感じるのに充分すぎる距離だった。
夜だというのに月はない。点滅する心許ない明りはあれど、心強いのは携帯のそれだけだ。出口は。出口は、どこだ。
星がちかちかと瞬くのが視認できるほどの闇。それは近くに街がないことを示していた。自分一人が世界に取り残されたのか、それとも全く異なる場所に来てしまったとでもいうのか。たった一人、誰もいない上に電車も来る気配がない。
言い知れない不安が体温を下げている。あれだけ慎重に歩みを進めていたというのに、気付けばスレインは走り出していた。はっ、はっ、は。荒い呼吸が耳鳴りのする静寂の中で唯一の物音にも思えた。
やがて明りが見えた。人の気配は変わらずないが、助かったと根拠もなく感じてスレインは一目散にそこへ向かう。ただの駅のホームと変わりない様子だった。照明はきちんとついていて、改札口と時刻表を掲載した掲示板があった。
明りの元へ入って、息も荒いままベンチへ力なく座り込んだ。走ったせいか、寒気がするほど冷たかった身体は暑いと感じるほど温まっている。
呼吸が落ち着いた頃に時刻表を見よう。そう思って確認しそびれていた時刻を携帯で見ようと照明を消した直後。
「おい」
「――――うわああああ！？」
文字通り飛び上がる思いでスレインは悲鳴を上げた。勢いよく後ろを振り返ると、うるさいとでも言わんばかりに顔を顰めた男が立っていた。三十代ほどだろうか、艶やかな金髪と冷めた色を湛えた青の瞳の印象的な美丈夫である。落ち着いた臙脂色の服は、色こそあまり見ないものの駅員のそれとよく似たデザインをしていた。頭上に乗った同色の帽子を見るが、その帽章は見たことがないものだった。
「貴様、どこから来た」
「へ？いや、あの、普通に電車で来ました、けど……？」
男は何とも言えない顔をして、「そんなはずは」「どこかでダイヤが狂ったか」とぶつぶつ呟いていた。駅員にしてはふてぶてしい男だ。体躯の良さと身長の高さも相まって、スレインは少しばかり怯えた。
「……まあ、なんにせよ、降りれて僥倖だったな。あのまま進めば戻ってこれない所だった」
さらりとスレインにとってとんでもない事を告げつつ、男はごそごそと肩から下げていた黒い革に金の留め具があしらってある大きながま口の鞄をごそごそとまさぐった。
中から出てきたのは切符だった。数種類のそれをかざしスレインをよく見る男は、今度は見る見るうちに嫌悪に表情を彩らせて低く唸った。スレインは機嫌が急降下する男に、びくびくと様子を伺う事しかできない。
「……貴様、時間をどこに置いてきた」
「じ、時間？」
「そうだ。……いやこれは、何者かが奪っていったのか？」
なんにせよ、貴様のように自分の時間を持たん下郎を私は好かない。そんな一方的なことを不機嫌そうに言われても、スレインにはとんと見当がつかない。
「じ、時間ってなんですか……？」
「言葉のままだ下郎め。お前に乗っかっているその頭は飾り物か何かか。貴様の過ごすはずだった時間が何者かに譲渡されている状態なのだ。見ろ、その携帯。時間が無いから電波も入らない。それが奪われたのかはたまた渡したのかはどうでもいいが、なんてことだ。切符が切れないではないか」
電波だ。この人、電波だ。言っている意味がさっぱり理解できず、その上おかしなことまで言われたのでスレインは戦慄する。質問に答える気が更々ないのだろう、事情が理解できていることが前提の話口である。
「おい、貴様。どこへ帰りたいか言え」
「え、どこって、」
「時間がないから切符が切れんのだ、もうお前の口から直接行先を聞くしかあるまい。なにも住所だけではない、個人の名や地名だけであっても切符は切れるぞ」
はやくしろ、と男が急かす。どこへ帰りたいかというのは、また曖昧な話だ。スレインは家を思い浮かべる。平屋でそれなりに広い一人きりの家を。家主が帰ってこなくなってもうずいぶん経つが、それを寂しいと感じたことはあまりない。
ただ、帰りたい場所か、と問われると。それは。
「帰る場所……？」
そんなものは、本当にあるのか？
急に黙りこくってしまったスレインに余計神経を逆撫でされたらしく、男は苛々とした様子を隠さず革靴の爪先でこつこつとコンクリートを叩き始めた。等間隔の音は、まだ電車の中にいるような気分にさせた。帰る場所。帰る、場所。
「っ！」
考え込んでいると、ふと、手の中の携帯が急な振動を知らせた。びくりと肩を弾ませると男も着信に気付いたらしく、「なに？」と柳眉を逆立て剣呑な表情になる。
「も、もしもし」
圏外だったのに、と訝しみながらもスレインは電話を取る。着信が途切れるのには間に合ったものの、向こうからはノイズしか聞こえない。耳から離して画面を見ると、アンテナが一本だけ立っていた。
画面は未だ通話状態のままになっている。スレインは、文字化けしている電話をかけてきた相手の名前をなぞる。この文字化けしている名前を、自分は知っているような、知らないような、不思議な気分だ。
「どうする」
男が再び問いかけた。
「……この電話をかけてきた人のところへお願いします」
「何故？そ奴が人間であるという保証はどこにもないぞ」
「別に、それでも構いません」
ノイズの向こうからは微かに声が聞こえる。声と辛うじて判るだけのそれは、男か女かもはっきりしない。この画面の向こうで怪物がぽっかりと口を開けていようとスレインは構わないと思えた。そんな予感はしなかったし、何より無性にこの電話の主に会いたくなったのだ。
「……後悔しても知らんぞ」
鼻を短く鳴らして男が呟くように言った。青い両目に浮かぶのは、軽蔑と嫌悪、そして僅かに滲んだ憐憫だった。
どうしてこの人がそんな目で僕を見るのだろう。どうにも居心地が悪くなり、スレインは瞳を逸らす。
ぱきん、と音がした。切られた切符がずずいと差し出されたので無言で受け取る。その切符も文字化けしていて、全く読めなかった。ただなんとなくあの電話の主に繋がっているのだな、と直感した。通話が切れて、深い青色をしたスマートフォンは先程と同じくただのがらくたに戻る。
「このまま駅のホームで待て。次にやってくる電車に乗り込めば希望の場所へ辿り着くだろう」
「ありがとう、ございます」
「仕事だ」
男はどこか言い辛そうな、何か言いたげな雰囲気を纏っていたが程なくそれは霧散した。くるりとスレインに背中を向けて、ため息交じりにしてようやく彼は唇を動かした。
「……自ら縛られに行くとは、愚かにも程がある」
かんかんかん。踏切がけたたましい警告音を叫んで赤く瞬いた。電車がやってくると判る二つの目に似たライトが迫ってきていた。切符を落とさないように握りこんで、スレインは少し首を伸ばしてそちらを見る。電車は速度を落としながら確実にこちらへやってきていた。
止まった電車はたったの二両編成だった。それでも客は見当たらず、広告もない。嫌な合致だ。
「もう来るなよ」
開いた扉の向こうのスレインに向かって、男がそう投げかける。思わず苦笑を浮かべて頷いた。むしろ頼まれたって、こんな場所にはもう二度と来るつもりはない。
扉が閉まるころには男はもう背を向けていた。何気なく暗いままの風景を見遣ったまま窓の外をぼんやり眺める。電車はゆっくりと、滑るように走り出した。
「――――あ」
駅の隅の隅、艶やかな金色を見留めて思わず声が漏れる。先程の男とは違う、もっと艶やかで長い、女性のものだった。
――――女性はこちらを見ている。あっという間に遠ざかる景色の中、何故か白い姿が酷く懐かしく感じる。
けれどもう届くことは無い。電車は夜闇を切り裂くように進むが、通り抜けた後は再び闇が夜と結託して道を閉ざしていく。スレインは窓から景色を見ることをやめて、大人しく椅子に座りなおした。暖房が腿と膝裏を暖めていく。
トンネルにでも入ったか、やたらと周囲に圧迫感が生まれた。季節外れの、祭囃子の音が聞こえる。賑やかで、楽しそうで、禍々しくて――――寂しそうで。そんな音の間を、電車は縫うように通り過ぎていく。
携帯を握る。一度だけかかってきた番号は受信記録には無く、あの意味の伝わらない文字化けは記憶だけのものとなっていた。
指先が、アンテナの一本だけ立った画面を撫でる。
「もうすぐつきますから」
言い聞かせるように携帯へ向かって独り言を零す。
待ってる、とでも言いたげに一瞬だけ携帯が着信を告げた。

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