星空文庫
囚われのワンダーランド
砂東 塩 作
〈一〉吹雪のチロル
「――ユウジさん、自己破産したんだって」
カナが唐突にそう言った。
「熱っ……!」
ポットの注ぎ口から、小人の砂場のようなコーヒーの粉に着地していたお湯が、その軌道を狂わせて左手の甲に落ちる。無意識にうごいた左手がコーヒーサーバーをはね飛ばした。ステンレス製の作業台のうえに茶色い水たまりが広がっていく。
「大丈夫? 美鳥さん」
窓際のカウンター席に座っていたカナは、立ちあがってこちらに首を伸ばす。心配そうに眉でもひそめているのだろうけど、それを伺う余裕はなかった。
「あー、へいき、平気。いいよ座ってて」
薄っぺらの業務用タオルを、足元の棚から二枚取り出し、水たまりが広がるのを食い止めた。使い古してすこし黄ばんでいたタオルが、じわじわと茶色く染まっていく。サーバーは、割れなかった。ドリッパーからはまだポタポタとコーヒーが滴りおちて、誰に飲まれることもなくタオルに吸い込まれていく。
「あー、あー。ぴぃちゃんは相変わらずだなあ」
困ったような、からかうような笑みを浮かべながら、カナはキッチンの中をのぞき込んだ。オープンキッチンの小さなカフェ。ひょいと身をのりだせば、すぐに私の手元が見える。
「痕、残っちゃうから、ちゃんと冷やさないとだめだよ」
「わかってるよ。年下のくせに上から目線、やめてよね。カナチャン」
口をへの字に曲げて、ふん、と鼻をならした。
「『カナチャン』はやめってって、言ってるよね。俺」
「じゃあ、そっちも『ぴぃちゃん』をやめなさい」
カナは大げさに「はぁあ」とため息をついて、肩を落とす。四つも年下のくせに、本当に生意気に育ったものだ。
昔はもっとかわいげが、――あっただろうか?
中身はともかく、見た目はもっとかわいかった。小柄でぷっくりした体に、リスのような愛嬌のある子ども。ニコニコと笑って、ぷりぷりと怒って、表情がくるくると変わる、感情表現の豊かな子だった。
近所に住んでいたカナは、雛鳥のように私のあとをついてまわった。私は「美鳥」という名前のせいか、ぐるぐると巻いた強いくせっ毛が鳥の巣にみえるからか、家族からも近所のおじさんおばさんからも『ぴぃちゃん』と呼ばれて、カナも当然のように
「ぴぃちゃん」
と呼んだ。
いや、最初の頃は「ぴぃたん」だったかもしれない。日本語がまともに発音できない頃から、私はカナを知っている。ニコニコと無邪気な笑みをうかべながらついてまわる雛鳥が、小さい頃は放っておけなかった。
そんなメルヘンチックな時代は成長とともに終わりを告げて、私が中学を卒業する頃には「美鳥さん」になっていた。私が中学に入ったあたりからは、ほとんど顔を合わせることもなかったし、その頃カナの家はなんだか大変そうで、一緒に遊ぶことはもちろん、話をすることもなくなっていた。
それでもたまに通学路で出会うと、自転車で通り過ぎる私に「いってらっしゃい」と笑顔で手を振った。その笑顔から次第に子どもらしさが抜けていき、百面相のようだった表情も、ニコニコとした無邪気な笑いも、知らないうちにヘラヘラと張り付いたような愛想笑いに変わっていた。
カナは小学校の卒業式が終わった翌日に、両親と一緒にウチに挨拶に来た。
「引っ越すけど、どこかでまた会うかもしれないから。またね、美鳥」
ヘラヘラと笑ってそう言った。
感情を押し殺したようなカナの笑顔になぜか見とれてしまって、呼び捨てにされたのに気づいたのは、彼らが立ち去ったあとだった。
カナに再会したのは、ほんの数ヶ月前だ。引っ越したといっても同じ市内で、車でも二十分あれば行ける距離だったのだけれど、中学は学区がちがったし、そもそも四歳はなれれば同時期に通うこともない。結局、それ以来まったく顔をあわせないまま私は県外の大学に進学した。
四年前こっちに帰ってきて、もうその頃にはカナのことなんかすっかり忘れていた。忘れていても良かったのだけれど、何の因果かまたこうして言葉を交わしている。
「じゃあ、『美鳥』って呼んでもいい?」
ヘラヘラでも、ニコニコでもない。感情を抑えるでも垂れ流すでもない。蛇口をひねって水量を調節するように、いい塩梅の親しみという感情を込めて、カナが笑う。
大人になったと思う。――当たり前か。私も、もう三十二、じきに三になる。
「奏、ハウス」
カナの本当の名前で呼ぶ。カナは「わん」と答えて、キッチンを出たところにある予備の椅子に腰をおろした。わん、なんて可愛い声を出しても童顔のリス顔の下にはしっかりと筋肉のついた上腕が二本くっついている。見たことはないけれど、カナの自慢らしい。ダボッとしたアーガイル柄のカーディガンで、中身の形状はあいまいだ。
「冗談だよ、美鳥さん」
カナはそう言いながらチラリと壁に掛かった時計を見た。午後四時前。そうだ、まだ注文されたコーヒーを出していない。
「ごめんね、カナ。時間まだある?」
「うーん、微妙。だけど、今日予約キャンセルになったから、多少なら遅れても平気」
だからコーヒー淹れて、と私が置きっぱなしにしていたサンドイッチのレシピ本を手にとってパラパラとながめる。そうやって、沈黙で私の手を作業へと促す。
ハリオのドリッパーに専用のペーパーフィルターをセットし、大きめの家庭用冷蔵庫からコーヒー豆の入ったキャニスターを取りだす。すでに挽かれて粉になった状態のコーヒー豆を、メジャースプーンでドリッパーに入れた。
不意にカナが顔を上げてこっちを見る。
「美鳥さんさあ、自分のとこで豆挽いたりしないの? さすがに焙煎しろとは言わないけど」
ズキ、と胸に刺さる。分かってはいる。自分が行きつけにしている店は、そういう店だ。いくら保存をしっかりしていても、メーカーの包装技術が進歩しても、挽きたての豆に敵うわけがない。
「……無理。今日みたいに大雪でガラガラだったら挽いてる余裕もあるけど、一人でランチしながら豆挽いて淹れるなんて、落ち着いてできない」
窓は結露していて、外の様子はぼんやりとしか見えない。それでも雪片とは言えないような雪の大群が上下左右に不規則に動いているのがみえた。まるで鰯の群れのようだ。
「カナのところは、コーヒーどうしてるの?」
「ウチ? うちは指一本。ピッと押せば出てくるやつ。豆は美鳥さんの使ってるのより深めのロースト。仕入れてるのってあそこでしょ」
カナはそう言って、某大手メーカーの名前を口にした。
「なんで知ってるの、カナ」
「なんで知ってるの、かな?」
茶化すようにケタケタと笑った。私はカナから本を取りあげて、ソーサーにのせたコーヒーを直接手渡す。カップを持ち上げたカナは、湯気を吸い込むようにスーっと鼻で息を吸った。そして、ため息のように大きく息を吐き出す。
「美味しいよねえ」
ひと口飲んでからそう言った。
「ちゃんと挽けって、文句言ってたのに。それで満足しちゃうの?」
「さすが大手メーカーさんの技術は違うよね、なんて。担当者一緒なの、知らなかった? バードネストの豆、ウチが卸してるんだってその人が教えてくれた」
バードネスト――『birdーnest』
それがこの店の名前だった。本巣 美鳥、それが私の本名。鳥の巣のようなモジャモジャの頭、さらに名前に「巣」と「鳥」となれば、もうこれしか名前が思い浮かばなかった。もちろんモジャモジャの髪は放置しているわけではない。長く伸ばして、オールバックで後ろにくくり、頭のてっぺんあたりでくるりとまとめている。自分で店を始めてから、できるだけ髪が落ちない髪型を追求していたら最終的にこうなった。
「情報漏洩」
ポツリと独り言で文句を言う。
「たいした情報じゃないよ。あそこの配送車が店の前に停まってたらすぐ分かるんだから」
そう言ってカナがクスクスと肩を揺らす。コーヒーがゆらゆらと揺れている。ああいうのは情報収集に使うの、と少し小馬鹿にした顔でこっちを見た。
カナは、ここから歩いて三分ほどの場所にあるカフェで働いている。少し前に勤務場所が移動になって、そのカフェで働くようになった。私がカナと再会したのはそのあとだ。
カナの店はカフェといってもそこそこお値段のはるカジュアルフレンチで、正直、三十を超えた私でも行くのには気合がいるような店だった。
――そう、だった。今年の年明けに、まずランチの値段がぐんと下がった。イタリアンよりの、とっつきやすいメニューになった。それに加えて、カナが今日持ってきたフライヤーには三月下旬よりメニュー大幅リニューアル、とある。ディナーのコースが二千円台から。ずいぶん思い切って価格帯を下げたものだと、他人の店ながら衝撃を受け、大胆な方針変換には尊敬するものの、やっぱり価格競争なのかとガッカリもした。
すこし多めに落としたコーヒーの残りを自分用のカップに入れて、冷蔵庫の脇にしまってあった折りたたみ椅子を取りだす。背もたれのない、丸い座面だけの安っぽい椅子。ふぅ、とため息をついて腰をおろすとギシリと音をたてた。
「ここも暇そうだね」と、カナは自嘲のような笑いを浮かべる。そして、窓の外に目を向けて、ため息をついた。
「美鳥さん、今日何時まであけるの? ここ」
激しく降りつづく雪はやみそうになかった。
二月の終わり、今シーズン最後のあがきとばかりに今朝方からチラチラと舞い降りはじめた雪は昼前に吹雪となり、ネットニュースを確認すると大雪注意報が発令されていた。 開店時間の十一時半には横なぐりの風がドアに吹きつけ、いつもは外に出しているメニューボードもおとなしく店内にしまった。
「いつも通り、七時半オーダーストップ、八時閉店」
「本気で言ってるの? 今日、何人お客さん来たの」
カナが呆れた顔で私をまじまじと見る。
「カナ入れて、……三人、だけど? もしかしたら誰か来るかもしれないし。こんな大雪の日にわざわざ来て、閉まってたなんて悪いでしょ」
きっと誰も来ないんだろうけど、そう思っていても実際に閉めるとなると不安になる。お客さんが来る可能性はゼロじゃないし、それでなくても、ここ一年左前になりつつある売上を考えると、どうしても開けられる時間ギリギリまで開けてしまう。
ユウジみたいなことになるのは、絶対に嫌だった。
「美鳥さん今日、歩きじゃないの? 遭難しちゃうよ、街中で」早く帰りなって、と心配そうにカナが眉をひそめる。
普段なら、家から自転車で十分もかからない。仕入れだけ午前中に車ですませて一旦家に帰り、そのあと自転車か歩きで店に出る。歩いても二十分少々の距離だから、わざわざ店の近くに駐車場を借りようなんて気にはならなかった。少し路地に入ったところにあるから目立ちにくい場所とはいえ、駅まで五分もかからないので、駐車場は市内でも高値の立地だ。
「じゃあ、カナが送ってよ。車でしょ」
絶対ムリだと分かっているし、そんな必要はないのだけれど、ついからかいたくなる。 カナが困り果てたような顔で「ええ」と頭をかくので、おかしくてつい笑ってしまった。
「なに笑ってるの? 心配してるのに。送ってもいいけど、俺の終わる時間知ってるでしょ。雪で早く閉めるかもしれないけど、早くても十一時くらいだよ」
カナは少し怒ったように頬を膨らませて、そのリス顔に、また私の口から「あはは」と笑いがこぼれ出た。もう、知らないよ、とカナがそっぽを向く。
「うそウソ。ごめんね。今日帰れないと困るから、車で来たんだ」
「なんだよ」と、たいして責める風でもなく、ちろりとカナが私をにらむ。そのくせ、あからさまに安心したような顔をしている。カナのこんな顔が見たくて、つい構ってしまうのかもしれない。
「美鳥さん。車どこに停めたの? 駐車場借りてないでしょ」
そう言ってからカナはクイッとカップをかたむけてコーヒーを飲み干した。
「駅南パーキングの立駐。あそこなら雪積もっても平気だし、二十四時間以内なら最大千円だから」
「そっか、なら大丈夫だね。もしかしたら俺の方が大変かも。雪で車出せなくなってたら面倒だなあ」
カナは「ごちそうさま」と、手を伸ばして空になったカップをキッチンの作業台に置いた。それから立ちあがってコートをはおる。
「そろそろ戻る?」
「うん。予約ゼロになったとはいえ、いちおう店は開けるわけだから。ボウズにならないといいけど」
カナが窓の方へ歩くいて行くと、築何年かも分からない古びた床がギシギシと音をたてた。
「積もってる?」
そう聞くと、手のひらで窓の曇りをさっと払って「そうでもないかも」とこっちを振り返った。
良かった。車で来ているとはいえ、あまりに積もっているようだと帰っても車が停められない。夜中にひとりで雪かきをするのは、できるなら勘弁したい。
家には還暦間近の母がひとり。年末に腰を痛めてから冬の寒さが辛いらしく、普段は忙しなく動き回っている彼女が、今はずっとコルセットをつけっぱなしでコタツにあたっている。、そんな母に雪かきをさせるわけにもいかない。
キッチンから出て、カナの隣で同じように窓の結露を拭った。手のひらからヒヤリと外の冷気が伝わってくる。小さなのぞき窓のようなその視界から外の様子をうかがうと、カナの言ったとおり、思ったほどは積もっていなかった。せいぜい十センチくらいだろうか。それでも店を開けたときには地面のアスファルトが見えていたのだから、ずいぶん積もったといえるのかもしれない。
私はカナが座って出しっぱなしになっていたカウンターチェアに腰をおろし、頬杖をついて外をながめた。
いくら自分の好みに店の中を作り上げても、こんな風にお客さんとしてぼんやりすることなんてできない。誰もコーヒーを淹れてはくれないし、汚れたカップを片付けてもくれはしない。そんな不毛なことを考えている私の隣で、カナは立ったままコートのポケットからスマホを取りだして何か検索し、あ、よかった、とつぶやく。
「何?」
そう言って首をかしげると、見上げた私の上から覆いかぶさるようにして、カナはスマホの画面を差し出した。目の前に迫るカナの顔に、私は慌てて椅子を引いて立ちあがる。
「あ、ごめん。近すぎた?」
カナはそう言って、私から遠ざかるようにカウンターに背を預ける。
「ううん。……光の加減で、ちょっと見にくかっただけ」
私は取り繕うように言って、カナが印籠のように私に向けているスマホの画面に顔を近付けた。『大雪注意報は解除されました』の文字。私がそれを確認すると、カナはふたたび画面を操作しはじめた。
「九時ごろには雪やむみたいだよ。日付が変わったら星マークでてるから、もう大丈夫じゃないかな」
カナはスマホをポケットにしまうと、そのポケットから出した手を広げて「はい」と五百円玉を差し出した。
「お釣りちょうだい。百円」
にっこりと笑ってこっちを見るけど、私がほしい笑顔はもうちょっと違うんだよな、と思う。小さい頃の無邪気なあの顔を見たいと思うのは、やはり贅沢な願いなのだろうか。
レジスター代わりにしている小さな手提げ金庫から、百円玉を一枚とってカナに渡した。カナはそれを無造作にポケットに突っ込む。あ、と思い出したように声を出すと、今度は反対のポケットに手を突っ込んで、ふたたび「はい」と手のひらを広げた。その手にのったものを見て私はクスッと呆れたように笑う。
「バカのひとつ覚えじゃないんだから、たまには違うもの持って来なさいよ」
そう言いながらも、私はカナの手からコーヒーヌガーのチロルチョコをつまむ。
「嫌いじゃないでしょ。昔から」
「まあね」と言って、私は包み紙を開けて口に放り込んだ。甘ったるいコーヒーの香りと、歯にくっつく食感が好きだった。そう、小学生の頃から。
あれは小学校の一年の頃だったろうか、まだ雛鳥だったカナがかわいくてしょうがなくて、思わずチューをしたことがあった。このコーヒー味のチロルを食べたあとで、その匂いのせいか、それとも味が嫌だったのか、カナはずいぶんと深いシワを眉間によせた。さすがにカナは憶えていないだろうけど。
あんな風に、思うままに欲望をぶつけられたあの頃の自分がうらやましい。今となっては、近づくことさえも上手くできない。
「じゃあね、美鳥さん。帰り、気をつけてね」
マフラーを巻きながら背を向けたカナに、どうしても気になって声をかけた。
「カナ、ユウジのこと誰に聞いたの?」
この店を始める前にユウジのところでしばらく働いていたことがある。けれどそれはずいぶん前のことだし、カナには話していなかった。私が、思い出したくなかったのもあるけれど。
カナがこっちを振り返る。その顔はニヤッと意地悪な笑みを浮かべ、そのあと何かを憂うようにほんの少し目を伏せた。
「情報収集の方法、さっき教えてあげたでしょ」
――業者か。それよりも、カナのあの顔。一体どこまで知ってるんだろうか。下手に突っ込んで藪蛇になるのも嫌だから、うっかり下手なことは口にできない。
ドアの前でフードをかぶり、外からの風に負けないように、カナはドアを押す手にぐっと力を込める。ひゅうっと冷たい風と一緒に雪片が数枚舞い込んできた。
「カナ、傘貸そうか?」
「いらない。壊れちゃうよ」
それだけ言い残して真っ白な渦のなかに消えていった。
私はロッカー代わりにしている棚からウィンドブレーカーを取りだし、それをエプロンの上から着込むと、スコップを手に外に出た。カナが来る少し前に雪をかいたばかりだというのに、三段あるコンクリートの階段には、今出ていったカナの足跡がくっきりと残っている。一人歩けるほどの雪をざっとスコップで脇によけて、さっさと店内に避難した。たったそれだけなのに、ウィンドブレーカーにはびっしりと雪が張り付いていた。
〈二〉美鳥 ――二十七歳(1)
午前四時前。初夏とはいえ、まだ夜明けには少し時間がある。仕事終わりの重い体を引きずって、着替えもせずベッドに倒れ込んだ。
――つかれた。
地元を出て県外の大学に進んだものの、景色は地元と変わらない田舎で、それでも大学生活自体はそれなりに楽しんだ。どこで間違ったんだろうか。そんなのは自問するまでもなく、行きつく答えはいつも同じだった。
「本巣さん、このままウチに就職しない?」
そう言ってスポーツマン張りの爽やかな笑顔を向けたのは、大学四年の秋にアルバイトをしていた居酒屋の店長だった。
就職活動が始まった頃に一度辞めたその居酒屋のアルバイトを今さらのように再開したのは、一向に成果の出ない就活で地に堕ちた自尊心を多少なりと回復できる手立てはないかと、私なりにあがいた結果だった。
その会社は業態の違う飲食店を地域に展開していて、当時で居酒屋が五軒、ラーメン屋が二軒、惣菜屋が二軒、それとは別にカラオケボックスを三店舗経営していた。社長も幹部も三十代半ばから四十代後半と若く、従業員は二十代がほとんどだった。
店長の誘いは、その時はずいぶんいい話に思えた。年の近い女子社員とはそれまでも仲良くしていたし、彼女にその話を相談すると、嬉しそうに「やった、一緒に働こうよ」と歓迎してくれた。
ここなら認めてもらえる、――そんなことを思った自分が馬鹿だった。
私が大学を卒業してその会社に入った一ヶ月後に、その女子社員はさっさと辞めていった。若い社員が多い、すなわち離職率が高い、そんなことは考えればすぐに分かることなのに。
いや、実際分かっていたし、彼女が辞めたときも「しょうがないか」くらいにしか思わなかった。私自身も、就職を決めたときにはここでずっと働こうなんて思っていなかった。
それが、いつのまにか『店長』の肩書のついた名刺を持ち歩くようになり、入社五年めには入社当時の顔ぶれは一掃されていて、流されるままに居酒屋の店長におさまっていた。
それなりの給料はもらっていたけれど、勤務時間は一日十二時間を優に超える。休みと出勤表に書き込みながらも、店に顔を出さないわけにはいかなかった。
――むくりとベッドから起き上がる。はぁ、と大きなため息をついて、汗臭い服を脱ぎ捨てた。洗濯機の中に無造作に放り込んでシャワーを浴びる。
のろのろと体を洗い終わって、またため息をつく。両手を壁についてノズルから勢いよく降り注ぐ熱めのシャワーを頭で受けた。動く気力もなく、ただお湯に打たれていた。
ふいに涙が溢れてくる。次々と溢れる涙は、すぐさまシャワーと一体となって足元に降り注ぐ。
「――……ふっ、うっ…ううぅ…」
嗚咽がもれて、浴室のなかに反響する。その自分の声でさらに涙が溢れ、しゃがみこんで、膝をついた。
――もう、限界だ。
しゃくりあげながら息を肺いっぱいに吸い込んで、それから限界まで吐き出した。吐く息がふるふると震える。
立ちあがって顔の真正面でシャワーを受け、涙を洗い流した。バスタオルで体を拭いて、素っ裸のままベッドに寝転がる。
『あの車、ぶつかってきてくれたら良かったのに』
帰り道、背後からブゥンと改造マフラー特有のエンジン音をさせた車が通り過ぎたとき、そう思った。
死にたい、とは思わない。誰か、楽に殺してくれたらいいのに、そう思っただけだ。
ベッドから起き出して、冷蔵庫を開ける。帰りに買ったコンビニの新作スイーツを三つ取り出してテレビを点けた。
やけに爽やかな笑顔をした女性キャスターが「今日も暑くなりそうですね」と天気予報士に話題を振る。彼女の笑顔の下にも、なにがしか辛いことがあるんだろうと作られた笑顔に同情し、そんなことで自分を慰めている。
それから、プリンパフェといちごムース、それと黒蜜のかかった葛切りを黙々と口に運ぶ。味なんかほとんど分からない。ただ、心が欲するままに胃の中に流し込むみ、完食して空になったプラスチック容器を流しに投げると、気持ち悪くなってトイレで吐いた。
情けない。涙だけが涸れることなく唐突に流れ出す。
――もう嫌だ、何もかも嫌だ。
水切りカゴに無造作に置かれた皿の隙間にチラリと見えるペティナイフに目が止まった。鈍く、胸が疼く。
ギュッと目を瞑ると、いきなり後ろで着信音が鳴りひびいた。驚いてビクリと肩をすくめる。
何だか嫌な予感がした。過度の疲労で麻痺したはずの第六感が、電話をとるなと言っている。それなのに吸い込まれるように私はスマホを手にしていた。『実家・本巣家』の表示を確認して、人さし指を画面のうえでスッと動かす。
「……もしもし」
『あっ!! もしもし、美鳥? おねえちゃんだけど』
「おねえちゃん? どうしたの、こんな朝早くに。なんで本巣の家にいるの?」
『あ……、あのね、お父さんが』
姉は自分を落ち着けるように一度言葉を切った。深い呼吸音が聞こえる。第六感が当たった――。何か喜ばしくないことを姉は告げようとしている。
電話を切ったあと、眠ることなくバタバタと荷物をまとめてから店に向かった。
今日の仕事の段取りをして、本部の人間が出勤する八時半になるのをじりじりしながら待つ。それでも居ても立ってもいられなくなり、とりあえず駅に向かった。
八時二十分。誰か出勤しているだろうかと思いながら、気持ちがはやって本部に電話をかけた。コール音が延々と続くけれど、切ろうという気にならない。駅のデジタル時計を見ると、まだ八時二十一分。ダメか、と思いため息をついた瞬間、聞き慣れた声がした。
『はい、マイドカンパニーです』
「あ、一ノ瀬さん、おはようございます。本巣です」
『本巣さん? どうしたのこんな早くに。何かあった?』
「えっと、……あの、今朝、実家の方の父が亡くなりまして、急なんですけどしばらくお休みさせていただけますか?」
帰ることは当然決めていたけれど、相手の反応に緊張して顔が強張っているのがわかる。以前、祖母の三回忌だからと休みを申請した社員は、無下に却下された上にしばらくネチネチと文句を言われていた。
それでなくても、一ノ瀬さんと会話をするのには常に恐怖心がつきまとう。さすがに実の父親の葬儀に出るなとは言わないだろうけれど、ただでさえギリギリの人数でまわしている状態で、いい顔をされるわけはなかった。
『えええ……、お父さん。亡くなられたの。それじゃあ、仕方ないなあ』
一ノ瀬さんの声は明らかに不機嫌だった。私が悪いわけじゃないのに、申し訳ない気持ちになる。おかしいと自分でも分かっているのに、「すいません」と当然のように口をついて出た。
『まあ、分かったけど。えーっと、明日は……、友引かあ。しゃあねえなあ。通夜、どうせ明日だろ? 今日は仕事出られんの?』
「……は……い?」
『だから、本巣さん一人おらんでも家のほうは何とでもなるだろ。通夜が明日だったら、今日仕事してから行っても間に合うんじゃないの?』
――何を言っているんだろう、この人は。
ブラック企業だというのは身に染みて分かっていたし、自分に対する理不尽ともいえる叱責はずっと我慢してきた。それには私の両親への侮辱的な発言も含まれていたけれど、それは、言ってみれば言葉だけのことで、耐えようと思えばなんとか耐えてこられた。けれど、今回に限っては、言葉だけのことではない。――父は、もういない。
私の中で、何かがプツリと決壊して、一種のアドレナリンのようなものがドバッと分泌されたような気がした。すうっと息を吸って、それを一気に吐き出すように電話口に向かって言葉を並べていく。
「すいません、母がショックで倒れたらしくて、姉も妊娠中で出産間近なんです。看病も必要ですし、一週間……、いえ二週間くらい戻れないと思います。ご迷惑おかけしますけど、よろしくお願いします」
つらつらと口から飛び出す嘘八百に、うっかり自分で笑いそうになり、そのまま一ノ瀬さんの返事も待たず電話を切った。すぐに『本部』と表示された着信がある。無視して電源を切った。
初七日が終わって、姉が嫁ぎ先に帰ることになったけれど、私はまだ実家に居座っていた。
部屋の半分がダンボールで埋め尽くされた二階の姉の部屋と、いまだに父の靴がところ狭しと並んでいる玄関の間を、義兄はせわしなく行き来している。
姉と二人で居間のちゃぶ台の前にだらしなく座り込んで、その義兄の奮闘ぶりををぼんやりとながめていた。義兄は、姉を迎えに来たついでにダンボール箱を三つ持ってきた。中にはぎっしりと漫画が詰まっている。姉は、こうして買い込んだ漫画の倉庫として実家の部屋を使っている。
「お姉ちゃん、手伝わなくていいの?」
「なにを」
姉は不思議な顔をして、夫が手土産に持ってきた水ようかんを口に入れた。扇風機の風が『昔ながらの水羊羹』と書かれた容器の紙蓋を吹きとばす。
「あ、アリさん来ちゃうから、美鳥、それ拾っといて」
姉はそう言うと、空になった容器をちゃぶ台に置いて、ゴロンと畳に横になった。仕方なく姉の出したゴミをつまんで容器の中に突っ込む。
義兄はダンボールを抱えて階段を上がり、しばらくすると、今度はアパレルショップの袋を三つか四つ両手に下げておりてきた。この一週間で姉が買い込んだ夏のバーゲンセール品が、その中にギュウギュウに詰め込まれている。そのうち何着かは「やっぱりキツイから、アンタにあげるわ」と言って私に投げてよこした。
トド、とまではいかないけど、畳の上に両手を広げて寝転がる姉の姿はずいぶん丸みをおびている。――まるでトトロだ。大きさの問題ではなく、姉の存在自体がそう感じさせるのかもしれない。
「お姉ちゃん、今さらだけど……」
「なに?」
「太ったよね」
独身時代、あんなにスリムだった体は結婚してから年輪のように一回りずつ大きくなって、結婚八目年の成果がこれだ。
「ホントにね。これだけ大きいんだから産まれてきてもいいはずなんだけどなあ」
姉はそう言って、脂肪と内臓しか詰まっていない自分のお腹をポンポンと叩いた。
姉は、結婚当初こそ「なかなか子どもができない」と悩んでいたものの、二十代前半という遊びたい盛りだったせいか「こればかりは授かりものだから」と、恋人気分で夫と二人の結婚生活を楽しんでいるうちに、今年三十の大台にのる。夜中に一人トイレで倒れた父は、未だ卵にもならない初孫の顔を見ることなく逝ってしまった。
私は、お餅のような姉のお腹をムニムニと揉みながら、彼女の顔を見る。
「お姉ちゃん。ちゃんと、子どもが出来るようなことしてるの?――レスじゃなくて」
「ばあか。アンタ、私とあれがレスにみえるの?」
姉はそう言って、クイと顎で旦那の方をさす。その先には顔からダラダラと汗を流し、Tシャツをべっとりと湿らせて、はふはふと息をする義兄の姿があった。ようやく荷物を積み終わったのか「ふう」と肩の力を抜くと、肩にかけていたタオルでゴシゴシと顔をこすった。それから、私たちの視線を感じたのか、くるりとこちらを向くと、眼鏡の奥のつぶらな瞳を細めてにっこりと笑う。まるで、鶴瓶さんだ。肉づきの良いまんまるの体は、姉と違って昔と同じで、変わったことといえば生え際が少し後退したくらいだろうか。
「見えるよ。レスに」
私がそう言うと、姉は「フン」と鼻で笑った。
「わからない? この肌ツヤ」
姉は自分の頬をぷにぷにと人さし指で押してみせる。たしかに触りたくなるほどもっちりした肌をしている。私のカサカサの肌とは大違い。
「太ってるからでしょ」
姉の顔から目をそらして、隣に寝転ぶ。天井を見上げると、懐かしい板目が目に入った。節が、ムンクの『叫び』に見える。ふいに視界がぐらりと歪んで目を閉じた。まだ本調子じゃない。
「私のことより、アンタでしょ、美鳥」
姉は寝転がったまま片方の肘をついて私を見下ろした。さっきまでと違って心配そうに眉をひそめている。
「大丈夫なの? からだ。こんなに痩せて、無理しすぎなんじゃない」
「大丈夫。まだ標準体重の範囲内だから」
「最低ライン、ギリギリでしょ。どうせ」
「お姉ちゃんは最高ライン、ギリギリだよね。それともオーバーしてる?」
ニヤッと意地悪く笑ってみたけど、姉はのってこなかった。
「アンタさあ、こっち帰ってきたら? りっちゃんも心配してるし」
りっちゃんとは母のことだ。何のタイミングか忘れてしまったけれど、高校に通っていた頃から家のなかでは母は「りっちゃん」、父は「よしりん」だった。
「よしりんがいなくなって、寝込みたいのはりっちゃんなのに、アンタが熱出してどうすんのよ」
よいしょっと、姉は体を起こして横座りでちゃぶ台にもたれた。そのついでのように私のおでこに手をあてる。
「もう熱ないから、平気だって」
姉の手を払って、私も腹筋するように上体を起こした。
葬儀が終わった翌日、私は三十八度の熱を出して寝込んだ。夜には三十七度台に下がったけれど、めまいがひどくて三日間布団でゴロゴロしていた。何を考えるのもだるくてスマホも放置したまま、ぼんやりと目を閉じたり開いたりしていた。
あんなに止めどなく流れていた涙が、あの姉からの電話のあと枯渇したように一滴も出てこない。頭のなかに白い霧がかかったようにふわふわとしていて、全てが自分と違う場所で起きているような気がしていた。
「好きでやってる仕事なんだろうけど、体壊しちゃったら何にもならないんだからね」
姉はそう言って、呆れたような顔でため息をついた。
そのあと、三人分の麦茶を持ってきてくれた義兄と一緒に、姉は水羊羹をもう一つ平らげた。『宇治抹茶の水ようかん』と書かれていたそれを、私は一口だけもらって食べた。――あまい。舌で感じた記憶はそれをおいしいものだといっているのだけど、滑らかなはずの水羊羹は、なかなか喉を落ちていかなかった。
実家に帰って十日が経った頃、会社から電話があった。田舎の祖母の家から帰る車中で、私は母の運転する車の助手席に座っていた。後ろの席のダンボールには、大きく育ちすぎた胡瓜と、不揃いな大きさのオクラ、今年初めて作ったという黄色いズッキーニが山盛りに入っている。
いつ会社から電話が来るのか最初の頃はドキドキしていたけれど、一週間を過ぎても一向に連絡はなく、二週間ギリギリまで放っておくつもりでいた。それでも、ある程度は覚悟していたから、私は早々に観念して電話をとった。
母は運転をしながらラジオのボリュームを下げる。助手席からは、国道から一段低い場所にひしめくように立ち並んだ民家と、その向こうに紺碧の海がみえた。入り組んだ地形が続くこのあたりは、視界から唐突に海が消えて鬱蒼とした緑が間近にあらわれる。その直後に海。その繰り返しだった。
「もしもし、本巣です。連絡もせず、すいませんでした」
着信表示にあった『本部』を目にして、言われる前に先に謝った。ほとんど辞めるつもりで気持ちが固まっていたけれど、それでも何を言われるのか、その恐怖でズシリと胃のあたりが重くなる。
『ああ、本巣さん。一ノ瀬だけど』
名乗らずとも声で分かっていた。声を聞くだけで、口から内臓がせり上がってきそうになり、呼吸が浅く乱れる。あの爽やかな笑顔で私を会社という泥沼の地獄に突き落とした張本人。いや一ノ瀬さんの存在自体が地獄そのものだった。
電話の向こうから聞こえる声には、意外にも批判の色も嫌味の欠片もなく、少し拍子抜けした。さらに思いもかけない言葉が耳に届く。
『もし、ご家族の方の看病が必要なようだったら、このまま辞めてもらってもかまわないけど、どう?』
「え……」
渡りに船とはいえ、あまりにも予想外で言葉に詰まる。
『あくまで本巣さんの自己都合で退社っていうことにはなるけど、お父さんが亡くなられたばかりだし、家族のことも心配だろ?』
家族を気遣うような言葉を口にする一ノ瀬さんの声に、不信感がぞわぞわと胸に広がる。本心でないのは明らかで、彼の甘言に騙されるのはもう御免だったけれど、それ以上に会社に居続けることのほうが苦痛だった。考えを巡らせようとする理性の働きをストップして、本能のままに
「では、そうさせていただきます」
と口にしていた。
通話を終了して、母に「会社、やめることになった」と言うと、母はチラと私を見て、
「そう。おつかれさま」
と、ホッとしたようにため息をついた。ずいぶん長い間カラカラだった涙腺が急にゆるんで、海の碧と空の青が歪むように混じった。
「こっち、帰ってきていいかな」
窓の向こうを見つめたままつぶやく。
「いつでもどうぞ」
母はそう言うと、小さくしていたラジオのボリュームを元に戻し、すこしだけ窓をあけて海風を招き入れた。
潮の匂いがする。――ああ、帰ってきた、そう心に浮かんだとき
「おかえり」
そう、母が言った。
一度だけ会社の本部に顔を出し、何箇所か名前を書いて、いくつか判を押した。
事務所を出てエレベーターに乗ろうとしたとき、同い年の他店の店長が物陰からこそっと私に手招きをした。廊下に積み上げられたダンボールの陰で、人目を避けるように身を縮めている。
「本巣さん、辞めさせられたの?」
「……いや、そういう訳じゃ……」
ストレートな聞き方に、戸惑ってどう答えるべきか迷った。
「聞いた? ウチの会社、銀行管理になるとか、社員減らすとかって噂になってんだよ。やばいよな。俺もさっさと辞めちゃおうかな」
ああ、そういうことかと一ノ瀬さんの変わり身にようやく納得がいった。正直、こんな会社どうなろうが、もうどうでもよかった。いっそ、さっさと潰れてしまえばいいのに。
「辞めたら? この解放感、味わったほうがいいよ」
私は目の前の元同僚に笑いかけた。
「うわ、その笑顔やばいわー。まじ辞めたくなった」
彼はなんとも言えない微妙な笑顔を作ると、ストンと肩を落とした。
本部の事務所から出て、そのドアを閉めた瞬間から、重力が半分になったんじゃないかと思うくらい体が軽かった。――あ、肩の荷おろした。そう、思った。
こうやって積み重ねるようにして背負い込んできた肩の荷をおろすと、どうして今までそうできなかったのか不思議でしょうがなかった。
〈三〉噂話
昨日降り積もった雪は、春を思わせる温かい日差しですこしずつ溶けだしていた。
大通りの雪はすっかり除雪され、歩道との境目に薄汚れた雪の塀が続いている。
『リフレッシュサロン heal』の看板のところで路地に入り、曲がってすぐのところで『heal』の若い女性スタッフに出くわした。あ、バードネストさん、と親しげな笑みを浮かべる。
「思ったより振らなくてよかったですね。天気良さそうだから、じきに溶けそう」
「ですね。でも、ウチの前もう少し雪をかかないと」
そう言いながら二軒奥の自分の店の前を見る。
お客さんの迎えるにしてはエントランスへの通り道がずいぶんせまい。そのうえ、路地は溶けかかった雪が足跡と車の轍とでぐちゃぐちゃになっていた。さっき仕入れをして車を乗り付けたときに少しだけ雪をかいたけれど、営業前にもう少しどうにかしないと、店の中まで持ち込まれた雪でベチャベチャになりそうだ。
「なかの道はなかなか雪かいてくれないから、バードネストさんのところ大変ですね。ウチの前の歩道は朝のうちに商店街の人が機械で雪飛ばしてくれて」
「うらやましい。うちの前は無理そうですね、これだけベチャベチャになっちゃうと。早く溶けてくれるといいけど」
いつも通りの、他愛のない話。そんなやりとりでも、社会とつながりがあるようでホッとする。じゃあ、とお互いに会釈をしてそれぞれの店に向かった。
昨日の客は結局カナが最後で、食材も足りているし、仕込みはほとんど必要なかった。冷蔵庫を開けてタッパーを取り出し、洗って保存していたレタスとグリーンリーフの状態を確認した。スライス玉ねぎ、パプリカ、パストラミビーフ、スモークサーモン、ゆで玉子……ひと通りチェックし終わり、店内をざっと確認してからメニューボードを書き直す。
『本日のサンドイッチセット 〈ツナ・トマト・パプリカ〉ドリンク付き 600円』
――600円。安すぎだろ。頭のなかで、そう自分にツッコミを入れる。
はぁ、とため息が出た。しかも、一年前に五十円の値上げをしてこの値段なのだ。やっぱり、失敗したと思う。
メニューボードには他にも不定期で変えているサンドイッチメニューが四品。例えば
『パストラミビーフ・クリームチーズ・アボカドのサンドイッチ 580円』
『ツナ・かぼちゃ・胡桃のサンドイッチ 500円』
こっちのサンドイッチの注文が入るのは、たいていサンドイッチセットが終了する午後二時以降。一人でランチをまわすために意図的に値段に差をつけているというのもあるけれど、それでも「やっぱり、安すぎた」と今度は声に出ていた。一人でいる時間が長いと、どんどん独り言がふえていく。
「よしっ、やるか」
また独り言で気合を入れて、スコップを手に雪かきに向かった。
水分をたくさん含んだ雪はずっしりと重い。店の前をひと通りかいて一段落したころには、首元にうっすらと汗をかいていた。汗がひいて冷えないうちに店の中に戻ってタオルで汗を拭く。風邪なんかひいて店を休むわけにはいかない。
開店時間が近づいたので店内の電気をつけ、ドアにかかった『CLOSE』の札を
ひっくり返そうと外に出ると、大通りのほうから見知ったジャンパーの男性が荷物を抱えて歩いてきた。向こうもこちらに気づいて笑顔で声をかけてくる。
「おつかれさん」
「おつかれさまです、岡井さん。車、入れなかったですか」
私はそう言いながら、大通りのほうに停められた業者の車を指さした。いつもなら、店の前に車を停めてもすれ違えるくらいの道幅があるけれど、今日は雪のせいで無理そうだ。私の視線につられて、岡井さんも大通りの方を振り返る。その黒いジャンパーの背中には、今売り出し中の缶コーヒーのロゴが描かれていた。
「下手に路地に乗り入れるとあとで大変だから。ただでさえ今日の配送遅れてるのに。遅くなっちゃってすいません」
岡井さんは申し訳なさそうに眉をハの字にして笑った。私はドアの札をくるりと返して『OPEN』にし、両手のふさがった岡井さんのためにドアを開けた。
検品の終わった食材を収納しながら、私の後ろで手元の機械に目を向けている岡井さんに声をかけた。今度来たら絶対言おうと思っていた台詞を言う。
「岡井さん、『オフショア』の人にウチのこと話したでしょ」
『オフショア』はカナが働いている店だ。
「ええ? オフショアで?」と、岡井さんのおざなりな返事が聞こえる。処理中の作業で、私の質問は頭の端っこに追いやられたようだ。
「豆のはなし」と、冷蔵庫をしめて岡井さんの方を振り返ると、岡井さんはようやく思い当たったように「ああ」と言って顔をあげた。手元をチラとも見ず、機械から排出された紙をピリリと破っていつも通り会計用のコイントレイに置く。
「奏さんのことかな」
「そうですけど、……『奏さん』なんて名前で呼んで、仲良かったりするんですか?」
「そんなことないよ。あの店の人たち、みんな名前で呼び合ってるから、むしろ名字を知らないんだよね。いいよね、あそこ。雰囲気良くて」
へえ、と思った。みんな仲良し、雰囲気のいい職場なんて経験したことがない。私なんか、人に合わせるのが嫌で一人で店をしているようなものなのに。けれど、岡井さんの言う『雰囲気良い』はあまり当てにならないということを、私は身をもって知っている。
「別にたいしたことは話してないよ」
その岡井さんの言葉はいつもの営業口調で、信用していいのか微妙なところだった。
「岡井さん、ユウジの店の話、その人にしましたよね。自己破産て本当ですか」
ユウジという名前を口にした途端、岡井さんが渋い顔をした。
「ウチもね、いくらか回収出来てない分があるからさ。ホント、弱っちゃうよね」
そう言って小さくため息をついてから、「本巣さんはユウジさんと連絡取ってないの?」と、私の顔色を伺うようにこっちをチラリと見た。
今こうして岡井さんのところと取引できているのは、ユウジの店で働いていた時に知り合ったからだ。ユウジと岡井さんはプライベートでも付き合いがあって、何度か飲みに行ったという話も聞いたことがある。
「辞めてから一回たりとも連絡してません。したくもありません」
つっけんどんな私の物言いに、岡井さんが苦笑する。
「岡井さんは? ユウジと話したんですか。破産したあと」
私がそう聞くと、岡井さんは頭をボリボリとかいてから「はーあぁ」と大きなため息をついた。
「連絡、つかないんだよね。噂では女のところに転がり込んでるって聞いたんだけど」
「女?――って、あの人ですか?」
すこし険のある言い方になった。岡井さんは首をかしげて、あの人ってどの人だっけ、と困ったようにヘラリと愛想笑いを浮かべる。私がユウジの店を辞めた当時の、彼の恋人の名前を口にすると、
「ああ、いたね、そんな人」
と、岡井さんは二三度うなずいてから、申し訳なさそうな顔をする。べつに岡井さんは何も悪くないのに。
「あの人とはずいぶん前に終わってるよ。それから二三人変わってるんじゃないかな」
今さらこんな話を聞いても何の得にもならないと分かっているのに、ずいぶん久しぶりに耳にした『ユウジ』という名前に、嫌悪感とともに野次馬のような好奇心が芽生える。
できるなら、私がいなくなってからボロボロになってすべてに失敗したという彼の話を聞きたかった。
「――岡井さんって、ユウジの過去の女、全部知ってるんですか?」
岡井さんの眉がクッと上がり、気になるの? と興味深そうに私を見た。言わなきゃよかったと、軽率な自分の言葉を悔やんだけれど、出てしまった言葉はなかったことにはならない。
「ユウジさんはお酒が入るとペラペラしゃべるから。女性関係のことはそれこそ自慢げに話してたよ。ずいぶん饒舌になるんだよね」
岡井さんは、聞かれたから仕方なく答えたというふうに、渋いものでも食べたような顔でそう言った。
ユウジと私のあいだにあった、一番思い出したくない情けない過去を、私は岡井さんの前で晒していた。だからこそ、岡井さんは私との間に、適切な一定の距離を置いてくれる。それは仕事をするうえで、ずいぶんとありがたいことだった。
「岡井さん、私とユウジのこと、他のところで言わないでくださいね」
「言わないよ、そんな話」
岡井さんは心外、とばかりに大げさに肩をすくめる。
「豆の話はするのに?」
「話す内容と、相手はちゃんと考えてますから。取引先の不利益になるようなことはしませんよ」
そう言って見せた笑顔は、少しだけ人間臭い匂いのする優しい笑顔だった。
「確認だけど、……オフショアの、奏君にもしてないよね、その話」
「え? 本巣さん、奏さんとつきあってるとか、そういうこと?」
目をまるくして岡井さんが聞いた。たしかに、さっきの言い方は誤解を招く言い方だったかもしれない。岡井さんにしてみれば、もし本当なら青天の霹靂というくらいの出来事だろう。
私は苦笑して、「違いますよ」と訂正した。
「幼馴染みたいなものです。あの小生意気な子に、これ以上バカにされたくないから」
「バカに? 本巣さん、別にバカにされるようなことしてないでしょ。むしろすごいと思うよ」
岡井さんは丸くしていた目を、さらに丸くするように眉をあげて私の味方をしてくれたけれど、その予想外の言葉をどう受け止めていいか分からない。私が言葉に詰まっていると、岡井さんはチラと時計を見て荷物を片づけはじめ、忘れ物がないかキョロキョロと確認したあと、床に置いていた空のダンボールを手にとった。
「勢いでユウジさんのところ辞めたとはいえ、こうやって、自分のやりたいようにお店をしてるんだから、やっぱり本巣さんはすごいと思うよ。好きなことを仕事にしてるのって、いいなとは思うけど、なかなか行動に移すのは難しいから」
岡井さんは真面目な顔でそう言うと、じゃあ、と背を向けて出ていった。きっと、褒めてくれたんだろうけど、その言葉がずしりと心にのしかかった。
「好きなこと――、かあ」
独り言のあと、ため息がもれた。
天気が回復したこともあってか、その日のランチタイムはひと通り満席になった。けれどそのあとが続かず、午後一時前にはほとんどの席が片付けられ、一時半には誰もいなくなった。それでも昨日のことを思えばまだマシだ、と落ち込みそうになるのを自分でなぐさめる。
靴と一緒に持ち込まれた雪が溶けて、入口近くの床板の色が濃くなっている。モップを出して床を拭いていると、コンコン、とノックの音がした。顔を上げてドアの方を見ると、ガラスをはめ込んだ小さな窓から様子を伺うようにのぞき込む二つの瞳と目が合った。くりくりとした可愛らしい目元にたくましい眉。すぐに誰なのか分かる。小柄な彼女はドアの向こうでつま先立ちをしているに違いない。
小窓の向こうの瞳がフッと消えて、短く切りそろえた前髪のラインがあらわれた。キィとためらいがちにドアが開く。
「やっほー、美鳥。今いそがしい?」
「おつかれ、タマちゃん。今日は仕事? それともお客さんしてくれるの?」
言いながら、モップを片づけて流しで手を洗う。
タマは入ってすぐのエントランスマットで入念に雪を払ってから、きょろきょろと当たりを見回して、隅にある予備の椅子の上に大きなショルダーバッグを置いた。
「仕事だよね、やっぱり」
私がそう言うと、拝むように両手を合わせてチロリと舌を出した。
「ごめんね、また食べに来るから。基本はお弁当なの。どうせ旦那の分つくらなきゃいけないし」
「いいよ。分かってるから。で、今日は?」
ちょっと待って、とタマは鞄の中からA4サイズのプリントを一枚取りだす。「はい、これ」と私にそれを手渡すと、重そうなショルダーバッグを床に置いて椅子に腰をかけた。
プリントには『小規模店舗向けセミナーと勉強会のお知らせ』とある。タマは商工会議所のなかの中心市街地活性化協議会というところで働いている。
タマとはもともと高校の同級生なのだけれど、在学中はそれほど仲が良かったわけではない。開業前に色々とネットで検索していたとき、駅周辺の指定エリアで開業すれば、二年間の家賃補助が受けられるという制度があることを知った。詳細を聞こうと商工会議所に出向き、その説明をしてくれたのがタマだった。
その制度があったからこそ中心市街地でテナント物件を探し、タマに紹介されたこの場所で無事審査も通った。補助期間はすでに終了しているけれど、たまにこうして商工会議所主催のセミナーやイベントの情報をもって店にやってくる。
仕事以外でも、タマ経由で高校の同級生との連絡が再開したりもした。ずっと地元で暮らしていたタマは、私にとっては力強い味方だった。
「どう? 出席できそう?」
半分あきらめたような表情でタマが私の顔をのぞきこむ。
「時間がねえ」
「だよね」と、タマはしょうがないというように肩を落として微笑んだ。
「始まるのが六時だと、店閉めないといけないもんね。まあ、それに今回はネット販売の話がメインになるから、別に関係ないかなって思ってたんだ」
ネット販売を考えたことがない訳ではなかった。例えばクッキーとか。同じことを思っていたのか、レジの横に置いたクッキーの小袋をタマがつまみ上げる。
「このクッキーでもネットで販売しようと思ったら、ここの設備じゃ全然追いつかないもんね。いっそ別のとこ借りて工場でもつくる?」
タマはそう冗談ぽく言ってクスリと笑った。全然本気ではないのだろう。
「そうなったら、ここは閉めるからね」
冗談で片づけられたのが心外だったので、少しだけ脅すような口調で言ってやった。言いながら、「そうならなくても、閉めるかもしれないからね」と心の中で付け加えると、それが伝わったのか、タマは真面目な顔になって私の顔をじっと見た。
「美鳥、実際のところどうなの? 報告義務はもうないけど、駅の中にJBコーヒーできてから客数減ったりしてない?」
痛いところをつかれた。さすがタマ。いや、誰でも分かることかもしれない。
JBコーヒーは海外発のコーヒーチェーンで、日本でもかなりの数の店舗を展開している。そのJBコーヒーが、去年の春、すぐそこの駅の中に県内初出店を果たしたのだ。オープン当初はずらりと長い行列が出来て、テレビのニュースや地元局の情報番組で取り上げられたようだけれど、ウチの店にはあまり影響がないように思われた。
変化があらわれ始めたのは、その長蛇の列が解消されて、地元の人々の話題にも上らなくなった頃だ。ほぼ毎日のようにウチの店に来ていた近所のOLさんが、週の半分しか来なくなった。ほかにも、休憩時間が不規則で、以前はランチが終了したあと多少高くてもアラカルトのサンドイッチを注文してくれていた百貨店の店員さんが、二時以降には全く顔を見せなくなった。
JBコーヒーに客足が流れているのは明らかだった。JBコーヒーのフードメニューはウチと同じくサンドイッチ。しかも、ランチはともかく、それ以降の時間になると明らかに向こうのほうが安い。家賃補助が切れたタイミングでJBコーヒーの出店があったのは、正直辛いどころの話ではなかった。
「けっこう、キツイわ」
あくまで、平気な顔でそう言った。店を閉めるとしても今すぐの話ではないし、簡単に廃業するのは、これまで色々お世話になったタマに申し訳ない。
「美鳥。変なプライドは持たないほうがいいからね」
ドキリとした。結局、こんな小さな店すら維持できない自分が恥ずかしくて店をたたむのを渋っている。それだけのことなのだ。
「美鳥の場合は借金があるわけじゃないから大丈夫だとは思うけど、最近無理してるみたいだし」
心配そうに首をかしげるタマを見て、「あ、この表情しってる」と思った。マイドカンパニーを辞める直前に、姉が私に向けた顔と同じだ。
あの頃の私とは違うはずなのに。あんな風に押さえつけられて、強要されて、洗脳状態で働いていたときとは。
「無理してるようにみえる? 私」
「別に、見た目がどうこうっていう訳じゃないのよ。でも、最近つきあい悪いじゃない。こういうセミナーにしても、以前は店閉めて参加してたでしょ。それに、友だちとの飲み会もあまり顔出さなくなったし」
夏の終わり頃から売上が右肩下がりになり、冬の初めごろには、生活がギリギリできるくらいしか給料をとれなくなっていた。ただでさえ冬は客足が鈍るというのに。
開店した当初はユウジや一ノ瀬さんを見返してやりたいという異様なエネルギーが体の中にあって、セミナーや商店会の集まりにも積極的に顔を出していた。売上の好調なときは休むのも惜しいくらいに、色々メニューを変えたり近くの店とコラボ企画をしたりしていたのだけれど、売上が鈍化して完全に下降路線をたどるようになってからは、メッキのような薄っぺらな自信がパラパラと剥がれていって、自分の中にあったはずのエネルギーはどす黒いプレッシャーへと変わっていった。
いま、家には生活費を入れていない。父が死亡した時にちょっとびっくりするくらいの保険金がおりたので、我が家の生活がとくに困っているというわけではなかった。母もパートで働いているけど、経済的な理由ではなく「ボケ防止なの」と気楽なものだ。
私が開業するときも、母はこの古びた建物を見て
「お金出してあげるから、ちゃんと直したら?」
と少し不満げな顔をしたけれど、私はそれを断って、自分の貯金で出来る範囲の修繕をして開業にこぎつけた。今でも、まだ多少の貯金は残っている。けれど、先が見えない――。
心配そうに見つめるタマに、ヘラヘラと笑って返した。
「しょうがないじゃん。店があるし。意外に色々やることあって。今度の飲み会は参加するから、ウチの定休日にしてよ」
お金が心配で飲み会に行けない、なんて死んでも口にしたくなかった。
「バードネストの定休日って水曜だよね。集まるかなあ。まあ、週末でもさ、二次会から出られそうなら参加してよ。二次会っていってもコーヒーとケーキだから」
タマは仕事柄、色んな店が出来ては潰れていくのも見てきている。ウチの現状もなんとなく分かっているのだと思う。
「ケーキとコーヒーかあ、いいかもね」
それなら出費も許容範囲内。意図しているのかしていないのか分からないけど、タマの優しさが身にしみた。
「じゃあ、また高校のメンバーで集まれるよう企画してみる。でも、ホントに無理しちゃだめだよ。――知ってるよね? ユウジ先輩の話」
店内には私たち二人しかいないのに、タマは声を潜めた。
「うん、業者さんから噂話が流れてきた」
「高校のときに美鳥とつきあってた頃からは、想像つかないよね。昔からちょっと調子のいい人だとは思ってたけど、調子に乗った挙句が自己破産じゃあ目も当てられないわ」
「今も女のところに転がり込んでるらしいって」
まじで? とタマは汚いものでも見たように顔をしかめて、首をふるふると左右に振った。
「美鳥、よくそんなのと付き合ってたね」
「いや、高校のときはそんなじゃなかったよ」
「ユウジ先輩の店で働いてたときは? 付き合ってなかったのかもしれないけど、美鳥、自分がなにされたか忘れたわけじゃないでしょ」
「そうだけど、――だから辞めたんじゃん」
タマは、辞めて正解だわと、今度は縦に首をブンブンと振った。
ガチャリと、唐突にドアの開く音がした。話に夢中で、一瞬反応が遅れる。
「いらっしゃいませ……、あー、なんだカナか」
「なんだはないでしょ、美鳥さん」
ずいぶん暖かそうなスキーウェアを着て、紅い頬をしたカナがそこに立っていた。
〈四〉美鳥 ――二十七歳(2)
『友達申請がありました。知り合いですか?』
SNSの画面には、高校の時に付き合っていた元カレの写真が表示されていた。視線はカメラから外されている。何のときの写真なのか、フレームの外にいる誰かに向かって満面の笑みを向けていた。
会社を辞めて地元に戻ってきてから、しばらく何をする気力も湧かず、外出と言えば母の車を借りてショッピングモールをぶらぶらと歩くくらいだった。姉の漫画も読み飽きて、木枯らしが吹き始める頃にようやく「何か仕事探そうかな」とネットでハローワークの求人を検索した。パソコンを立ち上げること自体がずいぶんと久しぶりだった。
実際に求人情報を見ていると、「働く」ということが現実味をおびて胃のあたりがキリキリと痛んだ。次の会社は失敗したくない――そう思えば思うほど体の中にズシリとした重りが蓄積されていく。
気晴らしに適当にパソコンをつついていると、ブックマークされていた、とあるSNSを見つけた。学生の頃に登録したものだ。以前のスマホにはアプリを入れていたけれど、スマホを落としてやむなく機種変更をして以来、会社の人間と労働時間外にまで繋がるのが億劫でダウンロードしなかった。
何年ぶりかでブックマークからログインする。
そこには、半年前のユウジからの友達申請が放置されたままになっていた。他にも何件か申請があったけれど、全く知らない人だった。
『承認する』
指が勝手に動いていた。
『岸本有志さんと友達になりました。メッセージを送りましょう』
ブラウザを閉じて、パソコンの電源を切った。
高校時代、ひとつ年上のユウジと一年ちょっと付き合った。別れたのはユウジの受験が間近に迫ったころで「勉強に集中したいから」と、それだけだった。先輩と付き合っているというのはなんとなく鼻が高かったし、話の面白いユウジと一緒にいるのは楽しかった。かといって、別れて傷心ということもなく、ユウジの大学が決まったあとは何度か会ったりもしたけど、距離が離れてしまえば自然と連絡もとらなくなった。
ベッドに寝転がり、スマホを操作してSNSのアプリをダウンロードする。ログインすると、ユウジからメッセージが届いていた。
『久しぶり。仕事がんばってる? こっち帰ってくることがあったら連絡下さい。一年前にカフェ始めたんで、帰ってきたら食べに来てね』
末尾には可愛らしい絵文字がくっついている。
私のプロフィールは入社当時のまま。投稿した記事も入社直後の飲み会の写真と「これから社会人としてがんばります」という一文が最後だった。写真のなかでにこやかに笑う過去の自分が愚かでしょうがない。それに比べると、ユウジとの思い出はずいぶん温かくキラキラしていた。
『お久しぶりです。今地元に帰って求職中です。今度お店に伺います』
そう返信すると、五分もおかず再びメッセージが届く。
『本当? じゃあ今度会おうよ。来週の月曜の夜とか無理? ウチ定休日月曜だから』
そんな流れでユウジと飲みに行くことになったけれど、会うのはざっと十年振り。就職して以来どこかに置きざりにしてきた自分の『女』という性別を取り戻すために、翌日には美容院に行ってカットとカラーリングをし、ショッピングモールでニットのワンピースを買った。約束までの数日間をそわそわと過ごし、そんなこそばゆさを久しぶりに感じて気持ちが浮き立っていた。
「久しぶり、美鳥。あんま変わってないな」
そう言って気安く肩を抱いたユウジは、お洒落っぽい帽子をかぶって、鼻の下と顎のあたりにセクシーな髭を生やしていた。
密着したまま繁華街を突っ切って連れて行かれた場所は、やはりお洒落っぽい服を着たセクシーな男女が愉しそうお酒を酌み交わしていた。こじんまりとしたバーには不揃いのソファが不規則におかれて、数人の客はそれに座るでもなく、肘置きのあたりに気怠げに腰をかけるか、カウンターに頬杖をついて、立ったままグラスを傾けている。
「ユウジ、新しい彼女でも連れてきたの」
ぷるんとした唇の女性がカウンターに体を預けたままこちらを振り返る。
「ちげーよ。元カノ」
「なんで元カノ連れてきてんのよー」とその女性はキャハハと甲高い声で笑った。居心地が悪かったけれど、唯一の救いはユウジにしっかりと握られた右手だった。店内にはボブ・マーリーの曲が流れ、なんだかビンテージっぽい雑貨があちこちに飾られていた。
ユウジは他の客と楽しげに話をし、たまに「だよね」とか「じゃない」と同意を求めるように私を振り返る。心地よさそうに緩んだその笑顔とずっと繋がれたままの右手に、弱っていた私の心は簡単に堕ちてしまった。
日付が変わった頃に店を出て、「寒いね」と言ってユウジはギュッと私の肩を引き寄せる。「美鳥、今仕事してないなら、今日うちに泊まってっても平気だよね」
ユウジは当然のような顔をしてそんなことを言った。まったくそんなことになると思っていなかったから、「え……」と言葉に詰まる。
「一緒に帰ろ」
ユウジは甘い声でそう囁くと、片手をあげてタクシーを停め、後部座席に乗りこんだ。
「ほら、早く」
躊躇する間もなく、タクシーの運転手さんの視線を感じてユウジの隣に座る。行き先を告げて車が動き出すと、ユウジは誰の視線を気にするでもなく正面から私にキスをした。
おどろいて、唇が触れたままの状態で固まる。ユウジはクスッと笑って、「美鳥、かわいい」と小さい声でつぶやいた。
それから、ユウジの舌が私の上下の唇の隙間に潜り込んで、私はただどうしていいか分からず、されるがままに口を開けていた。見開いたままの目で、ルームミラー越しにこちらの様子を伺う運転手さんと目が合う。運転手さんは慌てて目をそらし、取り繕うように帽子を目深にかぶった。
気分はまったくまな板の上の鯉で、とりあえず母には友達の家に泊まると電話したのだけど、余裕しゃくしゃくのユウジの後ろで私はパニック寸前だった。なんせ、セックスの経験というものが片手で足りる、――いや、むしろ目の数、もしくは耳の数で足りてしまうほど。それも学生の頃のことで、もう記憶もあいまいだった。
駐車場の奥の、裏口のようなドアから家の中に入る。
「そのドアの向こうが俺の店。とりあえず、上あがろう」
ユウジはそう言って目の前の階段をトントンと軽快に上がっていく。なるほど、正面の入り口は店舗のエントランスになっているようだ。そんなことを考えて気持ちを落ち着けようとした。
「早く、美鳥」
二階の手すり越しにこちらに顔だけ出して、甘えるような声を出す。
そろそろ腹の括りどきなのかもしれない。そう思った瞬間、自分の迂闊さを後悔した。――下着が上下バラバラだ。
ユウジの後について入った部屋はエキゾチックな香りがして、彼は私をソファに座らせると、照明をおとしてキャンドルをつけた。
「俺シャワー浴びてくるから、これ観てて。おすすめだから」
DVDのラックから一枚抜き出してセットすると、おでこにキスをして部屋から出ていった。『バグダット・カフェ』は観たことあるけれど、どうせ頭に入ってくるはずがないからちょうどよかった。私はただひたすら、ソファの上にきちんと膝を合わせて座っていた。
気持ちいいんだかどうなんだか、分からないまま行為を終えると、ユウジはそれなりに満足したように脱力していた。まあ、ユウジがいいならそれでいいか。そう思った。
朝、ユウジの隣で目が覚めると、彼のゆるっとした寝起きの顔が目の前にあった。昨日からの一連の出来事のなかで、この瞬間が一番幸せを感じて、朝っぱらのユウジとの二度目のセックスは、昨晩よりもよっぽど気持ちよかった。ギュッと抱きしめられて、初めて自分からキスをした次の瞬間、ユウジは最悪の言葉を放った。
「やべっ、そろそろ彼女来る時間だ」
この時の感情をどう表現したらいいだろう。感情なんかない、フリーズ、多分それが正しい。
「悪い、美鳥。とりあえず服着てくれる? ここしょっちゅう色んなやつ来てるから、居るのは全然大丈夫だから」
大丈夫って、何が大丈夫なんだ。お前に堕ちた私の気持ちを、一体どうしてくれる。そんなことは言えるはずもなく、情けなさを噛み締めながら、明るくなった室内で上下バラバラの下着をつけた。
着替えて階段を降りていると、店舗に続くドアがガチャリと開いた。今季の人気ドラマのヒロインに似た、都会的な美女の顔がそこからのぞく。彼女は私の後ろをおりてくるユウジに向かって明らかな疑いの視線を向けていた。
「……どなた、ですか?」
元カノ――は、まずいだろう。振り返ってユウジを見上げる。その表情を見たとき、ある意味尊敬の念を抱いた。
「高校の後輩。昨日たまたま飲み屋で会っちゃってさ。他のやつも来てたんだけど、先に帰ったんだ」
悪びれることなく、ユウジは笑顔でナチュラルな嘘をついた。高校の頃から、話を面白くするために誇張したりする癖があったけれど、まさかそれがこんなところで活用されているとは、半分感心し、そして半分は呆れるしかなかった。
彼女は「ふうん」と全く納得していないようなふくれ面でドアを閉めた。チラリとユウジの顔を伺うと、しょうがないねというような顔を私に向ける。
「一緒に働いてるんだ、彼女。でも、最近束縛きつくて、ちょっとしんどい」
ユウジはトントンと階段をおりて私の隣に並ぶと、腰を引き寄せて強引にキスをした。いつ彼女がドアを開けるかとヒヤヒヤして、キスの感触というより、罰ゲームのような気分になった。
それから二三日は体の中に異物感が残っていて、思い出すたび切ないような呆れるような複雑な気持ちになっていたのだけれど、一週間もすると「まあ、人生のちょっとした過ち」と割り切って、頭の片隅に追いやることができた。それで終わればよかった。
『ちょっと相談あるんだけど、会えない?』そんなメールが届いたのは、そのすぐあとだった。
「どう思う、このメール。元カレなんだけど」
遊びに来ていた姉にスマホの画面をみせる。
「あー、絵文字とか使ってる男は好きじゃない」
「お姉ちゃんの好みじゃなくて。彼女いるんだよね、この人。どういう神経で連絡してくるんだろ」
「遊ばれてんじゃないの、アンタ。別れてから出直してこいって、言ってやったらいいのよ」
なるほど、と納得して文言を丁寧に改めてからユウジにメールした。ユウジの返信はいつでも素早い。こいつ、働いてんのか?――そう疑いたくなる。
『彼女と別れたんだよ。彼女店も辞めちゃって、今スタッフ足りないから、美鳥ウチで働いてくれないかなって、相談しようと思ってたんだ』
別れたのか、と思った瞬間、少し気持ちが浮き立った。いや、あの男はダメだろうと、理性でそれを封じ込め、そのメール画面を再び姉の目の前にもっていった。
「――なんだって。仕事探してたし、ちょうどいいかな」
へら、と笑って私がそう言うと、姉が渋い顔をした。
「その男は信用できない。仕事するんなら、ちゃんとハローワーク行って登録してきなさい」
姉の言うことはよく分かる。私でも半分くらい信用できないでいるのに。それでも、ユウジにもう一度会いたい、できればあの朝の幸福感をもう一度、そう思ってしまった。
絶対本気にはならないから、と自分に言い訳して、懸命に理由をひねり出して姉の説得にかかる。
「ハローワーク通しちゃうと、簡単に辞められないじゃん。正直まだ、怖いんだよね。また変な会社にあたったらどうしようって。この人のところなら、ダメだったら辞めればいいじゃない。知ってる人がいるだけで心強いしさ」
ひねり出した理由は、意外にも全部本音だった。まったく知らないところに飛び込む勇気を、完全にどこかに置きざりにしていた。
姉は納得していないようだったけど、少しは理解を示してくれたようだった。諦めたようにため息をつくと、
「話ぐらい聞いてきてもいいけど、本当に働くならちゃんと考えなさいよ。もしアンタがこの人好きだっていうんなら、悪いことは言わないから、やめときなさい」
姉のこの言葉で、ほどほどだったユウジへの恋愛感情がそれなりに本気モードに入ってしまったという、そんな自分の過ちを姉は知らない。
〈五〉男性NO
カナはニット帽とマフラーを外すと、頭をくしゃくしゃと手で触り、潰れていた髪型を整えた。
「カナ君、久しぶりね」
タマはそう言いながら椅子から立ちあがって、腕時計を見る。
「タマちゃんさん、もう帰っちゃうんですか」
カナが少しだけ寂しそうな顔をする。この人心掌握術を、きっと私は見倣うべきなんだろう。
「何いってんの、カナ君は美鳥がいたらいいんでしょ」
その術はタマには通用しないようだったけど、タマもカナのことは悪く思っていない。しいていえば、じゃれつく子犬を軽くあしらうようなものだ。
タマはよいしょっと、床に置いたショルダーバッグを持ち上げ、
「じゃあ、そろそろ仕事に戻るわ」とその鞄を肩にかけた。今までも仕事でしょ、と言うと「そうだった」と額をペチリと叩く。この昭和的な仕草がなんとも可愛らしい。
タマのためにカナが入り口のドアを開け、「ありがと」と言って外に出ようとした右足を、タマは「そうだ」と、すんでのところで止めた。
後ろ歩きで二三歩下がるタマに合わせるように、カナはドアを閉めた。
「どうしたの、タマ」
「あ、ううん。美鳥じゃなくて」と、タマがカナの顔を見上げると、「何?」というようにカナが首をかしげる。
「参考までに、なんだけど。カナ君のところの店はJBコーヒーの影響ある? それと、ランチメニュー新しくしたでしょ。そのあと客足とかやっぱり変わってきたかなあ?」
タマが仕事をしている人の顔になった。
こんな顔のタマを見ていると、つい卑屈になってしまう。タマも決して労働条件がいいわけではなく、何年も働いているのに一年契約を更新し続けて、未だに正式契約に至らない。それでも彼女の情熱は変わらないようだった。
「地元が寂れていくのって、やっぱりさみしいじゃない」
いつもそう言っている。きっと、そう思っている人は沢山いるのだけど、タマの話を聞いていると、言うは易く行うは難しという現実をひしひしと感じる。いかんせん、少子高齢社会の最先端をいっている地域だ。上手くいかないことだらけでもへこたれないタマが、正直うらやましい。
カナは、かしげていた頭を、さらに深く傾けて「ん?」と眉をしかめた。
「タマちゃんさん、店長に会ってないですか? ――あ、そうか入れ違いになったのかな。先月分の報告、バタバタして遅くなったけど今日持っていくって、さっき会議所のほうに向かったから。今戻ったらいるかもしれませんよ」
「そうなの? メールで送ってくれたらよかったのに」
「なんか、ちょっと相談したいことがあったみたい。商店街とは別に知り合いとイベント考えてるから、そういうの助成金って出ないかなって」
「えー、じゃあ、ちょっと急いで戻ってみる。またねカナ君。美鳥もまた、連絡する」
タマはバタバタと店をあとにして、ドアを開けてカナと二人でその後ろ姿を見送っていると、視線の先でツルリと滑って溶けかけの雪の上に尻もちをついた。構ってられないというように、さっさと立ちあがってまた駆け出す。その様子を見ていたカナがクスクスと小動物を愛でるように目を細めて笑った。
「かわいいよね、タマちゃん」
本人がいなくなったとたん「さん」が抜けた。
「カナは、タマみたいなのがタイプ? 年下の方が合いそうな気がするけど」
私はそう言いながらキッチンの中に戻った。カナは、背中にピンクのロゴが入ったスポーツブランドのスキーウェアをがばっと脱いで、いつもどおりキッチンから一番近い窓際のカウンターに座る。
「そう? 俺、年上でも全然平気だよ」
カナは私を見て、すこしからかうように笑う。
「彼女いない人が、なに偉そうに言ってんのよ」
カナの中途半端で思わせぶりな言動は、女を捨てかかった私の心を少なからず動揺させる。カナとどうこう、なんて想像するだけで犯罪のような気がしてくる。いくら大人になっても、カナはやっぱりカナ。ときおり見え隠れする、あの無垢な雛鳥の面影を汚したくないし、そうでないと私はカナの近くにいられない。
カナはぷくっと頬をふくらませて、「美鳥さんも彼氏いないくせに」とストレートな刃を放った。――いや、大丈夫。これくらいの攻撃なら十分許容範囲。
「私はいいの。彼氏なんかいても自分の時間なくなるだけだし」
実際、まかり間違って誰かと付き合ったとしても時間のやりくりができる気がしない。朝から晩まで店にはりついたまま、休みの日も仕入れ、仕込み、それに事務作業。今年は確定申告も三度目でなんとか慣れてきたけれど、所得税の申告額はゼロ円。嬉しいんだか、悲しいんだか、ただ落ち込むばかりだ。そんなことを考えて、無意識にため息をついていた。
「美鳥さん、疲れてる?」
顔をあげるとカナが少し心配そうにこっちを見ていた。それでも、辛気臭い私と違ってカナのほっぺはほんのり赤くてぷりぷりしている。あのほっぺを触ってぷにぷにしたい。ついでにチューしたい、そんなことを考えた自分に驚いた。誰かに対して自分から触りたい何て考えるのは、ずいぶん久しぶりだった。
年齢的にいえばカナはもう男の人で、あの小さなヨチヨチ歩きのカナじゃない。チューをして微笑ましい、なんてことには決してならないし、その後にはそれなりの現実が待っているはずだ。
「ごめん、平気だから。自分がどんどん男になってく気がして、ちょっとへこんだだけ」
「今さら?」
取りつくろうつもりで言った言葉にそんな返しをされて、自覚はしていても他人に言われるのはグサリと傷つく。たしかにやることは大雑把だし、かしましい女子トークも苦手。だらだらと話すよりさっさと結論を言え、と言いたくなる。
心理テストで診断をしたときも「男性脳タイプです」としっかり判定された。今では男性脳というよりは、『男性NO』というのがピッタリなほどに、仕事絡みとお客さん意外の男性と接することがない。その中で、カナは少し特別な位置にいた。
小生意気なカナに何て言い返してやろうかと考えていると、私より先にカナが口を開いた。
「どれだけ男っぽくなっても、美鳥さんは美鳥さんだよ。そんなことでへこまないの」
やはりそんな生意気なことを言う。言い返す気力もなくなって口をつぐんだ私の代わりに、カナはまだ勝手に喋っている。
「ため息をつくときは、長ーく息を吐いたらいいんだってさ。息と一緒に嫌なことが全部出ていっちゃうから。――まあ、ため息ついてる人を見るのはあんまりいい気分じゃないけどね」
カナはいつものようにへらへらと笑った。
「一人のときなら、ため息ついていいってことか。やっぱり、私には彼氏は必要ないね」
「俺の前ならついていいよ。美鳥さんのため息くらい全然気にならないから」
さっきはあんなに心配そうな顔をしていたくせに、どの口が気にならないなんて言うんだろう。私が大げさに「はーあああ」とため息をつくと、カナはケラケラと楽しそうに笑った。
「カナ、コーヒーでいいの?」
「あー、なんか作って。お昼軽めだったからお腹すいちゃった」
そう言いながら立ちあがってこちらに来る。キッチンとの境目にある仕切りの向こうで、私の向かいに立ってキョロっと中をのぞき込んだ。
「カナ、今日定休日でしょ? 店長と一緒に居たって、仕事?」
私は冷蔵庫の中からカナの好きそうながっつり系の食材を選んで作業台に置いた。カナはその質問に答える前に、グイッと身を乗りだして「それ、何?」と聞いてくる。
「焼豚。それにトマトとパプリカでいかがですか? お客様」
「玉子も入れて」
そう言ってにっこりと微笑むと、くるりと背を向けて、仕切りの向こう側の細いカウンターにもたれかかる。お客さんが座れるようなスペースはなくて、食材の缶詰や瓶をディスプレイし、その横に色々な店のフライヤーを置いていた。
「で、仕事だったの?」
「今日は朝っぱらからスキーだったんだ。天気もばっちりだし、昨日降ったばかりだからコンディションもいいし」
なるほど、それでスキーウェアを着ているわけだ。
「カナのとこの店長って元気よね。ホント、尊敬する」
噂で聞くだけの『オフショア』の店長は、もう一軒居酒屋をしている。カナがこっちに移動してくる前に働いていたお店で、ここからだと二駅先の大学近辺らしい。二店舗経営しながら自分の遊ぶ時間がもてるなんて、私には想像できなかった。まずスキーに行こうという気力が湧かない。
「俺も褒めてよ、実は去年の冬スノボのインストラクターの資格とれたんだ」
再びこっちを向いたカナの顔はウキウキと楽しそうだ。
「スノボ? スキーじゃなくて」
「スキーは店長と行くときだけ。一人で行くときとか、他のメンバーのときはスノボ」
ふうん、と適当に返事をして、具材をはさんだサンドイッチをオーブントースターに入れ、タイマーを回した。
「カナはインストラクターになるわけじゃないんでしょ?」
「まあね。とりあえずどこまでできるかなって、トライしてみただけ」
それで資格がとれてしまうというところが、カナだ。本人は「器用貧乏」と自嘲気味に言ったりするけど、何をするにしても飲み込みが早いから大抵のことはスルスルと上達する。資格をとってしまうくらいだから、相当山に通ったんだろうと想像はつくけれど、心躍らせながらスキー場へと車を走らせるカナの姿が容易に想像できた。けれど、その想像のなかのカナの顔はいつも小さいころの「カナチャン」になってしまう。
カナと一緒に雪山へ行ったり、海に行ったりしている人たちは、私が見たいと思っている無邪気なカナの笑顔を見ているのだろうか。カナの話を聞いていると彼の周りにはのびのびと生きている人がたくさんいるようで、自分の現状と比べて胸がざわざわと波立つことがある。仕事も遊びも満足にできないお前は、ただの無能だ、そう言われているような気がしてくる。
「カナって、なんでもできるよね。それは認める」
私は降参の意思をしめすように両手を上げた。
褒めたつもりなのに、何故かカナは不機嫌そうに口を曲げる。
――チン、と音が鳴って、香ばしく焼きあがったサンドイッチをトースターから取りだすと、その匂いでカナの顔が上機嫌になる。分かりやすいんだか、分かりにくいんだか、振り回されるのはいつも私だ。
サンドイッチをザックリと半分に切って耐油紙で一切れずつくるりと巻き、ペーパーナプキンを敷いた小さなバスケットに入れた。それを木のトレーにのせて「はい」とカナに渡す。
「コーヒーでいい?」
「うん。マグカップでちょうだい」
カナは窓の外をながめながら、ガブリとサンドイッチにかぶりつく。ぱっと見た感じはそんなにがっしりしているようには見えない。自称筋肉マンだけど、本当はどうだか怪しいものだ。それでも食欲は人よりも旺盛で、二人前くらいならペロリと食べてしまうのに一向に太らないのだから、やはり自称ではなく現実にもちゃんと筋肉がついているのかもしれない。想像しそうになって、慌ててそれを打ち消した。
コーヒーを持っていくころには、カナはもうほとんど食べ尽くしていた。さっき言った食材以外にもたっぷりのレタスときゅうり、それにマッシュポテトも入っているのに。呆れてその口元を見ているうちに、すっかりサンドイッチはカナの胃袋の中におさまってしまった。
「ごちそうさま」
そう言った顔には、満足しましたと書かれている気がした。
こんな風に相手の顔を見て、相手と話して、その人に合ったものを作れたらいいのに。こんな笑顔で店を後にするお客さんがいる限り、店は閉めたくないと思う。けれど、現実はそんなに甘くはない。
「カナ、さっきなんで不機嫌な顔になったの? 私褒めたのに」
ええ? とカナは拗ねた顔をする。
「褒めてないよ。なんでもできる、なんて、何にもできないのと同じ」
「できないより、できる方がいいじゃん。なにがダメなの」
「えー? だって、『俺なんでもできます』ってやつより『俺これしかないんです』って方がカッコよくない?」
本気でそう思っているようで、不満げにへの字に曲げた口元が小さな頃のカナのふくれっ面と同じだった。思わずプッと吹き出してしまう。それを見てカナが上目づかいにこっちを睨んだけれど、怖くもなんともない。
「美鳥さんはそうやって、俺のことを子ども扱いする」
その口調が可愛くて、思わずさっきの妄想の通りに、カナの頬をギュッと両手で挟んでいた。肌に触れた瞬間に「あ、しまった」と思ったけど、どうしようもなくて思いっきりギューっと変顔にしてやった。さすがにチューはできない。
カナの手がぐっと私の手首をつかんで、予想以上に強い力で私の手を引き離す。私は突然のことに固まったままじっとカナの顔をみつめていた。カナは私の手首をつかんだまま、強い口調で言った。
「俺だって、いつまでも『カナチャン』じゃないからね、美鳥さん」
ドキリとした。男だ、そう思って怖くなった。
それが顔に出ていたのかもしれない。カナは掴んでいた手をパッと離した。私は心のなかに芽生えた恐怖心のようなものに驚いて、口を半開きにしたまま止まっていた。カナの前でこんな風になるのは初めてだった。
カナは少し困ったように首元をかいて、悲しそうな顔で私を見る。
「そんな顔しないでよ。……美鳥さんはさ、俺が『カナチャン』のままのほうがいい?」
うん――と言いたかったけど、そうするとカナが傷つくような気がした。強張りそうな笑顔を、どれだけ自然に見せられただろうか。
「何言ってんの。あの純粋無垢な『カナチャン』はもうどこにもいないでしょ。いるのはこの俗世にまみれた奏君だけ」
私が冗談ぽくそう言うと、カナは弱った顔で苦笑して両手を上にあげた。
「降参――。参りました、美鳥さま」
カナはマグカップにミルクだけ入れて口元に運んだ。無意識にその唇に目線が惹きつけられる。
私の中のカナチャンがどこかへ行ってしまった。目の前の奏はたしかに男の人で、私はカナのことが少し怖くなった。
〈六〉美鳥 ――二十八歳
「俺さあ、気になる子できたから、しばらく美鳥とはいいわ」
ベッドのなか。私の隣に仰向けに寝ているユウジが、素っ裸で新刊の漫画を読みながら、どうでもよさそうな口調で言った。以前にも一度こんなことがあった。
ユウジの店で働くようになってから、週一回のルーティンワークのように行われる定休日前のセックスは、最初の頃こそドキドキと胸を踊らせていた。けれど、次第に自分が満足したらさっさと眠ってしまうユウジに不満を感じはじめ、いっそ自分で気持ちよくなろうとあれこれ動いていたら
「女があんまり積極的すぎると、引くわ」
と嫌な顔をされた。
それじゃあ蛇の生殺し状態じゃないかと思いつつも、ユウジが満足するように声だけは感じているフリをする。私の欲求不満が限界に達したころ、動物的なカンが働くのかユウジは今回と同じような台詞で私を遠ざけた。
その時は二ヶ月ほどで「やっぱり、美鳥のほうが落ち着く」と、当たり前のようにルーティンが再開された。
私は欲求不満状態から唐突にお預けを食らい、最初の頃こそ
「もともと本気じゃないから痛くも痒くもない」
と平気な顔をして仕事を続けていたけれど、一ヶ月程立つと、店の奥の住居スペースから聞こえてくる可愛らしい笑い声に言いようもない敗北感をひしひしと感じるようになり、さっさと店を辞めようかと考え始めていた。
徐々に無口になる私に、ユウジは彼女の愚痴を話すようになり、そんなことで多少なりと自信を回復した私はずるずると辞める機会を失って、結局二ヶ月経ってユウジが戻ってきたときには、これまでにない幸福感を感じたのだった。達成感、と言ってもいいかもしれない。勝った――と思った。
そんな葛藤を経たあとの最初のセックスはいつもより積極的になったけれど、この時ばかりはユウジも「引くわ」とは言わず、向こうも激しく興奮しているようだった。そんな濃密な交わりもこの一回限りで、翌週のベッドの上では以前と変わらず、いや、むしろ以前よりおざなりな態度をとられるようになった。私と寝る日以外にも誰かを部屋に入れている形跡があったけれど、重い女と思われるのが嫌で、ずっと気づかないフリをしていた。
ユウジのところで働き始めてから一年と数ヶ月、中途半端なセフレ状態で二度目のお預けを食らってしまった。以前のことがあったから、あまり深く考えすぎないようにしよう、と自分に言い聞かせた。
ランチタイムの真っ最中。ランチセットのデザートをお客さんに出したついでに、窓の外をチラリとのぞき込む。黒々とした陰気な曇り空の下、枯れ落ちずに残っていた木々の葉が、耐えるように北風にあおられている。大陸から寒気が南下して、晩秋から冬へと季節が移ったのを肌で感じた。膝が痛いと言いながらも毎週通ってくれていた近所のおばあさんも、今日は顔を出さない。店内のテーブルは半分も埋まっていなかった。ため息をつきたくなるのをこらえて厨房へと戻ると、入れ違うようにユウジが出ていく。
「お客さん来たら電話して」
目も合わせずそう言うと、ユウジは二人分の昼食を手に住居の二階に上がっていった。
たしかに、調理補助の私とホールのアルバイトで事足りる。最近では、朝の仕込みもほとんど私に任せきりで、のんびりと開店時間ギリギリに起きてくることもあった。
マイドカンパニーの最初の二年は厨房で働いていたし、調理師免許も取得していたので、忙しくなければ特に困ることはない。けれど、納得はいかない。また違う感情をこめて、ため息をついた。
「ユウジさん、上がっちゃいましたね」と、アルバイトの井戸田君が苦笑を浮かべながら私の顔をうかがった。だね、と私も同じような表情を浮かべる。
オーダーの続きをするために私は厨房の奥に向かい、その背中に、井戸田君の心配そうな声がぶつかる。
「美鳥さん、大丈夫ですか?」
振り返ると、やはり心配そうに眉をひそめていた。「なにが?」と、私が軽い口調で聞き返すと、井戸田君は余計に不安げな顔になった。
「美鳥さん、辞めないでくださいね。ホント、困るから」
井戸田君はそう言い残してホールに戻っていった。七歳も年下のアルバイトに心配されるなんて、情けなくて嫌になる。
冷凍庫から、仕込んであったサーモンフライを取りだしてフライヤーに入れた。ソースをフライパンで温めながら揚がるのを待つ。リーフサラダを皿の隅に盛って、ラタトゥイユの入った小鉢をその横に置いた。
飲食店は仕込みが八割。この店のランチはさらに合理化されて、オーダーが入った後にすることはほとんどなかった。揚げて、盛って、出す。もしくは温め直して、盛って、出す。
サーモンが揚がるのを待つ間に、洗い物を洗浄機の中に突っ込んで、夜の仕込み用の食材を冷蔵庫から取りだした。慣れた作業に、変わらない段取り。たいして頭をつかうことなく、淡々と仕事をこなしていく。そんな私の頭の中は、いつもユウジのことでいっぱいだった。そんな浮かれた話ではなく、ユウジへの文句と愚痴がぐるぐると脳内を駆け巡っている。
サーモンフライはきつね色に揚がり、パチパチとはねる油の音が乾いたように高くなった。菜箸でとりあげて油をきり、準備しておいた皿の真ん中にフライを盛り付ける。きのこのホワイトソースをかけて、チンと呼び鈴を押した。この一連の作業の間に、どんなことを考えているのか、一度文章にしてユウジに送りつけてやりたかった。
白い皿にご飯を平たく盛り付けると、井戸田くんがタイミングよく料理を取りに来る。
「五番のデザート出してもらっていいですか」
私が「了解」と言うと、ニッコリ笑ってから料理とご飯の二枚の皿を左手にもって、右手のなかの会計票を確認して立ち去った。
冷蔵庫からマロンアイスを取りだしてディッシャーですくい、小さなガラスの器に盛る。キャラメルソースをかけてチラリとホールを伺うと、井戸田君はコーヒーを出す準備をしていた。私は厨房の入り口に置かれたトレーにアイスをのせ、伝票にチェックを入れてからホールに出た。
ユウジがいなくても、何の問題もなく店がまわっている。もちろん営業時間内だけが仕事ではないし、経理や事務関係の仕事は全てユウジがしていた。それでも無性に腹が立つし、自分の存在が踏みつけにされている気がする。
その一方で、この状態を引き起こしたのは自分かもしれないと、少し後悔もしていた。
ここで働き始めた当初、とにかく早くユウジに認めてほしくて、出来ることならなんでもした。失敗した感はあるものの、マイドカンパニーでの経験をもとにメニューや店内のレイアウト、アルバイトの育成についても思ったことをユウジに話した。
最初のころは「さすが店長経験者」とニコニコ笑って話を聞いてくれていたし、「好きにやっていいよ」とメニューも一部変更したり、テーブルの配置を変えたりもした。けれど、次第に私の言葉を「ふうん」と流すようになり、最終的には
「それで本当に効果があるっていうなら、企画書きっちり上げてこいよ」
と、キレ気味に言い放った。実際に企画書を書いたら、
「お前何様のつもり? ここ俺の店なんだけど」
と火に油を注いだだけだった。その口調は明らかに私を傷つけようとしていたし、じっと私を睨む目に憎しみが込められているのではないかと恐怖を感じた。
頭ごなしに怒鳴られると、私の心は条件反射のように恐怖心でいっぱいになる。そして、マイドカンパニーのときに散々浴びせられた一ノ瀬さんの罵倒が頭の中によみがえった。
『お前、何の役に立ってるわけ? こっちは慈善事業じゃねえんだよ』
『今までどうやって生きていたの。親の顔が見たいわ』
『どうせ、お前に言っても無駄だけどな』
『さっさと消えろ』
一ノ瀬さんは言葉が尽きるまで唾を飛ばし続けた挙句、最後にはいつも、ガンッと思い切り椅子を蹴飛ばした。
ユウジは、椅子を蹴飛ばすかわりに住居への扉をバンッと勢いよく閉めた。ビクッとなるけれど、それは小さく縮こまっていることしかできなかった私が解放される瞬間でもあった。
それ以来、ユウジは揚げ足を取るような発言をチクチクと繰り返すようになり、ときおり鬼の首をとったかのように得意げに私を叱責した。理不尽とは思うけれど、言い返せば倍以上になって返ってくる。黙してじっと耐えるのが得策だった。
初めてユウジが激昂した時、井戸田君は厨房とホールの境目で驚いたように固まっていた。それはそうだろう。ユウジはアルバイトスタッフの前では物分りのいい兄貴分だった。そう演じようとしていた。ユウジの理不尽な罵倒は全部聞かれているのに、私に背を向けて厨房から出ていくときに、ユウジはいつもと変わらない笑顔を井戸田君に向けた。
「驚かせてわりいな。仕事は仕事だから、厳しく言っとかないといけないこともあるんだよ。お前らは大丈夫だから、気にすんな」
そう言って、ユウジは井戸田君の肩をポンポンと叩いて、扉の向こうに消えた。井戸田君はこれ以上ないというくらいの動揺した表情で、哀れみのような目を私に向けた。そのあと、チラリとユウジの消えた扉に目をやったあと、ちょこちょこと私のそばまでやってきて、
「美鳥さん、絶対悪くないですよ」
と、こそっと口にした。つい、目が潤んでしまったけど、
「分かってるよ。私、悪くないもーん」
と軽く言って、ヘラっと笑ってみせた。井戸田君は、それでも心配そうな顔をしていた。
私がユウジに怒鳴られたあとは、いつも井戸田君がこっそりとフォローの言葉をかけてくれて、他のスタッフも井戸田君の言葉にうんうん、とうなずいていた。井戸田君が休みのときは他の子が声をかけてくれることもあった。
この温かい数々の言葉がなければ、きっとユウジの言葉に洗脳されていた。何度も「私は間違っているだろうか」と落ち込みそうになり、それでも、スタッフの言葉でなんとか正常な思考を保てていた気がする。
私は、じっとユウジの言葉に頭を垂れながら、頭の片隅ではユウジのことをキャンキャンと吠える負け犬にしか見られなくなっていた。マイドカンパニーでの苦痛に比べるとユウジの虚勢なんて、このときはまだ可愛いものだった。
井戸田君はいつも「辞めないで」とすがるような目で私を見たけれど、スタッフの中には「辞めたほうがいいと思いますよ」と言う人もいた。実際、自分でもそう思っていた。それなのにずるずると居座り続けたのは、どんなに険悪でも週一のルーティンがそれを緩和してくれていたからだ。
ダメ男――、そう思えば思うほど、見捨てるのが可哀想になってくる。
トントントンとドアの向こうで遠ざかるユウジの足音に耳を澄ませながら、ため息をついた。タイミングよく厨房の裏口が開いて、取引業者の岡井さんが顔を出す。
「おつかれさま。何ため息なんかついてるんですか、本巣さん。幸せ逃げていっちゃいますよ」
私はこれ見よがしにもう一度ため息をついてから、ちょっと笑ってみる。
「平気。もともと手元に幸せがないから」
何いってんの、と岡井さんは笑う。
「あれ、ユウジさんは?」
「あー、今ちょっと手が空いたから、上で事務作業してるみたい」
特に疑う様子もなく「ふうん」と言ってダンボールを手に厨房に入ってきた。彼女と一緒に昼飯食ってるなんて恥ずかしくて言えない。一緒に検品しながら、愛想の良い笑顔で岡井さんが私に話しかける。
「本巣さん入ってから、ユウジさん楽できていいよね。余裕ができたら二店舗目がしたいって話してたよ、この前」
「また一緒に飲みに行ってたんですか?」
「うん、先週末にね。あの人元気だよね。深夜まで飲んでるのに次の日ちゃんと朝から仕事してるんだから」
――いや。寝てるから。起きてこないから。
この心の中のもやもやを一気に爆発させたい衝動に駆られるけれど、それができない。
「二店舗目なんて、そんな話してるんですか。現状からすると夢物語ですね」
当たり障りのない範囲で自分の現状認識を披露すると、なぜか岡井さんは驚いたような顔をする。
「そんなことないでしょ。なんか、銀行とも話してるようなこと言ってたよ。本巣さんがいるから、こっちは任せて新しいことがしたいって」
寝耳に水だった。いっそ、経営難の挙句にちょっとおかしくなって妄言を吐いているんじゃないかと疑いたくなる。現状の売上で、私の今の給料をもらうのも心苦しいくらいなのに。ボーナスはないし、社会保険は雇用保険のみだけれど、月給は少ないわけではなかった。ひとえにユウジの見栄っ張りな性格のおかげだ。その見栄っ張りな性格が、じわじわと経営を圧迫する。それから目を背けるように、ユウジは見栄の上に見栄を重ねていた。
ユウジに対する不信感が少しずつ積み重なって、愛とも恋ともいえないような人間的な情、――むしろ哀れみともいえる感情を凌駕してしまいそうだった。そうなれば、きっともう一緒にはいられない。
複雑な胸のうちを悟られないように、へらりと笑って岡井さんの肩をパシンと叩く。
「いつも怒られてばかりいるのに、この店任せてくれるはずないじゃないですか。私には荷が勝ちすぎてます」
「ええ? そんなことないでしょ。本巣さんなら大丈夫だよ。料理もできるし、居酒屋で店長してたって」
「してたけど、挫折して辞めたんです。ブラックだったからあの会社」
岡井さんは「そうなんだ」と、眉尻を下げて少し憐れむような顔をした。
「じゃあ、良かったじゃない。ここの店アットホームな感じするし」
そう言ってにっこり笑うその顔面に、最悪な実情をぶちまけてやりたい。けれど、そんなことはしないから、岡井さんの舌は滑らかに動きつづける。
「本巣さんが入る前は、従業員がしょっちゅう入れ替わってバタバタしてたんだよね。本巣さんは、何が違うのかなあ?」
岡井さんは不思議そうに首をひねる。根性じゃないですか? と言うと「かもね」と笑った。
「俺、正直に言うと、本巣さんが入ったときも『また女の人か』って思ったんだよ。ユウジさんが手え出して、別れて、スタッフいなくなるってパターン、何度かあったから。ユウジさんも懲りたのかもしれないし、本巣さん信頼されてるんじゃないかな」
信頼なんてものじゃない。きっと、サンドバッグにしたいだけだ。それともユウジにとって私は『女の人』ではないのだろうか。
「そんなことないですよ。私の意見なんて全然とりあってくれないし。ちょっと虚しくなる時もあります」
つい、ため息と一緒にボロリと愚痴がこぼれた。でもこれくらい言ってもいいはずだ。
「そっか。一緒に働いてれば、やっぱり色々あるよね」
「そうですよ。私だって突然辞めるかもしれませんよ」
本音を冗談に乗せて言ってみた。それだけでも多少は胸がスッとする。
ええ? と岡井さんは困ったような顔をしながらも、本気にはしていないようだった。もちろん、それでいいのだけれど。
岡井さんが、ふと思いついたようにジャケットの内ポケットを探る。
「これ、渡しとく」
そう言って、一枚の名刺を取りだし、その裏にボールペンで携帯電話の番号をサラサラと書き加える。それを、はい、と私に差し出した。私は両手でそれを受け取って、しげしげと裏表をながめる。
「名刺ですか? 今さら」と、意図が分からず、理由を尋ねるつもりで岡井さんの顔を伺った。
「本巣さん、この仕事好きそうだし。もしこの店辞めるようなことになって、自分で店しようって思ったら、ぜひ連絡して下さい」
岡井さんは営業用のスマイルを私に向けた。このときはその番号にかけることになるなんて、みじんも考えていなかった。
「それこそ夢物語ですよ」
そう言って、私は財布の奥に名刺をしまいこんだ。
「まあ、でも可能性はゼロじゃないから。俺は、こうやって種蒔いとくのも仕事なの」
岡井さんは名刺入れを再びポケットに入れて、そのついでのように荷物を片づけ始めた。ふと、考え込むようにその手を止めて私の顔を見ると、
「本音で言えば、本巣さんがここに居てくれたほうが俺も安心なんですけどね。――でも、ユウジさんだけは、やめたほうがいいよ」
唐突なその言葉にドキリとした。
「やめたほうがいいって、……なにを」
動揺を悟られないように視線を外して、まな板の上の布巾を手に取る。無意味にまな板を拭いたりしてみるが、これは余計に不審がられるかもしれない。
「恋人とか、……結婚、とか? 俺がこんなこと言ったって、ユウジさんには絶対内緒ですよ。でも、あの人、男の俺から見てもちょっと節操がなさすぎだし、飲み屋でも色々揉めてたりしたから。本巣さんは、もっといい人探して、ね」
――結婚。二人で店を切り盛り、そんな幻想を抱けたのはほんの短い間だった。岡井さんに言われなくても、お姉ちゃんに言われなくても、こいつはダメだ。それは明白な事実だった。
私は裏口のドアを開けてユウジの車が置いてある駐車場に出た。岡井さんが出やすいようにドアを手で押さえたまま空を見上げる。降りそうだな、と思っていると、鼻の頭にポタリと水滴が落ちてきた。
「天気予報、降るって言ってたからなあ。天気崩れそうだね」
そう言って駆け出そうとした岡井さんは、足を踏み出す前に思いとどまって、私を振り返った。
「本巣さん、あの話も一応聞かなかったことにしといてくれる? 次の店出すって話。何か考えがあって本巣さんには黙ってるのかもしれないし」
ペラペラ喋ってから後悔しても遅いのに。岡井さんの前ではあまり迂闊なことは話さないほうがいいのかもしれない。
「分かりました。そのかわり、何か新しい情報が入ったらコッソリ教えてください」
私はニヤッと笑ってそう言うと、岡井さんは弱ったような顔で「できるかぎりは」と答えた。
岡井さんのトラックがユウジの車の向こうに停まっている。運転席に乗りこんで、書類に何か書いているのが見えた。裏口の脇に生えていた雑草をプチプチと片手に持てる程度に抜いて、植込みの奥に投げる。ユウジが植えたのか、それとも前の借り主が植えたのか、住居用の駐車場の植込みにはアイビーの蔓がびっしりと這っている。
水道で手を洗って厨房のドアを開けると、トラックのエンジン音がして、振り返ると岡井さんがこっちを見ていた。目が合うと岡井さんはペコリと頭を下げ、私は手をひらひらと振って見送った。
厨房に戻ると、腕まくりをした井戸田君が洗浄機にお皿を入れていて、ドアの音でこちらを振り返る。
「あ、さっきノーゲスになりました」
「――了解」
私はシンクに水を張って、レタスをドボンとその中に入れた。
ノーゲス――ノー・ゲスト、お客さんゼロということだ。時計を見ると、まだ午後一時過ぎ。ランチタイムのラストオーダーまで一時間弱あるけれど、これ以上お客さんが来る気がしなかった。
「井戸田君、洗い物終わってからでいいから、いつもどおりリーフサラダお願いしていい?」
「分かりました」
井戸田君は洗浄機の扉を閉めると、シンクの中をチラリとのぞいてから冷蔵庫の方に歩いていった。あとは放っておいても材料を自分で出して作業を終えてくれる。ユウジが厨房にいる時間が減った分、井戸田君の仕事内容は着実に増えている。鼻歌を歌いながらレタスをちぎる井戸田君の姿は、ユウジへの不満を少し和らげてくれた。
今、平日は私と井戸田君とユウジの三人体制が基本。土日や、予約状況に応じてそれにアルバイトが何人か加わる。『辞めないで』という井戸田君の言葉は切実だった。
一度、「井戸田君は辞めようとか思わないの?」と聞いたことがある。井戸田君はずいぶん複雑そうな顔をして、
「オープンの時からいるので、やっぱり愛着があるんです。この店」
と苦笑した。そのあと言いにくそうに、美鳥さんには悪いんですけど、とチラリと私を見ると、
「俺、ユウジさんのことそんなに嫌いじゃないんです。以前のユウジさんはもっと前向きで、ついて行きたくなるような人で。きっと、今ちょっと上手くいかないからイライラしてるだけだと思うんです」
あんなにいつも私をフォローしてくれるのに最終的にはユウジを選ぶのかと、このときは少なからずショックを受けた。調子のいい時に他人にいい顔をするのなんて簡単。上手くいかないときに人間性が出るんだよ――。そう言いたかったけど、井戸田君の夢を壊してしまいそうで言えなかった。いや、言った上で、それでもユウジを選ばれるのが怖くて言えなかったのかもしれない。
ランチの残り物でまかないを済ませると、井戸田君は「じゃあ今日はこれで」と帰っていった。井戸田君はアルバイトをもう一つかけ持ちしていて、週に何回かお昼だけで帰ってしまう。そんな日は、夜の営業が憂鬱でしかたなかった。
これから二時間ほど休憩して、仕込み、それから夜の営業が始まる。二階で二人がイチャイチャしていると思うだけで、この場所にいるのが嫌になる。気晴らしに本屋にでも行こうと鞄を手にとり、コートをはおる。裏口から出ようとしたところで、店のエントランスの方から音が聞こえた。
ドアをノックする音。顔だけ出して様子を伺うとスーツ姿の男性が入り口の向こうで傘をさして立っている。『準備中』の札が出ているはずだし、店内の電気も切ってある。男性は私の姿をみとめると愛想よく笑ってペコリと頭を下げた。私はコートを脱いで入り口に行き、カチャリとドアの鍵を開ける。傘を閉じて入ってきたその男性は、スーツの襟に見たことのあるバッジを付けていた。
「こんにちは、うみねこ銀行の田宮と申しますが、オーナー様は今いらっしゃいますか?三時にこちらに伺うように約束していたのですが」
その銀行員は、童顔なのか本当に若いのか分からないけれど、見た目は明らかに私よりも年下だった。コートを手にかけて、肩のあたりが雨で湿っている。
「あ、すぐ呼んできます。中でお待ち下さい」
私は来客時につかっている奥のテーブルにその人を案内してから、自分のスマホでユウジに電話をかけた。
『何?』
無愛想な声が聞こえた。
「うみねこ銀行の田宮さんて方が来られてますけど」
仕事に徹するように、トーンを抑えて言う。そうしないと汚い罵りばかりが口から飛び出しそうだった。電話の向こうからは『え? ああ』と、明らかにアポイントメントを忘れていたような声がする。小さくため息がもれた。
『わるい。ちょっと仕事が押してるから十分ほど遅れるって謝っといてくれる?』
そんなユウジの声の奥に、どこいくの、という女の声が聞こえた。私は「分かった」と一言いって電話を切り、そのスマホを壁に投げつけたくなる衝動を必死でこらえた。
ユウジが言ったままの文言を田宮さんに伝え、コーヒーを出したところで、ユウジがガチャリとドアを開けて顔を出した。黒のスラックスに白のコックコート。――お前、たった今それ着ただろ、そうテレパシーでユウジに言った。伝わってはいないけれど。
「すいません、お待たせして。ちょっと立て込んでて」
そんなユウジの嘘に、田宮さんはガタリと椅子から立ちあがって営業用の張り付いた笑顔でお辞儀をした。
「こちらこそお忙しいところを申し訳ありません」
茶番にしか見えなかった。
私はペコリと田宮さんに会釈したあと、すれ違うユウジに「休憩入ります」と目を合わさずに言って、裏口から外に出た。
雨は本降りになっている。傘をさして近くの本屋に行き、「経営」のコーナーから『小さなカフェをはじめる人の本』という可愛いイラストのついた開業読本を手にとった。
ユウジは今でも相当の借金が残っているはずだった。それに見合うだけのお洒落な内外装と備品があの店には充実している。追加融資で二店舗目の開業なんて、――それは、マイドカンパニーの常套手段と同じなのかもしれない。
マイドカンパニーはいわゆる自転車操業の状態だった。既存店舗の赤字を補填するために、新しく出店して融資を受ける。その繰り返しはちょうど私が会社を辞めた頃に破綻した。いや、破綻したからこそあっさりと会社を辞められたわけだ。
最後に本部で会った、あの「辞めようかな」と言っていた同僚は、律儀というか、ただ単に愚痴を聞いてほしかっただけなのか、半年ほど前に「俺も辞めた」と電話をしてきた。そのときには半数以上の不採算店舗をたたんで、従業員の数もずいぶん削減されたらしかった。その同僚はリストラ対象にはならなかったらしいけれど、自発的に退職届を提出したと言っていた。
「俺さあ、ずっと不思議だったんだよね。現場にいるとさ、一ノ瀬さん達のやりかたじゃあ絶対によくならないし利益も上がらないってひしひしと感じるんだけど、その人たちの提出した事業計画書で銀行は金だしちゃうんだから」
紙切れなんて当てにならないよな、と溜まった鬱憤を晴らすように熱弁する彼の言葉を、私はいちいち納得しながら聞いていた。
果たして、こんなクソみたいなユウジに銀行は金を出すのだろうか。そんなの、金をドブに捨てるようなものだ。
〈七〉少年と青年とホージンカ
「美鳥、聞いた? カナ君とこ法人化するんだって」
タマは一口サイズにカットしたサンドイッチに、小ぶりの口を大きく開けてパクリとかぶりついた。ソースが口元についている。タマの向かいに座っている少年がチラリとタマの顔を見て、大げさに軽蔑するような目つきを向ける。
「オカン、マヨネーズついてる」
「えー、マジ? どこどこ? とれた?」
タマは指で口元を拭いながら、少年に向かって顔を突き出す。少年は手元のゲーム機に目を向けたまま「とれたとれた」と適当にあしらった。
「あんた、こんなとこまで来てゲームするの?」
タマがお母さんの口調になる。普段はそんな感じがしないのに、やっぱり母親なんだなと目の前の現実をうらやましく思う。
「今だけだろ。待ってやってるんだから、早く食べなよ」
少年の前にはすでに食べつくされたサンドイッチの紙屑があった。パストラミビーフに玉子たっぷりのタルタル、それにチーズとトマト。カナに作るのと同じようにボリュームアップしたにも関わらず、やはり成長期の男子は食欲旺盛だった。サンドイッチの籠の隣にはキレイに平らげられたガトーショコラの皿もある。残っているのはコーラの入ったグラス。
一方タマの前には、小さな二切れのサンドイッチが残っている。アボカドとサーモン。それにコーヒーカップ。
四月の終わりの祝日。ゴールデンウィークの初日にあたるこの日、駅前のアーケードでは市が主催する花と木のイベントが行われていた。飲食店もいくつか屋台を出している。ウチの店にも客足は絶え間なくあるものの、その煽りを受けてか注文が入るのは飲み物ばかりだった。のんびりとグラスを洗っていたとき、タマが少年とともに顔を出した。仕事と遊びを兼ねてイベントに顔を出してきたらしい。
「あっちで食べてもよかったんだけど、たまには美鳥のとこでお客さんしようかなって思って」とにこやかに入ってきたタマのうしろで、少年は少し不満そうだったけれど、サンドイッチを食べ終わるころにはそれなりに納得してくれたようだった。
「ホージンカって? 会社にするってこと?」
私はトレーを小脇に抱えたまま、タマの顔をのぞきこむように首をかしげた。タマがもぐもぐと口を動かしながら私の顔を見上げて、うんうんと頷く。ごくんと飲み込んだあと、コーヒーを一口飲んで「ぷはー」と親父のビールのような息を吐いた。
「なんだって。まあそうだよね。『オフショア』の売上、メニュー変えてからも順調に伸びてるし。JBコーヒーの影響は全然ないよね。逆にJBのほうが落ちてるかも。『オフショア』が、ランチから夜まで通しで店開けるようになったから」
「へえ」と、私はため息のような相槌をうつ。うちの現状と比較するのはおこがましいくらい、カナのところは順調のようだ。
「カナ君から聞いてない? うちに上がってくる報告は『オフショア』の分だけなんだけど、もう一軒の居酒屋の方も評判いいしね。売上的にもそういうタイミングなのかもしれないわね」
「消費税とかの関係?」
「うん。それに、何するにしても信頼度がちがうし、あそこのオーナーさんは事業をもっと拡大するつもりみたいだから。あと、働くにしても社会保険とかついてたほうが安心よね。私、旦那が国保とかだったら不安かも。よかったじゃん美鳥」
タマは意味深な笑みを浮かべて私を見上げるけど、その発言はちょっと先走りすぎていて動揺すらできない。
「私には関係ないでしょ。人のとこが法人化したからって、私は国保、国民年金のまま」
「カナ君のことよ。分かってるでしょ」
今さらのように、後悔する。タマに相談なんかしなきゃよかった。タマが年をとったら世話焼きおばさんになるのは確実だけれど、果たしてそれまでに私が結婚しているんだか、とんと自信がない。そもそも「結婚」なんて言葉、タマに相談したときは一言も出していないし、結婚どころか愛だの恋だの、そんな言葉すら発していないというのに。
カナとは二ヶ月近く会っていない。あの、手を掴まれた日から、カナはパタリと店に顔を出さなくなった。
一度だけ、夜中に酔っ払って電話をしてきたことがある。
『美鳥さんのサンドイッチが食べたいー。禁断症状になる』
そう言ってケラケラと笑っていた。メニューが変わったり、スタッフが変わったり。営業時間も変わって、そのうえ法人化。カナはずいぶん忙しそうだった。
夜中の二時にかかってきた電話なんて、以前なら絶対無視して寝ていたはずなのだけれど、その頃カナと同じように私も禁断症状に悩まされていた。絶対的に――カナが足りなかった。
手を掴まれた時に感じた怖さは恋とか愛とか、そういう類のものには思えなかった。深く考えようとすると、過去の恐怖がじわじわと体の中に滲み出してきて、そこでいつも思考を止めた。カナにもう一度会って確かめたいけど会うのも怖いというジレンマに陥り、私はそれをタマに相談したのだ。
「男が全員美鳥を傷つけるわけじゃないから、十把一からげに男はどうこうって考えちゃだめだよ。カナ君はカナ君。今まで美鳥が見てきたカナ君も、ちゃんと男の人だったんだから、本質は何も変わってないよ」
タマはそう言ったあと、
「カナ君は人たらしだから、トロトロしてると簡単に彼女できちゃうよ」
と私の顔を見てクスリと笑った。その言葉が胸にズキリと刺さる。
窓際のカウンターに座るカナ。その隣に――彼女。
「それはいやだ。いやだけど、怖い」
そう本音をつぶやいた私を見て、タマはしょうがないなというように、小さくため息をついた。
「美鳥、目を反らしたままだと、ずっと怖いままだよ。カナ君とそんなの嫌でしょ」
そう言ったタマの顔は、お母さん、という感じがした。
それでも私は自分から連絡することもできず、カナが顔を出さないのをいいことに、自分の気持ちを棚上げしてきた。けれど、うまく棚の上に置いておくこともできず、日々会いたい気持ちが積もっていく。帰り道に、ひと目姿が見えないかと『オフショア』の前を自転車で通ってみたりもしたけれど、結局今日まで会えずにいた。
それにしても、改めてカナのところのオーナーはすごいな、と感心する。比べてもどうしようもないし自分がそういう風にしたいわけでもないのだけれど、他人の成功している話は否が応でも自分の無力さを痛感する。
春になって多少客足は伸びたものの、ずるずると同じことをしていても根本的な問題はは打破できそうになかった。一人でカフェをしているのに、安さを売りにして価格競争で大手と我慢比べをしても、こっちは歯牙にもかけてもらえるはずがない。無理をして倒れてしまえばそれで終わりだと分かっていても、一歩踏み出す勇気が持てず現状維持のまま日々の仕事をこなしている。
そのうえ、ここ最近エアコンの調子が悪い。居抜きで契約したこの物件に元々ついていた古い型の業務用エアコンは、開業当初は問題なく稼働していた。それが冬のはじめごろから突然切れるようになり、操作ボタンをポチポチと押しているとなんとか動くのだけれど、見るからに年代物のエアコンの寿命は明らかに尽きかけていた。もし壊れて新しいものを設置するとなれば、――考えるだけで胃が痛くなりそうだった。
カナがうらやましい。雇われてるだけならいつでも逃げ出せる。調子のいいときはそれに乗っかって、やばくなったら放り出せばいい。タマにだって、ちゃんと稼ぎのある旦那がいるし、辞めたくなったらいつでも仕事なんか辞めてしまえる。働かなくてもいいような身分で自分のやりたい仕事をしているタマが、生き生きと仕事の話をするのはいつもうらやましかった。
タマはサンドイッチの最後の一切れを飲み込むと「ああ、そうか」と私を見て、
「もし結婚しても、美鳥は国保のままになるんだよね。美鳥なら結婚してもきっとお店続けるんでしょ? 別に相手がカナ君とは言わないけどさ」
と、やっぱりからかうような視線を寄越した。そのあと、
「やっぱり、美鳥みたいに自分のやりたいことやってるのって、うらやましいよね」
そう言って、なぜか少し寂しそうな顔をして笑う。そんな顔で、そんな風に言いたいのは私のほうなのに。
店のドアがギィと開く音がして、ふわりと風が吹き込んできた。振り返ると大学生らしいカップルが店の中をのぞきこんでいる。
「すいません、二人はいれますか?」
白いTシャツの上にダンガリーシャツを重ね着した青年が、爽やかな笑顔を私に向けた。二十歳は過ぎているだろうか。彼の服の裾をつかんだ女の子との関係が見るからに初々しくて、「男性」と呼ぶのにはまだ早い気がする。
私はタマに小さく手を振ってから、若い二人に笑顔を向けて声をかけた。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
青年はカウンターの椅子を二つ引いて、いつもカナが座っている方の椅子に腰をおろした。彼女はもう一方の椅子に座り、空いている隣の椅子に鞄を置く。その三つの椅子で、特等席のような窓際のカウンターは満席になる。といっても、入り口を入ってすぐなので、好んで座るお客さんは少なかった。
中途半端な時間にも関わらず、そのカップルはサンドイッチを注文した。私がそれを作っているあいだ、二人は誰かを待っているのか、しきりに窓の外をキョロキョロとながめていた。彼女の置いた鞄はその誰かの席なのかもしれない。
「美鳥、そろそろ帰るわ。ごちそうさま」
タマは、自分たちの食べたトレーを手にレジの前に立った。私はそれを慌てて受けとり、サンドイッチを作る手を止めてタマの会計をする。
「テーブルに置いといてくれたら片付けるのに」
「いいよ。忙しそうだし。それくらいさせて」
お釣りを渡すと、タマは「じゃあ、また来るね」と言って私に背を向けた。その横で、
「ごちそうさまでした。また来ます。な、オカン」
少年がそう言ってペコッと頭を下げると、タマは私の方を振り返って苦笑した。それから二人で手を振って外に出ていった。
カウンターにサンドイッチを運ぼうとキッチンを出たところで、唐突にドアが開いて目の前にカナの顔があらわれた。驚きのあまり肩がビクリと震えて、トレーの上でサンドイッチの籠がカタッと揺れる。
「美鳥さん、久しぶり」
カナは溶けるような笑顔を私に向ける。
「あ、うん。いらっしゃい」
そう言う声がうわずりそうになる。動悸は、おさまるどころかどんどん激しくなっている気がした。そんな私からフッと視線を外してカナが店内を見回す。
「あ、いたいた」
カナはそう言うとカウンターのカップルに近づいて声をかけた。
「千尋ちゃん、おつかれ」
と親しげに女の子の頭をポンポンとたたく。――ドキリとした。あんな風に、カナから気安く触られたことなんて、私にはない。たかが手首を掴まれただけでこんなに何ヶ月も悶々としているなんて意識しすぎだとは分かっているのだけれど、自分ではどうしようもできない。あの彼女が鞄を置いた席に、カナは座るんだろうか。あの子の隣に。
「俺の席、ここ? いつもはそっちなんだけどな」
カナがそう言いながら彼女の隣の席をひくと、青年が「そっちに詰めて」と彼女を端へ追いやった。
「奏さん、こっちどうぞ。指定席、空けましたから」
青年の気持ちがひしひしと伝わってくる。カナはそうなることが分かっていたかのようにへらりと笑って、「はーい」といつもの場所に落ち着いた。私はほっとして、そのほっとした自分にまた、動揺する。カナに水を出すだけでドキドキして必死で平静を装っているのに、前と変わらずへらへら笑うカナを見ると、年上のくせに自意識過剰な自分が無性に情けなくなってきた。
「美鳥さん、俺アイスコーヒー。あと、おまかせでいいからサンドイッチ持ち帰りで作ってもらっていい? ゆっくり食べてる時間なさそうだから」
カナはそう言うと、コップの水を一気に飲み干した。
「奏さん、『オフショア』忙しそうですよね。最近こっちにはヘルプに来ないし」
青年がそう言ってカナの顔を見る。青年のいう「こっち」は、もう一軒の居酒屋のことだろうか。私はカナのグラスに水を継ぎ足してからキッチンに戻った。作業をしながらも、カナの声が濾し取られたかのようにスルッと耳に入ってくる。
「忙しいけど、ゴールデンウィーク明けたら落ち着いてくるんじゃないかな。新しいメニューにも慣れてきたしね。それに、今日は忙しいって言っても、注文はほとんど飲み物だけだから。店には居なきゃいけないけど、たいして疲れてもないよ」
カナのところも同じように飲み物ばかりだと聞いて少し安心した。同じだからといってウチの経営状態が良くなるわけではないのだけれど、営業不振の原因を自分以外に見つけるだけで救われる。
窓の向こうを通り過ぎる人々は、屋台で買ったらしい食べ物を手に持っている。ニコニコと通り過ぎる姿が私とは遠い世界の出来事のような気がして、なんだかまぶしかった。
「それにしても、今日は仕事終わりの千尋ちゃんにおごる約束だったんだけど、どうして一人増えてるのかな」
カナがこういう口調のときは、ちょっとイタズラっ子のような顔をしている。手元から視線をあげてチラリとそれを伺った。――楽しそうな顔。つい私まで嬉しくなる。青年がなにやらしどろもどろの言い訳をしているようだ。カナは可笑しそうにクスリと笑ってから、不意にこっちを振り返った。目が合って、つい、視線をそらす。きっと不自然だと思われている。ガタッと席を立つ音がして、足音が近づいてきた。
「美鳥さん、アイスコーヒーだけ先にちょうだい」
そう言われて、考え事ばかりでついうっかり忘れていたのに気がついた。
「あ、ごめんね。時間ないのに。すぐ出すから」
慌てて冷蔵庫を開けようとして、出しっぱなしにしていた折りたたみ椅子につまずく。こけたりはしなかったけれど、カナに見られたと思うと自分の動揺が全部バレてしまいそうで恥ずかしかった。
「やっぱり、あいかわらずだね。美鳥さん」
後ろでカナの声がした。
あれ、と違和感を感じた。振り返ってカナの顔を見ると、いつもと変わらない呆れたような柔らかな笑顔。何が違うんだろう。こんなふう私が失敗したときは、いつも同じやり取りをしていたはず――。
『あいかわらずだなあ、ぴいちゃん』
『うるさいな、カナチャン』
カナとの間に、薄い膜が一枚張られたような気がした。カナが『ぴいちゃん』と呼ばない限り、私は『カナチャン』と口にできない。カナとの思い出がぽろぽろと壊れて、寄る辺だった脆い過去の記憶がさらさらと足元から消えていくような気がした。
「カナ……」
折りたたみ椅子に片手をついたまま、カナを見上げてつぶやいた私の顔はどんなにひどい顔だったんだろうか。
「どうしたの? 美鳥さん。どこかぶつけた?」
カナは心配そうにキッチンをのぞき込んでいる。それからスイングドアを開けてキッチンの中に入り、作業台に片手をついて私の顔をのぞき込んだ。
「平気?」
頬が熱い。顔が赤くなるのを見られまいとして、カナに背を向けて立ちあがった。
「ごめん、なんでもないから。座って待っててよ」
その私の言葉を受け流すように、カナはするりと狭いキッチンの奥に入り込み冷蔵庫を開ける。
「美鳥さん、サンドイッチ作ってていいよ。勝手にいれるから」
カナはそう言うと、迷いもせずアイスコーヒーの入ったジャグを取りだし、棚から出したグラスに製氷機の氷を入れてコーヒーを注いだ。これまでもキッチンに入ってきたことは何度かあったけど洗い物を流しに置くくらいで、こんなにキッチンの中を把握してるなんて思わなかった。
いつも感じることだけれど、カナは視界が広くて周りをよく見ている。それで、必要なときだけちょっと手を出す。職場で頼りにされている姿が簡単に想像できた。もう、小さい頃みたいに私の手なんか必要ないし、むしろ、こうやって私のほうがカナに助けられている。ありがたいと思うけれど、反対に自分がどんどん必要とされなくなっている気がする。そんな卑屈な自分が嫌いだ。誰を見ても、誰と比べても、私は価値がないように思える。
――だから、この仕事をしている。
自分をアピールするのも、自分の思った通りにするのも、怖くてできなかった。以前はそんなことなかったのに、自信なんてすぐぺちゃんこになる。それでも、こうやってお店をしていれば、自分から踏み出していかなくてもお客さんの方からドアを開けて来てくれる。それだけことで、自分が誰かに認められている気がしていた。
他人の考えたもののほうが優れている気がして、「一般的にはこっちのほうがベター」と言われるやり方を選び、安くないとお客さん来ないよと言われて値段を下げ、助成金がでるなら受けたほうがいいよと言われてこの場所に決めた。そして、美鳥さんはこの仕事向いてるよね、そう言われて、馬鹿みたいにそれを信じている。好きなことを仕事にしてて羨ましいよね、そんな風に言われると、自分でもそう思えた。けれど、この場所から逃げ出したい、そんな思いが日に日に大きくなっていく。
カナは冷蔵庫の前に立ったまま、思い立ったようにアイスコーヒーを三分の一くらい飲んで、もう一度冷蔵庫をあけると牛乳を取りだしてグラスに注ぎ足した。
「美鳥さん、手、止まってるよ」
そう言って、折りたたみ椅子をキッチンの端に移動し、そこに腰をおろした。
「カナ、カウンターで待っててよ。すぐ作るから」
「うーん、でも、あの二人の邪魔したくないし」
チラリとカウンターに目をやると、青年と千尋ちゃんと呼ばれた女の子は雑誌を広げて何やら楽しそうに話している。あの青年の場所にいるのがカナじゃなくてよかったなんて思いながら青年の背中を見ていると、キィと、入り口のドアが開いてお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
私と同じタイミングでカナが言って、驚く私を尻目に、カナは立ちあがって「どうぞ」とお客さんに笑顔を向ける。カウンターの二人が振り返って何やらひそひそ話をしながら苦笑していた。カナは黒のズボンに、襟と袖口に青いラインの入った白いシャツ――『オフショア』の制服で、当たり前のようにグラスに水を注いでお客さんのあとを追った。
呆気にとられながらも、ようやく私は具材をはさみ終わったサンドイッチをトースターに入れた。焼きあがるのを待つあいだにテイクアウト用の入れ物を棚の奥からとりだし、売り物にならないガトーショコラの端切れをラップで包んだ。
キッチンに戻ってきたカナは、胸ポケットからボールペンを取るとレジの横に置いてある会計票にサラサラと記入する。
「アイスコーヒーとジンジャーエールだって」
そう言いながら、棚からグラスを取り出す。
「いいよ、カナ。もうカナのサンドイッチも出来るし」
「じゃあ、それが出来るまで。美鳥さまのお役に立たせてください」
カナは冗談ぽく口にしながら満足そうに笑っているけど、私はじわじわと傷ついていた。一人じゃなにもできない、そう言われている気がした。私が必死で築いてきたものは、カナにとってはなんてことない、片手間にできること。
「カナ、それ私の仕事だから……」
私の声は怒っていただろうか、悲しんでいただろうか。――カナの顔は、寂しそうだった。
「ごめんね。でしゃばりすぎちゃった」
カナはそう言って、氷だけ入ったグラスを置いたままキッチンを出ていった。私とのやりとりなんて何もなかったように、ヘラヘラと笑って青年たちの会話に加わっている。
出来上がったサンドイッチをさっきのガトーショコラと一緒に紙袋に入れる。こんな小さなおまけだけじゃあ、カナとの間にできた壁なのか溝なのか分からないものは埋まらない気がした。その袋をカウンターに持っていくと、カナは席を立って青年の肩をポンと叩いた。
「男にはおごらない主義だから」
とニヤリと笑ったけれど、レジではしっかり三人分払っていた。「ごちそうさま」と言ったカナは笑顔だった。それは小学校の卒業式のあとウチの玄関で見せた貼り付いたような笑顔で、たぶん本当は、カナは笑っていなかった。
「……カナ、怒ってる?」
嫌われたような気がして、不安が口をついて出ていた。カナは少し困ったような顔で笑い、さっきよりはカナの気持ちが伝わってきた。
「怒ってないよ。美鳥さんの邪魔しちゃったかなって、反省してるだけ」
「邪魔なんかじゃないよ。私が、……」
言葉が続かず、私はそのまま口を閉じた。もっと、ちゃんと人の好意を受け取れたらいいのに、自信がない分だけそれが出来なくなっている。
「美鳥さん、……俺、本当はなんにもできないよ。でも、出来ることあったら言ってよね」
カナの目が、泣いている気がした。もちろん涙なんか出ていないし、顔は笑っているのだけれど、私がカナの心を刺したんだと思った。
「ありがとう」
精一杯の笑顔をカナに向けると、少しだけ心が緩んだようにカナの目尻が下がった。カナは「またね」と紙袋を手に、ドアの向こうに駆け出していった。
後ろ姿を見送ったまま、閉められたドアを見つめて私はレジの前でぼんやりしていた。
「あの」と声をかけられて、青年が目の前にいるのにやっと気づいた。青年は財布を手にレジの奥に並ぶ何枚かの伝票をのぞき込んでいる。
「伝票、こっちにあります? 会計お願いします」
「あ、お二人の分はもう頂いてますよ」
そう私が言うと、青年は悔しそうに眉をしかめた。
「また、やられた」
そう不満げにつぶやく青年に向かって、女の子が「いいじゃん。おごってもらえば」と嬉しそうに笑いかける。その言葉に青年は余計に拗ねたような顔になった。それが微笑ましくて、つい声をかけた。
「おごってもらったらいいよ。カナもいい顔したいだけだから」
私がそう言うと、青年が少し嬉しそうに口角をあげて
「奏さんって、『カナ』って呼ばれてるんですか?」
と聞くので、昔は『カナチャン』だったと教えてあげる。言ったあとで、カナがまた怒るかなと、少し不安になったけれど、青年たちがなんだか盛り上がって楽しそうなのでそれでよしとすることにした。
「これで奏さんの弱みを一個握れたかも」という青年に、千尋ちゃんがからかうように声をかける。
「そんなの握っても、たぶんそれ以上の弱み握られてるから」
彼女はそう言いながら、ふと思い出したように「そういえば」と口元に手をあてた。
「私、奏君が泣いたところ見たことあるよ。内緒って言われたけど、『オフショア』の人はほとんど知ってるの」
青年は目を丸くしたけれど、それは私も同じだった。泣いたところなんてカナが小学校低学年のころ以来見ていない。モヤッと、嫉妬のような感情が芽生えるけれど、それは彼女にではなく『オフショア』に感じたものだ。そんな風に気を許せる場所がカナにあるというのが、私一人置いてけぼりにされたような気持ちにさせる。その気持を隠して彼女に尋ねようとしたとき、青年が先に私の聞きたいことを口にした。
「泣いたって、なんで?」
「えっと……、ヒロセさん、辞めないでって」
彼女は青年にそう言ったあと、私の方を向いて「あ、前の料理長のことです」とつけ加えた。青年は「意外……」と絶句している。
その名前は、何度となくカナの話に出てきた。私は『店長』と同じくらいの親しみを込めてカナの口から語られるその名前に、少なからぬ興味と、ほんのちょっぴりの嫉妬を覚えていた。
〈八〉海鳴りとカノン
ゴールデンウィークが明けて、久しぶりの定休日。先週の水曜も臨時で開けていたから、二週間ぶりの休みだった。
連休最終日あたりから崩れていた天気もようやく回復し、古くは山城が存在していたという海望山の緑も雨にあらわれて瑞々しくかがやいている。二週間分の疲労を抱えて昨夜は倒れこむようにベッドに横になったものの、いつもよりも二時間長い睡眠時間と、窓から入り込む爽やかな風にすこしだけ気分が上がる。
軽く朝食をすませてから身支度を整えて、居間にいる母親に声をかけた。春の日差しで草花がニョキニョキと伸び始める頃、冬場は腰痛で出不精でなっていた母も土から這い出した幼虫のようにもぞもぞと動きはじめた。最近ではコルセットもしなくなり、午前中は庭いじりをしたり買い物にでかけたりと母がこの時間に家の中にいることはないのだけれど、私が階段をおりたとき珍しく居間の方で話し声が聞こえてきた。テレビでも観てるのかな、と
「りっちゃん? いるの」
と声をかけて中途半端に開いていた障子をさらに引くと、母ともう一人、同年代の女性がちゃぶ台をはさんで向かい合って座っていた。
「あら、美鳥ちゃん。おじゃましてます」
少し白髪の混じった髪を後ろで上品にまとめたその女性の顔には見覚えがあった。けれど、誰だったのかはっきりと思い出せない。母とその女性はそんな私を見ると、顔を見合わせてクスクスと笑った。
「やだ、美鳥。憶えてないことないでしょ。よしりんのお葬式のときにも会ってるのよ」
そう言いながらも、母は口に手を当てて笑い続けるばかりで答えを教えてくれようとはしない。申し訳なさでチラリと上目づかいに女性を見ると、優しそうな目尻の皺を深くして、その人が口を開く。
「奏君にね、美鳥ちゃんに会ったって、聞いてたのよ。息子がいつもお世話になってるみたいで」
彼女は懐かしそうに目を細めて私の顔を見ている。どうして今まで思い出せなかったのか不思議なくらいだけれど、思い出してしまえばずいぶん昔の風景が頭の中に蘇ってきた。
――タエコさん。漢字は分からないけれど、カナの家族がまだ近所に住んでいた頃、よくこうしてうちに遊びに来ていた。今みたいにりっちゃんと二人でちゃぶ台に頬杖をついて、お菓子をつまみながらケラケラと大人の話をしているのを、意味も分からないまま姉と二人で盗み聞きしたりしていた。
「お久しぶりです、タエコさん。奏君に聞いてわざわざ来てくださったんですか? よかったね、りっちゃん。話し相手ができて」
「本当。どうしよう、夜までしゃべっててもいい?」
と母は嬉しそうに笑ったけれど、すこしだけ真面目な顔になって立ったままの私を見上げ、でも違うの、と言った。
「タエコさん、お墓参りの帰りなんだって。カノンちゃんの命日で、奏君とさっき一緒に行ってきたって。よしりんのお墓にもお参りしてくれたみたいなの」
うれしいね、と母は鴨居にかけられている写真を見上げた。写真のなかの両親はずいぶん若いけれど、年齢は今の私と同じくらい。肩の出た花柄のワンピースのりっちゃんと、アロハシャツのよしりんが体を寄せ合ってカメラに笑いかけるその後ろには、真っ青な海が広がっている。ハワイで写した新婚旅行の写真はいつのまにか色がくすんで、それが過去だということを主張しているようだ。
――カノン。どんな字だっただろうか。花音・香音……奏音? とりあえず、『音』という字が入っていたことは思い出した。思い出しはしたけれど、本当は今その名前を聞くまで、存在自体をすっかり忘れていた。
カノンちゃんはカナの妹で、たしか三歳くらいのときに亡くなった。そのあと一年もしないうちに引っ越してしまったから、あれはカナが小学校六年生のときだ。
あれ以来、『いってらっしゃい』と言って手を振るカナの笑顔が変わってしまった。タエコさんがウチに来ることもパタリとなくなって、うちの家族は心配しつつも、遠巻きにカナの家を外からながめるくらいしかできなかった。
そのことがある前は、近所のスーパーのレジで働くタエコさんの姿をよく見かけていたのだけれど、そのパートも辞めてしまったようだった。カノンちゃんが事故にあったのがスーパーの駐車場だったという話だから無理もない。噂では、突発性難聴で少し引きこもりがちになっているとか、鬱病で病院に通っているとか言われていたけれど、うちの母の電話も一切出てくれることはなかったから本当のところは分からずじまいで、そうこうするうちに唐突に家族揃って引っ越してしまった。
いま目の前で微笑むタエコさんは、記憶のなかのタエコさんと変わっているようにも思えない。中学にあがって部活やら塾やらで忙しくしていた私はカノンちゃんとはほとんど顔を合わせたこともなかったから、ブツリと途切れた記憶が強引につなぎ合わされたようで、変な違和感をおぼえた。
「タエコさん、元気にされてたんですか?」
私は社交辞令のような言葉を口にしながら、本当はちゃんとその答えを聞きたいと思っている。
「元気よ、ほら」
タエコさんは腕を曲げて力こぶを作るような仕草をしたけれど、その腕にはそんなに大層な筋肉はついていそうにない。カナの腕の何分の一くらいなんだろうか。きっと、私は無意識に心配そうな顔をしていたのかもしれない。タエコさんは少しだけ困ったように笑って、私をチラと見てから母に視線を移した。
「こっちにいたころはね、ちょっとだけ耳が聞こえにくくなったりとかして、外に出るのもだるくて……。突然顔も見せなくなっちゃったから、心配かけちゃったわよね。急に引っ越しちゃったしね」
「そうよ、もう。本当に心配したんだからね」
母の顔は怒っているわけではなく、まだまだ心配が拭いきれてないようにタエコさんの顔を伺っている。「ごめんね」と笑い返すタエコさんの顔は、『しょうがないなあ』と私に向けるカナの笑顔にそっくりだった。
「こっちにいるの、辛かった?」
そう母が問いかけると、タエコさんはうんうん、とうつむきがちに頷く。
「カノンが少しずつ大きくなって、こっちの家も古くなったし手狭だから建て替えようかって話してたの。もちろんこっちにね。設計図もできてたんだけど、カノンと一緒に暮らすことを考えて作った家に暮らすのは辛くて……。スーパーに行くのも無理だったし、あの子と歩いた道を通るのも、あの子と遊んだ公園に行くのも」
タエコさんの視線はちゃぶ台の上のままで、私と母はその視線の先に何かを探すように同じ場所を見つめている。
「それで、今住んでる緑台に引っ越そうかって、ウチの人が言ってくれたの。奏君には可哀想なことしたかなって、思ってるんだけどね。小学校の友達とは離れちゃったから」
タエコさんは顔をあげて、私を見てニコッと笑う。
「美鳥ちゃん、お母さんのこと『りっちゃん』って呼ぶのね」
りっちゃんは照れたようにタエコさんの顔を見て
「お父さんは、『よしりん』なの」
と言ってくすりと笑う。タエコさんはうらやましいなあ、と目尻に皺を寄せた。
「緑台に引っ越したときね、それまで無意識に奏君のこと『おにいちゃん』って呼んでたのに気づいたの。近所の人に、兄弟がいるんですかって聞かれて。それで、ずいぶん久しぶりに『奏君』って呼んだら……」
タエコさんは、そこで少し言葉を詰まらせた。カナは『おにいちゃん』だったんだと思うと、自分の知らないカナがまたひとつ増えた気がした。タエコさんは鞄から柔らかそうなガーゼのハンカチを取り出すと、顔にあててズッと鼻をすすった。
「奏君ね、ちょっと嬉しそうな顔したのよね。それで、……ずっと奏君に無理させてたんだなあって。カノンちゃんがいなくなってから、わがままも全然言わなくなって、いつもニコニコしながら『おにいちゃん』をしてたのよね。私が奏君を通してカノンちゃんを見てるのに気づいてたんだろうな。それなのに平気なふりして、『お母さん、大丈夫?』って。『元気?』って」
カナの貼り付いたような笑顔は、今でもはっきりと思い出せる。カナがその仮面の下に隠してしまった沢山の感情は一体どこへ行ってしまったんだろうか。それともまだカナの中にあるのかもしれない。
「奏君は、楽しそうですよ。いま」
そう、口をついて出ていた。それは私の願いかもしれなかった。タエコさんはそれを聞いて小さくうなづいてから「そうね」と笑う。
「あの子、たぶん私を喜ばせたかったんだろうな。成績もよかったし、学級委員や生徒会長なんかもして、保護者面談では褒められてばかりだったのよ。こんな話、親馬鹿だと思うでしょうけど」
「そんなことありません。カナは今でも、うらやましいくらい何でもできるから……」
私は言葉の途中でカナの寂しそうな顔を思い出した。
『俺、本当はなにもできないよ』
『なんでもできる、なんて、何にもできないのと同じ』
へらへらと笑いながら、器用になんでもやってのけるカナの中には消えようもない悲しみが詰まっているのかもしれない。
でもね、と私の心を読みとったかのように、タエコさんは私の顔をまっすぐに見た。そして「一度だけ、奏君が怒ったことがあったの」と、思い出すようにゆらゆらと揺れる電気の紐を見つめている。
「奏君があんまりに人に褒められるようなことばかりして、自分から何かしたいなんて言ったことなかったから。私が『無理にやりたくないことしなくていいのよ、やりたいことやっていいんだから』って言ったの。そうしたら『やりたいことなんてない、お母さんに笑っててほしいだけだ。今さらどうしろっていうんだ』って」
結局、それからも奏君は変わらなかったなあ、とタエコさんは遠い目をした。それから時間を追うように視線をちゃぶ台の上にゆっくりと戻す。
「変わったのは、今のところで働くようになってから。最初はね、そこそこ大きな家電メーカーに就職してて。東京で研修を受けてから、こっちの支社に入れるように希望出してたの。けど、研修受けてる途中に支社のほうが閉鎖になるのが決まっちゃって。結局東京に残るか、辞めるかって話になって、あの子あっさりこっちに帰ってきちゃたのよね。――それで、本格的に仕事を探しはじめる前に、なんだか出会っちゃったみたいなのよ」
タエコさんはそう言って、嬉しいのか可笑しいのか、ずいぶん愛情深い顔でクスクスと笑った。
「今の仕事の店長さんと、あと料理をしてるヒロセさんって方。ヒロセさんは最近辞められたそうなんだけど、その二人のおかげなのかしらね。なんだか取り戻すみたいに子どもっぽい表情をするようになって、やりたいことだらけで時間がたりないんじゃないかしら」
カナがその人達に出会えてよかった、そう思う一方で、寂しさとか妬みのような重苦しい何かが心のなかに生まれてくる。私の気持ちとは対象的に、タエコさんの表情が徐々に明るくなっていき、「それにね」と今にもこぼれ出しそうな笑いを抑えるように私を見た。
「美鳥ちゃんに会ってからかしら、なんだか楽しそうなのよ」
予想外の言葉に、目を見開いたままじっとタエコさんを見つめた。横でりっちゃんがこっちを見ているのが視界の端に入りこむ。
「私……? ですか」
「去年の秋くらいかしら。たぶん美鳥ちゃんに再会した日。帰ってくるなり『ぴぃちゃんに会った』って、もう私ベッドに入って寝るところだったのに」
クスクスと笑うのを小さなため息で止めたタエコさんは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「あの子の、あんな顔見たの本当に久しぶりだったの。たぶん、カノンちゃんがいなくなる前。『ぴぃちゃん』って美鳥ちゃんにくっついてた頃かなあ」
ありがとね、とタエコさんは私に言った。何もしていない、ただ再会した、それだけ。たぶん、カナのこと傷つけたりしてるのに。
――無性にカナの顔が見たくなった。
「カナは、一人で帰っちゃったんですか?」
そう聞いた私に、タエコさんではなく母が口をはさんできた。
「サーフィンなんだって。猫浜の海岸のほうらしいわよ。美鳥、これからおばあちゃんのところに行くんでしょ? なら通り道だし、ちょっと寄ってみたら?」
タエコさんは、嬉しそうな顔で言葉を付け加える。
「猫浜っていっても駐車場のあるところじゃなくて、その脇の道を入って少し先に行ったところらしいから。駐車場からもそんなに遠くないみたいよ。なんだか、ちょっと場所が違うだけで全然波が違うんですって。仕事もあるはずだから何時まで海にいるのか分からないけど、気が向いたら寄ってみてあげて。たぶん喜ぶから」
二人を残して出かける前、タエコさんは「また、りっちゃんに会いに来るから、美鳥ちゃんも今度一緒にウチに遊びに来てね」と手を振った。カナの家までは車で二十分くらい。中学の頃の私にはずいぶん遠い場所だったけれど、今はもう簡単に行ける。
運転席側の窓を少しだけ開けて、国道を祖母の家へと向かった。右手にときおり海が見え隠れして、波の音と潮風の匂いが吹き込んでくる。車のなかは差し込む太陽の日差しで暖かいけれど、風はすこし冷たくて、ジリジリと夏のようだったゴールデンウィークの暑さは週明けの雨ですっかり消え去っていた。
カーブを曲がると、視界が開けて水平線がザッと遥か向こうまで見えた。対向車線の向こうには砂浜。風で飛ばされた砂が道路のアスファルトをくすんだ色に見せている。砂浜から少し離れた沖合に小さな黒い点がいくつかプカプカと浮かんでいるのが見えた。ただ、波に揺られているだけで、誰も波には乗っていない。波自体がほとんど見当たらないくらい海面が凪いでいる。
平日の真っ昼間に、こんな風に海に浮かんで過ごしている人がいるなんて気づきもしなかった。こっちに帰って以来何度も祖母の家まで行き来しているし、この道を通るたびに海をながめていたつもりだったけれど、そこに存在する小さな人の姿は全くと言っていいほど目に入っていなかった。
左手に鳥居が見えて、その向こうの道の駅を横目に見ながら通り過ぎると、サーフボードを積んだ車や、ウェットスーツを来たまま足の砂を払う男性の姿があった。意識するだけで、見慣れた道のりがずいぶん違ったものに見えてくる。
短いトンネルを抜けてから交差点を曲がって国道を下り、古い民宿が連なる海沿いの道を進んだ。民宿がなくなり、しばらく行ったところにある駐車場に車を停め、ぐるりと張り巡らされた竹の柵が切れる場所に向かって歩いていく。
トイレと簡易シャワーの設置された小さな建物の脇に、カナの白いワンボックスカーが停められていた。首を回して駐車場を見渡すと、キャリアにサーフボードを積んだ車や、開けっ放しのバックドアに無造作に引っ掛けられたウェットスーツが目に入る。
猫浜にはよく海水浴に来ていた。家族で来たこともあるし、高校時代はユウジと来たこともある。けれどサーファーを見かけた記憶なんてなかった。
車で履き替えたクロックスのサンダルで砂浜を歩いて、左右に広がる海を見渡す。やはり波らしい波はなくて、それでも二三人が海面をゆらゆらと揺られていた。それだけ確認してから駐車場に戻り、歩いて駐車場の外に出てから、タエコさんが言ったように奥に伸びる脇の道を進んだ。
すくすくと育った肩ほどもありそうな雑草の合間に、一本だけ切り開かれた獣道のような土と砂利の上り坂を、少し不安に駆られながら歩く。唐突に視界がひらけて、ゴロゴロとしたいくつかの大きな岩の向こうに、海が見えた。
聞こえていた海鳴りが一段と大きくなり、風で髪がふわっと吹き上がる。目の前には、すべり台のような傾斜の砂浜が下へと広がり、眼下の海には、沖から横線を引いたような青いラインが一定の間隔をおいて近づいてきていた。その合間に、十人くらいはいるだろうか。波打ち際近くなると、打ち砕かれた白い波がざわざわと砂浜を侵食していく。さっき見た海とはまったく別物だった。
傾斜を半分くらいだけ下りて、砂だか土だか分からない硬そうな場所に腰をおろした。雑草も少し生えている。少しだけ海に近づいてみたところで、どれがカナかなんてまったく分かりそうもなかった。どんなのが上手で、どんなのが下手かも分かりはしないのに。
それでも、顔に海風を受けて波の音を聞いているだけで言いようもない解放感を感じた。心の中のもやもやしたものが体から抜け出して浄化されていくような、そんな感覚だった。
一人のサーファーが波に追われるように海岸の方を向き、そのあとストンと波の上に乗った。端から砕けていく波の先をスルスルと左方向へ進んで、波に乗り上げてくるりと反対を向いたかと思うと、またすぐさま元通りに左へと進む。最後はあきらめたように白い波の中に姿を消した。サーフボードに描かれた蛍光ピンクのラインがチラリと波間に見えた。
十分くらい座っていただろうか。少し肌寒さを感じて肩がブルリと震えた。こうしていてもカナが私に気付くことはなさそうだったし、私もカナがどれだか分かりそうもなかった。
そろそろ帰ろうかと腰を上げたとき、さっきの蛍光ピンクのサーフボードの人が海から上がってくるのが見えた。歩き方がなんとなくカナのような気がしないでもない。でもみんな同じようなウェットスーツ姿だから自信は持てなかった。頭を犬のようにブンッと振って髪をかき上げる。ぼんやりだけど、確信が芽生えた。たぶん、カナだ。
私はもう一度その場に膝を抱えて座り込み、その人がこっちに歩いてくるのを待った。けれど、その後に海から出てきた誰かと話しはじめ、一向にこっちに来る気配がない。諦めて立ち上がったとき、ようやくその人はこっちに気づき、振り向いててじっと私の顔を観察しているように見えた。それから、いきなりブンブンと手を振りながらサーフボードを置きざりにしてこっちに駆け寄ってくる。そのサーフボードの脇には、さっきまで話をしていた誰かが腰をおろして、その人はこちらを振り返るでもなく、両手を後ろについて海をながめた。
「美鳥さん、なんでここにいるの?」
カナがもし犬なら、勢い込んで飛びついてきそうなくらい嬉しそうな満面の笑みだった。ブンブンと振られる尻尾が見えるような気さえした。ピッタリしたスーツは目のやり場に困るんじゃないかと少し心配していたけれど、視線の位置さえ気をつけていればそんなにエロいものではない。ただ、カナ自慢の上腕二頭筋はしっかりと確認できた。
「タエコさんが教えてくれたの。これから簑沢のおばあちゃんちに行くから、ちょっとだけ寄り道」
そっか、とカナは相槌を打ったあと、すぐさまウキウキと目を輝かせる。
「ねえ、俺がやってるとこ、見た?」
ねえねえ、と子どものように聞いてくるカナの笑顔はきっと、さっきタエコさんが言っていた『久しぶりに見た』カナの笑顔なんだと思う。私が、もう見られないと思っていた『カナチャン』の笑顔。カナの中には『カナチャン』がいて、『奏君』もいて、たぶん『おにいちゃん』も、ぜんぶ一緒くたに存在している。
「見たよ。気持ちよさそうだなって、思って見てた」
カナは照れくさそうに「へへっ」と笑い、美鳥さん、もっと近くで見ていきなよ、とじゃれつくように喋る。可愛くてしょうがないなと思いながら、久しぶりに「男のカナ」を意識しないで話せていることにほっとしていた。
「ごめんね、カナ。おばあちゃん待ってるから、そろそろ行かないと」
その言葉にカナは表情をくるりと変えて、拗ねたように口を尖らせる。そうして、そんなカナは前と同じように無邪気さで私を誘惑する。今回はチューはもちろん、頬を触るのも我慢できたけれど、その代わりのように――――カナの手の甲が私の頬に触れた。
「美鳥さん、ほっぺがちょっと紅いよ。寒い?」
突然のように心臓が早鐘を打ちはじめる。カナから私に触れてくるなんて初めてだった。ビクリとしてカナの手を避けるようにうつむいた私に、
「あ、ごめん」
そう言ってカナは自分の手を引っ込めた。せっかく縮まっていた距離が、ほかの誰でもない、自分のせいで遠ざかっていくのがやりきれなくて唇を噛んだ。
美鳥さん、と言うカナの声はあまりに柔らかくて優しくて、不意に涙が出そうになるけど、ギュッと目を瞑って堪える。
「平気」
声は出せたけれど、顔はまだカナのほうには向けられなかった。
「ぴぃちゃん」
そう呼ばれて顔をあげると、カナは少しだけ意地悪く口の端をあげている。
「美鳥さんのその髪、『ぴぃちゃん』って感じがするね。ふわふわしてて、いつもと違う」
カナに言われて、そう言えば再会してから髪をおろしたままカナに会うのは初めてだと気づいた。パーマをかけたようなクルクルと巻いたくせっ毛は、今も海風に煽られて時折ふわりと顔にかかる。思い出したように、両手でその髪を抑えると、カナは少しだけ不満げな顔をした。
「ぴぃちゃんの髪、触りたいんだけど、ダメ?」
「え……?」
まさかそんな言葉を聞くと思っていなかったから、断ることも、心の準備もできず、ただ髪を抑えていた両手をふっと離した。
「他のとこには触らないよ。ふわふわのとこだけ。美鳥さんが嫌がることはしないから」
カナはそう言って、じっと私の目を見つめてくる。
私は自分の両手でカナの左右の手をつかみ、一歩だけカナに近づいて、その手を自分の髪にもっていった。カナは驚いたように目を見開いてから、私が手を離すと満足そうにふわふわと髪を触り、目を細めて笑った。私はそんなカナの顔を見上げながら、――ああ、切ないって、こんな感情なんだな。そう思っていた。
直にカナの肌に触れたい、そう心が疼いているのに、その疼きと一緒に得体の知れない恐怖が滲み出してくる。ふと、カナがその手を止めて、私の顔をのぞき込んだ。
「美鳥さん、――泣いてるの?」
そう言われて自分の頬の感触に気づいた。流れた涙の筋が、風を受けてすうっと冷やされていく。
「カナ、――岡井さんに何か、聞いた?」
私の質問に、カナは困ったような、悲しそうな顔をして、私の髪からそっと手を離した。
〈九〉美鳥 ――二十九歳
「先に行っとけって、何よぅ。お兄さん来てるんだったら紹介してくれてもいいじゃない」
ドアの向こうから響いてくるその甘ったるい声を聞くだけで、私のストレスは一気にピークまで達した。そのあとガチャリと住居用の玄関がしまる音がして、裏口の向こうをバタバタと人影が通り過ぎた。
井戸田君と顔を見合わせて眉をひそめる。もう、苦笑すら浮かべられなかった。
「ユウジさんのお兄さんって、なんか『お固い職業』って感じでしたね。眼鏡とか、スーツとか」
井戸田君は、ついさっき正面の店用玄関から訪れた突然の来客をそう評した。その真面目そうなお兄さんは愛想笑いをするでもなく、よけいな社交辞令を口にすることもなく、ただ
「ユウジの兄ですが、弟はいますか」
そう言って玄関脇の傘立ての隣に直立して、私がユウジに取り次ぐのを待っていた。
私は「家の方に通して」というユウジの指示通りに、店内を素通りして住居用の扉に案内し、その数分後には、先程の甘ったるい声が聞こえてきたというわけだった。
ホント、ユウジとは大違い、そんな文句のような愚痴のような言葉を口にしようとした時、井戸田君は野生動物のようにピクリと反応して、
「いらっしゃいませ」
と言いながら入り口の方に歩いていった。
午後七時半、テーブルは半数ほどしか埋まっていないけれど、月曜にしてはそれなりにお客さんが来ているほうだった。ユウジは夕方の仕込みと開店直後の数組の来客を捌いたあと、やることがあると言って二階にあがっていった。どなたかの夕食を持って。
最近ちらちらと見かけるようになった新しい彼女は、どうやらこの二階に住み着いているようだった。
『美鳥とは、しばらくいいわ』
そう言われてから、すでに三ヶ月近くが過ぎようとしていた。彼女を初めてみたのは、定休日前のルーティンがなくなったその休み明けの朝で、出勤したばかりの私は、顔を隠すように小走りに住居用の玄関から出ていく彼女と裏口の駐車場ですれ違った。これまで何度かニアミスを繰り返しているけれど、お互い歩み寄って挨拶を交わすなんてことはなく、まかり間違っても正面から鉢合わせたりしないように常に聞き耳を立てて気配を察知するように努めていた。
とはいっても、どうやら規則的な生活をしているようで、朝は私と入れ違いくらいの時間に出かけて、たいてい夜七時頃に帰ってくる。相手は二階を住処にしながら、身を隠すように素早く出入りを行っているけれど、扉の向こうからはこれみよがしの楽しげな笑い声が聞こえてくるようになった。
「オーダーお願いします」
井戸田君がひょこっと厨房に顔を出す。「はあい」と返事をして、まだ伝票に記入をしている最中の井戸田君の手元をのぞき込んだ。
「パスタセットと、オムライスの単品ですね」
「じゃあ、ユウジ呼ばなくてもいいか」
私はそう言いながら作業台の下の冷蔵庫を開ける。伝票を書き終わった井戸田君は、私が何を言うまでもなく手を洗ってから厨房に入り、冷蔵庫からリーフサラダを取り出すと所定の皿に盛り付ける。そのあと作業台の上に置かれた市販のドレッシングとクルトンをパラパラと振って、自らトレーにのせてホールへ出ていった。
井戸田君は最近かけ持ちをしているアルバイト先のカフェバーでも調理を担当するようになったらしく、余裕のあるときはここのメニューも作り方を教えたりしていた。本人は料理を作るのが楽しいようで、手際よくホールの仕事を済ませては何かと厨房に入ってくる。
そして今もまた空になったトレーを置いて、フライパンに火を点けたばかりの私の隣にちょこちょことやって来た。
「パスタソース、作る?」
「はいっ」
レードルでオリーブオイルをすくってフライパンに入れ、唐辛子とニンニクをポイポイとその中に放りこみ、少しかがむようにして火力を調節する井戸田君の姿はずいぶん頼もしかった。もともと井戸田君にはユウジの目を盗んで私が勝手にレシピを教えていたのだけれど、ある時、絶対顔を出さないだろうというタイミングでユウジが厨房に顔を出したことがあった。ちょうど井戸田君がフライパンをあおってパスタをソースに絡めている時で、ガチャリというドアの音に私と井戸田君の二人は一瞬硬直したのだけれど、
「ああ、余裕があったら井戸田に教えてくれたらいいから」
と、ユウジはたいして興味もなさそうに言うと、冷蔵庫から私物の発泡酒を取りだしてさっさと二階に戻っていった。
それ以来、井戸田君は前にもまして厨房に出入りするようになり、場合によっては井戸田君が作っている途中に私がホールに出るようなこともある。
ガスレンジの横の流しに汚れたフライパンを突っ込むと、自分の盛り付けたパスタと私の作ったオムライスを持って、井戸田君は「いってきます」と厨房の出口に向かった。私は出しっぱなしの材料を冷蔵庫にしまい、流しに積み上がった三枚のフライパンを洗ってコンロの上に置いた。
エプロンの紐に引っ掛けたタオルで手を拭いていると、住居のドアがガチャリと控えめな音で開いて、そろりとお兄さんが顔を出した。何か言いたそうな、けれど遠慮しているような顔で私を見るのでパタパタと小走りに彼のもとへ近づく。お兄さんは両手をぴしりと体側に合わせて、軽い会釈をした。そのあと悲痛な表情で私の顔を見ると、
「弟がご迷惑をおかけします。もし何かありましても、弟のことよりご自分のことを優先して下さい」
それだけ言って、では、と私が何か言う隙も与えず、さっさと正面から店を出ていった。
私は期限が刻々と迫っているという危機感と、その時が来れば解放されるという希望が心の中でひしめき合い、その全てを洗い流したい一心で洗浄機に洗い物を突っ込んだ。
うみねこ銀行の田宮さんは、あれから何度か店に顔を見せたけれど、ユウジが二店舗目の話を私にすることはなく、一月ほど前には厨房の裏口にしゃがみこんで缶の発泡酒をあおりながら
「何か売上が上がりそうな、いい感じの設備投資ってない?」
とゴミ捨てに向かう私を上目遣いに見上げた。また自分の意見を口にして逆ギレされるのはごめんだったから
「ええ? 急に言われても思いつかない……」
とじりじりとユウジから距離をとると、
「なんだよ。役に立たねーやつ」
そう言い捨てて玄関から自分の家に帰っていった。
とりあえず夢物語のような新規出店には融資が下りなかったようだけれど、つい先日も、相変わらず貼り付いたような笑顔を浮かべた田宮さんが、ユウジといつものテーブルで話をしていた。
「ありがとうございました」
若いカップルの会計を済ませて、背を向けた彼らにレジの中から頭を下げた。体を起こすと、井戸田君が入り口のドアを開けて姿の見えなくなったカップルにお辞儀をしている。最後の客を見送り、ついでのように外看板の電気を切るとメニューボードを抱えて中に入ってきた。
私はレジスターのキーを精算に合わせて、ポンとボタンを押した。ガチャリとドロアーが開いて、カタカタと印字されたロールペーパーが排出されはじめる。お札を取りだして現金を確認する前に、一万円札の下に置かれていた数枚のレシートをクリップで留めて、見ても仕方ないとは思いながらも粗を探すようにそれを一枚ずつめくった。
出入り業者の領収書に加えて、三つ折りにされた業務用スーパーの長いレシートが一枚。数々の食材にまぎれて、某酒造メーカーの発泡酒二十四本入りを一ケース購入した証拠がきっちり記録されていた。私用の酒を経費で落としていることは明らかだったけれど、保存するのも店の冷蔵庫で、自分が飲んでいるところを隠すこともなかった。私も何を言うこともなかったけれど、ついこうしてユウジのダメさ加減を確認するようにレシートをチェックする。
精算を終えて現金を入れた袋のファスナーを閉めたところで、ユウジがドアの陰から顔だけだして「レジ締め終わった?」と声をかけてきた。「うん」とうなずいて、その袋を持ち上げて見せると、「じゃあ、それ貰うわ」そう言ってレジまでつかつかと歩いてくる。
細身のシャツのボタンを過剰に開けて、近づいた瞬間、香水の匂いがした。また飲みに行くんだろうか。ユウジは私が持っていた袋を無造作に奪い、一万円札を抜いてから残りを住居のドアの向こうに放り投げた。ゴトリ、と硬貨の重たい音がする。
そのまま裏口に向かうユウジの背中に、迷いながらも声をかけた。
「ユウジ、お兄さん、……大丈夫だったの?」
ユウジはこっちを振り返ると、顎を上げて見下ろすように私の顔を見て舌打ちをした。途端に恐怖と後悔が全身に走る。
「大丈夫って、何が? お前に関係ないだろ」
私はすでに、言葉を発する気力を失っていた。
「だいたい、兄貴も稼いでるくせにケチなんだよ。月末の支払いだけなんとかしてくれたらやっていけるのに。クソッ。しゃーねえ、もう一回おふくろに頼むか」
ユウジは裏口のドアをガンガンと蹴りながら、独り言のようにブツブツと呟いていたけれど、「まあいいわ」と名前を呼ぶ代わりに、私に向かってそう言う。ユウジから「美鳥」と呼ばれたのはいつが最後だろうか。「お前」「おい」「なあ」「ちょっと」――名前なんてなくても、いくらでもやっていける。
返事もせずユウジを見返した私に、ユウジは業務連絡という口調で
「俺、明日何時に出れるから分からないから、ランチ頼むわ」
そう言うと、見たことのあるおしゃれな帽子をかぶって裏口から出ていった。恐怖も忘れて呆気にとられ、状況を把握しようとカレンダーに目を向けたところで、驚いたように私を見ている井戸田君と目が合った。
「明日のランチ、二組予約入ってますけど……。俺、さすがに二人でこなす自信ないです」
その瞬間、自分でも何が起こったのか分からないくらい唐突に怒りの感情が胸に広がり、気づいたときには裏口を開けてユウジの後を追っていた。ユウジの車は駐車場に停められたまま。その横を走り抜けて道路に出たところでキョロキョロと周りを見回すと、目の前を通り過ぎた一台のタクシーが正面の駐車場に入るのが見えた。ぐるりと建物を回り込んで、タクシーの後部座席のドアが閉まる前に必死で叫ぶ。
「ユウジ! 待ってよ」
ユウジが降りてくる気配はなかったけれど、ドアは閉められることなく、車の中を覗き込んだ私にユウジはあからさまに嫌そうな顔をした。タクシーの運転手が「どうするの?」というように視線をユウジに向ける。
「五分だけ待ってて」
ユウジは運転手にそう言うと、車から下りて駐車場の端のタクシーの死角になるところに歩いて行く。唐突に立ち止まると、ポケットから煙草を取りだしてイラついているのをアピールするようにトントンと足を鳴らした。
「で? なに」
さっきまでの怒りが恐怖に押しつぶされそうだったけれど、それを奮い立たせるようにこぶしを握る。
「明日、困るんだけど。井戸田君と二人じゃ、どうにもできない」
「別に、予約までには戻れるかもしれねーし」
「かもしれないじゃ、だめじゃん。そんなんでまともなサービスできなかったらお客さん減るだけでしょ」
私は本音を言ったつもりだったし、間違っていることを言ったつもりはなかった。それを、ユウジは「はっ」と馬鹿にするように鼻で笑う。
「お前さあ、ホント、ムカつくわ。お前の給料、誰が出してると思ってるわけ? お前の好きなようにやらせてやってるけどさあ、『店のため』とか『俺のため』とか勘違いしてない?」
ユウジの言葉に、思考がピタリと止まった。まさに、私は『店のため』『ユウジのため』、そのためにいろいろ考えてやってきた。内緒で井戸田君に料理を教えていたのも店のためにと思ってしたことだった。
「勘違い……?」
「勘違いだろ。俺のやりたかったのは、こんなんじゃねえんだよ。お前さあ、俺が彼女を取っ替え引っ返してるのに嫉妬して、こんな俺を店から弾き出すようなことしてんだろ。もう勘弁してくんない? お前みたいな可愛げのないやつ女だなんて思えねーよ」
ユウジは吐き捨てるようにそう言うと、呆然と立ち尽くす私の横をすり抜けてタクシーの方へ走っていった。走り去るタクシーのテールランプを見ながら、それでも理解が追いつかず、とぼとぼと裏口に回って厨房のドアを開けると、井戸田君の不安げな顔がそこにあった。
「どうでした?」
必死なまなざしに、自分の無力さをひしひしと思い知らされる。
「ごめん、……予約までには戻るかもって」
井戸田君が一層不安げに眉をひそめてランチの予約表に目をやり、「大丈夫かなあ」と小さく呟いた。誰かもう一人アルバイトを頼んでおきたいところだけれど、勝手にそんなことをしようものなら後で何を言われるか分かったものではない。
「とりあえず、今日のうちにやれる限りの仕込みやって帰るから、井戸田君はそっちが片付いたら終わっていいよ」
私が気の抜けたような笑顔を向けると、井戸田くんは諦めたように肩をストンと落とした。
「付き合いますよ。俺も安心して寝たいから」
深夜の厨房で作業をしながら、井戸田君の優しさを感じるにつけ、一度は小さく萎縮していた怒りが再びむくむくと大きくなっていくのを感じていた。
私がやりたいようにやっていたのなんてほんの最初の頃だけだったし、ユウジは口ばかりで一体店のために何をしたというのだろうか。確かに私はお金を出しているわけではないし、給料もしっかりもらっている。だからといって、こんな理想も何もないユウジに雇われているのはもう我慢ができなかった。もっと色々変えてみたいこともあったし、一緒に色々試行錯誤して店を良くしていきたかった。どこかで失敗したのか、もともとユウジとは合わなかったのか――。
「美鳥さん、明日、がんばりましょうね」
いつもより一時間以上帰りが遅くなったけれど、裏口を出たところで井戸田君はそう言ってニコリと笑った。私はその言葉を勇気に変えて、帰り道、繁華街へとハンドルを切った。
ふらふらと狭い路地を我が物顔で歩く酔っ払いたちを避けながら、見覚えのある細い階段のすぐ脇に車を横付けにした。緊張よりも、恐怖よりも、怒りが私の足を動かしていた。
階段を上がりきったところの小さなドアの隙間から漏れ聞こえてくるのはレゲエの名曲。もしユウジがここにいなかったら、岡井さんとの会話に出てきた別の店も当たるつもりだったけれど、その必要はなかった。ガチャリとドアを開けると、こちらに背を向けてカウンターにもたれかかるユウジの姿がすぐに見つけられた。隣で腕を絡めている女の後ろ姿には見覚えがある。彼女の方が先にこちらを振り返り
「あれえ? あの子」
とユウジの体を肩で揺らすあいだに、私はつかつかとユウジの隣まで行って腕を掴んだ。驚いた顔でユウジがこちらを振り返り、彼の顔が歪む前に言葉をぶつける。
「アンタみたいなやる気のない人間に使われるの、もう限界だから。勝手に飲み歩いて、よろしくやってたらいいよ」
言葉はまだ口から溢れて出そうだったけれど、次の瞬間真っ白になった。
――気づいたら、私は床に尻もちをついてソファにもたれかかっていた。肘置きに肩をぶつけたらしく、じんじんと痛みが強くなる。見上げると、ユウジが自分でも驚いたような顔をして、周りの反応を気にしてかバツが悪そうにうつむいて首のあたりを掻いた。
ああ、突き飛ばされたんだ、とようやく自分の状況を理解した。
「大丈夫? 本巣さん」
自分がもたれかかったままのソファの主を床に座ったまま見上げると、私服の岡井さんが心配そうな顔で見下ろしていた。
「わるい、美鳥。突き飛ばすつもりなんてなかったんだよ」
ユウジがしゃがみこんでヘラヘラと笑いながら手を合わせている。ぞわっと恐怖が全身を支配した。私はユウジから目をそらして「平気」とつぶやき、震えそうになる膝を両手で抑えて立ちあがった。
「ごめん。今月いっぱいで辞めさせて」
顔も見ずにそう言ったけれど、言いながら声が震えているのが自分でも分かった。視線が定まらないままふらふらと歩き出した私の後ろを、岡井さんが心配そうについて来る。階段をおりながらクラクラと目眩がし、足を踏み外しながらも何とか手摺につかまった。
「支えといてあげるから、ゆっくり降りよう」
そう言って岡井さんが手を伸ばした瞬間、無意識に体を引いて座り込んでいた。
岡井さんは少しだけ驚いたように目を見開いてから、困ったような顔で私に笑いかける。走って転んだ、小さな子どもに向けるような笑顔で。
「落ちないように見てるから、とりあえず立とうか」
そう言って、岡井さんは私より三段ほど下を後ろ向きにおりていった。運転席に乗りこんだ私に、
「気をつけて帰ってね。あんまり無理しないで」
と笑いかけたあと小さくため息をついて
「ユウジさんも、昔はもっと楽しそうに仕事してたんだけどなあ」
と呟くと、バタンとドアを閉めて、いつもの営業用スマイルで手を振った。
『以前のユウジさんはもっと前向きで、ついて行きたくなるような人で』
井戸田君はそう言っていた。そして、岡井さんも同じようなことを言う。
もしかしたら、私がユウジのやる気をそいでしまったのだろうか。そんなことが頭に浮かんだ。そんな少しの罪の意識は、このあと店を辞めるまでのあいだ私をさらに萎縮させた。
「りっちゃん、ごめん。これ残していい?」
そう言って立ちあがった私を、りっちゃんは心配そうに見上げる。お皿の上の朝食はほとんど手付かずのままだった。
「美鳥、どっちみち辞めるのに、そんなに無理することないじゃない」
「……でも、あと一週間で終わりだから」
あのバーでの出来事から十日以上経っていた。どうせ辞めるから、それを励みに出勤をしてはいるものの、全く会話のない、その場に私がいないかのような扱いはじわじわと私の心を蝕んでいた。
りっちゃんは諦めたのか呆れたのか、深い溜め息をついてカタリと席を立ち、
「美鳥、ちょっとこっちに来て」
と私の手を引いた。母に連れて行かれたのは、よしりんの遺影が置かれた仏壇の前だった。
りっちゃんはろうそく立ての脇に置かれた小さな木の小皿に手を伸ばして、
「よしりん、ちょっと貰うね」
そう言って積み木のようにその小皿の中に積み上げられたチロルチョコレートを二つ取り、そのうちの一つを「はい」と私に差し出す。コーヒーヌガーのチロルチョコレート。よしりんはそれが大好きで、自分が食べるだけでなく、ことあるごとに
「まあ、ちょっと甘いもんでも食べて」
と家族に限らず色々な人にニコニコと手渡していた。よしりんが他界してからも仏壇の前のチロルチョコレートを「甘いの貰うね」とつまみ食いし、食べたら戸棚から補充するという習慣ができていた。
私の出した手のひらにチロルチョコレートを置いたりっちゃんは、残りの一つの包紙を開けてパクリと口の中に放り込む。私はそのチョコレートすら食べたいという気になれず、
「ごめん、よしりん」
と呟いたら、うつむいた私の目から涙がはらはらと畳に落ちていった。
りっちゃんがチロルチョコレートがのったままの私の手をギュッと包み込むように握って、それからふわりと私を抱きしめる。
「なんで、よしりんに謝ってるの? 美鳥はがんばってるよ」
喋ろうとしても、しゃくり上げてなかなか言葉にならない私の背中を、りっちゃんは急かすことなくポンポンと規則的なリズムで叩いている。
マイドカンパニーに就職してから帰省してもほとんどとんぼ返りで、父親とまともに話したのは就職する前。大学を卒業したあとに家族で出かけた、よしりんのいた家族の風景が壊れそうになる私をいつも繋ぎとめる。
もっと話しておけばよかった、一緒にいればよかった、そんな後悔をしても空白のまま過ぎ去った時間は戻ってこなかった。
私は手の中のチョコレートをお守りのようにポケットに入れて、仕事に向かう。
それでも、なんとか意地と根性で重たい足を引きずり、私は厨房の裏口のドアを開けた。
開けたまま、状況が掴めずに、そのまま立ちすくんでいると、厨房の奥で楽しそうに話していたユウジが冷めたような目つきをこっちに向ける。その隣には、なぜか店の制服を着た例の彼女が立っていた。
「おはようございまーす」
そう言ったのは、私でも目の前の二人でもなく、声の主は親しみを込めた笑顔で私の背中をポンと叩く。私はビクリとしたけれど、それが井戸田君だと分かっていたからとりあえず平静を保つことができた。
「入らないんですか」と言う井戸田君に場所を譲ると、厨房に足を踏み入れた井戸田君の横顔が引きつったように固まって、体もそれ以上厨房の中に入っていかない。
「お……は、よう、ございます」
井戸田君は何とかそう口にすると、ずいぶん重い鉛でもつけたように、もう一方の足を厨房の中に引き入れた。
「おす、井戸田。ちょっといいか」
ユウジの声が中から聞こえる。井戸田君が奥の方に歩いていったので、意を決して私も厨房に入ろうとすると、
「ああ、本巣さんは、ちょっと外で待っといてくれる。あとで話があるから」
ユウジは業務連絡というような口調でそう言って、すぐに私を無視して三人で話しはじめた。
今度は何を言われるのかと、不安と恐怖で内臓が口から出てきそうだった。それを紛らわすように裏口の脇にしゃがみこんで足元の雑草をプチプチとむしった。
「本巣さん、何やってんの。そんなところで」
八百屋のおじさんはダンボールを抱えたまま、ユウジの車の向こうで怪訝そうに私を見ている。慌てて、手についた土を払い、両手のふさがった八百屋さんのために裏口のドアを開けた。
「まいどー」
愛想よく声をかけながら厨房に入る八百屋さんの背中の陰で、チラリと厨房をのぞき込むと、ユウジは私に以前のような笑顔を向けて
「検品しといて」
と優しい口調で言った。怒鳴られるよりも、罵られるよりも、本心の見えない笑顔が一番怖かった。
裏口を入ってすぐのところで検品を済ませ、「お疲れ様です」と八百屋さんを見送ったころ、
「じゃあ、ちょっと外出てもらっていい」
と、元の不機嫌な顔に戻ったユウジの後ろをついて裏に出た。ドアを閉める前に後ろを振り返ると、井戸田君が不安げな顔をして私を見ていた。その顔に後ろ髪を引かれながらバタンとドアを閉めた。
ユウジは大袈裟だろう、というくらいの大きなため息をついて自分の車のボンネットにもたれかかると、ポケットから取りだした煙草に火を点けて煙たそうに眉を寄せる。そしてもう一度ため息をついて、口から煙を吐き出した。私はただ、じっとユウジの言葉を待っていた。
「お前のさあ、そのオドオドした態度ってホント苛々するんだよね。わざとらしいんだよ。俺、そんなに酷いことしてるか?」
ユウジはのっけから吐き捨てるように言ったあと、
「まあ、今さらどうでもいいけど」
とつぶやいて、さっき私が抜いて隅に避けていた雑草を、道路に向かって蹴った。しおれた草は車道まで届かず、ユウジの車の脇から歩道の端っこのあたりに散らばる。その雑草が自分の姿と重なって、ずいぶん哀れに思えた。
「見て分かったろうけど、今日から新しい従業員入ったから。アイツ、ケーキ屋で働いてたからデザートも任せられるしな。井戸田には厨房に入ってもらって、合間みてホールの指導させるから」
さっきの井戸田君の顔が頭に浮かんだ。井戸田君はもうほとんど何でもできる。あの顔は不安とかではなく、きっと私に向けられた哀れみの感情だ。
ユウジは私の目なんか一度も見ようとせず、やる気のない口調で話を続ける。私の気持ちなんか、もともと踏みにじることしか考えていないように。
「お前、辞めたいならもう出なくていいぞ。陰気な顔して接客されても迷惑だし。どうせ皿洗うくらいしかすることないから。まあ、最後までいるっていうんなら、ちゃんと給料は払ってやるよ」
『払ってやるよ』という口調のいやらしさに嫌悪感を感じながらも、辞められるという開放感と、ふつふつと湧き上がる怒りの感情が胸の中を支配する。けれども、このエネルギーをユウジにぶつけるのは馬鹿らしかった。いくらぶつけても、自分が傷つくだけなのは身に染みて分かっていた。
「……じゃあ、このまま帰ります。お世話になりました」
「はい、おつかれさん」
ユウジは短くなった煙草を投げ捨てて足でもみ消すと、私に笑顔を向けてそう言った。
それから、さっさと厨房の中に入って、閉められたドアの向こうからは楽しそうにケラケラと笑う声が聞こえた。その声が遠ざかるのを待ってからそっと厨房に入り、私はそんなに多くない自分の荷物をまとめて、井戸田君に一言
「今まで、ありがとう」
そう言って、裏口から外に出た。
深呼吸をすると、さっきユウジが吸った煙草の匂いがしたけれど、それすらも気にならないくらい空気がおいしかった。来たときの十分の一くらいの軽い足取りで裏の駐車場から出て、歩道の端に落ちた雑草をユウジの車の下に蹴り戻した。
後ろにエンジン音が近づいて、振り返ると岡井さんがトラックの運転席から手を振っているのが見える。手を振り返して、岡井さんが車から降りてくるのを待った。
「本巣さん、おはよう。いいの? のんびりしてて。まだ私服のままじゃない」
からかうような軽口を叩く岡井さんに、私はこみ上げる笑いを抑えながら
「もう、来なくていいって。晴れて、無職」
そう言って、ピースサインを突き出した。私とは対照的に、岡井さんは驚いたように目を丸くして「ええ」と頭をかく。
「マジで? 誰か新しい人、入ったの?」
「入りましたよ、今日から。ユウジの彼女が。ケーキ作れるんだって」
私の言葉に、岡井さんは深いため息をついた。それから、なんだか諦めたような目つきで私を見て、
「本巣さん、これからどうするの?」
と心配そうな口調で言う。
「俺はあの修羅場を見ちゃったから引き止める気なんて全然ないんだけど、なんていうか、本巣さん、人間不信ぽくなってない?」
浮き立っていた気分が、岡井さんの言葉で冷水を浴びせられたようにシュンとなる。それでも、ユウジへの怒りが腹の奥底からふつふつと湧き出るようなエネルギーになっていた。
私は、色んな感情を押し込めて、岡井さんにニコッと笑いかけた。
「ホント、かなりの人間不信です。ブラック企業に続くダメ男。もうこうなったら、自分でやるしかないですよね」
そう言って、ガッツポーズを作ると、岡井さんは少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
「しばらくのんびりしたらいいよ。エネルギー蓄えてから、本当に自分で店する気になったら連絡して。名刺、前に渡したよね?」
「はい。種まきしていただきました」
それから、改めて「お世話になりました」とお互いに頭を下げて、岡井さんは厨房の裏口から入っていった。
「お疲れ様ですー」という声がかすかに聞こえる。あの裏口から入ることはもうないのだと思うと、ここしばらくの険悪な記憶ではなく、ユウジと再開した頃のことが不意に頭に蘇った。ちゃんとお互いの目を見て笑いあっていたあの頃のユウジの笑顔は記憶の中ではもうぼんやりと曖昧で、ふわりとした温かい朝の感情だけが切なく胸を刺した。
まっすぐに家に帰る気にもなれず、かと言って感傷に浸るのも癪で、私は自分の内にある炎を消さないように、父の好きだったチロルチョコレートを握りしめて本巣家の墓に向かった。
海望山の麓にあるその墓地は車だと家から五分ほどの場所で、市内中心部に向かう近くの県道は出勤時間と帰宅時間には長い渋滞の列ができる。
県道からも墓石がいくつか見えるけれど、いざその場所に行くと、車の喧騒やその他の雑音から隔離されているように、しん、と澄んだ空気があたりを包んでいた。もちろん物理的には色々な音が耳に入っているのだけれど、それがまったくと言っていいほど意識にのぼらない。
祖父が亡くなった時に寄せ墓にして、まだ苔もむしていないきれいな御影石の前で、一人しゃがみこんで両手を合わせる。ポケットに入れていたチロルチョコレートの包み紙を開いて、お墓の前に置いた。
「次こそは、ちゃんと仕事を好きだって言えるようにがんばるから」
そう父に誓って空を見上げると、ポツポツと落ちてきた雨粒が瞼のあたりを濡らした。西の方には雲がかかっていたけれど、私の見上げた空はくすんだ水色で、サラサラと降り注ぎはじめた天気雨は父からのメッセージのような気がした。
気まぐれのようにすぐに止んだその雨は、虹をつくることもなく、ただ私の肌を湿らせただけだった。
〈十〉白昼夢
「ねえ、カナ。髪の毛パサパサにならない?」
助手席のシートに埋もれるように座って、風になびくカナの髪を見ながら、私の心は呆けたように脱力していた。海はもう見えない。川沿いの一車線の道路を上流へと向かって走る白いワンボックスカーの中は、カナがさっき飲んだ缶コーヒーの匂いがする。泣いたあとの軽い頭痛を感じて目を閉じると、風に揺れる髪の毛がカナに触られているようで、心地良いような不思議な悲しみで頭の中がふわっと白くなった。
砂浜に立ち尽くしたまま、私は自分の意思で涙を止めることができず、ただ流れるままにまかせて、じっとカナの足の指をみつめていた。ゴツっとした骨ばった指先に砂がまみれている。しゃくり上げるわけでもなく、音もなく流れ続ける涙がポタポタと砂の上に落ちて茶色い不揃いの水玉を作った。カナがその間どんな顔をしていたのかは分からないけれど、手の届く距離にじっと立っていた。
海風に体温が奪われたカナが「クシュン」と小さくクシャミをして、ようやく私は手の甲で涙を拭う。顔を上げた私に、カナはずいぶん優しい声で
「簑沢まで、送っていこうか?」
そう言った。
どんな魔法がかかっていたのか、それとも母なる海の偉大な力なのか、私は迷うことなくコクリとうなずいていた。
まぶたを閉じていると、開けた窓から聞こえる風の音に海鳴りが混じっているような気がする。気のせいなのは分かっていたけれど、この心地よさに身をまかせていないと、いくらでも涙が溢れて出てきそうだった。
男の人にしては少しだけ高いカナの声が、鼓膜を震わせる。
「平気だよ。あとで日帰り温泉に寄るから」
シャワーをざっと浴びただけのカナはパーカーにワークパンツというラフな格好で、濡れた髪を拭いたまま、タオルを首に引っ掛けていた。私とカナのあいだには、青と水色のストライプの柔らかそうな布のケースに包まれたサーフボードが顔をのぞかせている。
「カナ、今日仕事なんでしょ。時間、平気なの?」
「平気、平気」
チラリと目を開けると、カナは真っ直ぐに前を向いたまま、ヘラヘラと笑っていた。その顔に安心して、私はまた目を閉じる。
「さっきから、『平気』ばっかり。カナの嘘つき」
「嘘じゃないよ。ゴールデンウィーク開けて落ち着いたから、交代で休みとってるの」
「でも、今日仕事でしょ?」
「ちょっとね、『うまし家』の方に顔出しするだけ。新しい学生のバイト入ったばかりだから」
ウマシカ、美味し家、―馬鹿? それはカナのところが経営する居酒屋の名前だったけれど、私はまだ一度も行ったことがない。私はカナの言い分が耳に入らなかったかのように、もう一度ポソリと口にする。
「カナの、うそつき」
そんな私のつぶやきにカナは何も言わず、次の言葉を待っているようだった。
「岡井さんも、嘘ついてた。……ユウジも、一ノ瀬さんも」
「一ノ瀬さんって、前働いてた会社の人?」
カナにはマイドカンパニーを辞めたいきさつなんて話していないし、具体的な名前なんてもちろん言っていなかったのだけど、私は心が麻痺しているのか「あ、知ってるんだ」くらいにしか思わなかった。
「タマに聞いた? ……タマも嘘つきだなあ」
ふふっと私の口から笑い声がこぼれた。窓から吹き込む風が気持ちいい。新緑の匂いが鼻の先を吹き抜けた気がした。
「分かってるでしょ、美鳥さん。……優しい嘘だよ。タマちゃんの嘘も、岡井さんの嘘も」
「……うん。知ってる。カナの嘘も」
干からびた心に柔らかな水が染み渡るように、じわじわと体の中が満ちてくるような、そんな幸せを感じていた。
右にゆるく湾曲して上流へと続く川の流れを無視するように、一本道はまっすぐに伸びて、しばらく進むと木々が生い茂る緑のトンネルに入る。フロントガラス越しに空をのぞき込むと、若葉の緑が日差しに透けて、優しげな光がサワサワと揺れていた。
カナが運転席側の窓を全開にして、気持ち良さそうに顔いっぱいで風を受ける。
「緑の匂いがする。気持ちいいね」
無邪気な顔でハンドルを握っているけれど、私はカナの言葉の響きにほんのすこし敏感になる。
「カナ、わざとじゃないよね」
そう言った私を、カナはキョトンとした顔で見ると、目線を前に戻してから「ああ」と、ようやく思い至ったようにクスクス笑った。私もつられてクスッと笑うと、カナは調子にのったのか子どものように楽しげな声をあげた。
「みどり、最高」
「みどり、ステキ」
「みどり、みどり、ぜーんぶ、みどり」
カナの声に風の音と鳥のさえずりが混じる。私は苦笑しながらも、クスクスと笑い続けていた。
「みどり」
すこしだけトーンを落として、歌うようにカナが私の名前を口にする。
「好きだよ」
風の音のように、新緑の香りのように、川のせせらぎのように、響きわたる海鳴りのように、その言葉はごく自然に私の世界に入ってきた。
「うん」
カナの言葉に包まれて、大気と一緒になって溶けてしまいたかった。目を閉じたまま曖昧な反応しかしない私に、カナは変わらない口調で話しかけてくる。
「知ってた?」
「……どうだろうね」
目を開けてカナを見ると、なぜか幸せそうな顔で笑っていた。それからチラリと私を見て、
「美鳥さん、俺には嘘ついてもいいけど、自分には嘘ついちゃだめだよ」
そう言うと、少しだけラジオのボリュームをあげて、流れてくるモンキーズの『デイドリーム』をさえずるように口ずさんだ。
私は、父親の運転する車の後部座席で聞いた、日本語の曲『デイドリーム・ビリーバー』を思い出していた。こうやって、緑のトンネルを抜けて、おばあちゃんの家に向かう途中だった。
あのときも、たまたまラジオから流れてきたその曲を、よしりんも、りっちゃんも、おねえちゃんも、そして私もサビの部分だけ大きな声ではっきりと歌って、他の部分はふんふんと鼻唄で合唱した。
「二人とも知ってるか?」
よしりんはそういってチラリと後部座席に座る私とおねえちゃんを振り返る。
「RCサクセションでしょ。知ってるよ」
おねえちゃんがそう言うと、りっちゃんが「ちがうよー」と得意気に助手席から後ろに身を乗り出す。よしりんが、こらこら危ないからとりっちゃんの服を引っ張って、ちゃんと座らせた。
「別の名前のバンドで出した曲よね。ね、よしりん、なんて名前だったっけ」
よしりんは、なんだっけなあ、といって笑っていて、二人ともその名前は思い出せないようだった。
「知ってるかっていうのは、そのことじゃなくてな」
とよしりんは前を向いたまま私たちに話しかける。
「この曲に出てくる『クイーン』ているだろう。あれは小さい頃の死に別れた本当の母親らしいよ。その母親に向けて書いた曲だって言われてる」
「へえ、もっとちゃんと歌詞聴いとけばよかった。あとで調べてみよっと」
私はそう言いながら、忘れないように頭のなかにメモをした。
りっちゃんが前を向いたまま、「ねえねえ、君たち」と私たちにからかうような口調で話しかける。
「もし、私とよしりんが本当の親じゃなかったらどうする?」
りっちゃんもよしりんも可笑しそうに笑みを浮かべたままで、単なる興味本位の質問なのは一目瞭然だったけれど、せっかくなのでちょっと真面目に頭のなかで想像してみる。すると、今までの当たり前の日々がまったく違う景色に見えてきた。
「今と変わらないよ。りっちゃんもよしりんも、仲良しのままでいいでしょ。ねー、美鳥」
おねえちゃんはそう言って屈託のない笑顔で私を見た。――ほんと、そうだ。
「そうだね、ずっと友達でいっか」
私がそう言って運転席と助手席のあいだから顔を出すと、「友達かあ」とよしりんが笑って、りっちゃんも「それもいいかもね」と笑顔で私の顔を見返した。
「その歌詞、カノンちゃんを思い出すんだよね」
呟くように歌う私の声が聞こえたのか、カナはふいに鼻歌をとめてそう言った。何気なしに口ずさんでいた歌詞を頭のなかで反芻する。あのあと、私はその曲をダウンロードして歌詞を覚えるくらいに何度も聴いて、最初の何度かは涙が出そうになった。いなくなった人との、真昼の夢。
「『クイーン』って小さい時に死んじゃった本当のお母さんなんだって」
私はそれだけ言って、またラジオから流れる英語の曲に合わせて日本語を口ずさむ。カナは「へえ」と言ったあと、聴き取れるか聴き取れないかくらいの私の歌声に静かに耳を傾けているようだった。
「世の中の嘘の半分以上は、たぶん優しい嘘なんじゃないかな」
カナがふとそう言った。曲が終わって、ラジオDJは東京のトレンドスポットの話をはじめる。その頃には緑のトンネルはずいぶん後ろに過ぎ去って、再び川に寄り添うように、対向車の来ないのんびりとした景色の中を走っていた。
「ねえ、カナ」私が、そう呼びかけると、カナは「どうしたの」というようにこちらに首を傾げた。
「カノンちゃんの『カノン』って、どんな字を書くんだっけ」
「歌う音で、歌音」
そっか、と私はつぶやいて、なんだかこの曲にぴったりな気がした。カナは、ずっと向こうに見える山並をぼんやりと見ながら、フンフンと鼻歌でさっきの曲を歌いはじめる。その横顔に向かって
「今度写真見せてよ」
と言うと、ずいぶん嬉しそうな顔で、分かったと頷いた。遠い思い出を、カナは今見ているのかもしれない。
「奏」
私がそう呼びかけると、少しだけ驚いたように眉を上げてカナがこっちを向く。それから少し冗談のような口調で、
「なに?美鳥」
と言った。私はまたクスリと笑ってから、
「奏も自分に嘘、つかないでね」
そう真面目な声で言うと、カナは返事をする代わりに、私を見てニッコリと優しい笑みを浮かべた。
遠くまで見通しのきいていた田園風景は左右の山が少しずつ間近に迫り、ところどころの田んぼには水が張られている。道は何度もカーブを右へ左へと繰り返し、何度目かのカーブを曲がったところで、視線の先に集落が見えた。
一本の脇道がその集落へと向かい、今走るこの道はさらに奥へと上っていく。一台の軽トラックがその道を下りて来て、脇道に入っていくのが見えた。
「カナ。いま軽トラが入ったところで曲がって」
了解、と言ってカナはハンドルを左へきると、対向車が来てもすれ違えないくらいの広さの道をゆっくりと進む。道は少しだけ上りになっていて、何匹かの野良猫が民家の庭先や、水路を塞ぐ鉄板の上でのんびりと昼寝をしていた。
「あ、その先の家だから、左側」
私の指示通りにカナが祖母の家の庭に車を乗り入れると、ついさっき見かけた軽トラックが玄関先に停まっていた。カナは自分の車をその隣に横付けして、軽トラックの荷台の脇でこちらを見ている二人に運転席からペコリと頭を下げた。そこにいたのは祖母と、もう一軒上の家のおじさんだった。
私が助手席から降りて「こんにちは」と挨拶すると、おじさんは
「ああ、美鳥ちゃんかあ。久しぶりだなあ」
と顔を皺くちゃにして笑い、祖母は目を丸くして
「あらまあ、美鳥ちゃんの車だっただか」
と私を見上げた。そのあと、カナの方を見て、もう一度「あらまあ」とさらに目を丸くする。男の人を連れてきたことに驚いているのかと思ったら、
「あんたあ、小さい頃会ったことがあるわ、なあ、美鳥ちゃん」
そう言って、私とカナの顔を交互に見た。
「おばあちゃん、分かるの? すごい。ね、カナ」
カナは、すごいすごい、と嬉しそうに笑いながら、照れたように鼻をこする。
「でも、俺はさすがに覚えてないや。ごめんね、おばあちゃん」
「ええよ、ええよ。うれしいなあ。こんなところまで来てごして」
祖母は、ぽてぽてとカナのところまで歩いていくと、少しだけ前かがみになったカナの腕をぽんぽんと優しく叩いた。
「こげに大きゅうなって。まあ、ええ男の子になったもんだわ。小さいときは、あっちやこっちや忙しのう動き回っとってなあ、その後ろを、いっつも美鳥ちゃんが追っかけて」
おばあちゃんの言葉に引っかかって「ん?」とカナの顔を見ると、カナも「あれ?」というように首をかしげて私を見た。
「おばあちゃん、私が奏を追いかけてたの? カナが私を追いかけてたんじゃなくて」
祖母は何の迷いもなく、「ああ」と満足気にうなずいて
「わしが見とったときはなあ。美鳥ちゃんがあんたの後ろをついてまわって、ほら、美鳥ちゃんの姉ちゃんが抱っこしたら、『いけん』ゆうて、奪い返しよったで」
私が複雑な気持ちで苦笑いをする横で、カナは楽しそうにケラケラと笑っている。おじさんも
「まあ、なんちゅう仲が良かっただなあ」
と柔らかなまなざしで私たちを見ていた。
「私、そんなことしてたかなあ」
カナの隣にしゃがみこみ、少しだけ口をとがらせて祖母を見上げると、しわしわの日に焼けた祖母の手が私の頭を優しくなでる。
「思い出っちゅうのは、そんなもんだけ。頭んなかで自分のいいようにこしらえれる。自分の頭んなかのことが自分の本当のこと。だけなあ、あんまり悪いことは考えんほうがええで。ええようにな、考えんさいなあ」
おじさんは「なるほどなあ」と腕組みをして何か思い巡らせるように目をパチパチとさせてから
「ワシげのカカアも昔は美人でなあ、思い出んなかのアイツは年々美人になっとるような気がするわ」
そういってからガハハと大口で笑った。それから、
「美人のカカアがうるさいけえ、そろそろ帰るかなあ」
と軽トラックに乗り込み、すぐそこの自分の家の小屋に車を入れた。
「おじさん、なんでウチに車停めとったん?」
私が聞くと、祖母は「ああ、これこれ」と玄関の前に置かれた背負い籠のほうに歩いて行く。ずいぶん大きなその籠には、まだ小ぶりの新ジャガがほぼいっぱいに入っていた。
「美鳥ちゃんが来るって言うとったけえ、ようけ採っただけどなあ、重うて道の途中で休んどったら、たまたま通りかかってなあ。まあ助かったわ」
祖母は玄関前の石段に、よいしょと腰をおろしてニコニコと話す。
「畑に置いて帰ったら、あとで取りに行ってあげたのに」
私がそう言うと、祖母は手をぷらぷらと振って「いいの、いいの」と笑った。
「こうやってなあ、年寄りが一人で暮らしとると、なんやかんや皆が世話をやいてくれるだ。十年前は『年寄り扱いして』ちゃあなんで腹ぁ立てたりしとったけど、年々体も動かんようになってくるし、にこにこ笑って『ありがとう』言うとるほうが互いに気持ちええけえなあ」
ぽつぽつと喋ったあと、ふう、と大きなため息をついた祖母の後ろにまわって「よっ」とカナは背負い籠を持ち上げると、ひょこりと祖母の顔をのぞき込む。
「じゃあ、おばあちゃん。これはどこに持っていったらいい?」
祖母は嬉しそうに目を細めて
「ありがとさん。その玄関なかに入れてくれたらええけ」
と言って、よいしょと立ち上がると、ガラガラと玄関のドアを開けて母屋の中に私たちを招き入れた。
くん、と鼻をならして家の匂いを嗅ぐと、いつもと同じ匂いがした。祖母が作る味噌の匂い。玄関の上り口の脇に置かれた盥の中にはキャベツが3つと、ビニール袋に入れられたスナップエンドウがある。カナは盥の横に籠を置くと、開け放たれたままの木戸の奥の座敷をのぞきこみ、
「広いお屋敷だねえ」
と感心したように言った。『お屋敷』という言葉がカナの口から出たのがおかしくてクスクスと含み笑いをする私を、カナは不思議そうに見ていた。
座敷の向こうにも和室があり、その奥の障子も開け放たれて、一段下の家の屋根が見えている。一階にあるのは和室が四部屋と台所とお風呂にトイレ。二階も同じように和室が四つと、あとは物置がある。一階の庭に面したところにぐるりと縁側があり、裏には祖母の食べる野菜くらいは作れる小さな畑があった。
一人暮らしには広すぎて住みにくいくらいだけれど、娘にあたるりっちゃんと、りっちゃんの姉の伯母さんも家を出てしまって、祖父が死んだあと祖母はこの広い家に一人きりだ。祖父が亡くなったとき、よしりんも、伯母さんも、一緒に暮らそうと祖母に話したらしいのだけれど、結局祖母はどちらも断って、住み慣れたこの場所で日々野菜を作って暮らしている。
「お茶でも出すけえ、こっち上がって来んさい。あんたら、もうお昼になるけえ、ごはん食べていきんさいなあ」
私たちの返事も待たず、さっき掘ってきたばかり新ジャガを両手でごそっと持ち、玉暖簾の音をカラカラとさせて台所に姿を消した。私がカナの顔を伺うと、ニコッと笑うので立ちあがって祖母の後を追う。
「おばあちゃん、私も手伝う。でも三人分もご飯あるの?」
「あるよ。美鳥ちゃんとお昼食べるつもりだったけえ、その分と、夜の分も一緒に仕掛けとった」
祖母は私と話をしながら、さっきのジャガイモを流しで丁寧に洗っている。
「美鳥ちゃん、洗濯機の上のところに新しい布巾が畳んであるけ、何枚か取ってきてくれん」
私は「はあい」と、入ってきた方とは別の引き戸を開けて、目の前の脱衣所にある洗濯機の上の籠から切りっぱなしの手ぬぐいを二枚持って台所に戻った。
「これでいい?」
「ああ。じゃあ、これなあ。水拭いてえな。拭けたら、これに入れてくれたらええけ」
そう言って祖母はザルにあげた新ジャガと、使い古して取っ手のとれてしまった雪平鍋をテーブルの上に置く。以前は家族で囲んでいただろうそのテーブルの周りには、背もたれだけがついた椅子が三つと、祖父が亡くなる前の数年間使っていた、座面がクルクルと回転するどっしりとした椅子が一つ置かれていた。私が来るのを見越してか、どの椅子もきれいに拭き上げられている。
「おばあちゃん、拭けたよ」
「はいはい、じゃあ、揚げていこうかなあ」
祖母は私からジャガイモを受け取ると、天ぷら鍋の中にゴロゴロと移し、その上からサラダ油を注いでカチリとコンロの火を点けた。
それから、冷蔵庫を開けてタッパーを二つ取り出すと、
「美鳥ちゃん、りっちゃんに頼まれとった米が蔵の前に搗いてあるけえ、取って来ときんさい。じゃがいもは、ほれ、この袋に好きなだけ持って帰って」
そう言って、祖母は冷蔵庫と壁の隙間に置かれた紙袋の方を見る。
「もう手伝うことないの?」
「ええよ。ほら蕗の炊いたんがあるし、鰯の煮付けとなあ。それに味噌汁したらよかろう?」
「いいよ。十分、十分」
祖母はタッパーを置いて、菜箸でコロコロと油の中をかき回す。油に沈んだ何かの卵のような新ジャガからプクプクと泡があがっていた。祖母は裏口に続く土間の方へ行くと
「ああ、美鳥ちゃん。葉玉ねぎも、ここにあるけえな」
と、緑色の葉が伸びた泥のついた玉ねぎを一つ持って流しに戻り、じゃぶじゃぶと洗う。私は「分かった」と返事をして、紙袋を手にカナのいる座敷に顔を出した。
カナは座敷ではなく、縁側に胡座をかいて座っていて、じっと外の方を見つめている。
「なに見てるの? カナ」
カナはニッと笑って私を振り返ると、いつぞやと同じようにからかうように言う。
「なに見てるの、かな?」
私は、もう、と言いながらカナが見ていた方に目をやると、ぷっくりと太った一匹の野良猫がカナの車の下からひょこりと顔を出して、気持ちよさそうに「うーん」と伸びをした。それからのそりと動き出し、こちらを一度ちらりと見ると、さして興味もなさそうにヒョコヒョコと片方の後ろ足を引きずりながら歩いて、思い立ったように縁の下に入ってしまった。尻尾は何かに噛みちぎられたのかウサギのようにまんまるだった。
「いいもん食ってそうだよね、さっきの猫」
「だね。来る時にみた野良はそうでもなかったのに。どこかの家が餌あげてるのかもね」
それから少しのあいだ、二人でその猫が入っていったあたりを見つめていたけれど、何も起こらなかった。
「なんか、いい匂いしてきたね」
カナの顔が上機嫌になる。そういえば、とカナの胃袋を思い出して、おかず足りるだろうかと少しだけ心配になった。
「カナ、ちょっとお願いしてもいい?」
私がそう言うと、カナは「もちろん」と嬉しそうにぴょこんと立ち上がる。
それから二人で外に出て、上の家の手前で小さな畑に続く短い坂道を下りる。すぐ右手には四角い小さな味噌蔵があり、その向かいの左側が母屋の裏口になっている。母屋と同じくらいの広さの畑の奥には鬱蒼とした木々が生い茂り、秋から冬にかけて柿や栗、枇杷、それに柚子が実をつける。ついこの間まで桃の花がきれいに咲いていた。
裏の畑はまだ閑散としていて、濃い緑色の玉ねぎの葉だけが元気よく地面に突き立っている。その手前にある畝には、植え付けたばかりらしい緑色の苗が顔を出していたけれど、成長するのはまだこれからのようだった。裏口の軒下には、ほかにも植え付けを待つ苗のポットがいくつか置かれている。
「あ、さっきの猫」
カナはそう言って畑と母屋のあいだにある溝の脇をタタっとかけていく。縁の下からのんびりと歩いて出ようとしていたその猫は、驚いたようにビクリと立ち止まって、ささっと引き返してしまった。「行っちゃった」と私の方を向いたカナが、何かに気づいたように少し背伸びをして、それから私の後ろの方に向かってペコリとお辞儀をした。
「美鳥ちゃん」
そう声をかけられて振り返ると、さっきおじさんが「美人のカカア」と言っていた上の家のおばさんが、小ぶりの片手鍋とコンビニの小さいサイズのレジ袋を持って立っていた。
ツッカケにエプロン姿で、茶色く焼けた肌と深い皺は田舎のおばさんだけれど、屈託なく笑うその笑顔は今でも十分美人だ。
彼女は両手に持ったものを私の方に差し出して、
「これ、昨日の晩の残りだけど、若い男の子が来とるってお父ちゃんに聞いたけえ、良かったら食べて。大したもんじゃないけど。あと、こっちは苺。畑の端っこでちょこっと作っとるのだし形は悪いけど、今朝摘んだばっかりだけえ、りっちゃんに」
そう言って、おばさんは小さな袋を私に渡して、鍋の方はいつのまにか隣に来ていたカナに「はい」と差し出した。鍋を受け取ったカナはさっそく蓋を開けて
「豚の角煮だ。煮玉子もあるよ。ありがとうございます。やったね、美鳥さん」
と、おばさんに満面の笑みを向ける。人たらしたる所以はこの笑顔なんだろうな、と私が思うそばから、おばさんは「本当に、たいしたものじゃないから」と照れたような嬉しげな笑顔でバシンとカナの腕を叩いた。それから「あら」というようにカナの二の腕あたりをガシガシと触って
「お兄さん、意外にがっしりしとるんねえ」
と感心したようにカナの全身を頭のてっぺんから足の先まで観察するように見ていたけれど、ふと私に目を向けて
「やあだ、美鳥ちゃん。そんな顔せんで。ごめんごめん、もう触らんから」
と言って今度は私の腕をパシパシと叩いた。私は自分がどんな顔をしていたのか分からないけれど、カナをちらりと見ると、照れたような、笑いを堪えるような、そんな緩くゆがんだ口元をしていた。私は
「いいよ、もう。ありがとう、おばさん」
そう言って、カナの袖を引っ張って裏口のドアを開ける。後ろでおばさんが「じゃあね」と言ったので、もう一度振り返ってお礼を言うと、おばさんはニコニコと手を振って自分の家に入っていった。
裏口から祖母に鍋を渡し、味噌蔵の前の、米の入ったトタン製の缶をカナに持ってもらって正面玄関に戻ると、甘辛い醤油のいい匂いが漂ってきた。玄関の物音を聞きつけてか祖母がこっちに声をかける。
「美鳥ちゃん、お天気ええし、奥の座敷でご飯食べようか。できとるけ、運んでくれん?」
三人で、皿に盛られたおかずを運び、私が冷たい麦茶を持って最後に座敷に入った。
お隣に貰った角煮と、蕗、鰯の煮付け、漬物が二皿に、キャベツと新玉ねぎのお味噌汁。それから、さっき作った新ジャガの揚げ物は、そのままで塩を振ったものと、残り半分くらいは、玉ねぎの葉の部分と一緒に醤油で甘辛く味付けてあるようだった。カナのお茶碗にはご飯が大盛りによそってある。カナはもう待ちきれないという顔でそわそわと私が座るのを待っていた。
「いただきます」と三人で手を合わせて、おばあちゃんはのんびりと箸を口に運び、カナは料理が逃げてしまうんじゃないかという勢いで数々のおかずを幸せそうに頬張り、私はそれを見ながら、また家族のことを思い出していた。
みんなで『デイ・ドリーム・ビリーバー』を歌ったあの日も、こうやって奥の座敷で座卓を囲んでいた。あれは夕飯のときで、昼間は暖かくても夕方ころから少しずつ肌寒くなり、障子も襖も締め切って、電気ストーブもつけていた。
「よしりん、この寒いのにビールなの?」
そう言った姉と私の前には祖母の作った梅酒のお湯割りがあり、りっちゃんの前にはよりしんの晩酌につきあって小さなグラスが置かれていた。祖母は温かい番茶を自分の湯呑みに注いだ。
「乾杯と言えば、ビールだろう」
よしりんはそう言ってグラスを掲げる。
「美鳥の就職と、これからの人生に、乾杯」
みんなが「かんぱーい」とよしりんの後につづき、グラスや湯呑みに口をつけた。姉は好物のフキノトウの天ぷらを一つつまんだ後に、少しだけ意地悪な顔をして私の顔をのぞき込んだ。
「何とか就職できたって、感じだけどね。美鳥」
図星だけれど、働き慣れたバイト先での就職は気負いもなくて、明るい未来が待っているような気がしていた。それに水を差されたようであまり気分はよくない。
「いいの、ずっとその会社にいるわけじゃないし。飲食の仕事嫌いじゃないもん」
そう言って、ふん、と顔を背ける私に、よしりんが「そうなのか」と話しかけた。
「そうなのかって?」
「ずっといるつもりじゃあないのか」
私は責められているような気がして、「うん、まあ」と曖昧に頷く。よりしんは、そうかあ、と少し残念そうな顔をしたあと
「まあ、会社も入ってみんとどんな会社か分からんけど、最初から辞めるつもりでおったらいけん。最初は退屈な仕事でも、出来るようになったら楽しくなってくるし、運がよかったら『この仕事が好きだ』って思えるようにもなる。でも、辞めるつもりで働いとったら、ずっとやっとってもそんな風には思えんけなあ」
と真面目な顔で言った。姉がそれに反論するように口を開く。
「私は、割り切って働いてるよ。別に今の仕事が好きってわけじゃないし、でも嫌いでもないかな。給料は悪くないし、ちゃんと働けばちゃんと休みも取れて。それと引き換えに旦那と遊びに行けるわけだし」
そう言って、フキノトウをもう一つパクリと口に放り込んで、それから「りっちゃんは?」とみんなでりっちゃんの方を向くと、なぜかりっちゃんは目に涙を溜めている。
「どうしたん、りっちゃん」
姉が心配そうにりっちゃんの顔をのぞき込むと、
「これ、辛子効きすぎー」
と、菜の花の辛子和えを指さすものだから、みんなそれまでの話なんてそっちのけで、ケラケラと大笑いした。りっちゃんだけが「なによう」とふくれっ面で、口直しをするようにビールに口をつけた。私は、可笑しくて目尻に溜まった涙を抑えて
「それ、りっちゃんが自分で作ったやつじゃん」
と、りっちゃんに言いながら、その辛子和えをつまんで味見をする。ツーンと辛味が鼻に抜けて、「やばい、やばい」と言いながらご飯をかきこむと、またみんながケラケラと笑った。笑いがおさまったころに、祖母が冷蔵庫からお豆腐と麺つゆを出してきて、
「ほら、これにのせて一緒に食べたら、食べられよう。ちょっと麺つゆ垂らして」
と言うので、言われたとおりにしてみたら、辛さがちょうど良くなって、辛子和えは少し残ったけれど、豆腐はみんなでぺろりと食べてしまった。祖母はそれをニコニコとながめながら、
「わしの仕事は、あんたらみたいにお金が稼げるわけじゃあないけど、こうやって野菜作って、近所のもんとあげたり貰ったりしてなあ。なんぞ手伝ったり、助けてもらったり。それでこうやってみんなの笑顔が見られるちゅうのは、贅沢だわなあ」
と、幸せそうにみんなの顔を見まわした。
「それは、お母さんのご飯がおいしいからよ。お母さんの作る料理は世界一だから」
りっちゃんはそう言ってから、おいしそうにご飯を頬張る。
「りっちゃんは、食卓に出す前にちゃんと味見をすること」
私がそう言うと、口をもぐもぐと動かしながら肩をすくめるものの、開き直ったようにニイッと笑って唐揚げを口に入れて幸せそうな顔をした。
「人には向き不向きがあるでしょ。お母さんも、よしりんも、お願いしたらおいしいもの作ってくれるもの。私はそれで幸せ」
そんなりっちゃんの顔を眺めながら嬉しそうに番茶をすする祖母を見て、私は幸せな気持ちになった。それから、よしりんの方を真っ直ぐ向いて正座をした。みんなが、不思議そうな顔で私に注目する。
「よしりん。私、ちゃんとがんばるから。おばあちゃんの料理みたいに誰かを幸せに出来るような、そんな仕事するから」
シャキッと背筋を伸ばしてそう宣言すると、よしりんは嬉しそうに「そうかあ」とビールで赤くなった頬を緩ませて、
「じゃあ、もう一回乾杯するか」
と言って立ちあがる。みんなが目を見合わせながらも、よしりんに合わせるように立ちあがって「かんぱーい」と再びグラスをカチンと鳴らしあった。
よしりんとまともに話したのはそれが最後だった。結局、よしりんが死んでしまうまで帰省してもとんぼ返り、泊まっても布団にゴロゴロしてばかりで、それでもマイドカンパニーで働いているあいだ私を支えてくれていたのはこの時の記憶だった。マイドカンパニーの時だけではなく、ユウジのところにいた時も、そして、今も。
「美鳥さん、これも持って帰るんだよね」
カナは玄関から顔だけだして、縁側でのんびりとお茶を飲んでいる私に声をかける。
「うん。それもー」
これじゃあ、お姉ちゃん夫婦と同じじゃないかと思ってクスクスと笑うと、隣の祖母も幸せそうににっこりと微笑んだ。それから落雁を一つ口に含んで首をコキコキと鳴らすので、
「おばあちゃん、無料の肩たたき券使ったげる」
と言って祖母の肩をトントンと叩いた。
荷物を積み終えて戻ってきたカナが、
「美鳥さん、変わるよ」
と腕まくりをするので素直に場所を譲り、私は祖母の隣に膝を抱えて座った。ぐっと親指に力をいれるようにして肩を揉むカナに、祖母は
「あんたあ、上手ななあ」
そう言って、今にも眠ってしまいそうに気持ちよさそうな顔をした。目を閉じたまま、ひとつひとつ言葉を柔らかく包むように、祖母は私たちに話しかける。
「わしは、こうやってお天道さんの下で土ぃいじってなあ、それで、こうやって身近なもんの笑った顔が見られたら、それでええ。ほんに、贅沢だわぁ」
「おばあちゃん、俺もおんなじ。自分の手の届くところにいる人が笑っててくれたら、それだけで嬉しい」
カナがそう言って、祖母を肩越しにのぞき込むと、「そうか、そうか」と祖母は嬉しそうに言った。それから肩にのったカナの手をポンポンと叩いて、
「もうええよ、ありがとなあ」
と、もう一度首をコキコキと鳴らした。
祖母の肩から手を離したカナが
「美鳥さんも、肩みしてあげようか。おばあちゃんのお墨付きだよ」
と、ダメ元という口調で私の顔を見る。私は見上げるようにカナの方を振り返り
「じゃあ、お願い」
と言って、肩もみしやすいよう、うつむくように頭を下げた。そのまま目を閉じていたから、カナがどんな顔をして、どんな気持ちで私に触れたのかは分からないけれど、カナの指は壊れ物を触るようにそっと私の肩に触れた。「こってるね」なんていうカナの軽口をあしらうように言葉を返していたけれど、私は心地よさと緊張と、それと昔家族みんなでいたときのような温かい気持ちになった。
「おばあちゃん」
目をとじたままそう呼びかけると、「んん?」とすぐ隣で返事が聞こえる。
「私、よしりんとの約束、守れなかったよ。仕事辞めないでがんばるって言ったのに、途中で辞めちゃった。今もね、一生懸命やってるのに辛いんだ」
それまでグッとツボを抑えるようにして揉んでいたカナの手が、ふわっとさするように肩をなでる。自分のせいだと分かっているけれど、なんで抱きしめてくれないんだろう、そう思った。
祖母の手が、私の手をキュッと握る。少し乾燥したその手は、温かく私の右手を包んだ。
「美鳥ちゃんは、よしりんの言葉に囚われ過ぎよ。なんであんな風によしりんが言ったんか、ちゃあんと考えんさい。美鳥ちゃんに笑っとって欲しいだけよ、なあ。あんまり考えすぎんと、りっちゃんみたいに、のほほんとやっとったらええ」
「俺も、美鳥さんに笑っててほしい。ね、おばあちゃん」
私の目からはらはらと落ちる涙には二人とも何も言わず、カナは優しく肩をさすり続けた。
カナの車に乗りこんでシートベルトをしめると、祖母は窓の外から名残惜しそうに近づいてきて、
「もうじきしたら、梅が採れるけなあ、時間があったらまたおいでぇな。一緒に梅干しでも、ジャムでも作らあ」
そう言ってから、窓越しに私とカナに手を振った。
カナは「またね、おばあちゃん」と言ってエンジンをかけ、白いワンボックスカーは道端の猫を見つける度にスピードを緩めながら、細い坂道を下りていった。
〈十一〉嘴と唇
海が、見えた。
古い映画のように、通り過ぎる家々が不規則に視界を遮って、目に映る海の姿がコマ送りのように姿を変えていく。それがプツリと途切れて、真っ暗な視界のなかゴーッという反響音があたりを包んだ。トンネルを抜ければ、猫浜の海岸はもうすぐそこだ。
私はこのままカナの隣に座っていたくて、何かいい理由はないだろうかとぼんやり考えていた。簑沢での出来事は現実のように思えなくて、カナの優しい言葉の数々も夢だったんじゃないかと思えてくる。それでも、あの幸せな時間は私の中にちゃんとあった。
「カナ、これから日帰り温泉行くの?」
「そう思ってたけど、野菜もらっちゃったし、一旦家に帰ろうかな」
そっか、と呟いた私に、カナは「一緒に来る?」と冗談のように言ったけれど、それからすぐ「あ、でも美鳥さんも車だもんね」と私に言葉をはさむ隙を与えてくれなかった。
それで良かったのかもしれない。こうやって姉弟みたいに接することはできても、自分が突然カナの手をはねのけたりしないか心配だった。
猫浜の駐車場に着いて、カナの車から本巣家の分のお米や野菜を私の車に積み替えているとき、カナに着信があった。カナは「あ、店長からだ」と言ってスマホを耳に当てると、ふらりと遠ざかっていく。
私は荷物を積み終えてから、もらった苺を三粒だけ出して水場で洗ってから食べた。電話をしながら近づいてきたカナが、「あー」と言うように口をあけて拗ねたような顔をするので、持ち手を結んだ袋をもう一度開いて、カナのために五粒取りだした。それを洗おうと水場に戻ると、カナはさっきとは違って何かを考えるように眉をしかめている。カナがちらりと私の顔を見てスマホを耳元から離すと
「美鳥さん、ユウジさんの店だった物件、一緒に見に行く?」
と私に聞いた。私はすぐには意味が飲み込めず、ただ首をかしげると、カナはちょっと待ってというように手を出してから、もう一度スマホに向かって話しはじめる。
「店長? とりあえず俺は行きます。もし彼女も行くって言ったら連れてってもいいですか?――はい。あー、じゃあ、またあとで」
カナはそう言って電話を切ると、複雑な顔で私の前まで歩いてきた。洗ったばかりの小粒な苺を私の手から一つ摘んで、パクリと口に入れ、酸っぱそうに眉を寄せて小さくため息をついた。私は、カナが説明してくれるのを大人しく待っている。
「夕方くらいになるんだけど、ユウジさんが店やってた場所をさ、見に行くんだ。美鳥さんが働いてた場所」
私はうまく言葉が見つからず、へえ、と相槌だけうった。カナは何か迷っているように口元に手をあて、それから
「美鳥さん、行く?」
と、言った。自分で誘っておきながら、その顔は断ってほしそうに見えた。
「カナのところで、その物件借りるの?」
「借りてくれないかって言われてるらしいけど、店長はあんまり乗り気じゃなさそう。でも、断るにしても、一回見ようかって。知り合いでそこに興味持ってる人もいるからその人も来るって言ってた。あと、うちの社員も一人来る予定」
私は、思い出すこと自体ほぼ封印してきた当時の記憶を探りながら、怖いものみたさのような好奇心が胸の奥にむくりと立ちあがるのを感じた。それでも、実際にその場に立ったとき自分がそれに耐えられるのかといえば、それには自信がない。
「でも……、私部外者だし」
そう言いながら、私は強引に連れて行かれるのを待っているような気がした。
「それを言うなら、俺も部外者なんだけどね。店長はほぼ確実に断るだろうし。ただ、俺があの物件を気にかけてたから声かけてくれただけ」
「そうなの?」
「美鳥さんがいた場所だから、なんとなくね。ちょっと」
カナはそう言ったけれど、ユウジが絡んでいなければ気にしなかったんじゃないかと思う。私が傷ついた過去を、カナは心配しているような気がした。
どうしようか考えているうちに、私の手の中の苺は全部なくなっていた。カナは風の吹く方に向かって「うーん」と伸びをして、気持ちよさそうに目を閉じた。それから、くるりと私のほうに向き直ると
「やっぱり、行くのやめようか。俺もやめる」
そう言った。それから、今の会話もさっきの電話も、何もなかったように「帰ろう」
とニコッと笑って、開けっ放しだったバックドアをバタンと閉めた。何かの感情を隠したようなその笑顔は大人の嗜みなのかもしれないけれど、私はそんなものが見たいわけじゃない。
「私、行くよ」
自分の言葉が引き金のように、ジワリと恐怖心が顔をのぞかせる。カナはすっと笑顔を引っ込めて、少しだけ怒ったように眉を釣り上げた。いつもの拗ねたようなふくれっ面とは違う。
――あ、怒られる。
そう思った瞬間くらりと目眩がして、視界の中のカナが誰か知らない人のような気がした。呼吸が浅くなって、上手く吸えない。
……はっ、……はっ、
必死に吸い込む自分の呼吸音だけで頭のなかがいっぱいになる。そのとき、ふわりと耳のあたりが包まれた。触れられてはいないけれど、柔らかな感触が頭全体に広がる。
「美鳥さん、ゆっくり息吐いて。ふぅー……って」
私は言われるがままに、つっかえながら体を折るようにして息を吐いた。
「……そう。もう一回。ふぅー……」
ギュッと目を閉じたまま、聞こえる言葉のとおりに息を吐く。何度か同じことを繰り返して、不意に自分の呼吸の合間に、波の音が聞こえた。異常に力を込めて握りしめていた両手の力を緩める。
――ああ、カナのパーカー皺くちゃにしちゃった。そう思うと同時に、自分の頭がカナの胸のなかにあることに気づいた。足元に向いた視界は、カナとの距離がゼロだと教えてくれている。顔を上げるのが怖くて、私は脱力したようにペタリと地面にお尻をついた。
目の前にカナの大きなスニーカーがあって、かたっぽの蝶々結びが緩んでほどけそうになっている。私は無意識にそれに手を伸ばして、キュッとほどけないように結んだ。手が少しだけ震えていて、きつく結んだつもりのその紐はもしかしたらすぐほどけてしまうかもしれない。それでも、羽を広げた蝶々の形を整えてそっと手を離すと、カナは一歩離れてからしゃがみこんで心配そうに私の顔をのぞきこんだ。
「ぴぃちゃん。ありがと」
カナはそう言って、スニーカーの蝶々結びを指さし、羽を引っ張ってギュッと結び目を固く縛る。それから私と同じように地面に腰をおろして体育座りをした。もう片っぽの、輪っかの大きさが違う蝶々結びの形を整えながら、
「ごめんね、美鳥さん。俺のこと、……怖い?」
カナは、そう目線も上げずにつぶやく。私は返事ができず、もう形の整った蝶々を弄ぶように触るカナの指先をじっと見ていた。ふぅ、というカナの小さなため息が聞こえる。
「俺、『カナチャン』のままでいるから、もう、ぴぃちゃんが怖がるようなことしないよ」
チラリと目だけ動かして上目づかいにカナの顔を伺うと、カナは笑っていた。
それは『カナチャン』の無邪気な笑顔ではなくて、でもカナの笑顔とも違って、私が思い出したのは――「またね、美鳥」そう言った、小学六年生のカナだった。
『奏君って呼んだら……奏君ね、ちょっと嬉しそうな顔したのよね』
そう鼻をすすりながら話したタエコさんの顔が頭に思い浮かぶ。
駐車場のアスファルトの上を、サラサラと砂が流れていった。私は、息を吐くのに合わせてカナの名前を口にする。
「かなで」
何も言わないカナに、もう一度「奏」とはっきりと口にして顔を上げると、カナは困ったような目で私を見た。光の加減なのか分からないけれど、カナの瞳は涙を溜めたように潤んでいる。
「美鳥さん、俺にどうしてほしいの?」
そう言ったカナの声は、拗ねて甘えるような『カナチャン』にも思えたけれど、私を気遣うようにひそめた眉は大人の『カナ』のものだった。
「カナ、自分に嘘つかないで。――平気なフリ、しないで」
カナは笑おうとしたようだったけれど、上手く笑えなかったようで、泣きそうになる目元を隠すように膝に顔を埋めた。
「美鳥さん、――ずるい」
私は膝立ちになって、そっとカナの髪に触れた。不意にカナが顔を上げたので、驚いて少し手を引いたけれど、目尻から流れる涙をそのままにして私を見上げるカナに、これまで何度もおさえてきた欲望を再びおぼえた。
自分の心が求めるままに、そっとカナの頬を両手で包んで、私はその唇にキスをした。嘴の先と先が触れ合うような、ほんの一瞬のキスだった。
唇が離れた瞬間、そのキスが現実なのか確認するようにカナの顔が近づいて、しっかりと唇が合わさる。私は体を引いて、カナから顔を離した。
「ごめん」と謝るカナに首を横に振って、頬に当てたままの両手の親指で、涙の跡を拭ってから手をそっと離した。
「カナ、私のこと待っててくれる?」
カナは私の言葉の意図を探るように、不思議そうに首をかしげる。
「カナのこと、受け止められるようになりたいから。……お願い。待ってて」
ちゃんと喋れるつもりだったけれど、最後の方はかすれて消えかかっていた。ぼんやりと涙で霞んだ視界のなかで、カナは幸せそうに微笑んでいた。
「のんびり待ってる。俺、波乗りだから。それに、美鳥さんも俺のこと待っててくれたから、今度は俺が待つ番だね」
カナの声は、心地よい海風と一緒に私の耳に届いた。
「私が、……カナのこと待ってたの?」
「うん」
確信に満ちた顔でうなずくカナに、待ってたのかもしれない――そう思った。
海岸沿いの国道を走る車内には少しだけ苺の匂いがしている。ウィンカーを出し、ハンドルを切って右折レーンに乗ると、ルームミラーに映っていたカナの車が隣に並んで、運転席からカナが手を振る。信号が青になり、対向車が行き過ぎるのを待つうちに、カナの車は真っ直ぐ伸びる緩やかな上りの道を遠ざかって、じきに見えなくなった。
湖沿いの道を走りながら、自分が少し緊張しているのが分かった。けれど、カナが一緒にいれば大丈夫な気がする。このあと、家でカナの迎えを待って、あの店に行く。
カナの心配は当たり前だし、さっきのようなことがあった後だから不安がないわけではない。むしろ不安だらけなのだけれど、今行かなければもうあそこには行くことはないという確信があった。
私を今あの場所へ向かわせようとしているのは、怖いもの見たさなのか、恐怖を克服しようという前向きな気持ちなのか、それともまったく別のものなのか。――自分でもよく理解はできなかったけれど、ただ、今ある現実の姿をこの目で見たかった。私が恐れたものはなんなのか、私にとってあそこは一体どういう場所だったのか。
大学前の赤信号で止まった。小さな駅舎が少し離れたところに見える。カナが以前働いていた居酒屋はたしかこの近くのはずだった。
バラバラと横断歩道を渡って駅に向かう人の波に逆らうように、目の前を千尋ちゃんが走って通り過ぎた。私に気づくことなく横断歩道を渡りきると、車の横をすり抜けるように歩道をタタタッと小走りに駆けていく。振り返って様子を見ていると、あの青年らしき後ろ姿がその先にあった。
ピッ、と軽くクラクションを鳴らされて、慌てて車を発信させる。フロントガラスにパラパラと雨粒が落ちてきて、サアッと一面が煙ったように霞んだ。鞄を頭の上に掲げて、跳ねる泥も構わずに走る人々をからかうように唐突に雨が上がり、目の前の陸橋の向こうにぼんやりとした虹が掛かっていた。
ワイパーを止めたフロントガラスに、どこかからポタリと雫が落ちてスッと筋を作る。私はカナの涙を思い出していた。そして、私の知らないカナの泣き顔のことを思う。
『私、奏君が泣いたところ見たことあるよ。――ヒロセさん、辞めないでって』
千尋ちゃんや『オフショア』の人たちの前で、カナはどんな風に泣いたのだろうか。
市内を二つに分けるように流れる春海川の橋を渡るころ、ぼんやりとしていた虹は、海望山に掛かるようにくっきりと半円を描いていた。よしりんはあの虹のはじまりの場所から、今どんな風に私のことを見ているのだろうか。
何度も何度も、同じような失敗を繰り返して、その度に次こそはと何かの理由を見つけては突き進んできた。ぺしゃんこになって、踏みつけにされて、泣きながらそれを隠して。その先に幸せがあると思っていたけれど、私の幸せは、もしかしたらすぐ手を伸ばしたところにあるのかもしれない。
「よしりん、私また約束やぶっちゃうけど、もう謝らないから。今度は笑ってよしりんに会いにいくよ」
カナと一緒に行けたらいいな――そう思った。
〈十二〉鳥籠
「りっちゃんは留守なの?」
玄関からきょろきょろと家の中を見回して、カナは当たり前のようにひとの母親を親しげに呼ぶ。小さし頃は、この上り口を降りるのさえ一苦労していたというのに。
腰をおろしてスニーカーの紐を結びながらカナを見上げようとしたけれど、その景色は少し危険な気がして、目線を反らしたまま立ちあがった。木戸に手をかけて居間をのぞき込むカナの肘あたりを掴んで「カナ」と呼ぶ。カナに触りたいと思うし、自分から触るのには抵抗はなかった。
カナが少しだけ驚いたような顔で振り返り、自分の肘に触れた私の手を確認してニッコリと嬉しそうに笑う。
「行く?」
うん、と肯いてから、玄関を出ようとするカナ引き止めるようにグッと掴んだ手に力をこめた。
「どうしたの、美鳥さん」
「あのね、カナ。……さっきみたいに覆いかぶさる感じは、ちょっと怖いかも」
私はカナの次の言葉に緊張して、カナを掴んだままの自分の手をじっと見ていた。少しだけ沈黙があったあと、カナは覗き込むようにして私の視界に入ってきた。
「分かった。気をつけるから、他にも何かあったら言ってね。一緒にやってこ」
見慣れたいつものカナの笑顔は、私の不安をするりと解消してくれた。
「カナも、ちゃんと言ってね。泣くなら頭くらい撫でてあげるから」
カナは「もう」と呆れたような顔で苦笑する。
「じゃあ言わせてもらうけど、今後一切『カナチャン』は禁止でお願いします」
「了解。カナチャン」
カナはクスクスと笑いながら、きっといつものように返してくる。
「これだから、ぴぃちゃんは」
思った通りの反応が、この上なく心地よかった。予定調和が生むかけがえのないこの幸福感はこれまでも手の中にあって、ただ、それを受け止めず指の隙間からサラサラと逃してきた。
「奏、近くにいてね」
急に真面目な顔になってそう言った私に、カナはまっすぐ私を見返して「いるよ」そう一言だけ返した。その顔は、聞くまでもないでしょ、と言っているように見えた。
「行こうか」
カナはそう言って玄関を一歩踏み出した途端、何かを見つけたように動きを止めて突然ケラケラと笑いはじめた。カナの後ろから顔を出し、彼が見ている場所をひょこりとのぞき込む。
「ああん、見つかっちゃった」
玄関脇の植木鉢の陰に隠れていたりっちゃんが、しゃがみこんだまま私たちを見上げている。口元に人差し指を当てて、きっとカナに「しーっ」と言っていたに違いない。
「りっちゃん、何やってるの」
呆れ顔でそう言った私に、ガーデニング用の手袋を外しながら立ちあがり、ニヤリと不敵な笑いを浮かべる。りっちゃんの足元にはレジ袋いっぱいに抜かれた雑草があった。雨上がりの庭はしっとりと濡れていて、ところどころの土がほぐされたように微かに盛り上がり、さっきまでそこに草が根を張っていたことがわかる。
りっちゃんは外した手袋を鉢の脇に置くと、
「娘のラブシーンなんて、貴重じゃない」
そう言って、ふふっと嬉しそうに笑う。
「別になにもしてないでしょ」
とムキになる私をほったらかして、りっちゃんは懐かしそうな眼差しをカナに向けた。
「カナ君、元気だった?」
その一言から、りっちゃんが私と同じようにカナのことを気にかけていたのだと分かった。それが伝わったのかカナは少し申し訳なさそうな顔をして、はい、と答えた。それから、力こぶを作るように腕を曲げてグッと力を入れ
「ほら、こんなに元気いっぱい」
その仕草で、私とりっちゃんは目を見合わせてクスクスと涙が出るほどに笑った。カナが困惑したように「ええ?」と頭をかきながら私とリっちゃんのことを交互に見ている。
「俺、変なことした?」
そう言って可愛らしい目で私を睨むカナに、私は目尻に溜まった涙を拭きながら答える。
「タエコさんが、まったく同じことしてた」
ああ、とカナは納得したように脱力して
「そろそろ笑い終わってよ」
と情けない顔をする。りっちゃんはピタリと笑うのをやめて、じっとカナの目を見ると、
「出かけるんでしょ。美鳥のこと、お願いね」
そう言ってペコリと頭を下げた。私は、予想外のりっちゃんの母親らしい行動にビックリしたけれど、じわじわと温かい気持ちが胸に広がった。
頭を上げたりっちゃんに、カナは「はい」と言って、今度はカナが頭を下げる。私は自分抜きで話が進んでいくのが面白くなくて、カナが頭を上げる前に二人に向かって頭を下げた。
「お願いします」
そう言って顔をあげると、二人が私の顔を見て可笑しそうに笑った。
「もういい。行こう、カナ」
背を向けた私の後ろで、「あ、ちょっと待って」とりっちゃんがバタバタと家の中に入っていく。振り返って、カナと顔を見合わせて首をかしげていると、すぐに戻ってきたりっちゃんは両手を私たちの前に出してパッと開いた。
「はい、甘いものでもどうぞ」
りっちゃんの手のひらには、左右に一つずつコーヒーヌガーのチロルチョコレートがのっていた。それを見てくすくすと笑い合う私とカナに、今度はりっちゃんが「なんで笑うのー」と拗ねたように口を尖らせた。
助手席のヘッドレストを抱えるようにして、家の前で手を振るりっちゃんの姿を見ていると、カナは私の服の裾をクイッと引っ張って、
「こらこら、ちゃんと座って。危ないから」
と嗜めるように言った。はあい、と肩をすくめて、ちゃんと前を向いてシートに収まる。
自分の店へと続くいつもの道を途中で外れて、本通りの一本手前の飴屋街道を駅方面に向かって走った。昔はメインストリートだったというその通りは、今では小さな事務所と昔ながらの老舗の卸問屋がポツポツと並び、車の通りはそれなりにあるものの、歩いている人はまばらだった。建て替えたばかりの五階建ての商工会議所だけが空に向かってポツンと頭を出している。
途中で左折して細い川沿いの道をまっすぐに進む。その道は、春になると川の両脇に延々と続く桜並木がピンク色の帯を作り、花見スポットとしてローカルガイドブックにも載る。一方通行のその道は、ユウジの店への通勤路だった。今はすっかり新緑に染まった緑の並木がサワサワと風にそよいでいる。
「この道通るの、久しぶり」
少しずつ高まる緊張をごまかすように、私はそう口にした。
「来年の春は一緒に花見に来ようよ。そういえば、春海川の花火大会の隠れスポットらしいよ、ここ」
明日の遠足の話でもするように、楽しそうにカナが喋る。そうやってカナとの新しい思い出で上書きしていけたらいい。
「でも、カナは仕事でしょ」
「あ、そか。休みが違うもんね。今度休み希望出すときはバードネストの休みに合わせようかな」
信号を抜けて高架をくぐり、あの頃よく寄り道がてらに入った小さな本屋が見えてきた。緊張で、口の中が渇いてくる。
私は、肩にずしりとのしかかってくる重い荷物を少しでも軽くしたくて、幸せそうに話し続けるカナに声をかけた。
「あのね、……カナ」
本屋の手前の交差点でカナは車を止めた。信号が青に変われば、あの場所までもうすぐ。
「なに?」
とカナは笑顔のままこちらを向いたけれど、私の顔を見てスッと笑みが消えた。
「美鳥さん、本当に大丈夫? 今からでもやめる?」
心配するカナに首を振って、ちがうの、と呟いた。意を決してその言葉を口にする。
「あのね、……私、お店閉めようと思う」
カナは驚いたように目を見開いたあと、前を向いて「そっか」と小さく息を吐いた。
信号が青にかわって車は交差点を中央まで進み、対向車線の流れが切れるのを待つ。いつまでも途切れない車の流れは、神様からのプレゼントのような気がした。ビュンビュンと過ぎ去る車から目を離し、カナは私を見て全て許してくれるかのように「うん」と肯いた。
「やめてもいいかな、私」
「いいよ。ダメなんて、誰も言わない」
「タマ、怒らないかな」
「怒らないでしょ」
「岡井さん、なんて思うかな」
「取引先が一個減ったーって」
カナはそう言いながらクスッと笑う。
「カナはなんて思う?」
「俺? ……うーん」
信号が赤に変わって、右折の矢印が点る。車はゆっくりと右へ曲がって、目の前に広がる懐かしい路地の景色に、私は時間がタイムスリップしたような感覚を覚えた。
「美鳥さんと、いっぱい会えるようになるといいな」
過去に囚えられかけた心が、カナの声でぐいっと引き戻された。カナの顔をじっと見る。その肩越しに見える街並みは、猫浜で海風を感じたときのように、澱んでいたものが浄化されて少しだけクリアになったように見えた。こうしてまた、私はカナに触れたい衝動にかられて、思わず手を伸ばそうとしたその先のカナの口元が動く。
「おばあちゃんも言ってたでしょ。りっちゃんみたいに、のほほんとしてたらいいって」
「りっちゃんって、本人の前でもそう呼ぶの?」
ダメ? とカナは不思議そうに私をチラリと見た。それから、何かに気づいたようにクイッと顎をあげて、
「店長たち、もう来てるみたいだね」
と、のぞき込むように視線を先に向ける。助手席の窓を振り返った私の目の前には、いつも出入りしていた裏口の駐車場があり、そこは主を失ってガランと口をあけていた。
伸び放題だったアイビーは誰が刈ったのか跡形もなくなくなって、その植込みには玉砂利が敷き詰められている。それらはすぐ視界から消えて、カナは正面玄関の前の駐車場に車を停めた。
隣には、よく見かける不動産屋の名前が書かれた軽自動車、その向こうには赤い車体にルーフ部分が白のミニクーパーが停まっていた。
「店長、美月さんの車で来たんだ」
カナは独り言のように言いながら、エンジンを切って「行こう」と私を見た。正面から突っ込んで駐車したフロントガラス越しの景色は、私の知っているあの店ではなかった。改装したという話を岡井さんがしていたのをチラリと思い出したけれど、ここまで外観が変わっているとは思っていなかった。
白一色だった壁は木を使ったナチュラルな雰囲気に変わり、小さな風除室しかなかったエントランスは、ずいぶんと広いガランとしたスペースになっている。店の中の作りもかなり変わっているように見えた。
呆然として助手席に座ったままの私に、カナはもう一度声をかけてくる。
「行ける?」
カナはもう車から降りていて、ドアを開けたまま心配そうに私の方を見ていた。そっちを見ればあるはずの店の看板は、のっぺりとした木の板だけが残っていて、文字を剥がしたような痕が過去に存在した店の名前を伝えている。その看板の残骸すらも私の知らないものだった。
今さらのようにキョロキョロと周囲の景色を眺め回す私に、カナは少し焦れたように、再び運転席に乗りこんで名前を呼んだ。
「ねえ、美鳥さん。やっぱり、やめとく?」
さっきより少しだけ強くなったカナの口調に、ピタリと動きを止めて
「なんだろう、この店」
そう言った私の声は、自分で聞いていてもずいぶん間抜けな響きだった。
カナは不思議そうに首を傾げて「どういう意味」と私に問いかけたけれど、私がそれに答える前に、視界の端でエントランスのドアが内側から開くのが見えた。
「奏」
それは何度か耳にしたことのある男の人の声で、フロントガラスの向こうを見ると、数段のステップを上がったところにあるエントランスのウッドデッキで四十代半ばくらいの日に焼けた男性が覗き込むようにこっちを見ていた。少し長めの髪を耳から上の部分だけ無造作に括ったその人は、ジャケット以外はTシャツにジーンズとずいぶんラフな格好で、聞かなくても、それがカナの呼ぶ『店長』なのはすぐに分かった。
その人は何度かお客さんで来てくれたことがあったけれど、まさかカナのところの店長だとは思っていなかった。こなれた男の色香を纏っている人だと最初は少し敬遠したけれど、優しげな目元と、対等に扱ってくれていると感じさせる言葉遣いで、私の小さな引っかかりはすぐに解消された。
店長の後ろには、黒髪をきっちりとまとめ、グレーのパンツにかっちりとした襟のブラウスを着た事務員のような女性と、首からIDケースをぶら下げたスーツ姿の男性が立っている。
カナは乗りこんだばかりの運転席から慌てて降りると、今度はバタンとドアを閉めた。窓越しに私を見て、手招きをして降りるように促している。私は観念するというよりも、混乱したままカナに身を任せるような気持ちで助手席のドアを開けた。
トン、と地面に足をついて顔をあげると、道路を挟んだ向こうの家並みは以前と変わらず、ひと昔前のデザインを思わせる建売住宅が少しくたびれた雰囲気を漂わせて立ち並んでいる。
「店長、もう中見ちゃったんですか」
カナの声で振り返ると、店長は階段を下りてこちらに歩いてきていた。カナは私の隣に来て、行こう、というように私の顔を見てから店長の方へ足を向ける。
「こんにちは」
店長は私にいつも通りの笑顔でそう言って、紹介しろというように、カナに目線を向けた。その顔は店で私に見せる顔と違って、無邪気な親しみがこもっているように見えた。
「店長、もう知ってるでしょ。バードネストの本巣美鳥さん」
私は慌てて頭を下げてから
「あの、いつもありがとうございます。まさか『オフショア』の店長さんとは知らずに、失礼しました」
しどろもどろで言葉を探す私に、店長は娘でも見るような温かい目を向ける。
「いやいや、失礼は俺の方でしょ。名乗りもせずに偵察してたわけだから」
「偵察じゃなくて、単なるサボりでしょう?」
そういったのは、事務員風の地味な女性で、もう一人の男性はまだエントランスのところで一人中の様子を伺っている。彼女は、チラリと店のほうに目をやった私の手を強引にとって、ブンブンと二回大きく上下に振った。
「はじめまして。鎌田美月といいます」
はっきりと名乗ってじっと私の目を見つめる鎌田さんは、その服装の印象とは違って、手から彼女の持つパワーがビリビリと伝わってくるような気がした。
「奏、俺らはちょっと周辺見てくるから、お前ら見るなら見てこい。井戸田君がまだ中にいるから」
その言葉に驚いて私は店長の顔を見返したけれど、店長は私の視線には気づかず、私の聞きたかった答えはカナの口から発せられた。
「ああ、この物件見たいっていうの井戸田君だったんですか」
「あの、……井戸田君って?」
私はカナと店長の二人を交互に見ながら、井戸田君が私の知っているあの井戸田くんなのか確認しようと口をはさんだ。
店長が、ああ、と何か思いついたように目を見開いて、いたずらでも企むようにニヤリと笑みを浮かべる。
「そうだよなあ。井戸田君ってウチの近くのカフェバーで働いてる子なんだけど、ここで長い間働いてたっていってたから、本巣さん知り合いだわ」
私は、驚いたとはいえ「やっぱり」という感じだったのだけれど、驚きぶりでいえば隣のカナのほうがずいぶん上だった。
「井戸田君ここで働いてたんですか? 美鳥さん知り合いなの?」
カナは見開いたままの瞳で確認するように私を見て、それから不意に眉をよせる。
「美鳥さん、会っても平気?」
予期していなかったカナの気遣いに、思わず笑みがこぼれた。カナをこんなに心配性にさせているのは私なのに、唐突にそれに気付かされて、カナの存在の大きさに涙が出そうになる。カナは笑う私を見て大丈夫だと確信したようだったけれど、それでも私の言葉を待っていた。
「ありがとう、カナ。井戸田君は平気だよ。あの人いなかったら……」
店長や鎌田さんの前でそれ以上突っ込んだ話をするのは憚られて、私はそこで言葉を切った。カナは私の言いたかったことを察してくれたようで、少しだけ複雑な表情は、井戸田君に嫉妬しているのかもしれなかった。
「とりあえず、俺らは行くわ。戻ったら中に声かけるから」
私とカナの微妙な会話を気にしてか、店長は鎌田さんを連れてきょろきょろと周囲を見回しながら遠ざかっていく。
「じゃあ、俺らも行こうか」
そう言って私に向けられたカナの笑顔は、さっきまでのものと少し違う。この柔らかな笑顔はきっと私だけのものだと思うと、これから目にする現実も受け止めれそうな気がした。
入り口を開けて入ろうとする私たちに、スーツ姿の男性が「ご案内しましょうか」と声をかけたけれど、私とカナは目を見合わせてから「勝手に見ます」と言って中に入った。首に掛かったIDケースには不動産屋の名刺が入れられていた。
カナの後ろに隠れるようにして、私は店内に足を踏み入れる。入ってすぐ左側にあったはずのカウンターとホールスペースは壁で仕切られてなくなり、奥には作業スペースがあるようだった。
「俺、一回来たんだよね。美鳥さんが辞めたあとだけど」
カナはそう言って、私が初めて見る奥の仕切られた部屋のほうへ歩いて行く。
「ここらへんにショーケースがあって、ケーキ売ってたよ。あんまり種類はなかったけどね。それとここに棚があって、それは焼き菓子。で、この奥でケーキ作ってたんじゃないかな」
カナの後をついて入ったその部屋は、打ちっぱなしのコンクリートに配管が剥き出しのガランとした部屋だった。ぼんやりと周りを見ながら歩いていたら、床から突き出していたガス管につまづいて転びかけた。奥にも物置のような部屋があったけれど、そこも同じように何も置かれていない。
「当たり前だけど、何もないね」
そう言いながら引き返すカナの後をついてそこを出ると、部屋から出た瞬間、見えた景色に見覚えがあった。店の右側半分は何の手も加えられておらず、ただテーブルや椅子がそこには存在しない。メニュー用の黒板だけが、なぜか取り残されたように壁にかかっていた。レジの場所も変わらず同じで、その脇に伸びた短い通路の奥には、あの住居スペースへ続く扉がある。
私はこみ上げる不安を振り払うように「……カナ」と口にした。
私の声に何かを感じたのか、振り返ったカナは少し心配そうな顔をしていて、私の顔を見ると立ち止まって正面から私と向き合った。
「どうしようか?」
眉をひそめてのぞき込むカナに、私はおずおずと右手を出した。
「手、握ってて」
そう言った私の右手は緊張でしっとりと汗をかいていたけれど、それでもカナと手を繋いでいたかった。カナは嬉しさと心配と混じった複雑な笑顔を浮かべて、「いいよ」とお姫様の手を取るように手のひらを上に向けて私の前に差し出す。私はその上にそっと右手を置いて、優しく私の手を包んで歩き出すカナの隣で、その右手にギュッと力を込めた。カナの手はそれの応えるようにしっかりと私の手を握りしめる。ドクドクと脈打つ心臓の音が、繋いだ手からカナにも伝わりそうな気がした。
ホールをざっと見てから、レジの脇を通って奥に進む。そこにはカウンターで仕切られた向こうに厨房があるはずだ。厨房へと入るスイングドアはもう視界に入っている。私の足が鈍るのを察して、カナもゆっくりと歩いた。
通路の右に見えるあの扉には入るつもりはなかった。その扉の向こうには、ほんの少しの、ユウジとの幸せな思い出がある。今この扉を開けてしまえば、その少しの思いでさえも消えてしまうような気がした。
カナがその扉の手前で立ち止まり、私の意思を確認するように、こちらを振り返る。
「こっちって、家になってるんだよね? 入る?」
私はフルフルと首を横に振って、束の間その扉を見つめていると、突然ガチャリとそのドアが開いて井戸田君が顔を出した。
カナは急に開いたドアにぶつかりそうになって「おっと」と、私の方に体を寄せる。
「あれ、美鳥さん? と、奏さん」
久しぶりに見る井戸田君は、前より少しだけふっくらとして、なんだか美味しいものを作ってくれそうな体型になっていた。
目をくりくりとさせて私の顔を見たあと、ある一点でその視線を止め、嬉しそうに私に笑いかける。
「美鳥さん、幸せそうでよかったです」
しっかりと繋いだカナと私の手を、井戸田君はもう一度確認するように見た。私もカナも特に否定することもなく、ただ目を合わせて笑いあった。
「まさか、美鳥さんと奏さんがつながってたなんて、驚きですね」
井戸田君は楽しそうに話しながら、私たちを案内するように厨房へと入っていく。厨房に入るまでもなく、カウンター越しに見えたその景色は、やはり他の場所と同じように何もなかった。唐突に、自分を囚えていた恐怖心の正体を見失って、私は自分の感情を把握しかねていた。
「美鳥さん、ここ。フライヤーがあって、で、こっちがガスレンジでしょ。ここに美鳥さんが立ってて、俺がこっち。あ、フライパンはここだったなあ」
私はカナの手を離して、楽しそうに一人でパントマイムを披露する井戸田君の隣に立ち、同じようにフライパンを振る真似をした。カナは口を出すことも手を出すこともなく、裏口のドアにもたれかかって優しい目で私を見ている。あの眼差しをユウジから向けられていたならば、もっと違う未来があったのかもしれない。けど、それは考えても意味のないことだった。今こうして私を見つめてくれる人がいる、それだけで十分だ。
裏口のドアを開けて外に出ると、そこは思った以上にガランとしていた。他のどの場所よりも、たくさんの感情を伴った記憶がこの場所にあったけれど、次々と沸いて出て来る感情を、吹き込んでくる風が次々と連れ去っていく。
うろうろと裏口周辺を歩きまわっていた井戸田君が、駐車場の隅に視線を落としてフッと笑みを浮かべ、「美鳥さん」と私に呼びかける。
「美鳥さんが辞めたあと、いつのまにか雑草が伸びてきてたんです。俺それまでは全然気にしたことなかったんだけど、美鳥さんがいつも草取りしてたんですね」
井戸田君の視線の先に目を向けると、ずいぶんと元気よく成長した雑草がそよそよと風に揺られている。
「他にも、色々ありました。ソースポットにちゃんとケチャップとかマヨネーズ補充してくれてたんだな、とか冷蔵庫のなかも材料とりやすい場所にあったりとか」
懐かしそうに話す井戸田君の言葉で、昔と同じようにまた私は救われている。意識せずにしてきた自分の行動をこんな風に言ってもらえるだけで、全否定されていた過去に光が当てられたような気がした。
「たいしたことじゃないよ。気づいた時にしてただけだから」
そう言いながらも、私は溢れそうになる涙を必死でこらえていた。
「それが出来る人がいるっていうのが、本当にありがたいことなんだなあって、思ったんです。だから、俺も気づいたことはやろうって思って。できてるのか分からないですけど」
私の我慢は限界を超えて、頬に涙がつたうのが分かった。堪らず両手で顔を覆って、カナの陰に隠れるように井戸田君に背を向ける。
「うれし泣きだと思うよ。ね、そうでしょ。美鳥さん」
カナは、特に私に触れるでもなく、そばに立ったまま私の代わりに井戸田君に申し開きをしてくれる。
「美鳥さんって、限界超えても我慢しちゃうタイプですよね」
井戸田君のその声は気遣うように優しくて、余計に涙が止まらなくなり、私はしゃくり上げるように肩を揺らした。
顔を覆った手に、ツンと何かが触れて少しだけ顔をあげると、カナが私の顔を心配そうにのぞき込んで「どうしましょう?」と聞くように片手を私の顔の前に出している。私はその手を両手で握って、カナの手の甲で涙を拭いた。
「奏さんは、ここでの美鳥さんのこと知ってるんですか?」
井戸田君の質問に、カナは「うーん」と唸り、少しだけ間をおいてから、
「岡井さんから少し聞いただけ。だから、あんまり当てにならないかな」
そう答えたカナの声は、苦笑しているような、そんな響きだった。井戸田君がクスクスと笑う声が聞こえ、それを追うようにカナの含み笑いも聞こえてきた。
「岡井さんもお節介なんだか、口が軽いだけなのかよく分からない人ですよね。でも、多分ここでのことは知らないと思います。ユウジさん、内と外でずいぶん態度が違ってたから」
それまで私のいいようにされるがままだったカナの手が、キュッと指先に力を入れて、ほんの少しの力で私の手を握り返してくる。
「それは、俺が聞いてもいい話なのかな?」
カナは私ではなく井戸田君に向かってそう言ったようだった。
「それは、直接美鳥さんに聞いて下さい。ただ、一般的に言えば、あれはパワハラというやつだと思います」
突然、時間が止まったかのようにカナと井戸田君が会話を止めた。私は顔を上げてカナを見上げ、それから井戸田君の方を振り返ると、そこには井戸田君だけでなく店長と鎌田さんも駐車場と歩道の境目あたりに立っている。
私と目が合うと、それを待っていたかのように二人とも駐車場の中に入ってきた。店長は井戸田君のほうに顔を向けて、少しだけ批判するような目つきで口を開く。
「それで、井戸田君はどうしてたわけ」
井戸田君はその言葉を受け入れるように、肩を落としてため息をつくと、私の目をまっすぐに見つめた。
「ごめんなさい、美鳥さん。俺がちゃんとユウジさんに『間違ってる』って言ってたら、美鳥さんも辛い思いしなくてすんだかもしれないし、ユウジさんだって変わってくれたかもしれないのに。俺、美鳥さんって強い人だなって思いながら、勝手にそう思い込んで甘えてた」
店長と鎌田さんは井戸田君の横を素通りして、私とカナの方に近づいて来る。店長はきょろきょろと周りを観察するように視線を移動しながら、確実に私に向けられたものだと分かる口調で言葉を紡いだ。
「いくら強いやつだって、尊厳を踏みつけにされたら傷つくだろうな。傷つかないのが強い人じゃなくて、それをパワーに変えれるヤツが強いんだ。同じ人間でも強くいられるときもあれば、そうじゃないときもある。ダメなときは他のやつに頼ればいい」
だろ、とカナの肩を叩いてニヤリと笑う。鎌田さんは鞄の中をゴソゴソと探って、私の前にポケットティッシュを差し出した。目の前に立つ鎌田さんはスラリと背が高くて、少し顎を上げて見上げる私に、ニコリと大人びた笑顔を向ける。
「本当にダメなときは、全部ほったらかして逃げるという手もあります。不要なものに囚われる必要はありません。逃げるのにもパワーがいるんですから、自分のために力を使ったほうがいいと思います」
私の隣で、不意にカナが「ふふっ」と可笑しそうに笑った。私は鎌田さんと目を見合わせてから、カナに「なに?」と少し責めるように言うと、鎌田さんも同じように怪訝な視線をカナに向けている。
「だって、美月さん俺より年下なのに、美鳥さんより全然年上みたい」
私は、なんとなく鎌田さんのほうが年下だろうと思っていたのだけれど、まさかカナより下とは思わなかった。当の鎌田さんはずいぶん驚いたように目を丸くして口元に手を当てる。
「すいません。年下か同じくらいだと思ってました」
カナはさらに楽しそうにケラケラと笑いだして
「だめだよ、美月さん。この人三十三だから」
と勝手に人の年齢をバラしてしまった。鎌田さんはさらに恐縮して深々と頭を下げるので、さっきまでの深刻な雰囲気はどこにいったのか店長も井戸田くんも同じようにクスクスと笑いはじめる。
不意に笑うのを辞めたカナが
「美鳥さんに、美月さん、かあ。美しい鳥と美しい月。二人ともぴったりな名前だよね」
そう言ってニッコリと笑う。
「奏君は、そういう歯の浮くような台詞を平然と言うよね」
鎌田さんはずいぶん嫌そうに、眉を思い切りひそめてカナを見ている。私は、何となくだけれど、カナの言うとおり『月』という言葉が彼女に似合うような気がした。
「私は、籠の中の鳥だったな」
ふとそう思って、呟くように口にした。
「籠から出るのも出ないのも、美鳥さんの自由ですよ」
そう言ったのは鎌田さんで、再び三人の男たちが弾かれたように笑いはじめ、目の前の鎌田さんは「つい」と、また頭を下げる。それが可笑しくて私もクスクスと笑いがこぼれ、私と目が合うと、鎌田さんも今まで堪えていたかのようにケラケラと気持ちよく笑いはじめた。
笑いながら、カナの周りにあるその笑顔の中に自分がいられることが幸せだった。
「で、井戸田君はここ借りる気になったの?」
不動産屋だけを追い返し、エントランスのウッドデッキにたむろした五人をまとめるように、店長が口を開いた。井戸田君は手摺にもたれかかるようにして自分の働いていた店をながめ、それから一つため息をつくと
「借りません。俺にはこのハコは大きすぎます」
そう言って肩をすくめ
「賀上さんは?」
と店長に向かって聞いた。
「ウチも借りないよ。ここは誰がやっても難しいだろうなあ」
店長はぐるりとあたりの街並みも見渡すと、「うーん」と唸って首筋をぽりぽりと掻く。
「駅からは遠いし、車で来るにしても住宅街だから駐車スペースが……三、四、五台か。近所に住んでるのもほとんどがお前らの親世代だ。何か際立ったものがないと客は付きにくいだろうな」
店長のすぐ隣でステップに腰をおろした鎌田さんが、見上げるようにして質問をする。
「テイクアウトっていうのは、アリかと思いました。ケーキ売ってたんですよね、ここ?」
「まあ、捌ける客数が違うからな。ケーキってのはやり方によっては上手くいったかもしれんけど、駅裏のケーキ屋と同じようなもん出してたから、多分そこの従業員がこっち来たんだろう。他と同じならアクセスがいい方に行くに決まってる」
店長はもう一度「うーん」と唸ってから、やっぱり難しいわ、と言って諦めたように肩を落とし、それから
「やっぱ『アオヤマ』はスゲぇな」
と、地元では有名な老舗フレンチの名前を口にした。
正式名は『シェ・アオヤマ』。同じようにアクセスの悪い住宅街にありながら、週末は一ヶ月以上前でないと予約をとるのが困難なほどで、地元だけでなく県外からの客も少なくない。私が『アオヤマ』に行ったのは一度だけで、それも姉の結婚前に義兄の家族と会食をしたときだからもう十年以上前になる。それに、『アオヤマ』といえば――。
「改めてヒロセさんって、すごい人なのかもって思っちゃいますね」
私の隣でカナはそう言って、ずいぶん嬉しそうに口元を緩めている。そう、ヒロセさんはつい最近までカナと一緒に働いていた元『オフショア』料理長で、今は『アオヤマ』に移ってしまった。そして元々は『シェ・アオヤマ』で修行を始めて、そこのお嬢さんと結婚しているというから驚きだ。そんなにすごいならカナが泣いてすがるのも無理はないのかとも思うけれど、カナの貼り付いたような笑顔の仮面を取り去ったのは、きっとそれとは別の何かだったはずだ。
「カナ」
私がそう呼びかけるとカナは笑顔のままで私を振り返り、その笑顔を目にすることができることを、ヒロセさんと、そして店長に改めて感謝した。
「カナ、『ヒロセさん行かないで』って泣いたって、ホント?」
カナは予想外の私の言葉に目を丸くして、それから「ええ?」と情けない顔をする。
「美鳥さん、そんなこと誰に聞いたの? ……あ、千尋ちゃんだ。もう、黙っててって言ったのに」
そんなカナの姿を見て、店長と鎌田さんは顔を見合わせて可笑しそうに笑い出し、井戸田君も井戸田君で、興味深そうに誰かが口を開くのを待っている。
「奏。お前、みんな知ってるぞ。あれだけ大勢の前で泣いといて、内緒なんて無理だろ」
「私も、あとで聞いて後悔した。なんであのカラオケのとき参加しなかったんだろうって。ずいぶん酔ってたんでしょ。千尋ちゃん大変だったって言ってたわよ」
店長と鎌田さんの攻撃に屈するように、カナは私の足元にしゃがみこんでため息をつく。私は手元に降りてきたカナの頭を撫でて、上目づかいに私を見上げた彼に
「泣いてもいいよ。頭なでてあげるから」
そう言って、隣にしゃがみこんだ。カナは
「美鳥さん、それは恥ずかしいよ」
と立ち上がろうとしたけれど、少し腰を浮かせたところで思い直したようにもう一度しゃがみ込む。それはきっと私への気遣いで、私はカナより先に立ちあがってから彼の腕を引き、立ち上がるように促した。
「ヒロセさんって、どんな人なんですか?」
私がしようとしていた質問を、井戸田君が先に口にして、店長が真っ先に
「不器用なやつだ」
と、愛情深い笑顔でつぶやいた。
「まともに出来るのは料理だけじゃない?」
鎌田さんはずいぶんそっけない口調で言って、「ね」とカナに同意を求める。
「放っておけないダメ人間、ってところかなあ。子どもっぽい所あるし」
そう言うカナの顔も店長と同じように優しくて、店長は
「お前に子供っぽいって言われたら、ヒロセも終わりだな」
と苦笑している。笑い合う男たちの顔を冷めた目で見たあと、鎌田さんは何かを思い出すように少しだけ目を伏せて
「ヒロセさんは弱いんですね、きっと。でも、彼なりに全てのことに真摯に向き合っているんだと思います。それは彼の料理を見ていれば分かります」
そう自分に確認するかのように言葉を噛みしめながら口にした。店長もカナも笑うのを止めて鎌田さんの言葉にうなずき、その姿はヒロセさんのいた頃のことを思い出しているようにみえた。
「ヒロセと奏は、正反対のタイプだよな。お前があんな風にヒロセになつくとは思わなかったよ」
懐かしむように喋る店長に、カナは「俺も」と笑って答える。
「元々ちょっとした繋ぎのつもりで始めたバイトだったから、今こうして社員になってるなんて自分でもビックリする」
店長も当時を思い出したのか、フッと鼻で笑った。
「お前が持ってきた履歴書見たときは、速攻で辞めると思ったよ」
鎌田さんが不思議そうな顔で
「どうして採用したんですか」
と聞くと、カナもそう思っていたのか店長の顔を見つめてその答えを待っている。店長はニヤッと笑ってカナの顔を見ると
「こいつの化けの皮を剥がしてやりたくなったんだよ」
と手を伸ばしてカナの片っぽの頬をつねった。
「まあ、大人ぶった余裕の笑顔で、淀みなくこっちの質問に答えやがって。なんか色んなもん隠してるように見えたんだよ。まさか、こんなガキだとは思わなかったけどな」
鎌田さんは、驚いたように「へえ」と息を漏らしてから、
「私、奏君を大人だなんて思ったことありませんね」
そうきっぱりと言い切るものだから、カナは弱ったように苦笑していたけれど、私が『なんでもできる』なんて言ったときよりよっぽど嬉しそうにみえた。
「ヒロセもなあ、ガキはガキなんだけど、あいつは全部剥き出しだな。そこがお前とは違うところだ。お前はヒロセのそういうところに惹かれたんだろ」
店長の言葉を、自分の中で咀嚼するように少し黙り込んでから、カナは自分でもよく分からないというように首をかしげる。
「惹かれたっていうより、羨ましかったかな。上手くできようが出来まいが、自分の欲に素直っていうか。でも一番うらやましかったのは『俺には料理しかない』って言い切っちゃうところ。俺にはそういうのないから」
ちゃんと真面目に答えたカナに向かって、店長も茶化すことなく優しい笑みを向けている。それからカナの心をのぞきこむように、静かに口を開いた。
「奏、お前の欲はなんだ」
カナは空を見上げるようにして顎をあげ、自分の心の奥深くに沈み込むようにすっと目を閉じる。束の間の静寂に、風の音と鳥のさえずりが耳をかすめ、それに誘われるようにして目を閉じると微かに緑の匂いを感じた。
『みどり』そう耳元で囁かれたような、心地よい安心感に包まれる。
「俺は、」とゆっくりと考えるような口調で話し始めたカナの声に、私は閉じていた目を開けて彼の方を向くと、カナは私の顔をみてニコリと笑った。
「俺は、みんなの笑顔が見れたらそれでいいかな」
照れたようにそう言ったカナに、店長は「お前らしいなあ」と少し呆れたように肩をすくめ、鎌田さんは「また、歯の浮くような……」と苦笑した。
店長が腕時計を見て、もたれかかっていた手摺から勢いをつけて体を離す。
「そろそろ戻るか。店もあるしな」
その言葉で五人がぞろぞろと動き始め、ステップを降りきったところでふと振り返ってもう一度建物をながめると、何か憑き物がおちたように辺りの空気が軽くなったような気がした。
屋根の上を飛行機雲が真っ直ぐな直線を描き、刻々と形を変えてぼんやりと歪んでいく。屋根にとまっていた二羽の小さな鳥がピチュピチュとかわいい声で鳴いて、霞んだ飛行機雲の遥か上へと飛んでいった。
カナの車の助手席のドアに手をかけたとき、「あっ」と後ろで鎌田さんの声が聞こえて振り返ると、彼女は小さなテディベアのマスコットが付いた車のキーを手にして、反対の手で鞄の中をごそごそと探っている。それから顔を上げて私の方を見ると、はがきサイズの紙を私に差し出した。
「これ、来週何人かで企画展するので、良かったら来てください」
そう言って手渡された紙には、絵や雑貨、服などの写真がコラージュのようにデザインされ、そのなかには鎌田さんの鍵についているテディベアも載っていた。
『地元クリエイターの作品大集合。今年もやります HAPImori market』
そのチラシにはそう書かれている。
私は鎌田さんが手に持っている車のキーを指さして
「そのクマ、鎌田さんが作ったんですか?」
と、きっと他の人が作ったものなのだろうと思いながらもとりあえずそう口にすると、彼女はくっきりとした笑顔で「ええ」と答えた。驚いて目を丸くする私に、鎌田さんはそのキーを手渡して見せてくれる。
細かな刺繍やビーズで飾られた服をまとった小さな熊は、テディベア本体の生地にも細かな柄がついていて、服との組み合わせでオリエンタルな雰囲気を漂わせていた。驚きと感心とで「はあ」とため息をつくと、カナが横から私の持っていたチラシを奪い
「美月さん、これ売ってるんでしょ。このギャラリーなら『オフショア』の近くだし、美鳥さんが休みの日に一緒に行こうよ」
ね、と無邪気な笑顔を向ける。私が素直に「うん」とうなずくと、鎌田さんは
「やった、お客さん二人確保」
と小さくガッツポーズを作った。
「鎌田さん、仕事しながらこれ作って販売してるんですよね。すごいなあ」
手の中の熊を指先で撫でながら呟くように口にすると、鎌田さんはなんてことないという口調で
「楽しいからやってるだけですよ。私のは趣味の延長だから、それ一本でやってる人に比べたら気楽。私の場合、これを仕事にしたら作るのが嫌いになりそうで、ほどほどでやってるんです」
そう言って、私の返した熊を指先でつまんで、優しくピンと弾いた。赤いミニの向こう側で会話を聞いていた店長は、開け放した助手席のドアに腕をかけるようにしてこちらに声をかけてくる。
「楽しくやれてるうちが華だ。仕事にしちまうと自分のやりたいように出来ないことも増えてくる。仕事に限らず、好きなもんとの距離ってのは一歩間違うとどこへ行くか分からんからな」
そう言って眩しそうに目を細める店長に、私はずっと聞きたかった疑問をぶつけた。
「賀上さんは、この仕事好きですか?」
私の顔は、多分すこしだけ必死な表情になっていたんだと思う。カナも鎌田さんも、それに井戸田君も驚いたように私を見て、それから店長のほうへ視線を移す。店長だけは驚いた様子が全然なく、なぜか嬉しそうな顔でニヤニヤと笑っていた。
井戸田君が訝しむように眉を寄せて、
「賀上さん、なんでそんな嬉しそうな顔なんですか」
と店長に言い、それから理由を尋ねるように鎌田さんとカナの顔を交互に見たけれど、二人とも井戸田君と同じように首をかしげている。
店長はバタン、と開けていたドアを閉めると、一歩ずつ噛みしめるように歩いて私の前に立ち、それが彼の癖なのか、たぶん私の頭の上に大きな手をポンとのせようとしたのだろうけど、それはすんでのところで
「ダメです」
とカナの手に遮られた。
店長は一瞬だけ驚いたようにカナの顔を見たけれど、プッと吹き出して破顔すると、掴まれた手をそのままカナの頭の上に持っていき、ガシガシと押し付けるように髪を掻き回す。
「店長ストップ、だからダメなんだって」
たいして抵抗するでもなく、されるがままになっているカナに、私は「大丈夫だよ」と声をかけると、カナは私の真意を伺うように、店長の手から脱出して顔をあげる。私はもう一度、
「大丈夫だと思うよ。賀上さんなら」
そう言うと、たぶん意味が分かっていないだろう店長に向かってニコリと微笑んだ。この人はきっと何も追求しない、そんな確信があった。その確信を裏付けるように、店長はフッと緩んだ笑みを浮かべると、カナから離した手をそのままポケットに突っ込んで再び私の前にまっすぐに立つ。
カナは私の隣で、少し不満げな顔をしていたけれど、
「まあ、店長ならいいか。オッサンだし」
と呟いて、店長にさりげなく膝蹴りを喰らわされていた。
じゃれつくカナを放って、店長は穏やかな口調で私に話しかける。
「美鳥ちゃんは色々迷ってるんだろ」
突然親しげに名前を呼ばれて少し驚いたけれど、この人の距離の詰め方は段階を踏んでいるようで何の違和感もなく、『オフショア』はこんな風にして築かれた信頼感のなかにあるのだと、少し体感できた気がした。
「……迷っているというか、仕事が嫌いになりそうなので逃げようかなって、覚悟が決まったところです」
うつむいた私に、店長は「そうか」と一言いって、小さくため息をついたのが聞こえた。この人にはこんな情けない姿ではなく、もっと前向きな自分を見せたかったな、と不甲斐ない自分が悔やまれる。
「美鳥さん、辞めちゃうんですか?」
と残念そうな声を出した井戸田君に、私は顔を上げて、うん、と肯く。それからもう一度店長の顔を見て、
「仕事、好きでいられるのはなぜですか?」
と口にした。店長は私の言葉をまっすぐに受け止め、今度は笑うことなく真面目な顔で
「別に好きじゃないよ」
と言ってから「嫌いでもないけどな」と付け足す。
「好きか嫌いかなんて考えないようにしてる。考えるとすれば、やりたいかやりたくないか、もしくは、楽しいか楽しくないか、だな」
いまいち店長の言葉が理解しきれず、私はカナのほうをみると、カナは可笑しそうに口元を歪めていた。鎌田さんも言葉の意味を分かっているように、納得した笑みを浮かべている。井戸田君と私だけが置いてけぼりのように頭の上に疑問符を浮かべていた。
「好きだからやりたい、じゃないんですか? 好きだから楽しい。違うんですか?」
私より先に井戸田君が口を開く。店長は彼の顔を見て、
「井戸田君はいつか自分の店をやりたいって考えてるんだろう」
そう言って、井戸田君が「はい」とうなずくのを待ってから彼の肩をポンと叩く。
「この仕事が好きだから、店をやりたい。そう言ってはじめるのは簡単なんだ。当たり前の話だけど、仕事だからそのうちやりたくないことも楽しくないことも沢山出てくる。そん時にな、俺はこの仕事が好きだからやりたいんだって思ってるとしんどいぞ。やりたくないことはやりたくない、楽しくないってさっさと認めて他のやつに回すんだよ。『好きだから』なんて余計な執着に囚われてたら、先に進めない」
井戸田君は納得してないように眉を少ししかめたけれど、今の私には店長の言葉はずしりと響いた。囚われて、行き詰まって、にっちもさっちもいかなくなって、こうやってすごすごと撤退することを決めたのだ。
不意に私のすぐ前で
「そうかしら?」
と鎌田さんが反論するように口をはさんだ。
「好きだから辛いことも我慢できるし、それを乗り越えて達成するものっていうのは何にも替えがたいものだと思います。私はそういうタイプではないけど、店長の言うやり方が全てではないと思いますよ」
鎌田さんの言葉をするりと受け止めるように、店長は「だな」と首元を掻いて苦笑し、
「だ、そうだ」
とまた井戸田君の肩を叩く。井戸田君は困惑したような複雑な表情を浮かべていた。
「ヒロセはそうだな。職人っていうか、一つのことを突き詰めて成し遂げるタイプだ。美月の旦那も、絵一本でがんばってるしな。俺はやりたいことがありすぎて、一つになんて絞れん」
店長はそう言ってから、井戸田君に
「お前はどっちだ」
と聞き、井戸田君はさらに困ったように考え込んでいた。私はそんな会話を放って、こっそり鎌田さんの左手を盗み見ると、そこにはツルリとした指輪が何の主張もなくおさまっていた。
「鎌田さん、結婚されてるんですね」
私が小声でそう尋ねると、「ああ」と自身の左手に目をやり
「『旦那』っていうのは店長が勝手に言ってるだけです。一緒に住んで入るけど生活はほとんど別だし、入籍もしてません」
そう言って愛おしそうに指輪をさすった。
「好きだから結婚しなきゃとか、一緒にいなきゃ、とかそういうことでもないし。好きでいるために居心地のいい距離でいたいなと思った結果が、そんなことです。私が全てにおいてそんな風だから、彼みたいに『好き』を突き詰められる人はすごいと思います」
口も挟まずじっとみんなの話を聞いていたカナが、唐突に「分かった」と声をあげて、みんなが注目したところで、
「好きなことをやるんじゃなくて、好きなようにやればいいんでしょ、店長。店長みたいな考え方もヒロセさんみたいなやり方も、自分で選んで自分できめればいい。別にどっちが正しいってわけでもないんだから」
と、少しだけ手こずった算数の問題がようやく解けた子どものように、無邪気な目を店長に向ける。店長は脱力したように
「かなわんなあ」
と言って苦笑し、鎌田さんは少しだけ考えてから
「AかBかって話でもないだろうから、その間で自分にしっくりくる形を探っていくんでしょうね」
そう言って、私の顔を見てニコリと笑う。店長と同じように、ただし心のなかで
「かなわないなあ」
そう呟いて鎌田さんに笑い返した。
別々の車に乗り込む前に、店長は「何かあったら、いつでも言って」と私に名刺を差し出し、頼むぞというように私の隣に立つカナの腕をポンと叩いた。
井戸田君は以前乗っていたママチャリではなく素人の私でも耳にしたことがあるブランドのロードバイクに跨って
「何か出来ることがあったら言って下さい。番号変わってませんから」
そう言うと、グッとペダルを漕ぎ出して、以前より重くなった体をサドルにのせて本屋の方へと走り去った。私はあの細いタイヤがパンクしてしまうんじゃないだろうかと少しだけ心配しながらその後ろ姿を見送った。
「帰ろうか。送るよ」
そう言って運転席に回り込もうとしたカナの背中に向かって声をかけた。
「奏」
私のその呼び方に、カナはちゃんとこっちを振り返ってまっすぐに向き合ってくれる。
「どうしたの、美鳥さん」
柔らかく笑みを浮かべるカナに、私は深く頭を下げた。
「ありがとう、カナ」
そう言ってゆっくりと頭をあげると、カナは少しだけ躊躇するように私に向かって両手を広げる。私はクスッと笑って一歩踏み出し、カナの胸に顔を埋めた。
〈十三〉月虹
「フレッシュマンゴーのタルトとココナッツのソルベでございます」
営業用スマイルで、ディナーコースのデザートをテーブルに置いたカナは、唐突にその仮面を外して「いいなー」と口を尖らせて私とタマを見る。
「いいなーって、仕事してるカナ君が悪いんでしょ。美鳥だって私よりカナ君と花火見たいに決まってるじゃない」
そう言ってパクリと黄金色のマンゴーを口に入れたタマに、シュンとした顔で
「ですよね」
とカナがうなだれる。そんなカナを「ほら、仕事仕事」とタマは軽くあしらい、カナは名残惜しそうにテーブルを離れていった。
「タマ、あんまりイジメないでやって」
クスクスと笑いながら言う私に、タマは「よっく言う」と肩をすくめてケラケラと笑った。
店内に流れるBGMは心地よいウクレレの音が耳をくすぐり、それに波の音が静かに重なる。テーブルの脇の出窓には、横長のテラコッタの鉢に植えられたモンステラが鮮やかな緑の葉を幾重にもつけ、その合間の気根がさまようように根を伸ばしている。
窓の向こうには、浴衣や甚平を着た人々がこれから始まる春海川の花火大会へと浮き立った足どりで向かっていた。
「あー、私も浴衣着たかったなあ」
そうため息をつく私に
「もうそんな年でもないでしょ」
とタマは呆れたように言う。
「年は関係ないの。帯締めたら『オフショア』のディナーなんて絶対食べられないから」
そう言ってから、私はそろそろ満腹になってきたお腹に別腹を用意してソルベを口に入れる。
「でも、花火大会の日に美鳥とこんなにのんびりしてられるなんて、数ヶ月前には全然想像つかなかったわ。美鳥、人生駆け抜けたって感じよね」
「駆け抜けたって言うより、特急から各駅停車に乗り換えてみたって気分。タマこそ、今日もお昼仕事だったんでしょ。お家の方、出てきて平気だったの? 息子君の夕飯とか」
「平気。あの子も友達と花火見に行くって言ってたから。今日は旦那が一人でお留守番してんの」
たまには解放してあげないとね、と言ってタマは幸せそうに笑う。一緒に暮らして、それぞれの時間があって、そして隣にいなくても相手を思うだけで得られる安心感。そんなタマの笑顔を見て、私はついカナの姿を探した。
「美鳥は一生結婚しないんじゃないかって、ちょっと思ってたのよね」
そのタマの声で、視界の端に捉えたカナの姿から目線をタマに戻した。その言葉の意図を伺うように首をかしげると、
「美鳥と再会したころ、――だから、美鳥がバードネスト始める前は『一人で行きていきます』って看板ぶら下げて歩いてるように見えたもん。まあ、話を聞けばそれも仕方ないかって思ったし」
「べつに、カナと結婚するなんて話、全然出てないよ」
「でも、してもいいなって思ってるでしょ」
私はタマの質問に、少しだけ躊躇してから、「まあね」と内緒話をするように小さな声で返事をする。
「でも、美鳥もなんか忙しそうだしね。店閉めるって言ったときもびっくりしたけど、ネット販売したいって言ってきたときはホント、驚いた。こんなことなら、やっぱりあの時のセミナー行っとけばよかったね」
思考を巡らせるように口元に手を当てたタマは、仕事をしているときの顔になる。
辞めると宣言した一週間後には閉店のお知らせを店に貼り出し、その一ヶ月後には店を閉めた。大家とのやりとりがスムーズにいったのはひとえに賀上店長のおかげで、私が店を引き渡した翌日には早々と次の借り手が工事に入っていて、今ではかつての面影はほとんどない。
店長の知り合いが手がけるその店は、市内で何店舗か手がけるコーヒーの自家焙煎の店で、鎌田さん曰く『店長が近場にサボり用の店をもってきた』らしい。
チラリと聞いた話だと、そこは私が放置してきたオンボロのエアコンも、グリストラップもついていない古い配管も、全て新しく工事し直したようだった。車で近くを通るたびに気になって目を向けるかつての自分の城は、確実に新しい息吹をもってその場に生まれ変わり、現在の主の覚悟を目の当たりにして、私は改めて自分の中途半端さを痛感した。けれど、比べても仕方のないことなのだと、コーヒーに関しては味わう側の消費者に徹することにして、私は意外にも穏やかに今の現実を受け止めている。
ネット販売をしようなんて思ったのは本当にたまたまで、簑沢のおばあちゃんとの約束を果たして一緒に作った梅ジャムをSNSに載せたのがきっかけだった。何人か「お金を払うから送ってほしい」というメッセージが届き、ちょっとだけ可愛らしくラッピングして郵送してあげると、その人たちがまたSNSに載せたものだから更に問い合わせが何件かあった。
結局そのときにはもう梅ジャムは全部知り合いにあげたりしてなくなっていたのだけれど、こんな田舎でひっそりと作ったものがどこかで誰かに喜ばれているというのは、店で対面して得られる充足感とはまた違ってワクワクとした可能性のようなものを久しぶりに感じた。
おばあちゃんの笑顔が、さらに私を後押しして、結局りっちゃんと、おねえちゃんまで巻き込んで簑沢のおばあちゃんの家を借りてネット販売を始めようとしている。
借金の申し入れをした私に、りっちゃんは目を丸くしていたけれど、嬉しそうにニヤッと口角をあげて
「美鳥がやりたいんなら、いいよ」
と、いそいそと遺影の中のよしりんに報告していた。
運ばれてきたエスプレッソに砂糖を山盛り入れて、タマがクイッと口に含み、幸せそうに顔を緩めた。それからカフェインの効果が速攻で効いたかのように目をぱちりと開ける。
「で、工事は秋からになるの? そんなに大きな工事じゃないんでしょ」
うん、と頷いて私もエスプレッソに口をつける。苦味と甘みが渾然一体となって口の中に広がり、複雑な香りが鼻を抜けた。苦いだけでも、甘いだけでも、その二つだけがあっても、きっとこんなに美味しくはならない。全て合わせて飲み込むからこんなに幸せなのだ。
「そっちは順調なのね。でも美鳥、また店するんでしょ。大丈夫?」
タマは心配そうに私を見たけれど、私はそのタマの心配が嬉しくてつい笑みがこぼれる。笑ってないで、とタマは真面目に私の返事を待っていて、私は「ごめんごめん」と謝ってからまっすぐタマの顔を見た。
「店っていうほどのことじゃないから。週末のお昼だけ場所借りてサンドイッチのカフェをするだけ」
「だけって」
今日、店長経由でその話を持ちかけられたばかりの私も、あまりちゃんとは考えていなかったけれど、漠然とやりたいという思いだけは芽生えていた。タマはまだ納得していないように疑うような口調で私に聞いてくる。
「場所もちょっと分かりにくいところなんでしょ。私は行ったことないけど」
「うん。私は一回だけカナに連れてってもらった。『happy icecream』ってバーなんだけど、夜しか営業してないし、お昼閉めとくだけなのはもったいないからって。花火終わったら行ってみようよ。カナが仕事終わるまで付き合ってくれるでしょ」
タマはしょうがないなあ、と言いながらも、その目は知らないお店を開拓するのを楽しんでいるように見える。
その店は鎌田さんの『旦那さん』が昔やっていたバーらしいのだけれど、今年に入って別の人に譲ったという話だった。私が知っているのは新しいマスターの方で、マスターと言っていいのか分からないけれど、とりあえず女装のよく似合うナチュラルメイクの男性だった。
「どうしてその人、自分でお昼に開けないんだろ」
タマは一つでも不安を解消しようと躍起になっているように私に質問をぶつけてくる。
「お昼は農業やってるんだって」
農業? とずいぶん驚いたようにしばらく言葉を失ったタマは、最後には納得したように
「働き方って、色々あるのね」
と気が抜けたようにクスクスと笑った。そんなタマを見て、それまで不安をおぼえていたつもりなんかなかったけれど、やっぱり私もホッとして肩の力がぬけ、同じようにクスクスと笑った。
タマは「ふう」とひと息ついて笑いをおさめると、まだ笑っている私にそっと問いかける。
「あんまり忙しくしてるとカナ君と会う時間ないんじゃないの」
タマにそう言われてレジのあたりに立っているカナにチラリと視線を向けると、カナはそれに気付いて小さく手を振った。店内の客は花火の開始時間が近づくに連れてどんどんと少なくなってきて、ざっと見渡しただけでも半分くらいは空席だった。
私はカナに手を振り返してから、私の視線の先を追うタマの顔を引き戻すように「カナね」と口にした。タマはすぐに顔をこちらに戻して、クリクリした目をまっすぐに向ける。
「カナね、私が簑沢に泊まった日は、たまに朝ごはん食べに来るんだ」
「簑沢?」
タマの驚く顔がかわいくて、つい焦らすように口をつぐむと、タマは「どういうことよ」とせっついてくる。
「朝、猫浜にサーフィンに行った日にね、帰りに寄るの」
「帰りに寄るって、猫浜から簑沢まで結構あるでしょ」
タマはカナの方を振り返ってから、もう一度私を見て
「健全ねえ」
そう呆れたようにつぶやいた。
エントランスの外でカナに見送られて『オフショア』を後にし、タマと二人で人の流れに逆らうようにして、深い緑の桜並木へと足を向ける。
商店街を抜けて本通りを歩いていると、遠くでパァンと渇いた音と微かなどよめきが聞こえてきた。
「始まったっぽいね」
タマは無邪気な顔を私に向けて、ビルの向こうを覗き込もうとピョンピョンと跳ねたけれど、「やっぱり無理」そう言って、すぐ目の前に見えてきた花見橋へと駆けていく。
橋の脇にある広場には何件か屋台の明かりが見えて、パイプ椅子に座った浴衣姿の女性たちも、地べたにゴザを敷いて酒盛りをしているおじさん達も、橋の欄干にもたれかかって身を寄せ合うカップルも、みんな同じように夜空を見上げていた。
橋の上から見上げる夜空は、そこだけ切り開かれたように視界が広がり、光の筋が闇夜へと一直線に上がるとパッと華を散らし、ドォンという低い音が遅れて耳に届く。咲き乱れる夏の火花を視界にとらえながら、川沿いをタマと並んで歩いた。
「ここをずっと真っ直ぐ進んだら、高校のときの通学路」
「ああ、そっか。美鳥んち、この先曲がったらすぐだもんね」
しばらく沈黙が続いて、私は川から吹き上がる風に肌の湿気が心地よく奪われていくのを感じていた。足元のそこかしこから虫の音が聴こえ、まだ八月も始まったばかりだというのに少しだけ夏の終わりを思って淋しくなる。
「美鳥」
タマはチラリと私の顔を伺うように見ると、少しだけ悩むように眉をしかめ、それから気合を入れるように息を吸って口を開いた。
「ユウジ先輩ね、結婚するらしいよ。仕事も、その相手の人が経営してる会社で働いてるんだって」
足を止めた私に、タマは
「言わないほうがよかった?」
と心配そうに聞いてくる。
「ううん。ユウジがどうこうっていうより、破産してても人生なんとかなるもんだなって、そっちに驚いてる」
フフッと顔を見合わせて笑ってから、再び並んで歩きはじめる。周囲の人影はほとんどなくなり、屋台の明かりもずいぶん後ろへと遠ざかっていた。
「美鳥、ユウジ先輩の話はまだ辛い?」
「辛くないと言えば嘘になるけど、嫌な思い出だけじゃなかったなって思うこともあるよ。やってみて分かったことだけど、店続けてくのも、辞めるのも、私一人だけでもしんどかったのに。従業員がいたらもっとプレッシャーすごかったんだろうなって、ちょっと同情した。だから、思い出すなら楽しかったこと思い出そうと思って、そしたら意外にあるもんなんだよね」
「それでも、よく我慢したよ」
タマはそう言いながらポンポンと私の背中を叩いて、それから近くのベンチを見つけるとタタッと走っていって歩き疲れた子どものように足を投げ出してそこに腰を下ろす。
その隣に座って、終演間近の盛大な花火の嵐をじっと見つめる。
轟音が途切れると、煙で白く霞んだ夜空に、パンと一つだけ遅れたように小さな花火が上がった。
「終わったと思ったのに、まだあったね」
タマはそう言って可笑しそうに笑い、パン、パン、と間を繋ぐように上がる丸い花火を名残惜しむようにながめた。私はその横顔に「タマ」と呼びかける。
「私ね、突っ走るように仕事して、行き詰まって、逃げ出して、そんなの繰り返してばかり。考えるのはいつも『どこで失敗したんだろう』って、嫌なことばかり思い出して、今度こそは失敗しないようにって、また同じことするの」
静かに揺れる川面をながめながら話す私の言葉を、タマは黙って聞いていた。
「でも、たぶん私楽しかったんだと思うんだ。だから辛くても続けられたんだと思う。そう思ったら、失敗って思ってたことも、もしかしたら失敗じゃなかったのかなって」
私が口をつぐむと、今度こそ本当の終わりなのか、再び夜空に幾重にも花火が重なり続ける。タマはそれをながめながら
「失敗じゃあ、ないよ。ちゃんと美鳥の作ったもので幸せになってる人がいたから、ここに」
そう言って、自分を指さしてニカッと笑い、さらに言葉を続ける。
「そういうお客さんの顔、美鳥はたくさん見てきたでしょ。それがあるから、続けられるのよ、きっと。たとえ終わったとしても、その時その人達を笑顔にしたってことは、それは失敗なんかじゃ絶対ないから」
花火だって、これが終わっても失敗じゃないでしょ、とタマは白い煙だけが漂う夜空を指さす。私は「ねえ、タマ」と、ずっと聞いてみたかったことを口にした。
「タマはどうして今の仕事続けてるの? 仕事、好き?」
タマは少しだけ驚いたように目を見開いてから、「今さら?」と苦笑する。
「今、美鳥に言ったことと同じ。誰かの笑顔が見られるからやってる。やりがいっていうのかな。役に立ってるんだっていう実感がないと、いくら好きなことでも仕事として続けていくなんて無理よ、私は。逆に、そんなに好きでもない仕事でも、そういう風に思えれば続けていけるわ」
はっきりと言い切るタマに、私は肝心の答えが聞けてないことに気づいて確認するようにもう一度口にした。
「で、好きなの?」
今度は「ええ?」と少しだけ考えるように霞の消え始めた夜空を見上げ、私もつられるように視線をそこに移すと、小さな星がいくつか瞬いているのが見えた。
「好きっていうより、向いてるかなとは思ってる。好きか嫌いかでいえば、こうやって友達と飲んで話してる方がよっぽど好きよ。でもそれじゃあお金は稼げないから」
タマはそう言ってから、「よしっ」と気合を入れるように立ち上がり、
「じゃあ、楽しい時間を満喫するために、もう一軒行こうか」
と遠目にも人のまばらになった花見橋へと向かって歩きはじめた。
カウンターに十人も座れば満席のこじんまりとした店内。その一番奥で、ワイングラスをかたむけて辛口のリースリングを口に含んだ。滑らかなその液体を舌の上で弄ぶように味わうと、甘やかで芳醇な香りが鼻に抜ける。
小さなシャンデリアが照らす薄暗い店内には、私とタマの他にも数人が寛ぐように会話を愉しんでいる。
「あれ、美鳥。あそこにあるのって、美鳥が付けてるキーホルダーと同じテディベアじゃない?」
そう言ってタマが指さすカウンターの向こうの戸棚には、私がカナに買ってもらったものよりはシンプルな服を着た、けれど鎌田さんの作ったものだと分かる小さな熊がちょこんと木の椅子に座っていた。そのすぐ脇に置かれているウィスキーのボトルには『mizuki』と書かれたプレートがぶら下がっている。
「本当だ」と言いながら、鎌田さんの話をタマにしようと口を開きかけたところで、タマのスマホに着信があった。
「あ、旦那着いちゃったみたい。美鳥、もうすぐカナ君も来るでしょ」
「うん、さっき店出たってメール来てたから。いいよタマ、先に帰って。旦那さん待たせるの悪いし」
ごめんね、と言いながらタマはいそいそと席を立ち上がり、外に出て扉を閉めきる間際の狭い隙間から顔をのぞかせて私に手を振った。
一人でグラスを傾けてカナを待ちながら、以前カナが猫浜で口にした言葉を思い出していた。
『俺、波乗りだから。それに、美鳥さんも俺のこと待っててくれたから、今度は俺が待つ番だね』
そんな風に言ったけど、こうして待ってるのはいつも私のような気がする。
簑沢で、おばあちゃんと朝食の用意をしながらキョロキョロと窓の外をのぞいて、坂道からカナの白いワンボックスカーが見えると、いつもほっとする。
「ほら、迎えにいってきんさい」
と、おばあちゃんの言葉を聞いてから、私は待っていなかったようなフリをして「おはよう」とカナに声をかける。
「いらっしゃい」という声がカウンターから聞こえて入り口に視線を向けると、ドアのところでカナが手を振っていた。
「ごめんね、ヒカルちゃん。今日は迎えに来ただけ」
カナはそう言ってこの店の主に手を合わせると、先に外に出てパタンとドアを閉じる。
私が会計をすませて外に出ると、もたれかかっていた電柱から体をおこして私の前に来た。
「タマちゃん先に帰っちゃったんだ。待たせてごめんね」
カナはサラッと流すようにそう言って、当たり前のように私の隣に並んだ。
「私、いつもカナのこと待ってる気がする」
そう言った私の言葉は少しだけ拗ねたような響きがこもっていて、それなのにカナは嬉しそうに後ろ向きでステップを踏んで、私と向かい合うように歩く。
「いつも待っててくれてありがとう。美鳥さん。俺もちゃんと待ってるから」
カナはそう言って足を止め、私の前に手の平を差し出した。
私はその手を取ってカナの隣に並ぶ。
「タエコさん、この前うちに来てたよ」
「ああ、墓掃除の帰りに寄ったって。ずいぶん長居をしたようで。ウチの母がお世話になってます」
カナは冗談ぽく言うとクスクスと笑った。それから
「ねえ、美鳥さん」
と私の名前を呼んで
「お盆、お墓参り一緒に行こうか。よしりんにも挨拶したいし、カノンちゃんにも会ってほしいから」
と無邪気な声で話しかけてくる。そうだね、と返事をしながら、私は不意に視界に入りこんできた満月に目を奪われた。立ち止まった私の視線の先を追って、カナも夜空を見上げる。
「うわ、すごいね。丸い虹がかかってるみたい」
月明かりに照らされたカナの横顔を見ながら、私は小さな頃の妄想を思い出した。
「カナ。私ね、あの満月って穴なんじゃないかと思ってたんだ」
カナは不思議そうに私の顔を見て、話を促すように黙ったままもう一度月を見上げる。
「あの穴の向こうには別の世界が広がってて、あそこから落ちてきた人たちがこの世界で暮らしてるの。輝夜姫も、あの月じゃなくて、その向こうの世界に帰るんだろうって」
「美鳥さんも帰りたかったの?」
カナが握った手にキュッと力を込めた。私はその手を同じくらいの力で握り返してカナの肩にもたれかかる。
「ううん、反対。あっちに落っこちていっちゃったらどうしようって思ってた」
カナはクスクスと笑いながら
「今は?」
と少しだけ真面目な顔で私の顔をのぞき込んだ。その向こうに見える月の上を、赤いランプが点滅しながら横切っていく。
「行けるなら行ってみてもいいかな」
カナの頭の影になって視界から消えた飛行機は、いつの間にかどこかへ飛び去っていた。
その穴を広げるように円を描いた月の暈は、花火よりもやさしく私の心を囚え、柔らかな光と隣にある温かなぬくもりを感じながら、私はカナと二人で夜道を帰った。
〈終〉奏 ――小学校六年生
昨日までは雪なんかなかったのに、まさかこんなに積もるなんて思っていなかった。
小学校まではそんなに遠くないし、
「少し早く出なさい」
と急かされるように家を出たにも関わらず、僕はゆっくりと雪を踏みしめながら通学路を歩いた。
いつもなら、ここらへんで僕のことを自転車で追い抜いて行くはずだけれど、この雪道だし、僕と同じように早めに家を出て、歩いて高校に向かったのかもしれない。こんなことならゆっくり歩いて、彼女が出てくる時間に合わせたりしなければよかった。
普段だって別に毎日会えるわけじゃないし、と自分に言い聞かせて、転ばないように地面を見ながら歩いていると、すぐ近くで彼女の声がした。
「あれ、カナ。おはよう」
僕は、ゲームセットだと思っていたら実は続きがあったみたいな気分で顔をあげる。
僕の足で二三歩くらい向こうに彼女がいて、慌てたようにこっちに歩いてくる。
「美鳥さん、どうしてそっちから歩いてくるの」
「せっかく早く出たのに、忘れ物しちゃった。カナも気をつけてね」
そう言ってザクザクと雪を踏みならしてすれ違う彼女は寒そうに頬を赤くして白い息を吐いている。
昔のように、この人に甘えられたらどんなに楽だろう。そんな自分のわがままを抑え込むように口を開く。
「美鳥さんも、寒いから風邪なんかひかないでね」
そう言って手を振った僕を振り返って、彼女も手を振ったけれど、なぜかそこで足を止めて僕の方に引き返してくる。不思議に思って彼女のことを待っていると、目の前に立った彼女は手袋をはめた手を僕の頬にギュッと押し付けて、ムニッと頬を引っ張った。
「痛いよ、美鳥さん」
そう抵抗する僕なんかより全然背の高い彼女は、目線を合わせるように腰を落としてじっと僕の目を見た。
「カナ、無理して大人になろうとしないの。まだ子どもなんだから」
そう言った彼女に、僕は少しだけムッとする。あっ、と思ってその顔はすぐに引っ込めたけれど、彼女は嬉しそうにグリグリと頬に当てたままの手を動かして
「そうそう、思ったことは顔に出していいから、溜め込まないの」
そう言ったあと、満足したように立ち上がると、片っぽの手袋を外してコートのポケットに手を入れると、その手を出して僕の前で広げてみせた。そこにはコーヒーヌガーのチロルチョコレートがのっていて、僕は
「ああ、またいつものか」
とクスリと笑いが漏れる。僕のその反応がお気に召さなかったのか、彼女はもう片方の手袋も外してチョコレートの包み紙を開けると、「あーん」と言って僕の口に無理やり押し付ける。抵抗する気もなかったから素直にそれを頬張ると、彼女は
「どう? おいしいでしょ」
と、勝ち誇ったような顔で僕に言った。
「おいしいよ」
と僕が半ば降参したような気分で口にすると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「小さい時は、これで顔しかめてたくせに」
そんな風に彼女は言ったけれど、僕はそんなこと覚えていなかった。彼女はもう一度僕の頬に片手を当てたけれど、さっきとは違って手袋をはめていない彼女の手はひんやりと冷たかった。
「カナ、子どものうちはちゃんと甘えなさい。チロルだって食べれるようになったんだから、のんびり大人になってけばいいの。慌てなくても待っててあげるから」
ね、と彼女はもう一度微笑んで、思い出したように
「じゃあね」
と言って自宅の方へと駆けていく。僕はその背中に向かって
「慌ててるのは美鳥さんじゃないか」
と心の中でつぶやいた。
『のんびり大人になれ』
なんて言われたけれど、その彼女の笑顔のせいで、余計に早く大人になりたいと思ったなんて、きっと彼女が知ることはないんだ。
《了》
『囚われのワンダーランド』 砂東 塩 作
「私、奏君が泣いたところ見たことあるよ。内緒って言われたけど、『オフショア』の人はほとんど知ってるの」 「――ユウジさん、自己破産したんだって」 「カナのところで、その物件借りるの?」 「俺のこと……怖い?」 「あの穴の向こうには別の世界が広がってて、あそこから落ちてきた人たちがこの世界で暮らしてるの」 ――――『アイスクリームと脱走者』と同じ田舎を舞台にした、美鳥と奏の物語――――エブリスタにて改稿連載中【スマホ用:everystar ver.】【横読み用:通常版】
更新日 | |
---|---|
登録日 | 2017-06-10 |
Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。
本作は『アイスクリームと脱走者』という前作と同じ田舎を舞台としたもので、時系列としては同作の終了の二、三ヶ月後から話が始まります。話は本作のみで成り立つものですが、ご興味がありましたらそちらのほうも御覧ください。