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分裂勘違い君劇場の別館

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/ の別館です。

なぜ、ヨッピーさんの記事はタイトルにPRを入れなくても受け入れられてきたのか?

PR無表記の広告記事が邪悪なのは、「クソつまらない広告記事を、面白い普通の記事だと誤認させて、読者の時間とギガを奪う」からです。つまり、「優良誤認」にあります。
しかし、消費者庁の定義によれば、優良誤認とは「実際のものよりも著しく優良であると示すもの」です。
となると、「コンテンツとしての完成度が高い広告記事」のように、「実際のもの」が優良だった場合、「優良誤認」と言えるのか?という疑問がわきます。

もちろん、その記事広告が「表示位置」を金で買っている場合、だれのどんな記事広告であろうと、必ず「PR」を入れないと、それは明らかに「優良誤認」です。なぜなら、その記事がどんなに面白い記事であっても、「その記事が、その面白さによってその位置に表示された」と読者に誤認させているからです。

しかし、「ヨッピーさんの広告記事がはてなのホッテントリに上がってくる」というような場合、ここがだんだんグレーゾーンになってきます。
なぜなら、ヨッピーさんは、はてなに広告料を支払ってその表示位置を買ったわけではないからです。少なくとも、その点については、「優良誤認」などはさせていません。

ただ、広告であるにも関わらず、記事中で広告である旨が一切わからないように記事にするとしたら、ステルスマーケティングという別の意味で優良誤認でしょう。
しかし、ヨッピーさんの記事の場合、記事を読めば、すぐに広告であるということがわかるようになっています。

私が気になっているのは、ヨッピーさんの広告記事のタイトルにまで「PR」を入れるのは、優良誤認の回避を通り越して、「劣悪誤認」になってしまっていないかな、という点です。
むしろ広告でない一般記事以上に、コンテンツとしての完成度が高い記事なのにもかかわらず、ヨッピーさんをよく知らない多くの人々が、「コンテンツとしてつまらない、ただの広告記事でしょ」と誤認してしまったりしないでしょうか。もしそうだとすれば、本当にそれはフェアだと言えるんだろうか?という疑問がわきます。

もちろん、「ヨッピーさんの記事は面白いから、タイトルにPRを入れなくても許される」などという雑な主張をするつもりは毛頭ありませんが、すべての広告記事を十把一からげにして「全ての広告記事は、記事タイトルにPRが入っていなければ優良誤認である」という主張って、雑だなーと感じてしまうのです。

そして、優良誤認かどうかは、純粋に「タイトルにPRが入っているかどうか?」という「形式のみ」によって判定するのが正しいのか?ということが論点としてあるかと思います。
たとえば「きみ、美人だね!」と言うのがセクハラかどうかは、純粋にその文言だけでは決まりません。真道幸路朗のような爽やかなイケメンの先輩が言ったらセクハラにならなくても、キモいおっさん上司が言ったらセクハラになったりします。優良誤認の判定にも、このような文脈依存性はないのでしょうか?PR表記問題は、純粋に形式のみによって倫理的な判定が可能なのでしょうか?

なぜ、ヨッピーさんの記事はタイトルにPRを入れなくても今まで受け入れられてきたのか?というと、人々の倫理的判断が、「記事タイトルにPR表記があるかどうか?」という「純粋な形式」だけでは決まらないからではないでしょうか?

もちろん、法律で「広告記事では、タイトルにPR表記がなければならない」と決まっているなら、それは「形式のみ」で決まってくる可能性はあると思います。しかし、法的な是非ではなく、倫理的な是非を問うのであれば、「形式のみで正邪の判定はできる」という主張は、どうも粗雑な感じがするのです。

もうちょっと何か、しっくりくる落とし所はないものなのでしょうか。