とか、哲学チックな言葉を使ってみる。
簡単に言えば、「気分」だ。
http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/Vol_13_2015/04_Suehisa.pdf
詳しくはここにきちんとまとめられている・・・かな?
最近「山本さん程感情的な人はいないですよ!」とスタッフに言われ、「なんだと!?俺ほど筋と道理を大事にしてる人間おれへんやないか!」と返すのが定番になっているのだが、ハイデガー先生には申し訳ないが、僕は「気分」「感情」程、どぉーでもいいものはないと思っている。
「俺の気持ちを解れ!」「私の気分を察してよ!」と訴える人間の、まぁー多いこと。
結論から言うと、なんで理解できると思うのかが不思議だ。
できる訳ないだろう?これ以上に非論理的な要求はこの世に存在しないとすら思う。
ちなみに「実存主義」は、ここで大いにつまずいたのだ。
同様に僕の感情や気分も、そりゃあ言葉の端々にガッツリ乗っかっていることだろう。でも、その「気分」を理解してもらおうって気なんて、これっぽっちもない。
言っている「内容」が正しいか否か、それだけを判断してほしい。
それ以外の「感情論」は、基本受け付けないし、関知しない。
だからいつも、「全員敵に回してもいい」覚悟をもって、全力で論じ、表現する。
その代わり、「筋と道理」を絶対外さないよう、気を付ける。
理不尽なことをして相手を怒らせてしまったら、そりゃ謝る。さすがにそんな奴が大手振って社会にいてはならない。
でも人というのは残念な生き物で、どれだけこちらが理を尽くして語っても、「言い方!」と逆ギレされてしまう。
年明けに大爆笑させてくれた某アニメのシリーズ構成とかね。
遡ると、悶々とした思春期を過ぎ、一浪してアイデンティティの危機を迎えた僕が、ある意味「解放」された瞬間というのがあって、それは「どう見られてもしょうがない」というものだった。
それまで人の顔色伺ってばかりで、人の目を恐れ、言動がフラフラと固まらず、今よりもはるかに挙動不審でコミュ障でキチガイだったキモオタが、「もういいや、嫌われること恐れるのやーめた」となった。
良く歌詞で「傷つくことも恐れずに」なんてしょっちゅう出てくるが、それだけみんな傷つくの、怖いんだろうね。
僕はそういうの、やめた。大学に入り、哲学を学んで、それが確信に変わった。
気の狂ったような形相で理不尽なことをキーキャー言われた時に、僕が必ず言う言葉がある。
「嫌われるのは慣れてますから」。
だからこの議論にあなたの感情や気分を持ち込んでも無駄ですよ、ちゃんと理を尽くして話し合いましょうね、ということだ。
まぁだから言わば、僕は世間では最も冷たい人間なのかも知れない。
人間の中の「情状性」を認めないし、無視するし、あまつさえそれを踏みにじってでも、「真実」を大事にしたい。
それは「ヒューマニズム」「言葉は心を超えない」にもつながっている。
だからもう一度、定番のあの言葉を書いておく。
お前の見た目なんか知らん。お前の気分なんか知らん。
お前に俺がどう見られていようが、全く興味ない。
その先にある理と筋、「真実」を捉えようと努力すること、それこそが人間に与えられた最大の「特権」なのだ。
簡単に言えば、「気分」だ。
http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/Vol_13_2015/04_Suehisa.pdf
詳しくはここにきちんとまとめられている・・・かな?
最近「山本さん程感情的な人はいないですよ!」とスタッフに言われ、「なんだと!?俺ほど筋と道理を大事にしてる人間おれへんやないか!」と返すのが定番になっているのだが、ハイデガー先生には申し訳ないが、僕は「気分」「感情」程、どぉーでもいいものはないと思っている。
「俺の気持ちを解れ!」「私の気分を察してよ!」と訴える人間の、まぁー多いこと。
結論から言うと、なんで理解できると思うのかが不思議だ。
できる訳ないだろう?これ以上に非論理的な要求はこの世に存在しないとすら思う。
ちなみに「実存主義」は、ここで大いにつまずいたのだ。
同様に僕の感情や気分も、そりゃあ言葉の端々にガッツリ乗っかっていることだろう。でも、その「気分」を理解してもらおうって気なんて、これっぽっちもない。
言っている「内容」が正しいか否か、それだけを判断してほしい。
それ以外の「感情論」は、基本受け付けないし、関知しない。
だからいつも、「全員敵に回してもいい」覚悟をもって、全力で論じ、表現する。
その代わり、「筋と道理」を絶対外さないよう、気を付ける。
理不尽なことをして相手を怒らせてしまったら、そりゃ謝る。さすがにそんな奴が大手振って社会にいてはならない。
でも人というのは残念な生き物で、どれだけこちらが理を尽くして語っても、「言い方!」と逆ギレされてしまう。
年明けに大爆笑させてくれた某アニメのシリーズ構成とかね。
遡ると、悶々とした思春期を過ぎ、一浪してアイデンティティの危機を迎えた僕が、ある意味「解放」された瞬間というのがあって、それは「どう見られてもしょうがない」というものだった。
それまで人の顔色伺ってばかりで、人の目を恐れ、言動がフラフラと固まらず、今よりもはるかに挙動不審でコミュ障でキチガイだったキモオタが、「もういいや、嫌われること恐れるのやーめた」となった。
良く歌詞で「傷つくことも恐れずに」なんてしょっちゅう出てくるが、それだけみんな傷つくの、怖いんだろうね。
僕はそういうの、やめた。大学に入り、哲学を学んで、それが確信に変わった。
気の狂ったような形相で理不尽なことをキーキャー言われた時に、僕が必ず言う言葉がある。
「嫌われるのは慣れてますから」。
だからこの議論にあなたの感情や気分を持ち込んでも無駄ですよ、ちゃんと理を尽くして話し合いましょうね、ということだ。
まぁだから言わば、僕は世間では最も冷たい人間なのかも知れない。
人間の中の「情状性」を認めないし、無視するし、あまつさえそれを踏みにじってでも、「真実」を大事にしたい。
それは「ヒューマニズム」「言葉は心を超えない」にもつながっている。
だからもう一度、定番のあの言葉を書いておく。
お前の見た目なんか知らん。お前の気分なんか知らん。
お前に俺がどう見られていようが、全く興味ない。
その先にある理と筋、「真実」を捉えようと努力すること、それこそが人間に与えられた最大の「特権」なのだ。