「あのときのお母さんだったのね」付属池田小事件16年


この話は僕はしてはいけないのではないか?と思い、昨日は寝るのと吹奏楽の悪口を言うことと13連敗に徹していたが、やはりFBでポツポツと、「当事者」の声が出てきたので、「風化させない」という一心で、綴っておこうと思う。



2001年6月8日。僕は大阪のスタジオにいた。
たぶん『週刊ストーリ-ランド』か『ハレのちグゥ』の仕込みをしていたのだと思う。

暇を見つけては母校(高校)の吹奏楽部に通う日々だった。
OBとして何がしてやれるか、でも他のOBとも現役生ともなかなか反りが合わず、これは行かない方がいいかもな・・・と思ってた時期だった。

昼過ぎ、本社から電話がかかってきた。
電話を取ると、大学の先輩でもあるM氏の声で、
「ヤマモト君、出身附属池田やんな?」
「はい、そうですが」
「今すぐTVつけて!」

TVをつけた。母校の小学校の空撮が映っている。
何が起こっているかを把握するのに時間がかかった。

小学校と同じ敷地内に高校がある。多くの後輩がそこにいるはずだ。
顔面蒼白になった。

急いでケータイメールを使い、知る限りの高校の後輩に安否確認のメールを送った。
全員無事だった。


4日後、会社に了解をもらって、小学校の校門に花を奉げた(そしたら週刊誌に撮られちゃった!テヘ!)
高校の部室を訪れたが、もうなんて声をかけていいやら解らない。
部員も全員が変なテンションで、誰も彼もが会話になってなかった。


当時の日記(妄想ノオト)には、この時の思いが綴ってある。
若干引用しよう。

一寸あちこちで頑張って書きまくったから、ここで書く事なくなったよ。
まぁいいか。もう正気も狂気も含めて兎に角言葉を連ねている。

これ見てくれてるヒトいたら、聞いて。言葉を枯らしてはダメだよ。
語り続けるんだよ。


その後、ボランティア活動やら寄付やら、可能な限りのことをしようと思ったが、遺族の方々に上手く寄り添うことは無理だろうと判断し、身を引いた。

その代わり、固く心に誓った。
「彼ら、彼女らが高校に上がって、卒業を見届けるまでは、どれだけ誹りを受けようが吹奏楽部に通おう」

犯行現場にブルーシートががっちりかけられ、やがて校舎が跡形もなく取り壊され、そんな小学校を間近に見ながら、僕は高校に通い続けた。


上手く行く時も、行かない時もあった。いや、大概揉めてた。
その際も常に、「彼ら」がやってくるカウントダウンを自分の中でしていた気がする。


そしてまぁ何の因果だろう、8年後、ちょうど『アインザッツ』を書き始めた頃に、「彼ら」は高校に入学してきた。
しばらくはこちらが心臓バックバクだったのを覚えている。

可能な限りのことをした。まさに絶妙なタイミング。
『アインザッツ』本編内の楽曲「ウィンクルム」は、学研や天野先生との協議の末、母校が公開初演をすることとなった。
しかもコンクールにもそれを引っ提げて出ることになった。

あの曲の23人の編成は、当時の吹奏楽部の部員編成とピッタリ一致する。
トランペットに上手い子がいたのでそこを目立たせて、とか、そんな細部に至るまで天野先生にオーダーした。

まぁしかし、結果としては、揉めた。
当時は小編成の支部大会まで出る程指導の経験を積んできた(つもり)だったが、全てが空回りした。

合宿の時苦虫嚙み潰す僕らOBに、顧問の先生が(かなりあっさりと)こう言われた。
「まぁやっぱり、池田小事件のせいやろね」


越えられない壁を感じた。
僕の手応えとしては、何もしてやれた気がしない。


そのコンクールを見届けて、僕は東京に移り住んだ。
その後も合宿に顔を出す程度はしていたが、ここ4、5年程はまったく高校に行ってない。


文字通り「生命の境目」と対峙する程に、僕は吹奏楽というものに長年向き合ってきた。
だから怒る時は怒る。どれだけ仲違いしても全然構わない。
そんな生半可な気持ちで関わってない。関わってこなかった。

真剣さのない吹奏楽の運営は、絶対に許さない。


幸いにして、その「彼ら」とは今も仲がいい。
先日もそのひとりと一緒にマーラーを聴き、くじら料理を食いながら毒の吐き合いをしたところだ。
もう社会人だ。唯一残念なことに、彼女はアニメ業界に入ってしまったのだが・・・。

彼女はあの犯人の姿を見ている。


これからのことは解らない。
まぁみんな社会人になったのだから、これ以上は余計なお世話だろう。
肩肘張らず付き合って行きたい。むしろ、それがいけなかったのかもね。


ちなみにずっと指摘していますが、「付属」ではなく「附属」です。