織田信長とは

1534年 尾張国 古渡城城主である織田信秀の嫡男として生まれる。

1546年 元服し織田三郎信長と名を改める。

1548年 美濃国の斎藤道三の娘である濃姫と結婚する。

1551年 父、信秀が永眠。信長が織田家の家督を継ぐ。

1553年 斎藤道三と尾張国聖徳寺で会見。教育係だった平手政秀が自害する。

1555年 主筋の織田信友と攻め追放し、清州しろを居城とする。

1559年 尾張国を統一し国主をなる。

1560年 今川義元が尾張国へ侵攻。

1563年 美濃国攻略のために本拠地を小牧山城へと移す。

1567年 近江国の浅井長政と同盟を組む。妹・お市の方を長政の正妻に送り込む。

1570年 姉川の戦い。

1571年 浅井・朝倉軍を匿った比叡山を焼き討ちにする。

1572年 足利義昭拳兵・甲斐の武田信玄上洛を開始。

1573年 武田信玄死去・室町幕府滅亡・浅井長政、朝倉義景自刃。

1575年 長篠の戦い・右近衛大将就任・家督継承。

1577年 右大臣になる。

1578年 右大臣と右近衛門大将辞任。

1581年 高野山包囲。

1582年 甲州侵攻、征伐・本能寺の変。


2月1日、武田信玄の娘婿・木曾義昌が織田に寝返ると、2月3日に織田信長は武田領への本格的な侵攻を開始するために大動員令を家督に譲った信忠に発令する。駿河から徳川家康・相模から北条氏直・飛騨から金森長近、木曽から信忠がそれぞれ武田の領地に侵攻を開始した。3月8日信忠は武田の本拠地・甲府を占領、3月11日には滝川一益が武田勝頼父子の首を打ち取り武田氏は滅亡した。

 

3月14日には信忠を通じて届けられた首級の実験を行い、3月19日高遠から諏訪の法華寺に入り、翌20日以降武田の領地であったところを領主に決めたり、国掟を発したり、関所の撤廃、奉公・所領の境目などを定めている。

 

5月15日、先の戦で駿河領を増やしていただいたお礼と甲州征伐の戦勝祝いに徳川家康が安土城を訪れます。この時、信長は明智光秀に家康の接待を命じ、光秀は15~17日の間家康を手厚くもてなした。しかし、接待中に備中高松城を攻めている羽柴秀吉から援軍の要請が入ると信長は明智光秀に援軍に向かうように命ずる。

 

6月2日、本能寺を襲撃し本能寺の変勃発。信長は100人ほどの手勢と共に自ら槍を手に応戦したが、圧倒的に数が多い明智軍に敵うはずもなく、自ら火を放ち居間にて自害、享年49。

 

この時光秀は部下の信長への忠誠心が篤いことを考慮し、本能寺に信長がいることを部下には秘密にしていた。

 

本能寺の変の後、光秀の娘婿である明智秀満が信長の遺体を探したが、遺体は発見されず。



 

 

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