徳川美術館は、名古屋市東区徳川町にある私立美術館です。
徳川家康の遺品を中心とした大名道具や、「源氏物語絵巻」「初音の調度」など国宝9件を中心にした日本随一のコレクションから、「『大名文化とは何か?』という問いかけに答えられる我が国唯一の美術館」(徳川義崇館長)とされています。
「徳川」といえば、もちろん江戸(東京)。そして、水戸黄門の水戸(茨城県)などが思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。
どうして「徳川美術館」が名古屋に存在するのでしょうか?
徳川美術館の原史彦さん(学芸部長代理)にお話を伺いました。(聞き手は、7月15日から同館で開催される特別展「天下人の城」応援団の「おいでよ天下人の城展」です)

火縄銃を手に説明してくれる原史彦さん
どうして名古屋に徳川?

おいでよ天下人の城展

原さん
徳川美術館は、御三家筆頭の尾張徳川家のコレクションを収蔵しています

おいでよ天下人の城展
御三家とは?ご老公の水戸しか思い浮かびませんでした

原さん
御三家は、尾張、紀州、水戸の3家で、その筆頭が尾張徳川家です

おいでよ天下人の城展

原さん
徳川家康の九男の義直(1600~50年)によって創始されました 61万9500石の大名で、名古屋城を居城として徳川将軍家に次ぐ家格を誇っていました

おいでよ天下人の城展
名古屋城って加藤清正が造ったのではなかったのですか?

原さん
たしかに現在の名古屋城内には加藤清正の像がたくさん建っていますが、造ったのは家康で、初代城主が義直です

名古屋城の目の前の絶景ポイントには加藤清正像が

城内のよい場所にも清正像!家康像は見当たりません

おいでよ天下人の城展

原さん
義直は関ヶ原の戦いの直後の慶長5年(1600年)11月28日に、大坂城西之丸で生まれました

おいでよ天下人の城展

原さん
59歳です。お母さんは、石清水八幡宮(京都)の社家・志水宗清の娘の亀(相応院)です

おいでよ天下人の城展
関ヶ原のあとに生まれたなら、生まれながらのプリンスですね

原さん
その通りです。義直は慶長8年、わずか4歳で、甲斐国25万石(一説に20万石)の大名となっています

おいでよ天下人の城展

原さん
尾張の大名は家康の4男の松平忠吉でした。その頃の尾張の中心は清須城(愛知県清須市)です。ところが忠吉は慶長12年(1607年)に28歳の若さでなくなりました

おいでよ天下人の城展

原さん

おいでよ天下人の城展
えっ?江戸時代にはよく子供がいないでお家が断絶となったといいますが家康の息子でも容赦なかったんですね

原さん

おいでよ天下人の城展

原さん
幼かったので、尾張の運営を実際にしたのは犬山城主となった平岩親吉でした
義直が家康とともに清須城に初めて入ったのは慶長14年(1609年)のことです

おいでよ天下人の城展

原さん
このとき、家康は水運の要衝ではあるけれども水害に弱いとして清須から名古屋へ拠点を移すことを決めたのです 翌年から西国・北国の大名20家に手伝普請(てつだいぶしん)を命じて、名古屋築城と城下町の移転が始まります

おいでよ天下人の城展

原さん
城だけでなく、寺社や商家など都市機能すべてを移転する大事業でした。

おいでよ天下人の城展

たくさんの大名に競わせて造らせた名古屋城

原さん
名古屋城は慶長15年9月頃に石垣工事が完了しました

おいでよ天下人の城展

原さん
江戸城に次ぐ国内最大級の5層の天守は慶長17年(1612年)12月頃に完成。義直の住む本丸御殿は同19年(1614年)に竣工しました

おいでよ天下人の城展

原さん
大坂の陣の直前の完成です。名古屋城は大坂城にいた豊臣秀頼に備えるための意味もありました。 実際、義直は完成したばかりの名古屋城から大坂へ出陣しています

おいでよ天下人の城展
まだ豊臣が滅びる前だったから戦うための城だったのですね

原さん
名古屋城から出陣した義直が正式に尾張国主として名古屋城に入ったのは、家康が亡くなった元和2年(1616年)7月28日となります

おいでよ天下人の城展

原さん
大坂の陣の時に、総勢1万5000人、旗本483騎、総騎馬数1307騎と記録されており、徳川一門随一の軍事力を持っていました

おいでよ天下人の城展

原さん
義直は9男、紀伊徳川家の初代頼宣(よりのぶ)は10男、水戸徳川家初代の頼房は11男です

おいでよ天下人の城展

原さん
義直と頼宣は権大納言、頼房は権中納言に叙されました
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尾張徳川家16代を一挙に

おいでよ天下人の城展

原さん

おいでよ天下人の城展

原さん
2代は光友(みつとも)(1625~1700年)です 寛永16年(1639年)に3代将軍家光の長女・千代姫と結婚しました

おいでよ天下人の城展

原さん
将軍家と最高格の大名の結婚ですので、最上級の婚礼道具が用意されました

おいでよ天下人の城展

原さん
現存する75件の婚礼道具が一括して国宝に指定されています

おいでよ天下人の城展
徳川美術館にいつ行っても必ず国宝の初音の調度の一部が見られます。少しずつ出てくるものが変わるので楽しみなんです
・3代 綱誠(1652~99年)
・4代 吉通(1689~1713年)
・5代 五郎太(1711~13年)
・6代 継友(1692~1730年)

おいでよ天下人の城展

原さん
五郎太は、初代義直の幼名です。尾張徳川家の嫡男は代々、幼名は五郎太です
5代の五郎太は父が25歳の若さで急逝したため3歳で嗣いだのですが、在職2か月で亡くなります

おいでよ天下人の城展

原さん
ここで直系による継承は途絶えます。6代には吉通の弟で3代綱誠の12男の継友が養子として家督を継ぎます

おいでよ天下人の城展
(18世紀になると、やっぱり徳川家には甘かったのかな)

原さん
継友は、7代将軍家継が亡くなったときに、後継候補になったのですが、結局実現しませんでした。 以後、尾張徳川家の当主が将軍後継候補になることはありませんでした

おいでよ天下人の城展
・7代 宗春(1696~1764年)

おいでよ天下人の城展

原さん
6代の継友も男子に恵まれず、7代となったのは3代綱誠20男の宗春です

おいでよ天下人の城展
宗春さまのことは知っています
8代将軍吉宗の享保の改革という緊縮路線に真っ向から反対して、積極的な財政拡大をして名古屋の経済を発展させたんですよね

原さん
色々評価はわかれますが、宗春は藩財政を悪化させて、結局、重臣たちのクーデターで引きずりおろされ、蟄居謹慎の処分となりました
・8代 宗勝(1705~61年)
・9代 宗睦(1732~99年)

原さん
9代宗睦は財政立て直しや人材登用に取り組んで「尾張藩中興の祖」と言われています

おいでよ天下人の城展
あれっ?宗春さまが中興の祖だったんじゃなかったんだ

原さん
ただ、後継者の子供や養子を5人立て続けで亡くし、ここで義直以来の男子血統は途絶えます
・10代 斉朝(1793~1850年)
・11代 斉温(1819~39年)
・12代 斉荘(1810~45年)
・13代 慶臧(よしつぐ、1836~49年)

原さん
10代斉朝(なりとも)は、11代将軍家斉の弟・一橋治国の子で、尾張徳川家として初めて将軍家周辺からの養子です 11代の斉温は斉朝の実子ではなく、11代将軍家斉の19男ですが、わずか21歳で亡くなりました 12代斉荘は斉温の兄(家斉11男)です。御三卿の田安家の4代目当主でした 彼も早くなくなり、田安家の3代目の息子が13代目です

おいでよ天下人の城展

原さん
将軍家と周辺から養子を迎えることで幕府からの財政援助を期待する藩の重臣層と、初代に近い血統を重んじる中・下級家臣層とで対立が激しくなります

おいでよ天下人の城展
反対派からするとこの4代は「押しつけられた」という思いなのですね

原さん
13代慶臧も14歳で早死にしたときに重臣たちはまた田安家から養子をと目論んだのですが、、、

おいでよ天下人の城展

原さん
はい。反対運動が激化したために、分家の高須松平家から迎えることになりました

おいでよ天下人の城展

原さん
2代光友の息子の義行が分家として認められた岐阜県海津市の高須藩3万石です

高須城(陣屋)と城下町の現在の様子
幕末を動かした尾張藩
・14代 慶勝(1824~83年)
・15代 茂徳(1831~84年)
・16代 義宜(1858~75年)

原さん
14代の慶勝は、幕政にも深く参画し、井伊直弼と対立します

おいでよ天下人の城展

原さん
・・・。井伊直弼の日米修好通商条約の締結を非難するために江戸城に無断登城して隠居謹慎処分となりました

おいでよ天下人の城展
日米修好通商条約!いつの間にか、もう幕末なんですね!

原さん
謹慎処分となったあとには、慶勝の弟の茂徳(高須松平13代)がつきます。ところが井伊直弼が

おいでよ天下人の城展

原さん
はい、直弼が暗殺されたため、隠居した慶勝が復権します。茂徳は対立をさけるために在職5年で隠居して、慶勝の三男の義宜へ譲ります

おいでよ天下人の城展

原さん
6歳だったので事実上、慶勝が返り咲いた形です
慶勝は孝明天皇や14代将軍家茂に深く信任され、第一次長州征伐では隠居ながら総督を務めました

おいでよ天下人の城展
明治維新のときは、慶勝が事実上の当主だったのですね

原さん
慶勝は、幕府瓦解と同時にいち早く新政府に恭順し、東海道・中山道沿線諸藩の誘因に成功し、内乱を最小限にとどめました

おいでよ天下人の城展
尾張徳川家が反政府を貫いたら、日本が東西に分断される内乱になっていた可能性があったのかもしれないのですね

原さん
この功績により、慶勝は歴代で唯一、従一位に叙せられています

おいでよ天下人の城展
初代の義直が従二位だったから、それを超えたのですね

徳川慶勝が名古屋城を新政府に献上し金のシャチホコがパリ万博に出品されました
・17代 慶勝(1824~83年)
・18代 義礼(よしあきら、1863~1908年)
・19代 義親(よしちか、1886~1976年)

原さん
慶勝は、西洋の科学技術にいち早く注目しており、自ら写真術の研究に努め、名古屋城を含めて多くの写真を残しています

おいでよ天下人の城展

原さん
16代が18歳で早世したため慶勝は明治8年(1875年)に再び家督を相続し、17代となりました 18代の義礼は高松松平家から迎えた養子です 19代の義親は、福井松平家の松平春嶽の五男です

おいでよ天下人の城展

原さん

おいでよ天下人の城展
徳川美術館の宝物

おいでよ天下人の城展

原さん

おいでよ天下人の城展

原さん
尾張徳川家伝来の什宝(じゅうほう、家宝として秘蔵するもの)が中心です それに近代以降に徳川宗家(将軍家)、紀伊徳川家、一橋徳川家、阿波蜂須賀家などの大名家で売りたてられた重宝類の一部 名古屋の豪商・岡谷家や高松家をはじめとする篤志家からの寄贈品などです

おいでよ天下人の城展

原さん

おいでよ天下人の城展

原さん
元和2年(1616年)に駿府城で75歳の生涯を閉じた家康は、駿府城に蓄えた金銀財宝のほか、所用した道具などの大半を、9男義直、10男頼房、11男頼房の、いわゆる御三家にそれぞれ5対5対3の割合で分与しました

おいでよ天下人の城展

原さん
『駿府御分物御道具帳』という記録が現存しています 尾張分の12冊中11冊が残っており、刀剣、色々道具(茶道具、能道具など)、薬種、調度類、馬具類など種目別に目録となっています

おいでよ天下人の城展

原さん

おいでよ天下人の城展

原さん
遺産のうち、紙、反物、ろうそく、銅や鉄といった消耗品はその後に使われて現存していませんが、道具類などはかなりの数量が今も残っています

おいでよ天下人の城展
最初は宝物というよりも、実用的な遺産だったんですね

原さん
家康の裃(かみしも)や浴衣、下着など衣類120領はほぼ完全に残っています

おいでよ天下人の城展

原さん
このように、伝来した道具が記録によって裏付けられた道具が残る大名は、数ある大名家の中でも尾張徳川家が唯一なのです

おいでよ天下人の城展
徳川美術館の誕生

おいでよ天下人の城展
どうして徳川美術館が名古屋にあるのかはわかりましたが、なぜ名古屋城から離れた場所にあるのでしょうか

原さん
徳川美術館の敷地は、かつての尾張徳川家大曽根邸の一部です

おいでよ天下人の城展

原さん
明治維新後に、尾張徳川家が所有した城や邸宅地のほとんどは徐々に新政府に接収されました 明治2ー3年頃に土地を所有していた大曽根に新たに邸宅を新築しました

おいでよ天下人の城展
大曽根は尾張徳川家と全く関係のない場所だったのですか?

原さん
いえ、大曽根は2代の光友が誕生した地で、1695年には光友の隠居屋敷が建てられました
しかし、光友が亡くなったあと、広大な屋敷地は重臣たちに分割されましたが、明治維新後に再び重臣たちから屋敷地が返上されたのです

おいでよ天下人の城展

原さん
昭和6年(1931年)、19代徳川義親(よしちか)が伝来の什宝を公の財産とし、研究に資するために、財団法人 尾張徳川黎明会を設立します。 この財団に什宝を一括して寄付して、美術館の建設に取りかかりました

おいでよ天下人の城展

原さん
華族令があり侯爵家として安泰だった時代の決断に、画期的だと世間に称賛されました

おいでよ天下人の城展
このときに邸宅の膨大な土地などを縮小したり、名古屋市に寄付しているんですね

原さん
維新から70年近くが経過し、各大名家の世代が交代していく中で、伝来の什宝が売りたてられて散逸していく状況を危惧したのです

おいでよ天下人の城展
このときに、小牧・長久手の戦いや織田信長が初めて築城したとしられる小牧山(愛知県小牧市)も寄付しているんですね

原さん
美術館の建設は、外観デザインの一般公募から始まり、昭和7年から工事がはじまり、3年かけて昭和10年2月に竣工しました

おいでよ天下人の城展

原さん
工費は約50万円でした。なお、当時、隣接する徳川園の入場料が大人5銭でした
(*天下人の城展の入場料は1400円)
最初のお客様は吉田茂!

おいでよ天下人の城展

原さん
昭和10年11月10日午前11時に開館式が行われました
入館料は10銭でした

おいでよ天下人の城展

原さん
当時の芳名帳が残っているのですが、記載第1号はのちに総理大臣となる吉田茂・元イタリア大使でした

おいでよ天下人の城展

原さん
私立美術館としては現存する国内4番目。大名家什宝を中心とした美術館は国内初でした

おいでよ天下人の城展
戦争中はどうなったのでしょう?名古屋城は空襲で焼けていますよね

原さん
美術館の東側に軍需工場があったため、昭和20年5月14日の名古屋空襲で、大曽根も甚大な被害を受けています 美術館は焼失を免れたものの、爆風による損壊を受けています

おいでよ天下人の城展

原さん
終戦から2年後の昭和22年11月から再開しましたが、復興資金に充てるために、蓬左文庫を名古屋市に売却しました 蓬左文庫附属の歴史研究室は独立して、徳川林政史研究所となりました

おいでよ天下人の城展
蓬左文庫は名古屋市立となっていますがもともとは一つだったんですね

原さん
蓬左文庫は昭和53年に名古屋市博物館の分館となり、平成16年(2004年)から行われた徳川園再整備事業で、徳川美術館と一体となった施設に改築されました

おいでよ天下人の城展
今は中がつながっていて一つの美術館のようですが、空間として一緒に戻ったのは平成になってからだったんですね!

原さん
尾張徳川家ゆかりの地に建てられた徳川美術館は、尾張徳川家が守る伝えてきた大名文化の伝統を、未来へと継承すべく活動しています。ぜひ遊びに来てください。
(名古屋駅からのアクセス方法はこちら「徳川美術館にはどうやって行けばいいの?」=別サイト)
・徳川美術館の特別展「天下人の城-信長・秀吉・家康-」2017年7.15 (土) ~ 9.10 (日)
織田信長の居城の変遷を軸に、秀吉・家康へと繋がる天下人の系譜をたどりながら、三人に関わる城や武将の遺品・史料の紹介を交えつつ、天下の名城として名高い名古屋城の歴史と構造と魅力に迫ります。特に名古屋城天守台を築いた秀吉恩顧の武将・加藤清正について、徳川美術館に遺されるゆかりの品々を通して、その生涯を垣間見ます。
武将ジャパンは、特別展「天下人の城-信長・秀吉・家康-」の応援団として、徳川美術館と特別展の魅力を伝えます。
徳川美術館では、企画展「江戸の生きもの図鑑-みつめる科学の眼-」を開催中(2017年7月9日まで)です。
特設応援ブログ http://tokugawa-shiro.com
徳川美術館 http://www.tokugawa-art-museum.jp/
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参考文献 図録『尾張徳川家の至宝』(2013年)
写真は、天下人の城展応援団提供