50年、連続テレビ小説を見てきたが…
『ひよっこ』がいい。
NHK朝の連続テレビ小説である。
有村架純が主人公。彼女はいま、昭和40年を生きている。
これまでの連続テレビ小説とは少し違う。
彼女は何者でもなく、何も目指していない。
断然違うと言ってもいい。
何となく連続テレビ小説を見はじめて50年(自分で書いていてくらくらする)、録画するようになって30年(だいたい全話録画している)、これまで見てきた連続テレビ小説と、根本のところで違った作品だとおもう。
大雑把にいえば、これまでの連続テレビ小説は〝積み上げていくドラマ〟であったのに、今回の『ひよっこ』は〝失われたドラマ〟なのだ。
でも、哀しくはない。喪失の哀しみは描かれていない。そこがすごい。後半にかけて回復のドラマとなるかとおもうが、とにかくつねに喜びの物語になっている。
ひとことで言うなら、すばらしいドラマだ。
これまでのパターンとどこが違うか
連続テレビ小説では、元気な女性の半生が描かれることが多い。
主人公は最初、子供だったりする。1週目だけ子役が演じ、6話(土曜)になって学生時代のヒロインが登場する、というのがよくあるパターンだった。
ヒロインは迷いながらもやりたいことを見つけ、夢を抱き、目標に向かってがんばる。成功者をモデルにしているときは、少し失敗して、きちんと成功していく。
おしんは、見事に成り上がりました(1983年)。元気に前向きな彼女たちを見てみんなで元気になろう、というのが日本の了解事項だったようだ。
「おしん」の時代は、たしかにそういうロールモデルでよかったのだろうが、平成から21世紀に入ると、みんながみんな同調できるものではなくなる。
それでも〝元気な女性の成長物語〟は捨てられない。
『ひよっこ』のひとつ前の『べっぴんさん』はアパレルメーカーの創業女性社長の話だったし、次の『わろてんか』は吉本興業創業の話である。その次の作品も何だか似たような路線でいきそうな気配である(『半分、青い』)。
成功者の物語が続くなか、『ひよっこ』はあきらかに異質である。特異点である。静かに発火している。
物語は、夢など抱いていないふつうの女の子を描いている。
その描き方が、見ている私の不思議なところに届く。底知れぬ共感を呼ぶ。夢や希望を追うばかりが日本人の人生ではないだろう、と静かに強く訴えているようにおもえる。
だからこそ、見ていてすごく元気になれる。すばらしい。
ふつうに生きろ。はい。生きます。
再現された1960年代の空気
脚本・岡田惠和、主演・有村架純だからこそ成り立った密かな僥倖におもえる。
『ひよっこ』には、野心がない。
舞台も大正から昭和、戦争、戦後などと慌ただしく進んだりしない(昭和から戦争、戦後と進む物語は、主人公に沿っていながら「日本という国のむちゃくちゃぶり」があまりに波瀾万丈で、ストーリーは常に〝日本及び主人公の破滅と復活〟という展開にならざるをえない)。
物語は昭和39年(1964)の9月から始まり、9週目で昭和40年暮である。急がずに進んでいる。
1960年代の日本がゆっくりと広がっていく。いまから見ると、ちょうどこのあたりが現代日本の原風景に見える。その風景が細かく、心地いい。1960年代を再現した風景に心打たれる。
たとえば1965年の上野駅構内。行き交う人から目が離せない。丁寧に作られている。
(ただ、意識的にきれいに喫煙風景は消されている。2017年という時代の規制として、しかたない。私鉄は長距離でも車内禁煙が多かったが、国鉄は長距離列車はすべて車内喫煙可で、だから料金が少し高くても喫煙者は国鉄に乗ったものだ、という風景が再現されずに残念である。)
またたとえばお弁当。集団就職で東京へ向かうときの主人公と同級生のお弁当が、とてもすてきに昭和39年のものだった。主人公みね子のおかずは、大根の漬け物と牛蒡とゆで卵で、つまりゆで卵が飛び切りの御馳走になってる。とても美味しそうだ。
りんご農家のみつおは、魚肉ソーセージに山菜とりんごたっぷり。品数がとても少ないが、みんな美味そうなのだ。そのへんの空気の再現がすばらしい。
有村架純から目が離せない
このドラマに惹かれるのは、しかし、そこではない。
有村架純から目が離せない。その佇まいに引き寄せられる。
何かを掴もうとしているわけではない。ふつうに生き、なるべくいろんなものを取り落とさないようにしている。しかしいくつか取り落として進む人生を、それでもしっかりと生きて行く。
いまを受け入れ、落ち込まず、きちんと生きていく姿。
そこに圧倒的に惹きつけられる。
『ひよっこ』の主人公は、茨城県でも鄙深い田舎の高校生である。(高校編は4月いっぱい。5月はトランジスタ工場編だった。6月は次の展開になる)。
大きな夢を抱くわけでもなく、とびぬけて元気なわけでもない。ただ、やさしい。
母と祖父、それに妹、弟とともに茨城で平穏に暮らしていた。ドラマの始まりの時点で、みね子には何も不足していない。
ただ、父は不在である。東京で出稼ぎ労働者として働いている。ドラマの最初に稲刈りのために茨城に戻ってきて、再び東京に帰り、そして連絡が取れなくなる。
女の半生を描くパターンだと、子役時代にあたるところを、『ひよっこ』では家族で過ごした満ち足りた時代として描かれていた。
田舎で暮らしていて不満がない、というのが初期設定。これが朝ドラを見てきた者にとって激烈に新鮮だった。
主人公みね子は、このままの茨城で生活するつもりだったのだ。高校を卒業すると、地元にのこり、家の農業を手伝うつもりでいた。
しかし、父と連絡が取れなくなったことがきっかけで、ひとり東京へ出て働くことにする。そうやってお話が始まる。
彼女は自分といまを受け入れている。底から強い。あまり現実にはそんな子はいないとおもうけど、でも、いてもおかしくない。
このドラマは、生き生きとしたリアルな善きエピソードをたくさん集めて、それを重ねて作り上げている。そういうファンタジーである。
1960年ニッポンのファンタジードラマ。そこが、私はとても好きなんだとおもう。
誰かが話しているとき、残りの人たちは黙って聞いている。その表情がいい。みんなの表情がささってくる。それを見逃さないため15分間、画面から目を放せない。
ときに脇のほうの人が、とてもよかったりする。
たとえば、集団就職の見送りのとき、いつも存在感がないと言われる〝主人公の親友の時子のお父ちゃん〟が、場違いな「時子がんばれ」ののぼりを一人で持ち、端っこで掲げている姿が見切れそうにぎりぎりに映っていたが、その、場違いで間が抜けた感じに、田舎の人の純心が籠もってるに見えて、とても胸に迫ってきた。(かなり個人の感想です。この文章を読んで見返して見つけても、たぶん、そんなに迫らないとおもう)。
また、去っていく人の後ろ姿をよく映している。小さくなっていく姿を見る。ただそれだけである。それがじんわりと効いてくる。
哀しいドラマではない。せつなくなることはしばしばあるが、基本は陽気である。1960年代の空気を反映したコメディタッチが底に流れている。有村架純の陽の部分がきちんと反映されている。
きちんとした生活人
物語は、父に語りかける形で進んでいく。
主人公のみね子は、いつも心の中で父に話しかけているのだ。最初は東京の父に、途中からどこにいるかわからない父に、いつも話しかけている。
倉本聰の『前略おふくろ様』や『北の国から』のように(古い例で申し訳ないが)主人公のモノローグで物語が進んでいく。(増田明美さんのやさしいナレーションは別にあります)
満ち足りていた家族から、父が欠けたお話になっていく。
そこを出発点に、しかし父と再会することを強い目標にしているわけではなく、物語は進む。父とは会えないが、日々の生活をきちんと送っていく。
主人公みね子は、高校のときから働ぐの好きだと言って、いつも身体を動かしていた。彼女を囲む人たちもみんなそうである。こういう人たちがいれば日本は大丈夫だとおもわせる、きちんとした生活人である。
そういう人たちの姿を丁寧に描いていて、それだけなのだけれど、だから世界がとても力強く見える。
集団就職した東京では寮住まいである。
寮の舎監さんを和久井映見が演じていて、ちょっとふわふわしている。少し頼りないけど、やはりかぎりなくやさしい。
少し年を取っているけど独身で(当時はオールドミスと言ってましたが、やさしいこのドラマにはその言葉は出てきません)、結婚を約束した人は戦争で亡くなったらしい。一度その話をしたが、深くは語らない。若い人はいいわね、と繰り返している。
失った過去を抱えているが、いつも明るい。みんなを元気にさせる。そして、やさしい。彼女もとてもきちんと生きている。
ふと、彼女はいま現在はどうしてるんだろう、と考えてしまったけれど、ドラマの登場人物の50年後を想像しても意味がない。でもついそう考えさせてしまうドラマだ。
夢を持つよりも大事なこと
心ならずも初期設定の幸せが少し欠けてしまった少女の物語では、私たちは彼女の素直さとけなげさを見守ることになる。
彼女は疾走しない。強く上昇しようとしない。自分探しなどしない。やることをしっかりやって、歩いている。ときどき何かが失われるが、それでも歩みを止めない。たしかに、人生はそういうものである。
成功するばかりが人生ではないし、夢を抱えている人だけが日本人ではない。
このドラマを見てると、そういえば、いつもの朝の連続テレビ小説の主人公のひたむきさには、少しは共感するが、けっこうついていけない部分があったな、とおもいいたる。
元気なヒロインを見ていると、どっかでダレます。すごくダレる。見終わって、あまり何も残らない。
この作品は(脚本演出にその意図があるのかどうかわからないが)、そういう〝上昇志向ヒロイン〟ドラマのアンチテーゼになっている。
若者に夢を持てと励ますのは、大人のわがままであり、無茶振りであり、ある意味、脅迫ではないのか、と私はおもっているのだが、このドラマも同じようなメッセージを含んでいるように感じる。
大事なのは夢を持つことなんかではなく、しっかり生きることではないのか。
そのとおりだとおもう。1960年代がそう教えてくれている。
1960年代はしかし、すべて前向きで健康的で明るかったわけではない。いまにはないダークサイドもたくさん抱えていた。そこは描かない。出てくる人たちもほとんどみな善人であり、ダークサイドの人間もほぼ描かれていない。
描かれている〝善きこと〟ひとつひとつには、きちんと血が通っている。しっかりとこちらに届く。その善きことだけを集めた、だからこその壮大なファンタジーなのだとおもう。ファンタジーを見ていると、元気が出る。
人にやさしくして、きちんと生きようという世界を毎日見ていると、かなり幸せな気分になれる。
毎日15分ずつというのがいい。まとめて見てしまうと(原稿のためにすべて見直してみたら)、ちょっと泣きすぎてしまった。
『ひよっこ』は毎日みましょう。朝と昼とにやってます。
「ディズニーランドでデートをすると別れる」という、若者の間でささやかれている噂は本当か