渋谷暴動事件 大坂容疑者が警察官暴行に直接関与か

渋谷暴動事件 大坂容疑者が警察官暴行に直接関与か
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昭和46年の「渋谷暴動事件」で、警察官を殺害したなどとして、指名手配されていた過激派、中核派のメンバー、大坂正明容疑者が逮捕された事件で、当時、現場にいて、逮捕された活動家の証言などから、大坂容疑者が警察官への暴行に直接的に関わった疑いがあることが捜査関係者への取材でわかりました。
過激派、中核派のメンバー、大坂正明容疑者(67)は昭和46年の渋谷暴動事件で、新潟県警から派遣されていた当時21歳の中村恒雄巡査に火炎瓶を投げつけるなどして殺害したなどとして、警視庁に指名手配されましたが、45年余りの逃亡生活の末、先月、広島市内の中核派の拠点で見つかり、7日、殺人などの疑いで逮捕され、警視庁本部に移送されました。

捜査関係者によりますと、渋谷暴動事件をめぐって、現場にいて、逮捕された活動家が当時の警視庁の調べに対し、「大坂容疑者が暴行されて倒れた警察官に対して、襟元から油を注ぎ込んでいた」などと供述していたということです。

また、警察官の殺害に関わったとして、逮捕・起訴された6人のうちの一部も当時、「大坂容疑者が『殺せ、殺せ』と叫んで、警察官を鉄パイプで何度も殴った」などと供述していて、大坂容疑者が中村巡査への暴行に直接的に関わった疑いがあるということです。

警視庁は今後、大坂容疑者を本格的に取り調べ、詳しい経緯を調べるとともに、45年余りの逃亡生活の実態や逃亡を手助けした支援者などについて解明する方針です。

捜査関係者によりますと、調べに対し、大坂容疑者は黙秘しているということです。

大坂容疑者のサポート役か 男を逮捕

警察は、大坂容疑者を広島市内のマンションにかくまっていたとして、52歳の男を逮捕しました。

逮捕されたのは過激派、中核派のメンバー鈴木哲也容疑者(52)です。

警察によりますと、鈴木容疑者は昭和46年の渋谷暴動事件で、警察官を殺害したなどとして、指名手配されていた過激派、中核派のメンバー、大坂正明容疑者を広島市内のマンションにかくまった疑いが持たれています。警察が広島市内のマンションを捜索した際、大坂容疑者と一緒に部屋にいて、有印私文書偽造などの疑いで逮捕されていました。

これまでの捜査で、鈴木容疑者は大坂容疑者をサポートする役割で食料や生活用品なども調達していたと見られるということです。警察によりますと、調べに対し、黙秘しているということです。警察は、中核派が組織的に大坂容疑者の逃亡を支援していたと見て、調べています。

大坂容疑者 逮捕までの経緯

警察が大坂容疑者の潜伏先を突き止めたのは、5か月前のことし1月のことでした。

捜査関係者によりますと、大阪府警の捜査員が中核派の動向を確認する中で、以前からマークしていたメンバーの60代の女が今回、大坂容疑者と一緒に逮捕された鈴木哲也容疑者(52)と、京都府内で接触する様子が目撃されたのです。

鈴木容疑者は、警察のこれまでの捜査で、大坂容疑者の逃亡を支援する役割のメンバーと見られており、捜査員が追跡を始めます。

すると、鈴木容疑者は、その日は兵庫県相生市のホテルに偽名を使って宿泊しました。翌日、ホテルを出た鈴木容疑者は、尾行を警戒するように何度も電車やバスなどを乗り換えましたが、大阪府警の複数の捜査員が追跡を続け、最終的に広島市安佐南区にある5階建てのマンションの3階の部屋に入ったことを確認したということです。

さらに、その後、部屋に、もう1人男がいることが判明します。男は周囲を警戒し、週に1回程度、帽子やマスクを身につけて短時間外出するだけで、何者なのかはっきりしませんでしたが、警察は大坂容疑者の可能性もあるとして、慎重に確認を進めていました。

事態が動いたのは先月中旬でした。以前、京都で鈴木容疑者と接触した中核派のメンバーの女が兵庫県警に逮捕されたことから、警察は、鈴木容疑者らが警戒して、アジトを別の場所に移す可能性があるとして、先月18日に、マンションの部屋の捜索に踏み切りました。

そして、鈴木容疑者を逮捕するとともに、捜査員に体当たりをしてきた男を公務執行妨害の疑いで逮捕しました。この公務執行妨害の疑いで逮捕した男こそが、45年余り、逃亡を続けてきた大坂容疑者本人でした。

渋谷暴動事件が起きた時代背景

渋谷暴動事件は反米・反体制を掲げ学生運動や、日米安保闘争がピークだった昭和30年代から40年代にかけての時代背景の中、起きました。

警察庁によりますと、昭和34年に始まった「60年安保闘争」では日米安全保障条約の改定に反対する団体が、各地でデモや集会などを行い、国会周辺では角材などで武装した過激派が警備に当たった警察と激しく衝突して、多数のけが人が出たほか、国会に乱入した昭和35年6月15日には女子大学生1人が死亡しました。

60年安保闘争が沈静化したあとも、過激派は意見の対立による内部分裂が相次ぎ、昭和38年には革命的共産主義者同盟が過激派中核派と革マル派に分裂します。

昭和40年代に入ると、過激派はベトナム戦争などをきっかけに反戦、反米の機運が高まる中、昭和45年6月に期限を迎える日米安全保障条約の延長に反対する「70年闘争」を繰り広げ、各地で警察と衝突したり、過激派どうしで抗争を起こしたりする、いわゆる内ゲバを繰り返すようになります。

昭和42年には佐藤栄作総理大臣の南ベトナム訪問を阻止しようと、羽田空港周辺で過激派が警察と衝突したほか、昭和43年にはベトナム戦争に反対する市民団体などの呼びかけによる「国際反戦デー統一行動」で、過激派が新宿駅構内に侵入して施設を破壊するなどしました。

過激派は日米安全保障条約延長後も、沖縄返還協定の調印や批准阻止を掲げて破壊活動を繰り返し、協定の国会審議が山場にさしかかっていた昭和46年11月14日、中核派は米軍が駐留したままでの沖縄返還は許さないという反米の立場から、渋谷暴動事件を起こします。

この事件と5日後に東京・日比谷公園でデモ中にレストランに放火した事件で、およそ2000人が逮捕された一方、一部の過激派は武装化するなどして、より過激化し昭和47年2月、連合赤軍が長野県軽井沢のあさま山荘に人質を取って立てこもり、銃撃戦の末、警視庁の警察官など3人を殺害した「あさま山荘事件」を起こします。

警察による摘発の強化に加えて、一部の過激派による暴力的色彩が強まる中、学生運動や日米安保闘争は求心力を失い、終息していきました。