若者の活字離れが叫ばれて、久しく、大学生が本を読まなくなったと聞いても、別段驚くことではないと思ってしまいます。
今回の記事では、「本を読まない」という状態を考えてみたいと思います。
【目次】
- 本を読むことを禁止された世界では、テレビ画面が大きくなる。
- 本はいかにして、禁止されるのか。 それは、「読んだつもり」から始まる。
- 思索する読書へ。
- 未読と不読のコントラスト、そして既読の曖昧さ
- 本を読まないという《理想的な》状態は、いかなるものか?
それでは、まず本が禁止された世界を描いた『華氏451度』の世界を覗いみましょう!
本を読むことを禁止された世界では、テレビ画面が大きくなる。
まず、「本を読まない」どころか、「本を読むことを禁じられた」世界について考えてみたいと思います。
かの有名なレイ・ブラッドペリの『華氏451度』は、本が禁制品とされた近未来を描いた作品です。1953年に発表された作品ですが、現代を見通していたかのような筆致です。
ちなみにですが、この華氏451度とは、紙が燃え始める温度です。主人公は、本を燃やす昇火器をもち、隠された書物を燃やす昇火士(fireman)の男です。この世界では、本の所有は禁じられ、見つかれば即焼却されてしまうのです。
主人公には妻がいるのですが、彼女の様子は非常に奇異で、しかも、なんだか現代に通じるようなものがあるのです。彼女は、テレビの壁に囲まれた部屋にこもり、流れてくる映像に合わせセリフを言ったり、挨拶をかわしています。しかし、その映像は、ただ一方的に流れているだけです。彼女の耳は「巻貝」といわれるイヤホンのようなものを取り付けており、四六時中ラジオ放送が聞き続けているのです。
人々は、壁のようなテレビを前に、耳に取り付けれたイヤホンから流れる放送に身をまかせているのでした。
本はいかにして、禁止されるのか。 それは、「読んだつもり」から始まる。
作者の卓越した慧眼をあらわしたものの一つに、本がいかに禁止されたかについての過程が、フィクションながら的確に、そして現実のものとして考えられるレベルで説明されているのです。
本が禁止されるまでの概略ですが、
- ラジオやテレビが人々の心を掴む。
- 本や映画などの作品の中身を単純化。
- 作品を圧縮するようになる。本は要約され、最後には「紹介」のみに。
- 同時に、スポーツを普及させることで、人々に考える時間を奪う。
- 平和の名のもとに、《差別》を表現するような作品を消し去る。
このような世界では、学校は、スポーツ選手、資本家、製造業を世に送り出すことに熱心になり、賢者の育成を怠り、「インテリ」は人を罵る言葉となるのです。
現在においても、ドナルド・トランプなどの所謂「ポピュリスト」と呼ばれる指導者たちは、学者や研究者を目の敵にして「本ばっかり読んでいるインテリたち」と罵る傾向にあります。彼らの思想の背景には「反エリート主義」がありますが、それは彼らが非エリートであることとは無関係で、大衆にそういえばウケるという確信からなされる言動になります。
本の価値の低下、反エリート主義、そして、問題を生み出すことを怖れ、本をけしさろうとすっる潔癖主義が、蔓延する時、本は焼かれることになるのです。
レイ・ブラッドペリの描いた世界では、いかに人々に「考えさせない」ようにするかが、本を焼却する理由や、壁一面のテレビや延々と放送されるラジオに身をゆだねる生活様式の一つとなっているのです。
それは、本そのものがもつ、読む人に「考えさせる」という力を危惧したからなのでしょう。
思索する読書へ。
現在では、本を読むことよりも、youtubeを視聴することの方が好まれるのは疑いようがありません。理由は、面白さや、わかりやすさ、なのではないでしょうか。特に、情報をとる、という目的では、本よりインターネットの方が優れている場合も多くあります。
読書にしても、最近では話題になった本だけを読むという人も多くいるのではないでしょうか。例えば、又吉直樹さんの『火花』は、300万部を超える大ヒットとなりました。この作品のすごいところは、普段本を読まない人に、本を買わせたことだと思います。
しかし、わたしが、疑問に思うのは、話題になっている本を読む時の目的が、本を楽しもうとするものではなく、話題についていくため内容を知ろうとして読んだ人も多くいるのではないだろうか、というものです。
それは、すでに本を情報をとるための、とみなしているに過ぎないのではないか、と思ってしまうのです。
では、本を読むという行為において、もっとも大切なことは何でしょうか。
ショーペンハウアーは、『読書』についてで、読書の作法には二つの型があると指摘してます。それは思索型、読書型です。
読書型とは、そのまま、ただ人の考えたもの(本)を自分に埋め込もうとする人であり、思索型とは、本を読むことで自分自身の頭で考える人となります。
そして、ショーペンハウアーは、
自分で考える人は、まず自説を立てて、あとから権威筋・文献で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎない。
と述べています。この思索型読書ができる人間が、思想家や天才と言われる人になるのです。
同様のことを歴史家についても言うことができます。、著名な歴史家であるジャック・ル=ゴフが、中世歴史家ミシュレの研究業績について述べたものです。
歴史家としての仕事のはじめから、ミシュレにとって資料とは想像力の跳躍版、ヴィジョンの始動装置にほかならない。
と、歴史資料という「事実」をあらわしたものであったとしても、それを読む歴史家により、新たな発想を生み出すことになるのです。
これは、現代における新聞や、週刊誌の記事においても、それを鵜呑みにするのではなく、自分自身で考えること、そして、現実社会に対して、ヴィジョンを持つ必要があることと通じるものであると思うのです。
この問題は、本を情報としてではなく、現実社会を生きるために、自分の頭で考える能力の育成する場やツールとして用いるという非常にレベルの高いものであると思います。
それは、いかに読むのか、そして、いかにその本を評価するのか、という営みであるといえるでしょう。
未読と不読のコントラスト、そして既読の曖昧さ
本を読むことにも、その巧拙がありますが、本を読んでいない状態ということにも、二つの状態があるのではないでしょうか。
それは、ある本をまだ読んでいないという状態と、ある本を読まないという状態です。それは、「未読」と「不読」と表すことができるでしょう。
本を読むという前向きな気持ちがある人であれば、本屋さんにあるほとんどの本は「未読」ということになりますが、すでに活字離れが問題になり大学生さえも本を読まない現代において「不読」を決めている人も多いのではないでしょうか。
最近、あるお笑い芸人さんや有名な資本家の方がインターネットの放送で、「本なんて読んでる奴は、、、」とおっしゃっていました。彼らは、「不読」を選択したということなのだと思います。
しかし、読んだものであっても、忘れてしまっていたり、読んでいなくても、内容を知っていたりする本があることも事実です。
そうした読んだこと、読まないことの曖昧性を記した本が、あります。
題名は、非常に変ですが、中身はいたって真面目です。この本では、読むことの曖昧性を詳細に述べています。
著者であるピエールバイヤールは、ある本を読むことは、他の本を読まないこと、そして読んだとしても、内容を忘却していく、また、読んでいないにしても、内容を知っている状態があることを指摘し、読むという営みがいかに曖昧で、不確かなものなのかを述べているのです。
本を読まないという《理想的な》状態は、いかなるものか?
ここまで、本を読むということはどんなことなのかを見てきました。『華氏451度』においては、本は考えさせる力があるということから、危険視されることになります。一方で、ショーペンハウアーの『読書について』では、思索型読書ではない、他者の思想をそのまま借りることになる読書型読書は批判されています。この思索型読書を評価する傾向は、もちろん『読んでいない本について堂々と語る方法』でも継承されており、「考える」ということが最も重要視されていることがわかります。
しかし、この考えると言う状態は、実は、本を読むという行為を続けながらでは、出来ません。思考するためには、自ら本を置き、自分で考える時間を持つことになるのです。ここに、理想的な読書の「読まない」という状況が生まれることになります。
本を閉じ、自分の思考を巡らせる時間なのです。
それは、本を読まない人々にも、巧拙はあったとしても可能なものであるとも言えます。しかし、本を読まずに、深い思索が出来る人々は少数であるのではないでしょうか。
気づけば、テレビが大きくなり、いつでも見たい番組を見ることが出来るようになりました。ラジオ方法もradikoのおかげで、四六時中好きな番組を聴くことが出来ます。
わたし自身、テレビが大好きで、毎日ラジオの深夜放送を聴いてしまうラジオリスナーなので、本を読む時間を確保できるようにしたいなと、戒めをこめて書きました。
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