死闘の果てに、佐藤琢磨はインディアナポリス500マイルを勝とうとしていた。199周目のターン1だ。3番手の彼は前をゆくダリオ・フランキッティがチームメイトのリーダーを交わしていく動きに乗じてインサイドのわずかな空間を突き、盤石の1-2態勢を築いていたように見えたチップ・ガナッシ・レーシングの隊列を分断した。最内のラインを奪われたスコット・ディクソンは失速し、瞬く間に勝機を失ってしまう。対する佐藤の勢いはまったく衰えていない。ターン2で差を詰め、バックストレートでさらに近づく。ターン3の立ち上がりは完璧で、相手よりわずかに小さく回って一瞬早く加速を開始した。ターン4を抜けた先のホームストレートはこのとき向かい風だった。空気の壁に阻まれて伸びを欠く赤いチップ・ガナッシに襲いかかる。ターン1はすぐそこに迫り、フランキッティはドアを閉めきれず車を外に振る。佐藤はその空間に飛び込んだ。優位は圧倒的に内側にある。だれもが最終周での逆転を確信した瞬間だった。
だが、”I’m small, but I need a little bit more room.”――僕は小さいけど、もう少しスペースがいるんだと、佐藤は口にすることになる。2台がサイド・バイ・サイドでターン1に進入した瞬間、フランキッティは左側にいる相手をさらに内側まで押し込んだ。接触を避けるために、佐藤はコース外へ降りようとする。そこに引かれている白線を跨ぐだけならたぶん問題はなかった。だが200mphのスピードでコーナリングしながらグリップの低いそこをまともに踏みしめたリアタイヤは、次の瞬間ドライバーの意思から切り離される。制御は破綻した。2012年5月27日、決して数は多くないであろう日本のインディカー・ファンの悲鳴とともに、佐藤琢磨の乗るレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングの15号車は360回転してセイファー・ウォールへと吸い込まれていった。
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英国F3のチャンピオンとなった佐藤琢磨がエディ・ジョーダンと固い握手を交わし、ジョーダン・ホンダからF1に参戦することが決まったとき、いずれ日本人として初めてグランプリ優勝者になると信じた人は多かった。まだ現在の形でのF2やGP3は存在せず、一方で国際F3000はすっかり有名無実化しており、欧州各国のF3がそれぞれに競争力を誇っていた時代である。その中でもひときわ高水準と目される英国であのアイルトン・セナに並ぶ年間12勝を上げた実績は、そのままF1での成功を約束させるに違いなかった。プライベーターとして一定の存在感を放ち続けているジョーダンというチームも、最初に踏み出す一歩としては適切に思われる。何より、外連味に溢れているがドライバーを見る目もたしかなオーナーに見初められたという契約までの経緯が、輝かしい未来を想像させていた。おぼろげな記憶が正しければ、エディ・ジョーダンはこんな趣旨のことをいったのではなかったか。すなわち、佐藤は実力だけでF1まで辿りついた初めての日本人だと。それまでの日本人ドライバーが、背景にある国家の経済力によってもたらされる資金とF1のシートを紐付けていたのは周知の事実だった。そうしなければならないほどの実績しかなかったのだともいえる。もちろん、佐藤とてメーカーに育てられたドライバーとして支援はあり、完全に手ぶらだったわけではない。ジョーダンは契約の見返りにホンダからエンジン供給料の値引きを得たとされていたはずである。だがその程度の優遇なら他国のドライバーも受けているものだし、まただとしても、佐藤が欧州の下位フォーミュラで限りなく明確な結果を出してF1に至った初めての日本人であるのは事実だった。日本が、エンジンパワーで数々のサーキットを席巻しながら表彰台で国旗を見ることは叶わないモータースポーツ後進国がついに手にした、混じりけのない来歴を持った才能。彼はまぎれもなくそういう存在だった。契約の翌月には、ジョーダンが最高の選択をしたことを証明するかのように、F3世界一決定戦というべきマカオGPまでも制し、自身の経歴に新たな勲章を加えた。さらに驚くべきことに、彼はこのときモータースポーツの世界に足を踏み入れてまだ5年と少しを経ていただけだったのだ。幼少からレーシングカートを乗り回しているドライバーばかりのこの世界では異例に少ない経験とそれに見合わない多数のトロフィーは、まだ見ぬ大きな可能性を夢想させた。準備は完全に整い、疑いを差し挟む余地はどこにもなかった。その後、苦悩と長い回り道が待っているとは、だれも、佐藤自身も想像していなかっただろう。
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「15年に及んだ真実の佐藤琢磨を探す旅が終わりを迎える:2017インディカー・シリーズ第6戦 第101回インディアナポリス500マイル」へのコメント
コメント投稿者ID:dnfmotor | 2017年06月05日 18:04
コメントありがとうございます。わたしも録画を見返しては涙する毎日です(笑)。
琢磨が完璧なレースをしたとききっと完璧な結果が出ると信じていただけに、歓喜と同時に安堵する気持ちも少し浮かびましたね……。過去のあれこれも、すべてはこのためにあったのだと感慨深い思いでいっぱいです。
いまだ興奮冷めやらぬ
コメント投稿者ID:TCE00077864 | 2017年06月04日 22:17
「15年に及んだ真実の佐藤琢磨を探す旅が終わりを迎える:2017インディカー・シリーズ第6戦 第101回インディアナポリス500マイル」へのコメント
コメント投稿者ID:dnfmotor | 2017年06月04日 13:46
コメントありがとうございます。彼をずっと応援してきた人はみな一様に、やまさき様と同じ思いを伝えてくださいます。全員がいつか才能を形にしてくれることを信じて待っていて、時間はかかったかもしれないけれどついにそれを実現した。本当に素晴らしい500マイルでした。
15年に及んだ真実の佐藤琢磨を探す旅が終わりを迎える:2017インディカー・シリーズ第6戦 第101回インディアナポリス500マイル
コメント投稿者ID:TCE00077837 | 2017年06月04日 00:47