所用というのが何なのかはプライバシー自衛のため内緒。それが半日ほどで終わったので、帰途前の二時間ほど、どこでもよかったけど近かったということで足利将軍家ゆかりの等持院を、特急で観光、参拝してきた。いつものスマホで写真を撮ったので貼る。
その前に、ご馳走になった昼食のミニ会席の写真も。
小規模な店だけど、京都というだけで心なしか店構えにも風情を感じる。
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玄関前の案内板。
文字起こししてみた。
拝観案内
方丈
後水尾天皇元和二年福島正則が妙心寺中海福院の方丈として建立せるものを文政元年当寺へ移転再建せしものです。
襖絵もこの当時のもので桃山時代の狩野派の代表作品です。
霊光殿
足利尊氏公及足利歴代将軍等身大木像並に徳川家康の木像を
安置す(江戸時代初期の傑作で近時彫刻史上有名です)
本尊 尊氏公の念持仏 地蔵尊(伝弘法大師作)左右に達磨大師及夢窓国師像を安置す。
庭園
芙蓉池として天龍寺と共に夢窓国師作の三大名園の一つです。
茶室
清漣亭と呼ばれ八代将軍義政公御好みのもので武家床・貴人席は特に珍らしいものです。
尊氏公墓
宝筐院塔で室町時代の代表的形式です。
其の他足利歴代将軍遺髪塔 十三石塔 等持院絵図(重要文化財)歡喜天(藤原時代作秘仏)豊臣秀吉公画像 三代義満公筆等持院額 足利将軍書状等文化財多数あり。
春もみじが鮮やかに紅葉していた。
山門。
受付のある建物。書院って言うんだっけ? 上下二分割で撮ってみた。
妻を正面に向け、小屋根(検索したところ「煙抜き」と言うらしい)を乗せたスタイルは、天竜寺 もそうだった。禅宗の建築様式なのだろうか?
建物内部は撮影禁止だが、庭園はOKらしく、でかいカメラを構えてバチバチ撮ってる参拝客が何人もいた。
書院から眺めた心字池。これも上下二分割で。
山の中みたいだけど、市街地のまん中である。
南側は京都市北区の市街であり、北側には「はてな匿名ダイアリー」(通称「増田」)の読者には「京都のゴミ大学」としてお馴染みの大学本部がある。増田の著者は「ゴミ大学」なんて書いてるけど、実際は関西屈指の名門大学ですのでお間違えなく。
* * *
参拝者用にサンダルが用意してあって、庭園を一周散策できる。心字池の右手に、方丈という建物がある。まあ本殿だ。
左手の小高くなったところにあった茶室。パンフレットによると「清漣亭」という名前がついているそうだ。
中が覗けた。
茶室の前から、方丈を見下ろすようにもう一枚。
方丈の右手の書院。
池の周囲の散策路には、開祖の石像などいろんなものがあった。
これは句碑。読めない。
池には島がいくつも浮かんでいた。「心」どころじゃないな。
緑。ひたすら緑。
緑の切れ目から見えるのは「霊光殿」という建物。先の写真には写せなかったけど、方丈のさらに左側にある。
池を巡りつつ霊光殿に接近。内部は撮影禁止だったので写真はないが、建物のこの張り出した部分に本尊の地蔵尊立像があり、その両側に足利歴代将軍の等身大座像がある。
左側の一番奥に初代将軍尊氏像で、右側の一番奥にはなぜか徳川初代の家康像があった。パンフによると、元は岩清水八幡宮にあったものが、明治の廃仏毀釈の折に移されたとのこと。
なおなぜか5代義量と14代義栄は欠く。また名札には院号が併記されており、等持院というのが尊氏の院号でもあることを初めて知った。さらに3代義満の鹿苑院、8代義政の慈照院は、それぞれ金閣、銀閣の寺号になっていたのだ。これも知らんかった。
さらに言うなら、初代尊氏から3代義満までの木像は、幕末に浪士によって首を刎ねられ賀茂河原に梟首されたという事件があった(足利三代木像梟首事件 - Wikipedia)。私は不謹慎なヤツなので、その傷跡が見えないかと目を凝らしたが、見つからなかった。
* * *
ハナショウブ(かな?)。
足利尊氏墓所。庭園に墓が一基だけあるというのは珍しいかな…と思ったら 岐阜市の崇福寺 の庭には信長、信忠父子の合同墓標があったんだった。
なお檀家のない寺は珍しくないが、ここは檀家もあるらしく、敷地内にはかなり広い墓地があった。墓地には「日本映画の父」と呼ばれるマキノ省三の像も立っていた。
庭園を一周して書院に戻ってきた。
締めのつもりで正面遠景をもう一枚貼ろう。
追記:
そうそう、妙なお土産をもらったので、これも貼ってしまおう。
お好み焼きなんだけど…
包装紙が1936(昭和11)年2月27日の大阪朝日新聞だったり、ポリ袋に昭和レトロな名詞が並んでいたりした。
肝心の味はというと、関西のウスターソースはこんなに酸っぱいのかと思ったり(名古屋のはもっと甘い)、細かくダイスに刻んだコンニャクが入っていたり、入っている野菜はキャベツよりネギの方が存在感あったり、豚バラ肉はたっぷり入れてくれていたり…まあ素朴な味でした。