2ちゃんねるや個人ブログでもそうでしょうか。
波乱万丈な実体験が語られる場では決まって以下のようなやりとりが行われています。
「こんな話事実なはずがない。以前の話と矛盾だらけだし、どうせフィクションなんだろ?」
「フィクションって決めつけてる人は何がしたいの?事実だろうとそうでなかろうと、読み物として面白ければそれでいいと思う」
あなたも一度ぐらいはこのようなやり取りを目にしたことがないでしょうか。
これに関して思うことを書きます。
証明不可能な議題
1つはっきりと言えることは、書き手以外がその話をフィクションであると証明することはできないということです。当たり前ですが。
このことから、フィクションだと決めつける人の発言には正当性がないと言うことができます。ただ、もちろんそんなことは発言している人自身が良く分かっているはず。なのになぜそういった発言をしてしまうのでしょうか?
現実だと認めたくない心理
仮にその話がフィクションであろうとなかろうと、第3者である発言者には全く関係のない話であることを前提とした場合、「フィクションに決まってる」と言う人の心理を僕なりに考えてみました。
1.人生が退屈
毎日毎日代わり映えのしない日々。何か刺激が欲しくて仕方がない。そんな生活を送っていた場合、他の人が波乱万丈で刺激に満ちた生活を送っていることに嫉妬を感じる人もいるかもしれません。
仮にそれが辛い体験の連続だったとしても、退屈と言う苦痛に比べると羨ましく感じる気持ちは少しわかります。
その嫉妬の気持ちの余り、そんな人生あるわけがないと「フィクションに決まってる」と否定してしまうのがまず考えられる理由の1つです。
2.よく読込んでいる
「この話はフィクションだ」と切り捨てる人は、実はしっかりとその話を読込んでいるのだと思います。それ故に話の中の細かい矛盾点に気付いたりして「こんな矛盾点が出るんだから、この話はフィクションだな」とツッコまずにはいられないパターン。
ただ、書き手としては身バレを防ぐために一部フェイクを混ぜている可能性もありますし、そうすると話のどこかで綻びが生じてしまう可能性も出てきます。
それに対してこの話全体が作り話であると決めつけてしまうのは早計な気もします。
3.過去の経験
「釣り」という言葉は未だに廃れることなく使われていますが、今回の話とは逆にフィクションを実話のようにみせかけて書く人が多いこともまた事実。
「実話だと信じて楽しんでいたら実はフィクションで裏切られた気分になった」という経験を繰返していたら、思考停止して最初から全部フィクションだと決めてかかっていた方が裏切られた時の傷が小さくて済みます。
これはある意味必要なスタンスだと思っていて、ネットに転がっている情報なんて嘘か本当か分からないものだらけですから、基本疑ってかかるという考え方は大事です。
ただ、何も考えずに全てフィクションだと切り捨てるのは、何も考えずに全部実話だと思い込むのと同じレベルです。
どちらも頭を使っていないという点では同じですからね。
フィクションだと面白さが半減?
以上、3つの理由を挙げてみました。
ところで、なぜ人は実話であることにこだわるのでしょうか?楽しみにしていた話が実はフィクションだったと知った時にがっかりする気持ちは僕も経験があるので分かるのですが、なぜがっかりするのかと聞かれると上手く説明することができません。
小説はフィクションだという前提で読んでも面白いのに、同じ読み物でもネット上だとどうしてこうも実話であることにこだわってしまうんでしょうね。
おそらく、上で挙げた理由の1つ「人生が退屈」の裏返しで、「世の中こんなに奇特な人生を送っている人もいるのか!」という事実が退屈な人生を送る人への希望になるからだと考えます。
こんな人生を送っている人が実際にいるなら、自分にも何かできるかもしれないという前向きなエネルギーをもらえる気がするんですよね。
さいごに
波乱万丈な体験をしてきて、しかもそれを分かりやすく文章に起こせる人って本当に素敵ですね。
以上!