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過去編⑩
ギュリエの手が駒を掴み、迷うことなく盤上に置きなおす。
「むっ」
そのギュリエの一手に、向かいに座った対戦者が小さく呻いた。
そのまましばしの時間が過ぎる。
「投了だ」
そして、対戦者は駒を動かすことなく投了した。
「いやはや。腕にはそれなりに自信があったのだが、ここまで完膚なきまでに圧倒されると逆に清々しい」
その言葉は悔しさを隠すためではなく本心から言われているようで、対戦者は負けたというのに楽し気な笑みを浮かべている。
対戦者、フォドゥーイは盤面の駒を初期位置に戻そうと手を伸ばした。
「まだやるのか?」
嬉々として対戦を続行しようとするフォドゥーイに、ギュリエはややうんざりしたような声で尋ねる。
サリエルに会いに来たのに、出迎えたのは目の前の老人で、ずっとゲームの対戦相手をさせられている。
「時間なら有り余るほどあるのだから、少しくらい老い先短い老人のために使っても罰は当たるまい」
確かに、龍であるギュリエには時間が有り余るほどある。
フォドゥーイが満足するまで付き合っても、時間を浪費したとは思わない。
龍と人間とでは時間の感じかたがそもそも異なる。
人間の一生分の時間が、龍にとっては一瞬。
人間は時間を有限のものとして見るが、龍は時間を無限のものとして見る。
それこそ本人の言うように、老い先短い残りの時間つきっきりで対戦相手を務めることだってできる。
尤も、老い先短いと言いつつもしぶとく生きながらえそうだと、ギュリエはフォドゥーイを見て思ったが。
ギュリエは諦めてフォドゥーイの相手を継続することにした。
二人が対戦しているのは古くからあるボードゲームだ。
地球で言うところのチェスや将棋に近い。
ただ、それらに比べて駒の種類が多く、盤面も広いためより複雑だという違いがある。
そのため、一戦するのに長い時間がかかる。
プロの勝負は五日間にわたって行われるほどだ。
その勝負も、これで十七戦目となる。
もちろん、そんな回数一日で終わるわけがない。
ギュリエは数日間にわたってサリエルへの面会を求め、その度にフォドゥーイと対戦しているのだ。
フォドゥーイの目的は明白。
ギュリエとサリエルを会わせないようにしている。
ここまであからさまならば誰だってその目的には気づくというものだ。
そしてギュリエはそれがわかっていても、目の前の老人の思惑に乗るしかない。
今までしてきたことがしてきたことだ。
こちらの誠意を見せなければ、フォドゥーイの信用は得られない。
会おうと思えばサリエルに会うことはできる。
フォドゥーイがいくら妨害しようとも、龍であるギュリエを止める手段はない。
しかし、それでは駄目なのだ。
ギュリエは目の前の老人に認められなければならない。
龍としてではなく、同じ目線の人として。
同じ土俵でこの老人を納得させねば、サリエルと同じものを見る資格はきっとない。
ギュリエはそう思っている。
「むっ」
ゲームではすでに完膚なきまでに圧勝しているのだが。
「待ったはなしだぞ?」
「待ったなど邪道。人生において待ったが通用する場面など少ない。だからこそ人間は間違えることを恐れるのだよ」
言われてみれば、フォドゥーイは一度も待ったをかけたことがなかったことを思い出す。
「しかし、人間は間違える。どうしても間違いは起こる。その間違いを積み重ね、新たな間違いを起こさぬようにルールを定め、少しでも間違いを少なくしてきた。人間の歴史とはすなわち間違いの歴史だ。そしてその歴史を教訓にして今がある。それでも間違いはなくならないがね」
言葉を重ねながら、フォドゥーイが駒を動かす。
すぐさまギュリエが駒を動かし、再びフォドゥーイに順番が回ってくる。
しかし、フォドゥーイは長考に入り、しばらくの間手が止まった。
「そして私もまた無駄に敗北を重ねたわけではない。敗北し、失敗し、その度にそれを教訓としてきた。その教訓を生かし、この一手を打とう!」
フォドゥーイが高らかに宣言し、駒を動かす。
それに対してギュリエは、間髪入れずにその一手を封じるように自軍の駒を動かした。
「……いかに間違いをなくそうとも、それが最善へとつながるわけではない。これはそのいい例だな」
「物は言いようだな」
十七戦もしてわかったことだが、フォドゥーイという男はとにかく口がよく回る。
どうでもいい雑談から、ギュリエをうならせるような含蓄まで、幅広くゲームの最中に語っている。
「言語こそ人間最大の発明とも言われますしな。人間の歴史とはすなわち屁理屈をこねくり回してきた時間でもあるわけだ」
「いや、それはおかしい」
このように本気か冗談か判別しにくいことを言い始めるため、煙に巻かれることも少なくない。
「なにもおかしいことなどないとも。龍という絶対者がいるせいで、我ら人間は武力に頼るということをしてこなかった。最後に物を言うのは武力だが、そこに至るまでの口での勝負こそが肝心だったのだよ。理屈をこねくり回し、いかにして相手を言いくるめるか。そんなことばかりしていたからこうして口が悪くなってしまったのさ」
「自分の口の悪さを歴史のせいにするな。あと、さりげなく我ら龍のせいにもしないでもらいたい」
うんざりした顔のギュリエとは対照的に、フォドゥーイは愉快そうに笑う。
「まったく。その減らず口には恐れ入る」
「こればっかりは負ける気がしませんな」
皮肉のつもりで言った言葉も軽く受け流され、フォドゥーイはむしろ得意げな顔で駒を動かした。
ギュリエはすぐに駒を動かし、その得意げな顔を引っ込めさせる。
「ゲームでは負ける気はせんが、口では貴様に勝てる気がせん」
「でしょうな。やはり人間と龍では思考の回転速度が違う。おそらく私が何回挑もうと、あなたにゲームで勝つことは不可能。不思議なものだ。同じ頭を使う分野だというのに、ゲームでは私に勝ち目はなく、口論では私は負ける気がしない。単純な計算能力では龍のほうが優れているが、小狡さという点では人間のほうが勝るということかな?」
フォドゥーイは盤面を睨みながら、それでもどこか愉快そうにしている。
「龍が偉大であることは疑いようがない。しかし、どれだけ龍が偉大であろうと、他の生物よりも劣る部分がないわけがない。龍には人間のような小狡さがない。それがなくとも強いからだ。人間のようになりふり構わず卑怯な手を使わずとも、正々堂々と立ち向かうだけで大抵の相手には勝利をもぎ取ってしまう。だから小狡くなる必要がなかった。しかし、それこそが龍の怠慢。下等と侮るから人間の卑劣さに足元をすくわれる。そう、今私の目の前に、私の口車に乗せられて自ら人間の土俵に合わせて苦戦している龍がいるようにね」
さも愉快そうにフォドゥーイが語る。
盤面では勝利しているというのに、ギュリエはフォドゥーイの言葉にどうしようもない敗北感を味わわされる。
全て目の前の、龍の視点で見れば取るに足らない脆弱な老人の手のひらの上で踊らされているかのようで。
そしてそれは限りなく正しいのだと、客観的に見て判断する。
龍である自分が、人間という下等生物にいいようにあしらわれている。
「人間は卑怯だ。そして龍が思う以上に愚かだ。歴史の中で間違いを積み重ね、それを学んできているにもかかわらず、なお間違える。間違っても間違っても間違える。しかも質の悪いことに間違えるたびに狡賢くなるものだから、間違えた時の被害がより大きくなっていく。被害を小さくするための教訓なのにな。おかしなものだ」
手のひらの上で転がされながら、それでもギュリエが人間の目線でフォドゥーイと向き合おうと思うのは、これが一種の試験だからだ。
サリエルと向き合うための、その通過試験。
「あなたは龍でありながら、人間の視点というものを学んだ。おそらくそれでも真に人間のことを理解したとは言い難い。先ほども言ったように人間というものは龍が思うよりもずっと愚かだ。その愚かしさに、サリエル様はずっと向き合ってきた」
フォドゥーイが駒を動かす。
ギュリエはフォドゥーイが駒から手を離すか離さないかというところで、自分の駒を動かした。
「投了だ」
フォドゥーイが晴れやかな表情で自身の敗北を認める。
「神と人。その両方の視点を持つあなたであれば、サリエル様に変化をもたらすことができるかもしれない。人間ではもはや駄目なのだ。かといって神ではいけない。神でありながら、人を理解できる存在でなければ」
それは、敗北者が勝者に送る最大限のアドバイス。
そして願い。
「どうか、サリエル様をよろしくお願いします」
ギュリエは老人の真摯な願いに肯定も否定も返さなかった。
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