♪Ah とても伝えたがるけど 心に勝てない
(CHAGE&ASKA「SAY YES」)


いい歌詞だねぇ。本当その通り。

僕は言葉で愛を交わせるとは全く思ってない。
じゃあ身体目当てなのね?とすぐ世の女性は言うが、違うって。
それは「子供を作るキカイ」で述べた通り。


突然だが、実を言うと、僕は『耳をすませば』が大嫌いだ。
もちろん宮﨑御大は僕の「心の師」。彼の作品はそれ以外全部好きだ。ジブリ作品はもとより、美術館の短編も、若い頃のTVシリーズの絵コンテ演出作品まで、全部好きだ。
しかし、『耳をすませば』だけは駄目だ。

封切当時、劇場で大激怒したのを覚えている(当時21歳)。
これが恋愛映画だぁ?ふざけるな!
原作本もちゃんと予習して行っただけに、怒りはひとしおだった。

セリフがことごとく、白々しいのだ。
これは監督の近藤さんの責任ではない、間違いなく脚本・コンテの宮﨑駿のせいだ。


僕は当時の宮﨑駿は「スランプ」だったと考える。
『ナウシカ』の原作を終わらせ、思想的にもメンタル的にも混乱が生じ始める。
やはり大きかったのがソビエトの崩壊だろう。社会主義がその骨子を失った瞬間だ。
その後の『紅の豚』あたりから、オチの無理矢理感が目立ち始める。
なんかみんな色々抱えているけど、とりあえずハッピー!ハッピーエンド!最高!としなきゃ気が済まないような、そんな強迫観念が見え隠れするのだ。
(それは『魔女の宅急便』からでは?という意見が出てきそうだが、ひとまず置いておく)
この間、宮﨑さんは自分に嘘を吐いていたのだと思う。アニメはこうでなければ、というポリシーと、『ナウシカ』で辿りついた、ある種の諦観と、自分の中で激しい葛藤があったのだと思う。

それを、もうええわい!どうにでもなれ!知るか!とやけっぱちになったのが『もののけ姫』。
宮﨑さんはある意味「壊れ」、その代わり宿便を出したかのようにスッキリして、何もかもから自由になった心境で、『千と千尋の神隠し』に至る。

そこからの宮﨑さんはもう天衣無縫で御意見無用、なんでもありのある種これも「ポストモダン」じゃないの?という自由さでアニメを作り続けることになる。
そこからの彼の作品は、僕からしてみても正直訳が解らない。でも、いいのだ。
『ハウル』などは劇場でウーン、となって、観返すことをしなかったのだが、その後日テレでやってたのを偶然観て、やっぱりいい!と夢中になった。

恋愛描写にしても、宮﨑さんはその後『風立ちぬ』で、しっかりと汚名返上するのだから、いいのだ。


まぁ「宮﨑駿」論はこれ以上は控えよう。
『耳をすませば』だ。

あれを大好き!キュンキュンする!という人間には、軽く引く。
少女漫画的感性を加味しても、あれはない。

何度も言うが、言葉にひとつひとつ、言動のひとつひとつが、空々しい。

雫の自意識過剰っぷりがもの凄い。
聖司に思いを寄せ、その生きざまに感化され、なぜか物語を書き始め、なんか思いつめたように徹夜して、なぜか聖司のジジィに読ませ、労いの言葉をかけられて感極まって泣き出して、しまいに、「私、自分を磨くために高校へ行きます!」

これ、何かの宗教団体の自己啓発映画か?
「聖〇新聞」のCMを観ているようだ。
ああ、それだ、その雰囲気が充満しているのだ。

そう言えば「聖〇新聞」のキャッチコピーも「言葉と、生きていく」だな。

しまいには聖司もムラムラ盛ってきて、雫連れ出して高台のぼって、最後に「結婚しよう!」だぁ!?お前にそんな責任が持てるのか!?
甲斐性があるのか!?

なんか盛ってるだけの中学生男女が、なけなしのボキャブラリーで自分の性欲を美化しようと必死な感じ。
そういうリアリティもあるのかも知れないが、詩的ではない。

ああそうだ、『耳をすませば』の根底にあるムラムラした劣情をみんな認めず、ひたすら少女漫画的に美化するのが嫌なんだな。
僕はあの作品には、宮﨑駿の(当時の)ダークサイドを見て取ってしまい、気分が良くない。
まぁその分史料価値はあるのだろうが・・・。


まぁこの作品に限らず、僕は言葉で恋愛が語れるとは思っていない。
そう思っている人間程、ちゃんと恋愛しているようには見えない。
恋愛をテクニックとして消費しているだけにしか見えない。

恋愛はテクニックじゃありません。美辞麗句で簡単に引っかけたり、引っかかったり、そういうもので満足しているのは、違うと思う。