来週末、友人の結婚式に参列予定です。
せっかくなので、この機会に結婚式のマナーに関する記事を書いてみようかと考えたのですが、ネットを検索すれば同じような情報が溢れかえっているので、書きたいという気持ちになれませんでした。
普段から、読んでも役に立つことが少ない、備忘録代わりの記事を書くことがが多いブログなもので。
そんなわけで、今回も実用性とは程遠い、古代エジプト・ギリシア・イスラエルの結婚と結婚式のとマナーについて書いてみます。
古代エジプトの結婚
結婚式の記録がない
『古代エジプト』という本を書いたI・J・G・ウィルキンソンは、著書の中でエジプトの結婚式について触れています。
エジプトから出土される紀元前の遺物には、結婚について描かれた壁画が一切なく、婚姻の契約書も全く見つかっていないそうです。
当時のエジプト人女性は、自由に街を歩き、夫と一緒に宴会に参加していました。
同じ時代に、妻は家の中にいるのが常とされていた、ギリシアとは正反対の風習です。
試験結婚
紀元前のエジプトでは、1夫1婦の関係が普通でしたが、1夫多妻も黙認されていました。
また、当時は恋愛結婚はなく、お試し結婚が一般的でした。
これは、まずは結婚しようとする男女が1年間同棲してみて、夫が気に入らなければ妻を追い出すことができるという結婚スタイルでした。
こうした風習は各国にあり、人口を増やすための手段として導入されていたと考えられています。
女性の権利
紀元前100年頃のローマの歴史家・ディオドルスは、著書の中でエジプトの結婚について触れています。
著書によると、当時のエジプト人女性は、結婚によって他のどの国の女性よりも大きな特権を持てるようになり、夫を支配していたそうです。
クレオパトラ女王のように、エジプトでは女性が王位を継ぐ事がありました。
これは、当時のギリシアやローマではありえなかったことです。
古代エジプトで暮らす女性は、男性と対等な結婚生活を送っていたと考えていい気がします。
近親結婚
古代エジプトでは、王家の一族は兄弟姉妹での結婚が認められていました。
クレオパトラも、父であるプトレマイオス13世が亡くなった際、遺言に従って弟のプトレマイオス14世と結婚しました。
当時のクレオパトラは17歳。
弟のプトレマイオス14世は9歳でした。
こうした近親者同士が結婚する風習は、他の国でもありましたが、その場合は母親が異なる場合に限られていました。
エジプトだけは特別で、近親結婚が認められていた国でした。
女性の権利や自由が認められていた理由
古代エジプトで、これほど女性の権利や自由が認められていた理由を考えてみました。
ヘロドトスが書いた書物の中に、そのヒントがある気がします。
ヘロドトスの著書の中には、両親の扶養義務について触れた部分があります。
エジプトでは、息子が両親を扶養したくないと言えば、それでも良いとされていました。
反対に、娘には両親の扶養義務を拒否する権利はなく、当然の義務として考えられていました。
こうしたことから、両親は娘のことを大切に接していたと思われます。
自然と、女性の権利や自由は認めらる社会になっていったのではないでしょうか。
また、ラムプシニトス王の時代に、王宮の財産が何度も盗まれる事件がありました。
困り果てたラムプシニトス王は、王女の1人をスパイとして娼家に送り込みます。
王女は男と相手をする度に、今までにやったことのある悪事を聞き出します。
ある日、王女は王宮の財宝を盗みに忍び込んだことを自慢する男の相手をします。
王女はその男の特徴をラムプシニトス王に報告し、一味を全員捕まえることに成功しました。
当時のエジプト人女性は、王族も庶民も勇敢で行動力に溢れていた人が多かったのも、女性の権利や自由が認められていた理由なのかもしれません。
古代ギリシアの結婚
結婚とお金
ギリシアの吟遊詩人・ホメロスが書いたとされる作品の中に、男性が妻をめとるために、女性の父親にお金を払う習慣があったことが記載されています。
女性が15歳くらいになると、父親が結婚にふさわしい相手を探し始めます。
古代ギリシアでは、恋愛結婚が認められることは一切なく、地位や財力のつり合った相手を探して結婚するのが一般的でした。
結婚式より重要な、婚約式
男性の場合は、30歳から35歳程度が結婚適齢期と考えられていました。
女性の場合は、15歳から20歳くらいが適齢期とされていました。
結婚適齢期の男女には、まず縁談が持ち込まれます。
縁談は、男性の家ではまず父親に持ち込まれました。
女性の家の場合も同じく、父親のもとに話が持ち込まれ、本人に相談することなく、父親がどんどん話を進めていきます。
話がまとまると、証人の前で両家の親もしくは代理人同士によって婚約が結ばれました。
ギリシアにおいては、結婚では婚約が最も重要なものと考えられていました。
婚約式が行われない結婚は、無効とされていました。
結婚式が終わるまで、誰も新婦の顔を見てはいけない
婚約式の後に行われる結婚式は、「花嫁を家に連れ帰る儀式」と言われていました。
結婚式では、頭に花輪を乗せた新郎が、付添人や親族と共に花嫁の家を訪れます。
新郎の一行が家を訪れたら、女性たちは椅子に座ることなく、男性から離れて座らなければなりませんでした。
そして新婦は、結婚式の間終始ヴェールを身にまとい、誰一人として顔を見ることは許されませんでした。
新郎も、結婚式の間は新婦の顔を見ることができませんでした。
新郎が新婦の顔を見ることができるのは、翌日になってからです。
ヴェールは、翌日まで取ってはいけないとされていました。
女性は家庭で過ごすもの
古代ギリシアでは、女性は自由に外出することはできませんでした。
食料品や日用品を買いに行くのは男性の仕事で、裕福な男性の場合は奴隷を2人連れて市場へ出かけ、1人は知人との連絡役になり、もう1人は買ったものを自宅に運ぶ荷物運びの役割を担っていました。
奴隷を雇えない人は、市場で臨時の配達人を雇いました。
ギリシアでは、奴隷を連れた男性が買い物に行き、女性は家で待つものとされていました。
家庭以外の社会を知る機会が極端に少なかった女性の中には、結婚してからうまく家庭を築く人も多かったかもしれません。
でも反対に、夫や家族に当たり散らす女性も多かったようです。
哲学者ソクラテスの妻・クサンティッペは、悪妻の代名詞のように言われています。
当時の女性は、教育を受けられる機会がほとんどなく、家庭という狭い世界で過ごさなければならなかったので、気分転換に夫や家族に八つ当たりしたり、大酒を飲む女性も多くいました。
古代イスラエルの結婚
結婚しないのは恥ずかしいこと
聖書が書かれた時代の古代イスラエルでは、子孫を残すことなく生きることは恥だと考えられていました。
息子がいる家庭では、父親が息子の結婚相手を選ぶ風習がありました。
聖書の創世記には、アブラハムが息子イサクの妻を選ぶ際、イサクには一切相談しなかったことが書かれています。
もしも息子が自分で結婚相手を見つけた際は、父母に相談することとされていました。
女性が自分の好きな相手と結婚するのは難しかったようで、父親や兄弟達の意見を尊重しなければなりませんでした。
お金がなければ、男性は女性の家で働かなければならない
当時のイスラエルでは、男性は結婚する際、能力や収入に応じて女性の父親に金銭を支払っていました。
支払うお金がなかった場合は、女性の家で働くことがありました。
聖書でも、ヤコブは伯父の娘と結婚するために、7年間伯父の家で働いたという逸話があります。
婚約期間と不貞
古代イスラエルでは、婚約してから約1年程の期間を空けて、正式に結婚していました。
その間、もしも女性が他の男性と不貞をはたらいた場合は、見せしめとして広場で石を投げつけられ、殺されてしまいました。
男性が不貞を働いた場合は、特にお咎めを受けることはなかったようです。
結婚式は、男女別々に過ごすもの
花嫁と花婿を、親族や友人たちが集まって祝う風習は、庶民の間に徐々に広がっていきます。
結婚を祝う宴は、7日間ほど続くこともありました。
その間、花嫁と花婿は別々に過ごします。
花嫁は、女性の友人たちと一緒に宴を楽しみ、花婿は、花嫁の実家の部屋で男性の友人たちと過ごしていました。
これは、当時若い男女が同じ部屋で食卓を囲むということが、正式な風習として認められていなかったためです。
古代エジプト、ギリシア、イスラエルの結婚
紀元前8世紀から紀元前1世紀頃までの、エジプト・ギリシア・イスラエルそれぞれの国の結婚や結婚式について書いてみました。
3つの国の結婚式の違いを読み比べた上で、当時の結婚式の主役は、一体誰だったのか考えてみました。
現在は、新郎新婦が主役とされており、特にウエディングドレス姿の新婦が注目を浴びる場合が多いと思います。
結婚式の準備に関しても、新婦の好みや要望に応じて進められる場合が多くあります。
紀元前の時代は、新婦に選択権はほとんどなく、新郎もしくは親の意見で結婚の話が進んでいきました。
紀元前のエジプト・ギリシア・イスラエルで生活していた女性が、現代の結婚や結婚式を目の当りにしたら、一体どんな感想を持つのか気になります。
参考文献
ユダヤ古代誌〈1〉旧約時代篇(1−4巻) (ちくま学芸文庫)