市街地蜂の巣にして奪った基地 岩国市民が語る戦争の記憶 残虐極まる米軍の空襲 2014年9月5日付 |
戦後69年目を迎えるなかで、米軍による支配が一貫して続けられてきた岩国では「あの戦争はなんだったのか」「私たちが体験してきたことを語らなければならない」と市民のなかで強い思いが語られている。戦前、戦中、戦後にいたる基地に占領されてきた筆舌に尽くしがたい体験とともに、目の前の米軍基地が最新鋭の設備に更新され、大増強が進められるなかで、「また岩国から戦争にいくつもりか!」「今後何十年居座るつもりなのか」と、怒りがうっ積している。沖縄県辺野古での基地建設が大きくとり上げられるなかで、岩国は先だって大増強がゴリ押しされ、極東最大の出撃基地として街が変貌しようとしている。本紙は、岩国市民が戦前、戦中、戦後とどのような体験をしてきたのか、基地の街の歴史やその斗争、現在の状況について複数回にわたって特集していくことにした。 海軍航空隊に接収された川下 現在広大な米軍基地が置かれている川下地区は、戦中に海軍航空隊に土地を接収され、もともと日本軍の飛行場として利用されていた。1938(昭和13)年、国家総動員法が制定された年の4月、日本海軍が農民を武道館に集め「軍人は赤紙で召集されている。農民は白紙を出せ」と命令。宅地1万3200平方b、耕地12万1770平方bを二束三文でとり上げていった。 1940(昭和15)年に岩国海軍航空隊が発足し、翌年2月には偵察練習生教育隊が配置され、太平洋戦争が開戦した後の1943(昭和18)年11月には海軍兵学校岩国分校が開校した。兵員が増えるのに伴って川下小学校や周囲の寺などに兵隊が寝泊まりするようになり、飛行場では旧制岩国中学の動員学徒たちが、土運びや戦斗機のためコの字型の掩体壕作りに追われた。 車町に住む男性は、自身の家が当時車開作といわれていた場所(現在の米軍基地内の旧管制塔のあたり)にあり、半農半漁の生活を営み、自作・小作含めて一町と少しほどの田んぼで米をつくっていたことを語った。 「昭和13年、突如海軍航空隊の基地にするということで有無をいわさず土地をとられ、家を移転させられた。大人たちは“涙金”といっていたが、本当に二束三文だったと思う。田んぼをとられて百姓ができなくなり、父親は帝人で働かざるを得なくなった。私たちは第一次だったが、第二次、第三次と移転を命じられた。この中には昭和17年の台風によって被害をこうむったうえ、さらに昭和20年8月9日の空襲によって被害を受けた者もいた」「台風で土手が切れたおかげで、海軍航空隊の基地はさらに大きくなった。中津開作といわれていた地域からは、たくさんの人が楠の方に移住した。社(お宮)も基地の中にあったが移転させられ、今の踏切のところに来るまで数回の移転をくり返した。川下地域の住民の苦労は口ではいい表せないものだ」と語った。 海軍航空隊は昭和14年ぐらいから飛行場を使い始め、当初は“赤とんぼ”と呼ばれた練習機が飛んでいた。その後、日米開戦へと進む過程で零戦や一式陸攻といわれる爆撃機が持ってこられたことや、そのころは特高警察や憲兵が町を闊歩しており、統制を強めていた。現在、川下供用会館がある場所に憲兵隊の分所があり、馬に乗ってサーベルを下げた憲兵が待機していた。反国家的なことが少しでもあれば容赦せず、バスを待っていた乗客が独り言で「飛行機がやかましいのう…」といっただけで憲兵に絞られた話など、当時の様子を話した。 さらに海軍航空隊の基地について「現在の滑走路とは違い、海から山へ向けて滑走路をつくっていた。さらに今の正門のあたりから幼稚園のあたりまで、滑走路のまわりに誘導路を建設した。その中に私の家もあったが、“国民はお国のために死ぬべきだ”ということでやられた。私の家の裏50bぐらいに掩体壕(戦斗機を爆撃から守るため、土やコンクリを盛ったもの)がつくられ、張りぼてのわらでつくったような戦斗機が置かれた。“もしこれが爆撃されれば家はひとたまりもない”と思った。そのようなところが何カ所もあった」と語った。 航空隊は食べ物がなかったようで、全国から徴兵されて来た40代前後の兵隊が多く、民家に「食べ物はないか」と無心に来ていたことも忘れられない、軍人としては年配になる彼らは訓練についていけず、息子ぐらいの年齢の下士官が殴りかかっている光景をよく見かけたといった。 また自身は関戸、多田付近にあった飛行場へ学徒動員でかり出され、山の木を切って滑走路を隠す作業をしていたことを話し、「川下から多田の方まで歩いて行っていたが、その途中で艦載機の機銃掃射を受け逃げまどった。艦載機は“動く者はすべて殺せ”とばかりに攻撃してきた」「愛宕山の地下工場の入り口のところに泥を盛る作業もおこなった。当時岩国は呉海軍航空廠の支廠であり、“雷電”という飛行機(アブのような翼の短い飛行機)などをつくっていた。門前川にかかるベース専用の橋は昔“航空橋”と呼ばれ、飛行機を運ぶ橋だった。川を渡った門前側(現在の米軍住宅があるあたり)に戦斗機の工場があった。さらに国道を越えて愛宕山へ道路がつながっていた」と様子を語った。 南岩国に住む高齢の男性は、戦時中、愛宕山に秘密地下工場があり、戦斗機を製造していたことを語った。「私の家の近くにも地下工場につながる三本の入り口があり、(もう一本は建設中だった)現在の南岩国バイパスの下を突っきり、反対側へトンネルが続いていた。緑ヶ丘住宅の側にはもう一つ違うトンネルが掘られ、さらに尾津の方へもトンネルが貫通。大きなトンネルの間には無数の通路が阿弥陀くじのように張り巡らされていた。平田側のトンネル入り口付近の家は強制的に軍の事務所としてとられ、代わりの家があてがわれた。近くの田畑は運び出された土砂で埋められ、またたく間に愛宕山の地下に工場がつくられていった。相当な突貫工事であり、掘った先からコンクリートで固め、奥を掘り進める作業と並行して旋盤やドリルなどの機械を運び込み、製造を始めていた。トンネルの外にはアーチ型の鉄筋コンクリート製の戦斗機の組み立て工場が建設された。朝鮮からたくさんの人が来ていたことは覚えている」と話した。 海軍航空隊の飛行場からは、使えなくなった飛行機などが橋を通って運ばれ、平田の道路沿いに並べられていた。現在南岩国駅から平田に抜ける道路があるが、これは航空隊が飛行機を運ぶために有無をいわさずつくったものだった。たくさんの田畑がつぶされたが、「お国のために」で問答無用だった。 愛宕山の地下工場は、第11海軍航空廠岩国支廠の地下飛行機工場として建設された。海軍が極秘に建設をすすめたといわれ、終戦の年にあたる1945年1月に着工されたとされている。その年の5月5日、呉市の第11航空廠が大爆撃を受けたことで、呉本廠の施設をそっくりそのまま地下に移す計画が進められた。6月1日には5000人の工員と数百d(300台以上)の工作機械が移され、血みどろの建設・生産を開始。地下工場は3区にわかれ、第1区が翼工場、第2区が胴体工場、第3区が機械部品加工工場となっていた。戦斗機「紫電改」を生産するとされていたが、結局1機も完成することはなかった。終戦後もほとんどの岩国市民がこのような秘密施設が愛宕山の地下に残されていることを知らないほどだったといわれている。戦後は占領軍に接収され、占領軍の了解を受けて工作機械などを山口県当局が取り外した。呉と連動した軍事拠点として岩国が利用されていることは昔も今も変わっていない。 1945年7月27日には岩国支廠が空襲を受けたものの、死者はなかった。当時、戦場をくぐった経験を持つある従業員は「敵機は占領後のことも考えて大事なところは壊さなかった。復旧の簡単なところは爆撃した。脅しだった」と語った。 門前に住む住民の一人は「戦斗機の地下工場とは別のトンネルが現在の百合ヶ丘団地の下や谷を隔てた反対側の丘陵につくられていた。無数に入り口があったが、戦後ほとんどがつぶされた」と語った。「当時私たちは子どもだったから離れたところから様子を見ていた。入り口はコンクリートで固められていて、入り口付近には台車に乗せられた魚雷のようなものがあった。他にも一人乗りの水雷艇のようなものもつくっていた。また近くの丘をけずって訓練用の射撃場をつくり、200bほど先から射撃訓練をおこなっていた」と語った。そして「私らは南岩国の方に飛行機をつくっていた壕があったことを最近知った。米軍住宅や野球場を今建設しようとしているが、その下にも壕があるのではないか」といった。米軍基地では地下施設の建設が異様な活況を呈しているが、米軍住宅として利用される愛宕山にも日本軍が利用していた無数の地下壕が存在し、核シェルターなどで再開発しかねないことへの懸念も高まっている。 戦中の帝人は完全な軍需工場で、そこでは学徒動員で連れて来られた子どもたちが多く働いていた。80代の婦人は岩国小学校高等科1年のときに、飛行機のパイプを扱う製造ラインで働いていたという。当時13歳で工場内には同年代の子どもたちが多くいた。 昭和20年8月14日、終戦の前日にB29の大群が押し寄せ、岩国の市街地に大量の爆弾を投下していった。「岩国大空襲の時は防空壕に入ることもできず、工場内にふせて空襲が終わるのを待った。爆弾が落ちるたびに体が大きくゆすられるような、上下に飛び上がる状況で恐怖におののいた。空襲が終わると生徒は集められ、各自家に帰ることになった。街は無残な状況で、大きな爆弾穴のあちこちに遺体や馬の死骸が散乱していた。死んだ馬の傍らではらわたが出て腸が顔にかぶさっている人夫の人も見た。死んだ母の背中に帯でくくられていた赤ん坊も見た。防空頭巾につつまれた顔が反対を向いていた男の首もあった。海岸には数多くの遺体が酷い姿で並べられていた。地獄だった。自宅に帰ると方方を捜しあぐねた父(消防団員)が泣いて喜んでくれた」と話した。 駅前で空襲を体験した人人は「15坪ほどの家に250`爆弾が9発命中しており、家にいた父も長姉もその子どもも跡形もなく散華していた」「東小学校の近くで母親らしき人が小学校3、4年生くらいの男の子を抱いてふらふら歩いているのでよく見ると、子どもの腸がぶら下がり地面を引きずっていた。母親はもう涙も出なかったのだろう」「姉は直撃弾を受けて顔もわからない状態で、子どもを身ごもった体の半分も吹き飛ばされ、一緒に逃げた人と共に死んでいた。しかし、そのときは姉とわからず、貯金通帳の入った袋を身につけていたことから2日後になってやっと姉と確認することができた」 「叔父の家が駅前のロータリーのあたりにあり、叔父の家族4人(母、妻、子ども2人)は家の下に掘った防空壕に避難していたが、直撃で押しつぶされて死んでいた。駅前はどこも穴だらけで水が溜まり、ブクブクと泡が出ているところには人間が埋まっていた。その穴の中で汚れたカボチャが浮いていると思ったら人間の頭だったり、助けてくれと手を出しているので引っ張ると手がスポッともげたりした。亡くなった人の遺体は、ポンプで洗って市役所の近くに山積みにされ、油をかけて次次と焼いていた」と当時の様子を語っている。 岩国市内だけでなく、小さな離島でも空襲を受け多くの被害が出た。 黒島では小学生が逃げ込んだ防空壕に爆弾が直撃して壕にいた全員が生き埋めとなった。黒島は民家がわずか20軒ほどの小さな島で、島民はみな半農半漁で生計を立てていた。1945年7月24日の朝、空襲警報が解除になり、家に戻っていた児童はみな学校に戻り、5年生以上は山に松根油をとりにいった。そこに突然グラマンの編隊が飛んできた。通学路には出入り口が二つあり「安全」といわれていた防空壕があった。学校に残っていた4年生以下の児童16人中13人がそこに逃げ込んだ。 現在、4年生以下で唯一の生き残りである男性は「私と妹と親戚の女の子は家の近くにある防空壕に逃げ込んだから助かった。防空壕に飛び込んだとたんに外で爆弾が破裂し、壕の奥に吹き飛ばされた。“安全”といわれていた壕に逃げ込んだ子どもは、爆発で両方の入り口が塞がれてみんな死んでしまった。父親が畑から帰ってくるときに、その壕の前を通ると入り口が塞がれていて中から泣き声が聞こえたといっていた。島にいた大人たちみんなで助けようと壕を掘ったが、若者はみんな兵隊にとられて残されているのは老人と子ども、女ばかり。作業中にも何度もグラマンが飛んできて、そのたびに山に逃げ込まなくてはいけなかった。一番最初の子どもが掘り出されたころにはもう夕方になっていて、みんな窒息死していたという。死体は学校の教室に並べられ、こっそり見に行くと友だちがマグロのように並べられていた。次の日に畑に長く穴を掘って死体を一列に並べ、そこで一緒に焼いたと聞いた」と話した。 24日の空襲で18人が亡くなり、2日後に再びおこなわれた空襲で、1歳の子どもが亡くなった。「2日後の空襲のときには、防空壕は危険だということでみんな山に逃げ込んだが、逃げている途中爆弾の破片がお母さんの背中に背負われていた赤ちゃんに当たって死んでしまった。島の中で誰一人家族が死んでいないのは私の家くらいだった」という。戦後は島を出たが、慰霊祭のときには島に戻って参列した。しかし遺族から、子どもを連れて島に戻った自分を見て「私の子どもも生きていたらこれくらいの孫がいたはずだ」といわれるのが辛かったことを涙をこらえて語った。黒島の空襲の資料はほとんどなく、「なぜ、軍事施設もない小さな島が爆撃されたのか、大勢の子どもたちが殺されなければならなかったのか未だに疑問だ。戦争だけは二度とくり返してはならない。今戦争になれば前の大戦どころではない被害が出る」と話した。 終戦前日の大空襲は、占領軍がその後基地として奪っていくために、恐怖心を植え付け、市民を脅しつけるためのものだった。海軍航空隊が利用していた基地、すなわち目星をつけていた土地には一発も爆弾が落とされず、市街地の民間人めがけて皆殺しを目的にして投下された。終戦を迎えると、岩国にはインド・オーストラリア軍があらわれ、オーストラリア軍の工作部隊が基地施設の建設にあたり、そこに米軍があらわれて占領していった。そして終戦から五年後の朝鮮戦争では出撃基地として利用され、ベトナム戦争、湾岸戦争などにも岩国の海兵隊は殴り込み部隊として飛び立っていった。 海軍航空隊や米軍基地につながる戦中・戦後の資料は、岩国ではほとんど残されていないのが大きな特徴となっている。とりわけ昭和20年の資料について、何者かが証拠隠滅をはかったのかと思うほど何も残されておらず体験者の個個人の記憶をたどるしかないのが実情だ。岩国空襲の記憶を後世に伝え、米軍がいかにして岩国を略奪していったか、戦後69年もの間米軍は何をしてきたのか、市民の体験をもとに継承することが求められている。 |