例え如何に荘厳なる解脱の道を申しましても、それを本当に聴き、本当に現実に「行なう」良心がなかったならば、結局無駄な時間を費やすことになります。それには自分の犯した罪悪の一切を心の底から、懺悔し、又誤った自分の短所欠点を進んで大いに反省すべきであります。懺悔も反省もなくして、唯漫然と解脱の話を聴くことは単に話を聴き流すことで、実に無意義なことであります。
このところ私は、この「懺悔」「反省」についてあまり強調してこなかったように思いますが、信仰の出発点はあくまで「懺悔」「反省」にあります。
特に最近、入会されて間もない方には、「懺悔」「自己反省」「自我没却」などという言葉を聞くと、いかにも古くさい、堅苦しいように思われるかも知れませんが、そうではありません。また、長く学ばれている会員の皆様も、この「懺悔」「反省」がいつしかお唱えするだけの文言になってしまい、真心のこもった真の懺悔・反省ができていない向きがあるかもしれません。
この懺悔、自己反省、自我没却こそが、人生の真の歓び、幸せへと至る最短の道といっても過言ではないのです。
道祖は、悩み、苦しみを訴える人々に対して、次のようなお言葉をもってご指導されたことがありました。
神仏は、あらゆる者を愛されているのだよ。人が病気・貧困・争いなどの三重苦に悩まされるのも、神の尊いお計らいなんだよ。何か人として間違ったことをすれば、必ず苦悩をいただくから、その原因を一時も早く反省して、おわびをすれば、必ず苦しみをお許しいただくことができるんだよ。
(『金剛さまの思い出』より)
道祖の会員に対する深い慈愛に満ちた想いがうかがえると共に、私どもが今一度、身を正し、自己を振り返り、日々の過ごし方、考え方、行ない方をあらためて問い直すべきお言葉であると受け止めております。
「一切は自己の鑑(かがみ)」というように、すべては自己が源です。苦悩、災厄といった出来事に限らず、身の周りに起きる事、この世に起きる事象すべて、他ならぬ自分自身が創り出している結果に他ならないと受け止めるところから、真の信仰は始まります。
ですが悲しいかな人は何でもすぐ他人が悪い、こんな家族だから、こんな環境・状況だからと、他に原因を求め、自己を振り返ることをおろそかにしてしまいがちです。それは結局、争いの種となり、永遠に修羅の苦しみから逃れることはできません。
しかも、このような風潮がここのところ世界中を覆っているような感が致します。他人への誹謗中傷を当たり前のように口にして、それを恥ずかしいこととも思わない感性。「人の振り見て我が振り直せ」ではないですが、あからさまに相手を悪く言うことは良くないことだと、子どもの頃、教えてもらわなかったのでしょうか。
もちろん、良いことは良い、悪いことは悪いと、はっきり口にすることは大切です。ですが、それはあくまでも、間違った道に踏み入ってしまった隣人を、どうにか元に戻してあげたいという、やむにやまれぬ慈愛の気持ちから発せられるべき言葉です。その根本がなくなったまま、ただその場限りの悪口雑言だけが蔓延してしまっているように思えてなりません。
その一方では、他人や世の中が不幸に見舞われても、自分には関係がない、自分や家族さえよければいい、我関せずという無関心。
ですが、この世の中に「我関せず」で済ませられる事象など何一つありません。すべてはつながっており、「ご縁」で結ばれているということを、このみ教えを学ばれている皆様であればよくおわかりのことと思います。
まして今の世界状勢や地球規模の災害を考えますと、決して無関心ではいられません。信仰を持つ皆様であれば尚のこと、この世で起きている出来事にできる限り目を向け、耳を傾け、そして「祈り」を持っていただきたいのです。
一番先に自分というものに宗教心があったら、自分というものが必ず眼につきます。自分は決して偉くないと思うようになります。皆、過信であった、己惚れであった、虚栄であったと、必ず自分の浅ましかった、過去が眼につきます。そこに真に信仰の力があります。同時に神仏の広大無辺の慈愛が立ち所に非常に有難くなります。自分の力の足りなかったこと、自分の行ないが全部間違いだらけであったこと、自分程つまらぬ人間はないと、しみじみ懺悔の境界に入る時、始めてそこからその人間としての自分が新しい世界に出発を開始するのであります。こうならなくては、神の尊さや仏の功徳を百万遍説いても、馬の耳に念仏であります。
私がよく引かせていただく道祖の御言葉ですが、この「しみじみ懺悔の境界に入る時、始めてそこから人間としての自分が新しい世界に出発を開始する」というところを、どうか深く味わっていただきたいのです。
よく「懺悔」「反省」について「自己否定」のことだと勘違いしている向きがありますが、この両者は全く違います。
自己否定とは、ただやみくもに自分の悪いところをあげつらい、そこから何も生み出さないあり方です。それはいつしか自己そのものを否定し、心と体を病むことになるか、もしくは暗に他者から自分への承認の言葉を引き出そうとします。それは決して健全なあり方ではありません。
それに対して懺悔・反省は、神仏から見た自己の有り様を正しく認識することです。神仏という言い方が捉えにくければ、「理想」と言い換えてもよいでしょう。
神仏への日々の祈りと共に、自分自身、そして周りの家族、地域、社会、国、世界へのしっかりとした理想像、ビジョンが描けている人は、未だそこに至らぬ自身について「しみじみ懺悔の境界に入る」ことができます。
そして、その懺悔・反省は、明日へのさらなる精進努力の一歩を踏み出す、その原動力となるのです。未来への希望、歓び、そして幸せに至る出発点が、この懺悔、反省にはあるのです。
つまり、真の懺悔・反省は、神仏への祈りがなければ決して得られることはないのです。
ですから、信仰のまず最初の第一歩は、懺悔・反省からだと言うのです。
さらに、真の懺悔・反省は、他者への寛容の心も育てます。自分も他人も共に足りない者同士。だからこそお互いに手を取り合い、この世の中を少しでも良くしていこうと、謙虚な気持ちになれるのです。
それが「自己反省」「自我没却」がもたらす信仰者としての生き方に他なりません。
本日、皆様はこの神域に集い、真心からなる祈りでそれぞれの使命に生きることをお誓いされました。そこに真の懺悔と反省の心がありましたでしょうか。明日へのさらなる精進努力を踏み出すお力はいただけましたでしょうか。
どうか、その尊き心と覚悟を持って、それぞれの生活の場へと立ち返り、ここからまた秋の稔りの感謝祭に向けて、皆で協力し合い、大きな成果を創り出していく生き方をされていっていただきたく思います。
信仰は、拝めばいいというものではありません。拝んでいることを、真に行なうことです。かむながらのみちとは、日々神仏、ご先祖様に手を合わせ、その心でもって生きる生き方のことです。
かむながらのみちとは、神と共に歩む道。神のように歩む道。神と一体となり進む道です。ですから、常に自身のあり方が問われます。
神仏のように生きていこうというビジョンとスタンドをしっかり持ち、生活行に、お導きに、お互いますます精進して参りましょう。
宗教法人かむながらのみち教主。1937年大阪府に生まれる。11歳で宗教法人解脱会に入会。21歳で布教活動に入る。以降、各地に布教所を設け、布教に専念する。1999年2月解脱会を離れ、同年5月かむながらのみちを創立。