■「ソーシャルな欲望」
昨年の当欄はアクセス数も多く(常時数万アクセス)話題も豊富だったのたが、「ポリティカル・コレクトネス」を考え始めた頃(ポリティカル・コレクトネスの矛盾~「子どもの権利」は正しいが全員から支持されない、「ポスト・ポリティカルコレクトネス」~トランプでも、ひきこもりでも、NPOでもなく)からアクセス数が減り、いまではすっかり地味な個人ニュースになってしまった。
ポリコレ研究とその脱却への僕の欲望は、おそらく「コレクトネス」というタテマエ主義への嫌悪なんだろうと自己分析していたのだが、最近、もっと俯瞰的な視点もアリでは、とも思うようになった。
それは、極端な場合はポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)へと具現化してしまう「ソーシャル」的思考に対する人々の疲れから来ているんだろうとも思う(世界に、ポリコレ疲れという「幽霊」が出る)。
そしてそのポリコレ疲れを含めた、「ソーシャル」的思考、社会貢献は美徳だという価値、マイノリティへの優先的支援等、ここ20年ほど我が国を覆ってきた「ソーシャル」的価値や思考そのものに人々は疲れ始めているのでは、と僕は考えるようになった。
言い換えると、1995年の阪神大震災・1998年のNPO法施行からスタートし、2008年のリーマンショックと2011年の東日本大震災で頂点を迎えた「ソーシャルな欲望」(困っている人々のために何かしたい)に支えられた社会の動きがひとつの転換点を迎えているのでは、ということだ。
■NPOから実はたくさん退職している
ソーシャルセクター/NPO業界的には、NPOに入職した人々が、実はたくさん退職して一般企業・社会福祉法人・行政等に流れていっている事実がある。
僕は統計的にはそれらを把握していないけれども(まだ調査されていないのでは?)、僕の周辺だけでも何人かは顔を思い出すので、全国に5万(内「事業型」は1万)あるNPO内ではかなりの方が転職していっているように感じている。
これらの辞めていった方々に共通するのは、ある種の挫折感や虚しさといったネガティブな感情だ。それはそうだろう、「ソーシャル」という夢に20代を託したもののおそらく「生活」を優先した時、よくて年間契約社員(とはいっても非常勤雇用に含まれる)普通アルバイトな境遇が大半であるNPOでずっと働くわけにはいかない。
NPOのスタッフとして充実した生活を送っていると、やがて「出会い」があり愛が生まれ結婚し、幸運であれば子を授かる。
そうした際、不安定なソーシャルセクターで生活を維持していくライフプランをなかなか描けない。だから転職し、より安定した職場を選択し、NPO時代よりも働き方はリジッドかもしれないがその息苦しさは安定とのトレードオフとして納得する。
納得しつつも、NPOから退職した事実そのものについては「挫折」として捉えている。
それはそうなのかもしれないが、NPO職員やNPO学生ボランティアが所属NPOを離れて安定組織(会社や社福や行政)に入職するのは全然「挫折」などではなく、当たり前のことだ。
むしろ、「ソーシャルの夢」を語り続ける既存NPO側に僕は「痛さ」を感じる。
■「ソーシャル的事業」は儲からない
10~15年程度続く既存NPOは、初期段階では(阪神大震災以降)、オルタナ福祉・オルタナ教育・オルタナ就労支援から始まり、リーマンショックと東日本大震災を経て「ソーシャル」的振る舞いをするようになった。
寄付や賞設定などのブランディング化・財務強化を図ってはいるが、その「ハリボテ」感やミッションとのアンバランス感は否めず(各法人の事業はオルタナティブ~「別の何か」として始まりミッションは後づけ)、そこをフォローするために現れてくれたのが「ソーシャル」という価値だった。
そのピークが東日本大震災であり、震災以降突如として現れた「つながり」という概念も迷えるNPOたちを救い、ソーシャル的ミッションを具現化するためのつながりやビジネスプランに誰もが飛びつき一部具体化され、予算規模の割には本当にわずかではあるがある程度の結果は出してきた。
だが、その財政基盤は、寄付文化を歴史的にもたない(つまりキリスト教文化ではない)日本においては、脆弱だ。
一部の「エリートNPO」を除き、寄付もなかなか集まらないし、「ソーシャル的事業」は儲からないし(困っている人たちからカネを取れない)、結局は行政の下部機関となり行政職員の免罪符あるいは「夢」を手伝うということ(委託事業)でその経営を成り立たせている(NPOのミッションと整合性があればベターな選択ではある)。
「ソーシャルな夢」自体は美しい。そしてそこから「挫折」してしまったことは何らネガティブなことではない。
どちらかというと、そうした「夢と挫折」に巻き込まれた多くの人々を真正面から語る議論がないことがおかしい。
つまりは、現在ソーシャルセクターの中心にいる人々が、自分たちの立場をもっと相対化して語り、「NPOをやめる」こと、NPOをやめざるをえない社会的制度と文化背景についてもっと積極的になる必要がある。
■ソーシャル・ボランティア
ソーシャル・マイノリティから直接おカネをもらうことができない以上、ソーシャルビジネスは原理的に成り立たない。そうすると「寄付」頼みになるが、1000年単位の寄付文化のない日本ではいますぐには無理だ。そうなると、広告ビジネスモデル(アフィリエイト)あたりかもしれないが、サリンジャー好きで「偽善」嫌いで思春期な僕には難しい。
いまのところ僕は、「真摯な行政の人たちの夢」をお手伝いすること(ラディカルな委託事業)に望みをかけているが、それもいつまで続くかわからない。僕の敬愛する人々のなかには、割り切ってソーシャル・ビジネスではなくソーシャル・ボランティアと位置づける(つまり「事業型NPO」不要論)方もいる。★
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