本日、新暦での歳様のお誕生日という事で
アチコチでお祝いされているようです
そもそも、歳様が生まれたのが
天保6年5月5日(1835年5月31日)という事からなのですが
これも確証があるのではなく
「親戚の人が誕生祝いに駆け付けたら
生家の屋根葺きに菖蒲の葉が刺してあった」
との言い伝えから、
「端午の節句」の日と、されただけなんですね
最近、 「この日生まれの有名人」 のような欄の5月31日に
しっかりと 「土方歳三」 と書かれていたりもしてますよね
確実じゃないんだけどなぁ。。。
と思いつつも、
そういう日があった方が楽しい
私もそれにかこつけて、ケーキ買っちゃったし
それに、例えば誕生日がこの前後の日だとしても、
絶対に歳様は「双子座」だと思うわ
そんな日に、総ちゃんの戒名のお話なのですが
でも 「五月晦日」 という事で、ちょびっとと共通項があるでしょ
ややこじつけ的なものがありますけどね
では本題
「沖田氏縁者」の戒名と
専称寺の総ちゃんの戒名が、呼応しているー
との説を、菊地明先生がおっしゃっていますね
真明院 照誉 貞相 大姉 (沖田氏縁者)
賢光院 仁誉 明道 居士 (沖田総司)
確かに似ていますよね。
それぞれの文字の意味するところに、共通のものがあります。
ここから「縁者」は内縁の妻ー 休息所の女性ではないか。
との理論が成り立ちます
総ちゃんのお墓の戒名の両側に
宝握全入信士
宝閣燿雲信士
の戒名があることは、皆さまご存知の事でしょう。
この両名は専称寺の過去帳により、俗名・大野源治郎さん親子とわかっております。
(源治郎は世襲名)
没年は、文政9年(1826年)と、嘉永7年(1854年)。
総ちゃんの姉・ミツさんの子息・卓吉さんの妻ハルさんが
「総司の墓を建てた人が、たしか大野と言う人だったと思う」
と、伝えているそうです。
(新選組再掘記)
つまり、総ちゃんのお墓を建てた方は、大野家の人で
そこに自分の父と祖父の戒名を入れた、という事でしょうか。
この大野さんと沖田家との繋がりはわかりませんが
この人が総ちゃんから「縁者」の戒名を聞いていて
総ちゃんの戒名も、
それと呼応するものをつけてもらったのでしょうか。
総ちゃんは幼い頃に父母と死に分れたと
沖田家の「総司伝」には書かれているそうですが、
この「大野家」。
総ちゃんが試衛館にやっかいになるまでの「養子先」とか
「母の再婚先」とか、色々と憶測が飛んでいるようです
総ちゃんの恋人、もしくは内縁の妻がいた事を認めたくない
という方には、
実は母は生きていて、京都で再会。
けれど病で、慶応3年に亡くなり「沖田氏縁者」として葬られたー
というストーリーは、いかがでしょうか
ちと無理がありますかねぇ
ところで
昨年9月7日付けの京都新聞に
「沖田総司の親戚は奈良・櫛羅藩士」
という史料が見つかったとされる記事が掲載されたのを、ご存知でしょうか。
http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20160907000022
これは総ちゃんの義兄・林太郎さんの弟・島田勝次郎さんが
櫛羅藩に仕えていて、酒井意誠さんとの繋がりがあった
という事ですね
もしこれが真実であるなら、凄い事だと思いますし
「沖田氏縁者」との縁も出てくるという事でしょう。
が、
この櫛羅藩士・島田勝次郎さんは本当に総ちゃんの「親戚」
という疑問が少々残ります
それに対して、翌日にあさくらゆう先生が
こういう記事を書いていらしゃいます。
「新選組、沖田総司の縁者、島田勝次郎って誰?~その代わり土方歳三の親戚が近所に住んでた」
http://next.spotlight-media.jp/article/322703361979910489
ちょっと毒舌表現もございますが
基本的には、私はあさくら先生の記事に共感いたします。
皆さまはいかがでしょうか。
という事で
結局は謎のまま m(__)m の「沖田氏縁者」。
史料と史料をつなげる史料が出てきたらいいのになぁ
と思います
2017年皐月晦日 汐海 珠里