一般的に「長く付き合ったら、出会いたての頃のウキウキやトキメキを求めるのは無理だ」と言われている。多くの人が、あたかもそれを生理現象かのように語り、誰が悪いということでもなく「それは、そういうものだから」と諦めている。
しかし私は、声を大にして言いたい。
「そんなのは嫌だ」と。
実際に、私は普段から旦那さんに向かって単刀直入に、そのことについては「嫌だ! 無理!」と言っている。
もしもあなたが私を初期の頃より可愛がってくれないのならば、私は他の男の女になりたいし、あなたが初期の頃よりも良いところを見せようとしてくれないのなら、他の男の方が輝いて見えてくるよ、と。あなたが手を抜いた分だけ当然に、手を抜いてこない出会いたての男の方が良く見えてくる、私の心はそういう仕組みになっているよ、と。
「今日からも、この人の女でいる」という毎日の選択
私はこの1年半、旦那さんの女として過ごしてきたけれど、私が今日も彼の女でいる理由は、1年半前のあの日に彼の女になることにしたからではない。「そういう話でまとまったから、その続きで」「とくに変更するキッカケもなかったから」というような惰性で彼の隣にいるわけではない。
誰の女として生きていくか、私は毎日選んでいる。
その結果として「今日からも、この人の女でいる」ということを改めて選択していて、そんな日々が1年半続いている。
つまり私の中には「他の男の女になる」「この人の女でいることを辞める」という選択肢も常にあって、それはいつでも選べる。
過去の自分の決断に引っ張られて、なんとなくダラダラと一緒にいる結果として1年半の付き合いになっているわけではない。「この人の女でいたい!」と思う日の連続で今に至っていて、その気持ちの積み重ねでの長続きしか私はアリとしていない。
出会い頭の異性に対して、人は基本的に良い顔をする。
男の人は下心があるほど手間暇をかけることを惜しまないし、好かれたいと考えていたり嫌われるのを恐れているうちは面倒くさがらずに何でもやる。
もしも旦那さんの私への対応が、人の出会い頭の異性に対するとそれと比べてバージョン落ちしていたとしたら、私は彼とは別れる。あなたの私に対してのサービス精神は「ポッと出の男以下じゃん」となるし、それは彼にとっての私の女としての価値が、その辺の全女以下だということでもある。
そうであれば、私は市場を変えたい。どの男であれ彼以外の男の元へ行けば、出会い頭の女枠になれる。そうすれば今よりは「女!」ってだけで興奮され、「女!」ってだけでサービスされ、「女!」ってだけで喜んでもらえて、可愛がってもらえる。
彼にとっての私が不特定多数の「女!」よりも無味無臭でそそられない存在となったなら、そんな市場に自分を陳列するのは虚しいので避けたい。
人は必ず老いる。いつの日か、根本的に消費期限が切れてしまう日くるのだから、市場を変えれば価値を見出してもらえることがわかっている今のうちは、喜んで手に取ってくれる人がいる場所に身を置きたい。
今のところ毎日、私は「今日も彼の女でいる」ということを選んでいるけれど、それが一番楽しいからであって「他の男の人とデートした方が楽しそう」と思ったらその場合は離婚が視野に入ってくる。
男女の醍醐味をひとりで全部まかなってほしい
結婚という契約を結び夫婦になると、異性交遊枠がとことんお互いの一択になってしまうのだから、男女の醍醐味を彼ひとりで全面的にまかなってくれないと私は不満だ。
私が彼と出かけるためにメイクをしたら「俺のためにメイクをしてくれて嬉しい」と喜んでほしい。「おっぱいに触って良いよ」と許可したら盛大に喜んでほしい。パンツを見せたら笑顔を見せてほしいし、見えそうで見えない時があったら「見たい!」と意欲的になってほしい。
まず、その辺の男がその辺の女にされて喜ぶようなことでは、当たり前に一通り喜びを感じてくれないと困る。そうでなければ特定の男の妻になるのは、女体を持ち腐れることになる。
最初の頃は喜んでくれたことで、喜んでもらえなくなるのは、すごく悲しい。
そうなるとそれはつまり、その男にとっては出会って日が浅い女ほどポイントが高いということだから、そういう男だと簡単にポッと出の女に持ってかれかねないところも恐ろしい。そういう価値観の男の妻として生きる人生って虚しいし、敵が多すぎて恐怖だ。
少なくとも最初の頃に喜んだことではずっと喜んでくれないと、ポッと出の男に自分を捧げたくもなってしまう。男に喜ばれる女でありたい。
彼に見た目などを手抜きされるのも萎える。最初の頃はセットしていた髪をセットしなくなったり、服への気合が減少したら、今日の私が誘ったとしてちゃんと気合を入れて来てくれる男の方と会いたくなってしまう。
自分に対して良い所を見せようとしてくれる男の人と遊んだ方が何かと良い思いをできるし、男の人がカッコつけてくれた分だけ「女に生まれて良かった」と思えたりもする。手抜き男としか接してなかったら「女の醍醐味って何だっけ」と思い出せなくなってしまいそうで、そんな人生は想像しただけでゾッとする。
旦那さんの私に対する関心は、日に日に高くなっている
出会って1年半経った今、旦那さんは出会い頭の頃よりも、私に反応する箇所が増えた。
一番最初の頃は、「顔」に対しての「可愛い! タイプ!」という喜びと、「パンツの中身」に対して「女! 入れる穴!」という喜び、あとは私が女であるということに対しての「女とうまくいってる俺! 色恋沙汰って楽しい!」大体そんな感じだったように見受けるけれど、段々と、おっぱいにも喜ぶようになり、お尻にも喜ぶようになった。「いつも白いパンツを履いてほしい」「ティーバッグがいい」などのリクエストをしてくるようにもなり、ご所望通りの品を履くと、毎回「俺が言ったから?」と言って喜んだ。
彼と過ごすことがお出かけやら待ち合わせではなくなって日常になり、すっぴん率が上がると、たまのメイクをした顔に喜ぶようになり、「ロングヘアが好きだ」というので伸ばせるだけ伸ばしたら伸びたことに喜んでいて、つい先日は「逆に切ったところも見てみたくなった」と関心の幅を広げていた。
一緒に暮らすようになってからは帰って来たら私がいることに喜んでいるし、玄関まで見送るとそれも喜んでいる。
喜んでいる顔を見る機会が、ずいぶん増えたと思う。
例えば今ここに1年半前の私が現れたとして、全然ライバルにはならない。彼に好かれてる量が違うことが、そのまま彼を喜ばせる実力の差となっている。1年半前の私は、今の私の足元にも及ばない。おんなじ私なのに、ポッと出の女バージョンだと、彼の思い入れの量が違うからザコとなる。私はそのことが嬉しいし、とても安心できる。
飼ってる魚にしかエサをやらない男が好き
「釣った魚にエサをやらない男」が世の中の大半だと思うけれど、その意味で彼は「飼ってる魚にしかエサをやらない男」だ。
私の「女」に対して「男」として喜ぶ感度の高さもそうだけど、そこだけじゃなくてどこを取っても、彼は初期の頃よりも今の方がずっといい。どんどん待遇が良くなっている。
出会って最初の私の誕生日、まだお互いがお気に入りの遊び相手だった頃、「お祝いするよ」と誘われて彼の仕事終わりに会ったけれど、彼はその日「おめでと~」と言っていただけでそれだけだった。婚約者として迎えた2回目の誕生日、彼は当たり前のように休みを取ってくれていて、ケーキを食べさせる気もプレゼントを与える気も満々だった。
私は彼の、飼ってない魚にはエサをやる気が全然ない清々しさが大好きだ。初期の頃の私への待遇のひどさを思い返すたびに、安心する。
釣った魚にエサをやらない男とは、釣れてもない魚にエサをあげちゃう男であり、その男としてのチョロさと財布の紐のゆるさが私は苦手だ。
そういう人は自分の男にはしたくない。よその魚にエサをあげる余裕があるならウチに入れてくれ、と夫婦になったら100%思うし、先がおもいやられる。
釣った魚にエサをやらない男がエサを用意するとき、その動機は、自分が評価されるための作戦だ。得点稼ぎのために、あくまで自分のためにエサを用意する。
それに比べて飼ってる魚にしかエサをやらない男は、そもそも自分の見え方に関心がない。人にどう見られるかなど眼中にない。他人にケチと思われることや、よその人に気が利かない奴と思われることを気にしていない。ただ、飼ってる魚の命を守ったり、大切にしたり、喜ばせるためにエサを用意して与える。
私はそういう男の人が好きだ。
デート嫌いだった私が旦那さんとのデートにハマっている理由
結婚前の彼は、休日といえば「家でゴロゴロしようよ」という発想しかなかったけれど、結婚して同居を始めた今になって逆に「次の休みは絶対にデートしたい!」と提案してくるようになった。
ゴロゴロすることも、部屋着のままお散歩して近所でお腹を満たすのも、そういうおうちデートみたいなことは平日の仕事終わりにもできることだから、時間も体力もある休みの日は他のことをしよう、おめかしして出かけよう、という発想になった。
以前デートが嫌いと書いたけれど、そんな風にデートをするようになった最近の私は、すっかりデートにハマっている。彼とのデートだけは好きだ。
彼は飲食店に着くと、さっさとゲームを始めてくれるから会話をしなくていいし、私も彼が相手だと漫画を持参して読むことができる。これは出会い頭の男の前では気まずくてできないことだ。会話をしたくなくても、付き合いが浅いとそうもいかない。
一緒に過ごした時間の分だけ、デートとしては異常な行動や失礼な姿勢がアリになっていて、ポッと出の男や女じゃ、そう簡単に私にとっての彼にも、彼にとっての私にも並べないだろうなと思う。だからこそ安心して愛せるし、どんどん好きが膨らんでいる。