どうもたんたん(@tantan4423)です。
皆さん常識や礼儀に関してどう思っていますか??
いきなり聞いて申し訳ないですけど、世の中には多くの常識や礼儀があり、それを守ることによって人との不快な思いをせずに生きることが出来る手段だと思っています。
しかし最近は礼儀や常識にガチガチに縛られて逆に窮屈な思いをして生きている人が大多数を占めています。
今回はそういった人に向けて「もっと肩の力を抜こうよ」という記事になります。
礼儀や常識は他人と仲良くやっていくための手段
日本人って礼儀を重んじる人種とはよく言われますけど、逆にそれを出来ない人間って本当総攻撃を浴びたり、仲間はずれにされたりすることが当たり前にあります。
そもそも礼儀や常識は他人とうまくやっていくために作られたはずなのに、礼儀や常識を盾にして他人を攻撃する人があまりにも多いです。
もちろん決められたルールを守ることは大切なことですが、それを守れなかった人に対しても仕打ちがあまりにも酷いと感じてしまうのは僕だけでしょうか??
人によって得意なことも苦手なことも違ってこういったちょっとしたルールを守る事が苦手な人に対して「常識はずれだ」と超上から目線で罵倒をすることが許されている社会がおかしいように感じます。
礼儀や常識が守れない人間は人として扱われない・・・生きづらい世の中だなぁと常日頃感じてしまいます。
人と仲良くやっていくための常識や礼儀であって各個人がストレス発散したり人に当たったりするもんはないです。そっちのほうが人権侵害であって常識はずれなのではないかと思います。
「常識、礼儀とかいって他人に強く押し付けている人に関して守れてない人」という意識があれば少しは気が楽になるのではないでしょうか??
全部をしなくたっていい
完璧を求めたくなるのは分かりますけど、完璧なんて無理なんですよね。全部しようとする気持ちは時には負担となってくることもあるので無理は禁物です。
別にちょっとできなくたって逮捕されるわけでもないのにマジに考えすぎなんですよね。ちょっとした不手際に不快感を感じてしまっている人はそもそも考えすぎなんですよね。
他人の行動ばっか気にして揚げ足を取ったり自分を悲観したりするのなんて圧倒的にコスパが悪い。結局先程の項の人は自分のことより他人に焦点が当たっているからがんじがらめになってしまい、落ち着きがない人になってしまうんですよね。
基本的に犯罪じゃなければいいみたいな考えを持っていて出来ないことや知らないことはその都度聞いていけばいいのかなとお気楽に考えています。もちろん他人の不手際にも悪意を感じなかったら怒ることもない(そもそもそんなに気にしない)
別に完璧にしなくたって生きていくことも出来るし多くの人間と付き合う事自体疲れてしまうので、不特定多数の人のための行動はミニマムにしている。常識や礼儀は大切だけどそれによって自分を消耗するぐらいなら少しぐらい抜いてもいいとは思う。
人付き合いを限定する
こんなこと書くと「ぼっち乙ww」とか思われてしまいますけど、多くの人と関われば関わるほど礼儀や常識が矢になって降り注いでいく事が多い。
仕事とかでも業務で疲れるんじゃなくてほとんど一緒に働いている職員に疲れてしまう。それほど、人と関わるのはエネルギーが要る。それが好きな人ならそれは素晴らしい時間になるが、殆どの人間は無関心か嫌いな人だ。
僕の場合は休日の人付き合いもミニマムにして一人で過ごしている。そして大好きな人間とばっかり関わるように意識している。仕事はそんなの関係なく多くの人間と強制的に関わらないといけないから疲れる。
そのなかでやけに関わるとしてきたり、意識高い系に出会ってしまったら最悪だ。業務は好きでも意識高い系に遭遇したら一気に仕事がつまらなくなる。
話が流れてしまったけど、むやみやたらと人と関わらず自分と向き合う時間が増えていけば他人の行動なんてどうでも良くなる。
もっと他人に寛容になるべきだ。こういったことを書くと「この文章が寛容的でない」という平等性原理主義の人が言ってくるが、他人のすべてを許せなんて言ってない。間違っていることには声を大して言うべきだ。
僕にとって間違っているということは「お辞儀が浅い」とか「姿勢が悪い」とかそういったことじゃなくてそれを盾にして相手を傷つけるようとしている人のことだ。
相手が不快にならない行動をすることは大切だけど、それと一緒に相手がしたちょっとした間違いに対して腹を立てない心の余裕も同じくらい大切だと思う。
その心の余裕を作るにはもっと自分と向き合う時間を持つことだ。そのために自分に無理のない人付き合いを心がけていく必要がある。
人のことより自分のことをしろ
常識や礼儀で決まりきったルールの生きていくのはやっぱり物足りなく感じるのは僕だけだろうか??
常識や礼儀は他人のためにあるものだ。こういった括りを作ってしまったから不毛な争いが生まれてしまう。ある一種の監視社会なわけだ。
人の目を気にして生きるのは本当に生きづらい。他人の目より自分の内面やスキルを磨いていくことのほうが他人を監視するよりも明らかに大切だ。
常識や礼儀は他人との関係を潤滑にする手段にすぎない。しかし今では手段が目的化しているからおかしなことになっているのだ。人間としての価値はこれらが守れることばっかりではない。何を生み出していけるということにある。
そう考えていくと日本人は面倒くさい人間が多い。自分を高めるというよりかは他人を蹴落とすことしか考えていない人が多い。その手段として常識を使ってくる。そんな人間の言うことなんて無視して犯罪しない程度に自分の好きなように生きていくことのほうがコスパ高い。
自分のことお厳かにして他人の行動ばっか目にするからお互いが不快な気持ちになるという結果になるのだ。時代はどんどん変わっているのなら常識もそれに合わせたものにしていかなくてはいけない。昔の人が喜ぶものが今の僕らからすると窮屈なことは多い。
年寄りはどうせ近いうちにいなくなるわけなのだからこれからの時代に向けて僕らが行動して生きやすい社会を作っていくべきだと思う。
さいごに・・・
ダラダラ書いたのですけど、常識にとらわれない生き方をまとめると
- 付き合う人数をミニマムに
- 全部しなくたっていい。
- ゆとりを持つ
- 他人よりも自分のことに熱中する
という感じになります。もちろんある程度世の中のルールに従うことも大切ですけど、それが目的化して生き辛くなることなんて意味がない。
自己犠牲で成り立っているおもてなしの心はいらない。常識って言っても守らないと死ぬわけじゃないし、一部の頭の固い人間が不快になるぐらいなのでそういった人との付き合いはミニマムにしていけばいい。
田舎にいるとその独自のルールみたいなものも追加で入ってくるけど気に入らないものは無視しています。それでも今こうして楽しくブログを書いているのでたいした問題じゃないです。
常識や礼儀って自由に生きていくための縛りプレーみたいなものだし、特にしなくても問題ないことはこれからもせずに生きていきたいと思います。