2 和人の移住

義経伝説

 源 義経は奥州衣川では死ななかった。弁慶ら腹心の家来を連れてひそかに蝦夷地へのがれ、やがて大陸に渡ってジンギス汗になった、という伝説はひろく北海道に伝えられています。この話は、いったいほんとうでしょうか。

 寿都町にベンケイ岬があり、寿都町と岩内町の境にあるライデン峠の名は、弁慶が「来年また来る」といった別れの言葉がなまったものだといいます。また、弁慶が義経と相撲をとって尻もちをついた穴とか、義経の刀をかけた松、義経の矢が地に立って松になったところ、さらには義経神社(平取町)も建立されています。東北地方にも義経伝説は少なくありません。義経が津軽海峡まで逃げてきてこまっていたとき、三頭の神馬が義経たちを乗せて空を飛んで渡してくれた、その神馬のウマヤが津軽の三廏といわれています。いま海底トンネルの入り口ですが、三廏-吉岡間は松前藩時代も参勤交代のときの重要な航路で、藩主の船が三廏へ着くとノロシをあげて対岸の吉岡にしらせたものです。

 蝦夷地での義経の生活は、アイヌにいろいろなことを教えた反面、村長の娘(メノコ)と仲よくなって、その手引きで宝物をとって去っていくが多い。積丹半島神威岬から船出をした義経を追ってきたメノコが、赤ん坊といっしょに身を投げたのがメノコ岩になったといいます。そのうらみで、女を乗せた船は神威岬で必ず難破するというので、松前藩の神威岬女人禁制がなされたともいいます。厚岸方面では、義経が文字をうばって行ったため、それ以後アイヌは文字を書けなくなったとも伝えられます。日本海方面の義経はサハリンから沿海州へ、太平洋方面の義経は千島の方へ去って行くようです。

 じつは江戸時代初期には、義経は蝦夷地から満州(中国東北部)に渡り、満州王朝の祖先になったという話しも伝えられていました。このような話しも、ほんとうならおもしろいのですが、残念ながら事実とはいえません。

 このような義経伝説は江戸時代にひろめられたものでしょうが、さかのばって室町時代のお伽草子などに一つの原形がみられます。奥州平泉の藤原秀 にかくまわれていた義経が、秀 のすすめで蝦夷が島へ天下平定の大日の兵法をとりに出かけました。途中、はだかの人間の島や女ばかりの女護島、首が馬の人日との馬人島、ブシ(トリカブト)の毒矢をつかうえぞは島などがあり、ふりかかる危難をどうやらくぐりぬけて目的地に達します。そして大王の娘とねんごろになり、大日の兵法によって、原平合戦の前の話、さきの伝説は後の話、時期は違いますがどちらも蝦夷が島が舞台です。

 お伽草子よりも前、南北朝内乱期に書かれた『義経記』という本には、舞台は原平合戦前の京都ですが、平泉から上京した義経が、中国渡来の兵法書『六 』を、保管していた鬼一法眼の娘の手引きでひそかに読むことができた、という似た話しがあります。三種の話しは、時期や舞台にちがいはありますが、娘と宝物という点はみなおなじことです。おそらく、『義経記』からお伽草子、江戸時代の義経の蝦夷が島伝説へといだいに発展したものでしょう。悲劇の英雄・義経をおしむ日本人の判官びいきに、高貴な人の流浪談が結びつき、義経は衣川では死なずに蝦夷が島から大陸へ渡らせることになったのでしょう。西南戦争の西郷隆盛が城山で死なずにロシアに脱出したという伝説も同じものでしょう。

 ところで蝦夷地の義経の行動には、アイヌに農耕を教えたり、そのほかアイヌの英雄神の話と似たところがいくつかあります。これは和人とアイヌの親しさをもたせるため、オキクルミ、サマイクル伝説に義経をあてはめたものでしょう。オキクルミは主、サマイクルは副という組み合わせユーカラ(ところによってはサマイクルというオキクルミの立場が逆になります)に、義経と弁慶をなぞらえたわけです。ベンケイ岬の地名がさきに出ましたが、ペンケ・パンケというアイヌ語地名は北海道に多いのです。上・下の意味ですが、ペンケがベンケイになったとも考えられます。

 敗残の義経渡島伝説はあてにならないとしても、義経が藤原泰衡の手で殺されてまもなく、義衡は源頼朝によって滅ぼされます。その藤原氏の残党のなかには、蝦夷地へのがれたものがいるかもしれません。蝦夷地への和人移住の初期には、このような奥羽地方の戦いに敗れた人びとが逃げこんだことでしょう。