現地時間5月25日から26日にかけて、アメリカの2つの名門大学で行われた卒業式スピーチが話題になった。
1つは、ヒラリー・クリントン前大統領候補が母校の名門女子大ウェルズリー・カレッジで、もう1つは、FacebookのCEOマーク・ザッカーバーグ氏が中退した母校ハーバード大学で行ったものだ。
異なる世代、全く異なる内容のスピーチだが、いまのアメリカの生きにくさと同時にそこで生きる新しい世代の声を浮き彫りにし、ともに極めて政治的だった。
母校でスピーチをするヒラリー・クリントン氏。アメリカでは彼女のスピーチに関する報道が相次いだ。
Brian Snyder/Reuters
終日報じられた内容と雑誌の特集
テレビは26日、クリントン氏のスピーチを生中継。その後、内容に関する分析が終日相次いだ。昨年の大統領選挙後、公の場にほとんど登場していなかったが、今回は初めてトランプ大統領の名前を出さずに、痛烈に批判した。ロシアとトランプ氏の選挙陣営の関係について連邦捜査局(FBI)や上下院委員会が捜査・調査に当たっていることを受け、ウォーターゲート事件で辞任したニクソン元大統領についても大胆に触れた。トランプ氏への批判には、いちいち学生の黄色い歓声と拍手が沸き起こった。
リベラル派がトランプ氏の身辺に捜査が広がるのを虎視眈々と待ついま、ニュース性は大きい。以下は、テレビで繰り返し流れたスピーチの一部分だ。
あなたたちは、真実と理性に対して、真剣な攻撃がなされている時代に卒業します。
今日の権力者たちは、自分のための「代替的事実」を作り出すのを好み、現実を無視しています。それは、自由な社会の終焉につながる危機です。それは誇張です。独裁主義の体制が、歴史を通じて成してきたことです。彼らは、現実さえコントロールしようとします。私たちの法や権利、予算だけでなく、私たちの考え方や信念までもです。
ニクソン大統領は捜査妨害容疑の弾劾で、不名誉に大統領の任を終えました(注:同大統領に対する弾劾手続きは下院で始まっていたが、弾劾成立前に辞任した)
その上で、卒業する若い女性に、自らが持つ価値と将来を信じることを強調した。
あなたたちは立派で、力強く、世界中にあるどんなチャンスにも値します。あなたたちの野望、夢、そして怒りでさえも、恐れることはありません。大胆にトライして、失敗してもまたトライしてみる。お互いを信頼し、自らの価値を信じてください。決して、諦めないでください。
同日のスピーチに合わせて、選挙戦後初となる本格的なクリントン特集「大統領になれたはずの女性の非現実的なポスト選挙の生活」を、ニューヨーク・マガジンが掲載。この記事によると、クリントン氏自身によって女性であるが故に選挙戦がより困難だったことが語られている。
クリントン氏が「最もつらい体験」と語った第2回テレビ討論会に臨む2人。
Justin Sullivan/Getty
選挙集会で、男性候補者が声を張り上げると「男らしい」と評価される一方、女性候補者が同じことをすると「叫んでいる、ヒステリックだ」と批判される。最もつらい体験は、2回目の大統領候補討論会で、クリントン氏が発言している間、トランプ氏が彼女をにらみながら、背後を徘徊したことだったと告白した。セクハラまがいの行為だが、予備選挙中の大物共和党候補らが、トランプ氏の挑発に乗って「自滅」したのを、クリントン氏は意識していたという。このため、「徘徊」について、正面切って抗議せず、平静を保った。
クリントン氏の選挙戦は、トランプ氏という常識外れの対立候補がいたことは別にして、アメリカ社会の女性に対する「グラス・シーリング」(ガラスの天井)がまだまだ高いところにある現実を痛感させた。
「彼は大統領に立候補するつもりか」
一方、ザッカーバーグ氏のスピーチの報道は生中継もなく、クリントン氏のスピーチの10分の1程度。政治的な発言と取れる「ユニバーサル・ベーシックインカム」(働く企業・業種に関わらず保証される基本的収入)に触れたのが、取り上げられただけだ。
ベーシックインカムへの言及に限らず、気候変動の問題やボランティア、教育の問題に取り組むことや、グローバリズムを受け入れ、独裁とナショナリズムに立ち向かうことは、「僕らの時代の重要課題」と訴えた。つまり、内容は全面的に「アンチ・トランプ」だ。
「彼は、大統領選に立候補するつもりなのか」
MSNBCのアンカー、クレイグ・メルビンが、ザッカーバーグ氏のスピーチの報道をした直後、こう言った。内容が政治的だったが故に、世界6番目の億万長者がアメリカの首脳を目指すのかどうかが、逆にニュースになった形だ。ザッカーバーグ氏は立候補を公式に否定しているが、大統領選に立候補する可能性について、米メディアはこれまでに、以下を報道している。
- ザッカーバーグ氏が支配権を持つFacebookの株式について、再分類すれば、株式のコントロールを失わずに、政府で働けるとするメールが明らかになった。
- 昨年の大統領選挙戦以降、トランプ氏が勝利した中西部や南部、激戦州を中心に、市民を訪ねる行脚を政治家のように繰り返している。主に学校や大学を回り、トランプ氏に投票した家庭をサプライズ訪問し、意見交換を続けている。
- 2020年の大統領選挙の年に、ザッカーバーグ氏は立候補の資格である35歳以上に達している。
母校ハーバードでスピーチをするマーク・ザッカーバーグ氏。アメリカでは以前から次の大統領に立候補するのではないかとの憶測が飛び交っている。
Paul Marotta/Getty
ザッカーバーグ氏は、有名人が行う卒業式スピーチにありがちな「人生の目的を見つけろ」的なスピーチを避け、「誰もが、何らかの目的の意識につながる世界を構築すること」が大切だ、と強調した。ハーバード大のような名門大学では、人生の目的など誰もが見出しているというのが前提の発言だ。
筆者はハーバード大の学生や教師を何度も取材したが、知識は「世界をよりよくする」ためのものであると教えられている。多くの学部生が在学中に起業しているが、「何のために起業するのか」という目的意識がはっきりしている学生は多い。ザッカーバーグ氏も「世界中の人をつなげる」Facebookを発展させるために、同大を中退した。彼のスピーチは明らかに、そうした知的特権階級の卒業生に対して発信された。
クリントン氏はアメリカを二分する大統領選挙の候補者だったため、スピーチはメディアで注目された。一方ザッカーバーグ氏は、Facebook という革新的なツールを構築したミレニアル世代が政治的な発言をしたということでが注目された。ザッカーバーグ氏は裕福な家庭に育ち、ハーバード大に行き、Facebookを生んだエスタブリッシュメントの一部だ。クリントン氏のスピーチに比べ、ハーバード大の学生しかわからないジョークも固有名詞も多く、アメリカ社会のごく限られた層の若者に対するスピーチでもあった。
しかし、ミレニアル世代は「国際市民」であるという認識など、前向きで発展的な示唆に富んだスピーチだった。困難な時代だが、目的意識を持ち、就職という目的のためだけでなく、自分が社会や世界の中で何ができるのかと考えることが、ミレニアル世代にできる強みだと強調した。しかも、33歳である彼の世代のオピニオン・リーダーは極めて少ない。
彼のスピーチがアメリカのメディアの世界で注目の度合いが少なかったのは、メディアが旧態依然としているからに過ぎない。アメリカでは残念なことに、彼のスピーチが「歴史的」と受け取られるには、少し時間がかかりそうだ。
津山 恵子:ジャーナリスト、元共同通信社記者。ニューヨーク在住。主に「アエラ」に米社会、政治、ビジネスについて執筆。近所や友人との話を行間に、米国の空気を伝えるスタイルを好む。