この記事を書こうと思ったとき、少しまえに偏差値40がどうこうといった発言が話題になったのを思い出した。
誰が言ったのか調べたら、かの有名なはあちゅうさんだった。
その発言がこちら。
電通の先輩が、
「CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の『普通の人』だ」
って言ってたの、一番役に立ってる教えの一つだ。
— はあちゅう (@ha_chu) January 30, 2017
私は彼女が書いたものを読んだことはないが、ツイートはよくイイネやRTで回ってくる。
なんていうか、相田みつおと太宰治を足して二で割ったものを、パンケーキのうえにトッピングしたような発言が好きではない。
しかし、この発言だけは同意できる。
さらに私から加えると、この世界は偏差値40の人たちに汚染されていると。
そう思った知人との会話を紹介する。
「偏差値60」以上の知人との会話
彼女をBさんとしよう。
ちなみにBさんのスペック。
- 三十代の後半
- 院卒
- 一部上場企業勤務
- 二児の母
- 旦那も院卒で一部上場勤務
これを見ても分かるように、知的レベルは低くはないはずだ。
年収などは聞いたことないが、勤務先や学歴から見ても現代の平均的日本人より高いほうではないだろうか。
先日、何か記事になるようなことはないかと思って、Bさんに社会でも会社でもいいから疑問に思うことや問題を感じることはないかと聞いた。
というのも、Bさんはいつも会社の不満を言うので、何かあるだろうと思って聞いたのだ。
あ、『Blog Media 横紙やぶり』は、いちお社会問題、時事問題を中心に扱っています。
Bさんはいつも通り、会社の不満を口にし始めた。
上司のこういうところがいけない、こういうアイデアがあるのに会社は聞く体制がない、こんなことをやれば儲かるかもしれないのに…などなど。
Bさんが一通り話し終えたあと、私は具体的な問題点は何でそれをどう改善すればいいか聞いてみたが、Bさんは急に歯切れが悪くなり、しばらく考えてから「そういうのは偉い人が考えることだから」と言った。
それから、では社会に対して疑問に思うことや問題点を感じることはないかと聞いてみた。
「そんな急に言われても…」と言うので、それもそうだと思い、よくニュースで話題になるテーマを振ってみたが、やはり「そんな急に言われても…ぱっとはでてこない」という答えだった。
では、育児経験があるから待機児童のことはどうかと思って聞いてみると、それならあると言ってBさんが話したのは、どこそこの保育園は入れやすいとか、でもあの保育園は場所柄が悪くて親たちに品がないから子どもを行かせたくないとか、あそこの保育園は保育士の評判が悪いとか、そんな話しだった。
ニュースは何で見ているか聞くと、大半がテレビで、あとはネットで興味をひいたのをちょこちょこ見るぐらいだと言う。
Bさんはさすがに、ばつが悪くなったのか、最後にこんなことを言った。
「あたしは世の中のことに興味ないわけじゃないし、意見がないわけでもない。傍観者なの」と。
世界を構成する「偏差値40」
私は先日、こんな記事を書いた。
ふるまいよしこさんとのツイッターでのやりとりで、メディアに関する自分の考えをまとめたものだ。
この記事でふるまいさんは、最近の記事はメディア側も読者側も「極端に情緒を刺激するものや、異様に軽いものばかり採用されて」いることを指摘し、メディアは「読む人が少なくても提供すべき記事は提供すべき」というメディア倫理が欠けていると言っている。
では、読者側はどうだろう?
私は、Bさん以外とも何人か話をした。高卒、専門卒からBさんのような院卒、大卒でも専門的な資格を保有しているひともいる。
でも、Bさんとのやりとりと大差なかった。さすがに「あたしは傍観者」なんて言う人は他にいなかったが…。
それらの人々の学歴での偏差値は様々だが、彼らに共通する点がある。
- 世の中の出来事に、能動的に情報を得ようとしない。
- 自分の生活に関わる問題であっても、Bさんの保育園の話のように、スーパのチラシを見て商品を決めるぐらいの関心しかない。
- 世の中の出来事にたいして主体性がなく受動的で、情報に流されやすい。彼らの大半が、小泉政権のとき自民党に投票し、民主党が政権交代したとき民主党に投票している。
彼らの学歴での偏差値は様々だと言ったが、社会への関わり方という点では偏差値40もない。
そして、こんな人たちが社会の大半を占め、「普通」と呼ばれている。
はあちゅうさんのツイートから引用するなら、「世間にいるおそるべき量のおそるべきバカ」で、「日本の『普通の人』だ」と。
ここで前回の記事で引用したふるまいさんのツイートをもう一度引用したい。
@d_yokogami NYT何かを読んでいていつも感じるのは、大統領がトランプだろうがオバマだろうが、NYTは社会があるべき理性を常に中心に記事を作っているということ。その「あるべき理性的ルール」に照らして、おかしいと思ったら法律に対しても政治家に対しても、そして学校にも企業にも疑問符をつける。
— ふるまいよしこ (@furumai_yoshiko) May 23, 2017
ふるまいさんは、社会にある問題を「問題」として認知するには「社会のルールに即して思考」と「社会があるべき理性」が必要と言っている。
仮に今、メディア側が何らかの危機意識に目覚め、現在のPV主義を止めて「そのあるべき理性的ルールに照らして」、報道すべきことを報道し始めても、彼ら「普通の人」はウンともスンとも言わないだろう。
はあちゅうさんがどこの大学に行ったか知らないが、社会的偏差値は70以上で、ここで書いたようなことは知り尽くしている。
普通のひとにも不満はある。だからそれを耳障りのいい言葉、相田みつおと太宰治を足して2で割ったものをパンケーキのうえにトッピングしたような甘い言葉でファンをあつめ、おひねりを投げさせているのだ。
しかし、はあちゅうさんなんて可愛いほうだろう。
社会にはもっと偏差値の高いひとがいて、もっとシステマティックに普通のひとからお金をせしめている。
こういう人達は、普通の人間が「普通」であることを永遠に望むだろう。
だが、この二項対立が社会のあらゆる問題の大きな原因の一つであると私は思っている。
普通の人よ、あなたが「普通」であること、「偏差値40」であることが世界を歪めている一因なのだ。
あなたが持っている不満、納得できないけど我慢していること、それは本来、社会で解決すべき重要な問題かもしれない。でも、あなたが「普通」であること、「偏差値40」であることで放置され、世界を歪めているかもしれない。
つまり、この世界は偏差値40によって汚染されていると。