あの日 あのとき あの番組「集団就職〜ひよっこが描く“金の卵”たち〜」 2017.05.28

(クラクション)三男〜!行ってきます。
行ってきます!お姉ちゃん!頑張ろうね!
「連続テレビ小説ひよっこ」。
主人公のみね子は家計を支えるため東京に集団就職します
(アナウンス)「上野〜上野〜」。
昭和30年代から40年代多くの少年少女が地方の親元を離れ都会に出てきました
金の卵と呼ばれたものの慣れない仕事は失敗の連続
すみません。
(ブザー)すみません。
(ブザー)もう…すみません。
それでも仲間たちと支え合いながら見知らぬ町で根を生やし生きていく。
昭和を象徴する一つの時代が描かれています
今日ご覧頂くのはそんな集団就職の実像に迫った番組です
今年で最後となる集団就職列車が岩手県盛岡駅から発車した。
40年前の集団就職列車を記録した番組。
そこには夢を抱き期待に胸を膨らませる若者たちの姿がありました
そして歌手の上條恒彦さんが集団就職のその後をルポルタージュ。
上京から5年二十歳を迎えた若者の多くは厳しい現実に直面していました
だんだん出てくるんじゃないかな。
理想と現実に立ち向かった金の卵たち。
集団就職の時代が残したものを改めて見つめます
こんにちは。
日本の高度経済成長を下支えした集団就職。
あの時代ふるさとを離れた少年少女たちは物や人があふれる大都会でどのような思いで働き生きてきたのでしょうか。
今日はその時代を振り返ってまいります。
スタジオには歌手で俳優の上條恒彦さんにお越し頂きました。
よろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
上條さんはかつてNHKの番組で秋田から集団就職する少年少女を取材されていますね。
はい。
後ほどその話もゆっくり伺ってまいります。
この集団就職始まったのが昭和30年ごろから20年ぐらい続いたんですけれども上條さんが長野の高校を卒業して俳優を目指して上京されたのもちょうどその時代昭和33年ですね。
中学や高校のお友達それからお知り合いの中で当時集団就職をされた方っていうのは多かったですか?はい。
僕らの頃はまだ子どもが多くてクラスは45人ぐらいいました。
そのうち半分以上…半分まで届かないぐらいは就職する人たちでしたね。
女子がですね何人かは紡績工場に就職…。
一緒に就職した方がいるんじゃないかと思います。
上條さんがお生まれになったのが長野の山あいの農村でいらっしゃるという事で農家の6人兄弟の?…の末っ子。
末っ子でいらっしゃる。
当時生活暮らしぶりはどのような感じだったんですか?貧しかったですね。
父親が戦争中に亡くなりましたのでね家はとても貧乏で母親はものすごい苦労したんじゃないでしょうか。
まあ赤貧って言ったら彼女に悪いですけれども…。
やっぱり周りに住んでいらっしゃるお宅も同じような状況の方が多かったのではないかと思いますけれども…。
村中みんな貧しかった。
村中どころか日本中貧しかったんじゃないでしょうかね。
それでみんな都会へ出たんじゃないでしょうか。
少しでも働き手が外に行ってくれると助かる?助かるという事がありましたね。
そうなると遠い所に職を求めなければという?そうです。
近い所にあんまりないですもんね数がね。
当時長野の農村にいらして思い描く東京っていうのはどういうものでしたか?憧れもありましたよ。
都会ですから。
行く所が都会ですからね。
憧れて…。
例えばお盆だとかお正月に先輩たちが帰ってきてちょっといいものを着てたりなんかする事があるじゃないですか。
それはもう本当キラキラ輝いてね羨ましいなと思うんですね。
だからみんなただ家を離れて就職しなくちゃいけないっていうつらさ悲しさもあるけれどもどっかには憧れがあってね自分もああなりたいっていうふうに思う部分もあったんじゃないかな。
またそのお話もゆっくり伺えればと思います。
まず一つ番組をご覧頂きます。
集団就職の終わりの頃に取材制作したドキュメンタリーを通して集団就職の歩みを振り返ってまいります。
1975年放送の…短くまとめております。
ご覧下さい。
3月24日夜今年で最後となる集団就職列車が岩手県盛岡駅から発車した。
この日岩手県内から上野に向かった中学卒業者たちは僅か370人余りであった。
5,000人を超えた昭和40年ごろに比べるとその10%にも満たない人数である。
労働省が計画輸送列車と呼んだこの集団就職列車は昭和30年からこれまで20年間にわたって全国各地の中学卒業者を大都市に送り続けてきた。
この20年間に集団就職列車に乗った者のおよそ70%以上は東北と九州地方の中学卒業者たちである。
しかしその数は毎年減少し今年岩手県から出るこの集団就職列車を最後に20年間の歴史を閉じる事になった。
日野沢愛子さんは愛知県の紡績工場に勤める。
彼女は岩手県岩手郡西根町の中学校を今年卒業した。
南部富士と呼ばれる岩手山の裾野にある西根町は人口2万人足らず。
米と畜産の農村地帯である。
そのほとんどは兼業農家で都会に出稼ぎに出る。
愛子さんの家も牛を4頭と畑を少々持つ兼業農家である。
両親と5人兄弟のうち既に兄と姉は県外に就職して家を出ている。
(取材者)お父さんはやっぱり愛子ちゃんがかわいいでしょ?まあ愛子ちゃんかわいいって子どもはみんな同じですけども。
う〜ん私としては当たり前っていうかこうしなくてはならないんだと…。
また本人もそう考えてる事だと…。
自分ではそう思ってる訳です。
聞いてはいませんけども。
30年ころはね就職難の頃だったですね。
それでなかなかいいところに就職できなかったんですよ。
まああの…。
半年から1年ぐらいたったあとにね回ってみたらまるで言葉悪いけれども酷使されてるようなところがございまして子どもが「逃げたいなあ」と言って訴えてる事ありました。
そういう時には「ちょっとの間待っててくれよな」とそう言って職安に行って相談してね違う職場に転職してもらうために雨の中を駆けずり回ってきた事もございましたね。
それでまあ職場を開拓するのに苦労しましたね。
東京の事業所なんかを回って歩いてですね採用して頂けないでしょうかっていうのはそういうのはお願いに歩いた事ございますけれども「うちは間に合ってます」とか「もう定員採用しましたから」とか断られた事もございます。
何せ向こうの方が高姿勢でねなかなか就職できなかったです。
当時は中小企業が多かったですね。
佐藤武さんはまだ就職難の時代だった昭和30年代の初めに集団就職列車に乗って岩手県から上京した。
彼はその時入った工場で既に16年間も工員として働いている。
そして工場の仕事以外に朝夕新聞配達を続けている。
佐藤さんは集団就職で上京してきた若者たちのグループである東京ふるさと会の岩手県の責任者である。
彼は新聞配達で得た収入の全てをこの会の活動資金に充てている。
東京ふるさと会は集団就職で上京した仲間同士がお互いのふるさとを話し合い励まし合おうというのが目的である。
日曜日の上野公園はふるさと会の活動の場である。
公園にたたずむ若者たちに一人一人声をかけている。
地方の出身でしょ?田舎地方でしょ?鹿児島です。
そうですか九州の方ですか。
お宅さんも鹿児島ですか?はい。
いいですよ。
九州の人なんかもねたくさん仲間いますので一緒に歌ってくれますか?西郷さんの…。
同じ鹿児島なんですから西郷さんの前で一緒に歌いましょうよ。
今日俺ここに来るの知ってた?いや…。
うわ〜よかったね。
これ岩手の出身だから。
同じなんだって?じゃあ一緒に今日はなっ。
君はどこ出身?富山県。
東京へ来て?ちょうど6年目に入ります。
仕事どんな仕事してるの?今クリーニング屋やってます。
愛知県で働いてる…。
やっぱ上野っていうとみんな上野着く…。
大体上野に着くんだからやっぱり上野っていうのがいいんじゃないですか。
好きですね。
(取材者)向こう行ったら何か楽しみもある訳?やっぱり友達が増えるから楽しみ。
(取材者)働く方はどうかな?やっぱり習った事ないしそれに見た事もないから見るの実は楽しいような感じ。
(取材者)どこ行くの?信州手打ちそば横浜の。
(取材者)君の希望はどんなものかな?立派になりたいと思います。
全然眠れなかった。
(取材者)どうして?もう行くのが嫌で…。
今日何か不安だったね。
やっぱり親と離れたからね。
(取材者)昨日は平気だった?昨日は平気だった。
(取材者)これから一生懸命やってく自信ある?あります。
あるからね来たんだもん。
金の卵っていわれるようになったのは37年か8年ころからだったと思いますね。
39年ころの東京オリンピックの頃からですか。
高度成長といわれた時代からですね金の卵金の卵ともてはやされた頃ですけれども。
そのころは学校へたくさん求人者側の方が毎日来ましてね。
それで「うちの会社に是非採用させて頂きたい」とか「お世話願いたい」とか会社の宣伝に手を替え品を替えいろんな事ありましたね。
「将来うちの幹部職員として海外に研修させてあげる」とかそれから「将来は支店を持たせてあげるから」とかそういうのがいろいろございましてね40年やら43年ごろの時代が一番ピークだったと思うんですけどもね。
しかしこのころから集団就職者の離職や転職が目立ってきた。
この青年は中学卒業者が金の卵と呼ばれていた頃西根町の中学校から集団就職で上京した。
彼はこれまで十数回職業を変え現在は定職を持たずに放浪している。
過去の雇い主や仲間に知られる事を心配して名前を出さない事が取材の条件であった。
(取材者)ここんとこに最初いた訳?うんここにいた。
ここへ就職してきてここでここの工場長と会って話して働いてた訳。
(取材者)パンフレットで見るとすごくよかったって言ってたけども…。
うん本社の方写ったでしょ。
ここは写ってなかったね。
分からないね。
だってカタログではやっぱり見せられたけども随分立派ないい場所しか撮らないからね。
部分部分にね。
社会的にいったら変わった事そのものがねおかしなものになっちゃうんだろうけども本当はこういう仕事やりたいとかああいう仕事やりたいと思っても要するに学歴がないから落とされるって事は随分ありますしね。
いわゆる僕はよくあったけど「あなたはどこの学校を出ました?」「私は出ていない」。
「どこの大学を出ましたか?」「私は出ない」。
あとは話もしてくれないね。
僕は身をもって体験してるから言えます。
つらいね。
その度に差別されるでしょ。
それで小さくなってひっそり暮らす事になって。
だからひょっこり汽車に乗ってどっか行ってしまうような事をやっちゃったりして…。
これ僕に言わせりゃ人間不平等列車でしょうね。
差別をつける不平等列車なんでしょうね。
じゃあ何が正しくてどうすりゃいいんだって考えると僕は答えに窮するけどもでも今年で終わるというから。
でも終わってもね変わらないでしょうね。
(車内アナウンス)「終点上野までおよそ20分でございます。
上野お出口は左側でございます。
終点上野のお出口は左側左側でございます」。
そうですね。
まあ夜行で1晩揺られてね未知の世界といいますか。
遠い所に就職する不安。
それから都会への憧れもあったかもしれないけれども実際はね親元を離れて遠い所働きに出る訳ですからいろんな悲しい事やつらい事なども思い出されたりしてね。
本当にうまく働いてくれるだろうか元気でやってくれるだろうかっていうような事をもう祈らずにはいられなかったね。
何か今まで教えてきた子どもたちがね何と言いますか…。
本当に一人一人バラバラに引き取られていく様がね言葉で表現できない悲しい気持ちになりますね。
3月25日午前5時半。
最後の集団就職列車は上野駅に到着した。
東京都の旗についてですね4列でお願い致します。
42年前のドキュメンタリー「最後の集団就職列車」ご覧頂きました。
いかがですか?う〜ん…上野駅がね何か胸を締めつけられるような感じがしますね。
東北やあちらから来た方は上野駅にいつも思いがいっていて。
何かっていうと電車一本でうちへ帰る所…。
ふるさとへつながってますからね。
あともしかしたら懐かしい言葉が聞こえてくるっていう事も…。
そうそう。
「訛なつかし」って木でしたかね。
田舎の言葉でしゃべれるという…心安さっていうのがあったのかもしれないですね。
上條さんご自身は長野から上京されて最初にお仕事をしたのが…。
はい大森にありました荒物問屋といいますかね。
古雑貨を扱う?そうですね。
雑貨を注文を受けて販売するというふうなそういう問屋の小僧さんをやったんですけどね。
職場にもですね僕よりも年下の先輩がいましてね。
中学卒業して入った人たちがいてすごくよくしてくれましてね。
年下の先輩が優しかったんですか?優しかった。
彼らも何か非常に親しみを持って僕に接してくれたし僕もふるさとも言葉も違うけれども彼らに心癒やされて。
どういう所で生活されたんですか?寝る所はですね僕らが配達する荷物のある倉庫の2階でもってごろ寝っつっちゃあなんだけども6〜7人…もっとかな?寝てました。
まあ今から考えればね劣悪な状況だったですよ。
でもそのころは劣悪だなんてふうに思わなかったし世の中じゅうが貧しい時だったからごく当然だっていうふうに思ってましたからね。
中には決心して希望を持って上京しても思うようにならないっていうそういう例もね今描かれていましたよね。
やっぱり転々と職を変えていった方とか…。
いましたね。
ここにも一人いますけどね。
続かないんですよね。
僕はねちょっと不純でね俳優になりたいなんて夢を持ってたもんですからねあれなんですけど…。
やっぱり「いくらやってもおんなじだよこんなの」っていう思いがね。
働けばすぐ分かっちゃうじゃないですか。
自分の将来がどうかっていうの。
そうするとつらい事があるといたくないよねそんな所。
「一旗揚げたい」「なんとかふるさとの親を楽にさせたい」って思ってもなかなかそうできない現実が…。
ありますね。
当時集団就職をしてた人たちがどんな思いで働いていたのか改めて振り返っていきたいと思うんですけれどもこの「最後の集団就職列車」とほぼ同じ時期1974年に上條さんは秋田から集団就職をする15歳の少年少女たちの取材をしていらっしゃいますよね。
千畑村だったかな?はい。
当時の15歳どんな印象でしたか?みんないい子たちでね。
もう何人か顔も忘れてしまったけれども「あ〜この子たちが苦労するんだ」と思ったら複雑な気持ちがありましたね。
そして実は上條さんはその5年後二十歳になった若者たちに再会しているんですよね。
ええそうですね。
成人式に行ったんですね。
集団就職をしていた若者たちにとって5年間というものはどういうものだったのか。
1979年放送の…ご覧下さい。
長沢明美です。
岐阜の紡績会社に勤める事になりました。
父は農業をやっていて趣味は編み物とブロマイド集めです。
高橋和文です。
神奈川県の自動車工場に就職します。
今父と兄が出稼ぎに行っています。
そして現在うちにいるのが僕と母です。
煙山よね子です。
今度東京の紡績関係の会社に勤める事になりました。
父は出稼ぎに行っていません。
趣味は文通です。
高橋忍です。
父は出稼ぎに行って家には母と祖母と弟2人です。
今度神奈川県の木工会社に就職する事になりました。
趣味は釣りです。
高階由喜子です。
愛知県の紡績会社に行く事になりました。
父は8年前に亡くなり母が農業をやっています。
趣味は別にありません。
藤井清です。
愛知の自動車会社に就職する事になりました。
父は今出稼ぎに行っていなくうちに5人ほど残っています。
武藤滝子です。
愛知県の紡績関係に行く事になりました。
趣味は詩と文通です。
父は今東京の方へ出稼ぎに行っています。
高橋りつ子です。
今度愛知県の紡績会社に行く事になりました。
父と母は農業をやっています。
趣味は別にありません。
前田敏行です。
今度東京のそば屋に調理師見習として行く事になっています。
趣味はラジオなどを作る事です。
それから父と兄が出稼ぎに行っています。
それで母と2人暮らしです。
ちょっぴりさみしい時もあります。
それから夢としてはどんなに小さな店でもいいですからお客さんに気に入られるような店を作りたいと思っています。
以上終わり。
前田君。
前田君。
前田敏行君?はい。
どうも。
手紙どうもありがとう。
お久しぶり。
お久しぶりです。
変わんないね。
どうぞ中へ入って下さい。
はい失礼します。
5年前に僕はこの秋田県仙北郡千畑村という所へ来たんです。
それも3月の20日。
明日集団就職列車が出るというそういう時でした。
その時にこの千畑の中学校を卒業する卒業生の中でもって集団就職列車に乗る9人の若者と会ったんです。
5年後にここでまた会おうという約束をして来た訳なんですね。
典型的な出稼ぎ地帯ですから1月15日の成人の日は成人式はやらずに日本中の人たちが戦争はもうごめんだと思い起こすこの8月15日明日ですがその日にこの村では成人式が行われます。
まあ5年っていう歳月どんな変貌を遂げたかそれはいろんな想像はできるんですがそいつを一つ確認しようとそういう気持ちが今回の僕の千畑村訪問です。
変わんね?結婚するん?あ〜!分かんない…。
すごい。
色男。
遅いぞ〜。
どこ行ってたよ?今床屋さ…。
髪も何もないんでもういいや…。
暑っ。
余裕あるね〜。
こんにちは。
久しぶり。
え〜っとあなたが…高階さん由喜子さん。
え〜滝子さん滝子さん。
よね子さん。
どうも。
あれ?これで全部じゃないよね?明美さんが来てないな。
藤井君。
ハハッ!忘れてた。
女の子の方が…。
この2人はもう会っとんな。
まあきれいになっちゃって。
フフフフフフ。
あ〜!うわ〜。
限界だ。
もう助けてくれ。
みんな肉だけ取るなよな。
野菜もちゃんと食べなきゃ大きくならないぞ。
しかたなく入っちゃった時はしょうがないよ。
わざわざ…。
う〜ん俺の場合は大体店持つ事を…念頭に置いてるからあんまり。
とにかくどんどんどんどんちょっとずつ…。
店持つって東京だったら大変じゃない?うん東京高えからな。
どこに持つの?それは分からねえ。
まだまだ先の事だから。
何年ぐらい先の事と思ってる?店持てるのは。
分からねえな10年ぐらい…。
10年じゃちょっと無理か。
うん。
10年じゃちょっとこれは…。
10年たったら20…。
5。
25か。
25だったら嫁さんもらうのと店持つのとどっち先にする?嫁さんもらう…。
(笑い声)う〜ん300万かそのぐらいですね。
本当?へえ〜すごいな!どうやってためたの?まあ…コツコツやっぱりためてますね。
だって4年間300万っていったら1年間で…俺は頭悪いんだよな。
4×8=32…70万か80万ためなくちゃいけないでしょ?1年間で。
そうするとひとつきで5万円以上貯金していった訳?そうですね。
ほとんど貯金してましたね。
何にも欲しい物も買わないで?うん…。
映画見たりパチンコやったりしなかった?たまには行きましたけどね。
そんな夢中になるってほどでもなかったですね。
やっぱり店持ちたいなと思ったらですねやっぱり4年間ずっと…ただちょっといろいろですね。
…でいつごろから自衛隊入ろうと思った?いつごろからですか…。
それは結構遅くですね。
ただいつもですね仕事で高いところへ出前とか行った時にですねちょうどあそこの市谷の自衛隊が見えるんですよね。
そこで何かいろいろかっこいいのやってるんですよ。
レンジャーっていうかそれなんですねロープ張って。
いいなあと思ってですね。
番号始め!
(番号を言う声)しゃべればしゃべるねしゃべられるししゃべんねばしゃべんねってしゃべられるしどうせしゃべんねでしゃべられるよりならばしゃべってしゃべった方がいいからおめえしゃべってみろ。
(笑い声)私は武藤と申します。
体はこのとおり誰にも負けないくらい大変丈夫なんですけれども仕事の方といいましてはまだまだ未熟です。
どうか皆さんよろしくお願い致します。
おねえさん初めて?はい初めてなんです。
よろしくお願いします。
「もう一度皆さんの身の回りを見直してみて下さい。
安全の全ての基本である整理整頓は状況はどうですか?折から安全衛生期間推進項目も今月から…」。
(拍手)おめでとうございます。
どうですか?気分は。
いい気分ですか?私も5年ほど前に成人式をやりまして…。
(笑い声)正確には10…何年前かな。
十数年前なんですが今その事をずっと思い浮かべていました。
こう見渡してみると希望にあふれた顔の中にちょっと既に生活に疲れた顔をしてる人が…。
椅子に座った方背筋すっと伸ばして下さい。
よろしいですか?じゃあご一緒にここ見て下さいよ。
はいじゃあ写します。
(シャッター音)はいいいです。
どうもありがとうございました。
わっしょい!わっしょい!わっしょい!わっしょい!わっしょい!わっしょい!わっしょい!それこそ学歴の時代だからよ。
高校も…。
行きたいと思ってたと思うよ。
行きたいと思ってたと思う…。
敏行君出ていっちゃったら今度の冬はお母さん一人って事になりますか。
そうだべな。
寂しいなあ。
大都会さ出してやるの心配だどもや。
自分で選んだ道だべなんだからよしかたねえべなって…。
自分で選んだ?うん。
先輩たちの言う事から新人の言う事…よく頑張ってもらうけどもっていうさ。
それなんかな当然よ。
当然か。
一応安心したんじゃない?う〜んどうですかね。
そうだといいんですけどね。
二十歳にもなったし。
もっとですね長生きしてもらってですねやっぱり結婚式もしたかったし孫も見てもらいたかったですね。
いくつだった?51歳ですねまだ。
じゃあまだね…。
少なくても20年生きられたんじゃないかなと思ってたんですけど…。
元気そうだったもんね5年前はね。
本当にもう信じられないですよ。
どうもいらっしゃいませ。
お久しぶりです。
お久しぶり。
変わった変わったって聞いたけど随分変わったよこれ。
変わんないけど。
変わんない?いや〜恥ずかしい。
恥ずかしいってその前は恥ずかしくなかったじゃない。
まだ幼かったもんだから。
(笑い声)長沢さんはさやっぱり高等学校行きたかった?うん最初はな。
今は?今なら入る人今年すごく落ちるから何となく入ってな落ちた人何となくかわいそうやな。
そうだね。
お嫁に行くんだって?うん。
いつ?来年の春ごろだと思いますけど。
どこ?六郷の人なんですよね。
でももしかすれば県外出るかもしれないし…。
それはおめでとう。
どうも。
恥ずかしい…。
女の子変わるね!こんないい女にはならないよ。
え?こんないい女にはならないよ。
暑いな。
月まず1万円はうちさ送って。
うちさ送って。
もう1万円は貯金して。
貯金して。
あと1万円は?もう1万円は使うと。
使うと。
何に使う?何に必要だと思ってる?あまり使わないでおいてそれチョコチョコとためておいてカセット欲しいなと。
入った頃は大体手取りで4万ぐらいしかなかった。
ほいで1万ずつ貯金して2万ぐらい小遣いにして1万はうち送ってた。
それはどのぐらい続いたの?1年ぐらい。
それで2年目3年なるにつれて給料上がっていってほいでもってだんだん貯金もたまってきて車買った。
ほいで車買ってほいで…。
続かなくなっちゃって…。
遊べるし東京の方がいいじゃない?性格的に。
そういう点はねうん。
どういう点が嫌だったんですか?悪い点ってなかったよ別に。
なら帰ってこなくていいじゃん。
まあいろいろとあってさ。
それでその会社とけんかしたっていうのは何かあったの?言いたくない。
ん?言いたくない。
向かなかったんだと思う。
何?向かんかったの。
嫌だったの会社が。
上の人とつるむの向かないな。
(声援)それで前田さんの歌は何ですか?「女のねがい」です。
「女のねがい」だそうです。
去年大ヒットした「女のねがい」だそうです。
それではお願い致します。
・「花にも生命があるように」・「咲いて散るよりつぼみでいたい」分かんなくなったもんなあ…。
「間違った!」。
(笑い声)いつ帰ってきたの?忍は。
4月。
この4月?うん。
本当?うん。
帰ってきたばっかりじゃん今。
そう…。
退職金どのぐらいもらったの?15万。
15万?ふ〜ん…。
(前田)安いな。
俺のそば屋なんてもっとひどかった。
4万円ぐらいしか出さなかったもん。
退職金?そう泣いたで本当に。
もう少し退職金…。
あんまりだから…そういうのれん分けとかそういうのも面倒くさげだったもんなあ。
貯金どのぐらいたまったの?あの時で20…30万近かったな。
そんなにためたか。
それじゃあ…。
それで車の頭金に払った。
全部?うん。
もったいない。
ほんであとどんどんぱっぱになっちゃったよ。
何がどんどんぱっぱだ。
(笑い声)全然無くなっちゃったの。
そりゃそうだよ車買ったらな。
車買った頃給料いくらになってたんだ?あのころは手取りでね6万ぐらい。
大体倍になったんだ。
ほいでガソリン2万円でしょ?月賦2万円でしょ?保険が1万ぐらいでしょ。
もう全然小遣い残んねえ。
毎日カップヌードル食べて…か〜っわびしい。
何だ寮じゃなくてか?寮で寮で。
寮でか。
寮で日曜日の度にカップヌードル。
(笑い声)だから大きくならなかったんだよ。
(前田)だから伸びねえんだよ!そうだ成長期にカップヌードルなんか食ってるからいけないんだ。
さっきの劇的な話とは随分違うじゃないか。
(高橋)あれは夢の話。
夢でビフテキ現実はカップヌードル。
(笑い声)
(前田)こうやって戻ってきてよかったんじゃねえかい?うん…。
どう思う?忍。
ふるさとがやっぱりいいか?やっぱね。
あのね都会と違ってねやっぱ温かみがあるよ。
温かみっちゅうかねやっぱそういう事。
ある。
お父ちゃん母ちゃんだけじゃなくて?人との触れ合いがねすごくいい。
だってそれは湘南木工にいたっていい仲間はいたんだろ?そりゃいたけどさやっぱそれと違った味があったよ。
(前田)やっぱり違いますね。
つらかったか?5年間はやっぱり。
う〜ん…つらい事もあったかもしれない。
そんなやっぱりいつもつらいって事だけじゃなかったと思いますけどね。
でも忍だって忍なりに敏行も敏行なりに苦労した訳だろ?頑張った訳だろ?頑張った俺もや。
頑張りましたねやっぱり自分なりにですね。
一番頑張った事って忍何?うん?なんとかここで頑張ろうって…。
仕事!仕事?頑張った本当に。
真面目にやった?うん。
ある程度まで。
ある程度ってのはどんなとこ?でもさ…でもいいや。
でも言ってごらん。
言わねえ。
何で?全国放送だもん。
(笑い声)全国放送だっていいじゃねえか。
駄目。
これよちょっと言われちゃ困るんだ。
あとで会社の言う就職先につかえるべ?そうだな。
やめとくよ。
これもよ放送できんな。
分かったか?分かったか?
(前田)回ってるよあれは。
あれは回ってるよ?知らんよ俺は。
反対に前田君の場合は励みになったんだろ?番組に出た事が。
励みになりました私の場合は。
忍だってそうだろ?いや…。
絶対なったと思います私は。
分からんけども絶対なってる。
・「ひと目で好きになるよりも」・「ひそかに愛をささげてみたい」・「酒場で育った女でも」・「一度でいいからよわないで」
(笑い声)あれ?何だっけ?駄目だえ〜っと…。
(笑い声)あの時の気持ちは本当に私はねあのまんまです。
あのテレビに映ったまんまの気持ち。
そのままずっと私やったと思います。
1年2年3年。
4年目になってからねやっぱり多少ちょっとぐらついた関係で辞めちゃったからしょうがないけどもあの3年間までだったら本当にあの気持ちのまんまだったと思います。
私10年たっても一生懸命頑張ってですね「店持ったろ」と思ってましたから。
今の目標は?私今考えてないです。
今これが放送されるんだったらですね銭とかそういうんじゃなくて私コツコツ金ためましたけどねそれも確かにいい事だと思いますけどねやっぱその分私はねいろんな意味でこの彼なんかよりかね青春…青春って言ったらいいんですかねやっぱり損しましたよ。
金かけてね…そういうおめえと違ってな何でも…確かに遊ぶのもいいと思うけどよただめったやたらに遊ぶんじゃなくてね確かに遊ぶって事も大切だと思いますよ。
私はどっちかっていうと本当にコツコツコツコツ本当に金ためて確かにいっぱい金たまったけどやっぱり今考えてみてね最近思うんだけどやっぱり何ちゅうのかな金ためたのはいがったけどもねそれはそれで確かにいがったと思いますよ私は。
5年前はね全然金もない。
本当にあのころ何もなかった本当に何も。
免許も持ってなかったし何にもないゼロからだったけど今はやっぱり金も持ってるし免許も持ってるしね自動車の免許とかいろんな免許ですねあるからいくらかあれだけどもそれでもやっぱりもっと…ただ金ためるだけじゃなくてね遊んだり人とつきあうのがやっぱり大切じゃないかなと思いますよ。
でも無理するなよな。
ああそうですね無理は…。
無理は禁物だな。
さっき言った事を別の言葉で言えば暮らしにゆとり持たなきゃいけないって事だな。
でもゆとりは自然に出てくるよ。
コツコツやった繰り返しの中でさだんだん出てくるんじゃないかな。
(前田)分かりますねやっぱり。
だと思います。
やっぱりこの5年間振り返ると無理した?自分で。
無理しましたね。
私はっきり言って無理したと思います。
苦しかったって事はなかったですけどねやっぱりいろんな意味で私無理したと思いますよ。
そりゃそうでしょ。
300万ためたって言ってんだからこりゃ大変だ。
考えられねえ。
300万300万って言うんですけど本当はやっぱりもっとためてあるんですよ。
本当か?はい。
あんまりためたって言うとまるで私が金の亡者みたいだったからそういうふうに思われると嫌だから一応300万って事にしてありますけどね。
やっぱり本当に店持ちたかったですね私は。
今もそう思ってますけど。
おかあさんおかあさんどう?そんな行かないで。
ば〜っと…いいか?もう一回もう一回。
みんなチーズとかバターとか言えよ。
(笑い声)いいか?もう一回…。
いいですか?いいですか?せ〜の…。
(一同)わ〜っ!
(笑い声)もう一つかける?よしもう一つかけよう。
どうやってかける?トラック待ってんだから早くやろうな。
いいか?はい座って。
考えた?考えなきゃ駄目だよ。
いいか?せ〜の…。
(一同)ば〜っ!5年ぶりに会ってみるとあの15歳の少年少女たちが非常にたくましい生活者に変わってるんだなって事をつくづく感じました。
しかし20歳っていうのはとっても複雑な年齢だなと思います。
それは僕自身もちょうど二十歳になった時は神奈川県のコンクリート工場でもんもんとした日々を送っていましたから何となく分かるような気がするんです。
前田君は5年後に店を持ちたいなんて言ってましたけれどもそいつが果たして実現するだろうか。
意地悪な意味じゃなくて何となくそれを見たいなという訳でまた5年後ぐらいに彼らの行く末を確認したいとそんな気持ちです。
元気でな。
あっどうも。
上さんもあんまり酒飲み過ぎないように。
ハハハハハ!腹出てきてるから。
お前も酒覚えるな。
あんまり無理すんなよ!はい分かりました。
手紙出すからな!お願いします!私も出します。
1979年放送の「ルポルタージュにっぽん」でした。
随分時がたって改めてご覧頂いて…。
感動的だよねあの若者たち。
前田君にしても忍君にしても。
すごいなあ。
あんな若いのにあんなふうに人生を学んでね。
成果は上げられなかったかもしれないけれど彼らがあの人生のあの最初につかみ取ったものっていうのは本当に掛けがえのない貴重なものをつかんでますよね。
ある意味何か大人でしたね。
本当に本当に。
働いて仕送りをしたっていうねそれすごいよね。
彼ら貯金の事しか言ってなかったけどでも親の暮らしを支えたんだっていうのがね彼らはごく当たり前の事でそんな大事な事に考えてないのかもしれないけどでもこうやって外から見るとそこが一番すごいところだなって見えますよね。
15歳でふるさとを離れた9人のうち7人が職を変えてそして6人がふるさとに戻ってきてるという状況でしたね。
いいじゃないですか。
とてもいいなあ。
どっかよそ行っちゃうんじゃなくて戻ってくるっていうのはまっとうですよ。
言ってましたね「ここがいい」って「ふるさとがいい」って。
あんな短い間都会に出て働いて苦労して苦労したからなんですけれども「ここがいい」っていうのをあんな若い時に分かったっていうのは彼らにとって幸せな事だったかもしれないなと思いますね。
番組の最後にみんなたくましくなってでもその二十歳っていう年はまだ複雑な年齢でという事をご自身と重ね合わせておっしゃっていましたよね。
う〜ん…僕も二十歳の時に背広を作って背広を買って背広着て成人式に行きましたけどね。
そして今同級生たちと会ってみますとね変わってない。
いろんな生活をしていろんな苦労をしていろんな目に遭って。
それでもあのころと変わってないんだなっていうのを感じますね。
それはふるさととつながってるからなんじゃないんだろうかなと思いますね。
それを支えにしたり安心の材料にしたりしてそれぞれに頑張ってきたっていう事ですものね。
そうですよね。
今の時代でも望むものと現実とのギャップに悩んでいる若者たちっていうのはねこの当時もそうでしたけれどもたくさんいるかと思いますけれども。
でもねつらいかもしれないけれどちゃんと憧れてね望みを捨てないでね君らが自意識してるかどうか分からないけども君たちの土台はもうしっかり出来てんだから。
だから心配しないで頑張れって言いたいね。
今回番組を再放送するにあたって出演者の皆さんのふるさとを訪ねました。
連絡が取れたりまた消息が分かったりした方大体半数いらっしゃいました。
その中の一人にお会いしていますのでご覧下さい。
ある事務所の建築現場です。
現場で中心になって作業をしていたこの男性
地元の建築会社に勤めて今年で38年。
現在は弟子を抱える棟梁です
せっかく頑張って作ったのにさ「え〜っ!?」て言われたら「俺何やってたの?」ってなっちゃうもん。
4年余りで秋田に戻った忍さんは地元で大工の世界に飛び込みます。
37歳で結婚。
一男一女の父親になりました。
棟梁としてそして一家4人の大黒柱として日々仕事に打ち込んでいます
夢はかなわなかったもののこの仕事を38年続けられた理由。
それは集団就職で勤めた木工会社でもの作りの楽しさに出会ったから。
今では懐かしい思い出だといいます
何か犬と猫がしゃべってるような言葉で…
最後に上條さんへのメッセージを預かってきました
上條さん私も結構年いったけど上條さんも結構それなりになられたでしょう。
何か30何年前一緒に酒飲んで潰された記憶がまだ鮮明に残っております。
一緒に会ってお話しできたらすごく光栄だなと思います。
もしこっちの方に来られるようでしたらお声がけして下さい。
ありがとう忍さん。
会いたいね。
でもすごいなあ。
感動しましたよ忍さん。
頼りになる棟梁という感じでしたね。
本当に。
そして集団就職先でいろんな人と話した事がよかったって…。
言ってましたね。
そうかもしれない。
でも彼の心が広いから話せたんだよねきっと。
話をしてそして獲得していったんだろうなあ。
是非僕も会いたいです。
そのほかに連絡が取れた方ご覧頂きたいと思います。
集団就職から3年後に帰郷されて実家の食堂で手伝いをしていらっしゃいました。
その後結婚されて4人のお子さんを育て上げました。
今は神奈川県で食品製造のお仕事をされています。
それから集団就職で自動車工場に勤めていた藤井清さん。
3年後に帰郷して今は秋田県内で鉄筋工として働いていらっしゃいます。
お孫さんが7人いらっしゃるそうです。
すごいなあ。
そしてもう一方神奈川県の自動車工場に勤めていらした…現在も自動車製造の仕事を続けていらっしゃいました。
15歳からずっと仕事を続けられた理由伺いますと「車が好きで物事を突き詰めたい性格なんです」というふうに話していらっしゃいました。
すごいね。
ずっと変わらないでやってる人もいるんだね。
尊敬しちゃいますよ本当。
さあ今日は集団就職の時代を振り返ってまいりました。
上條さんには15歳の集団就職の旅立ちから5年後更に今をご覧頂きました。
そして改めて今その時代の事を振り返ってどういう事をお感じになりますか?確かにつらい事も多くて恵まれていないなって思いましたけれども今から見るとね今から見るとっていうのは変な言い方ですがいい時代だったんじゃないのかなって思います。
人の心がストレートに通い合えた時代だったんじゃないのかなっていうふうにね。
確かに物はなかった。
貧しかった。
つらい事もいっぱいあったけれどもねでも心は通い合えたと思います。
それはとても貴重な時代であったなって思いますね。
本当に基礎を築いたんですよね彼らが俺たちが。
そうなんだ。
基礎を築いた。
やる事はやった。
やるだけの事はやった。
そういう感じですよね。
上條さん今日はどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
2017/05/28(日) 13:50〜14:55
NHK総合1・神戸
あの日 あのとき あの番組「集団就職〜ひよっこが描く“金の卵”たち〜」[字]

連続テレビ小説『ひよっこ』で主人公・みね子が臨んだ“集団就職”。当時の様子を記録した番組を通して、金の卵とされた少年少女たちの実際の思いに迫る。

詳細情報
番組内容
NHKアーカイブスがリニューアル。現在放送中の連続テレビ小説『ひよっこ』。主人公・みね子が親友たちと上京し働くために臨んだのが“集団就職”。昭和30年代から地方の少年少女が親元を離れ集団で上京。“金の卵”と重宝され都会の労働力不足を補った。社会の現実はあまりにも過酷で、職場を逃げ出す者、故郷へ帰る者も少なくなかった。集団就職を記録した番組を通して、「ひよっこ」が描く少年少女たちの実際の思いに迫る。
出演者
【出演】歌手・俳優…上條恒彦,【司会】森田美由紀

ジャンル :
情報/ワイドショー – 番組紹介・お知らせ
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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