5月19日から全国の劇場で公開しているSF映画『メッセージ』。SF作家テッド・チャンの「あなたの人生の物語」を原作としながら、『ブレードランナー』の続編に抜擢されたドゥニ・ヴィルヌーヴを監督にしたSFファンなら必見の映画。その作品の系譜をSF作家の新城カズマが「ファーストコンタクト」を切り口に入れ子状のテキストで読み解いていく。その断片の深層にあるものは何か、実際に読んで確認してほしい。
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歴史上、人類以外の知的存在とのファースト・コンタクトはこれまで三度あったし、だから今回は四度目だ……と断言する前に、まずは少々説明を。
今回、とはもちろん映画『メッセージ』(監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ、脚本エリック・ハイセラー、合衆国公開2016年)のことで、それ以前の三つは1977年11月、1945年11月、そして1492年10月に発生している。
1977年……『未知との遭遇』全米公開の日付。
1945年……マレイ・ラインスターによるSF中編「最初の接触」が雑誌アスタウンディングに掲載された時。
そして1492年……クリストバル・コロン率いる船団が「新世界」に到着した時点だ 【註01】 。
というわけで、まずは——映画『メッセージ』という情報の塊をよりよく理解するために——1977年に遡ろう。
【01】
「三つ目は違うんじゃないの?」
「新大陸の先住民を人間以外呼ばわりするのか、許せん!」
といった、実にごもっともな意見については——15世紀末のキリスト教徒がどれくらい偏狭で野蛮な世界観・人間観を抱いたままカリブ海に突っ込んでいったのか、その結果どれほどの悲劇が繰り広げられたのか、を頭の片隅で想像していただけるとありがたい。
簡単にまとめれば、コロン提督当人はさておき、スペイン帝国のお偉方のうち相当の人数が先住民を「同じ人間と認めたくない動機」に満ち溢れていたわけだ。
異星人との接触から生じるあれこれをめぐる騒動についての物語は、もちろん『未知との遭遇』以前から数多くある。映画に限らず、なによりも小説というメディアで。
たとえばウェルズの『宇宙戦争』。これが最初……というわけではなくて、17世紀にはすでにシラノ・ド・ベルジュラックの『別世界または日月両世界の諸国諸帝国』なんてのもある。もちろん『竹取物語』まで遡ってもいいが、それはまた別の系譜——神仙郷譚の入り口だ。
この文章を読んでいるあなたならば 【註02】 、むしろE・E・スミスの『レンズマン』シリーズ、クラークの短編「歩哨」から生まれたキューブリックの映画『2001年宇宙の旅』、レムの『ソラリス』、カール・セーガン原作の『コンタクト』、ブラッドベリの『火星年代記』、ハインラインの『宇宙の戦士』など数々の古典もご存知だろうが、一般には映画『インデペンデンス・デイ』やTVシリーズ『V』(のリメイク版)と言ったほうがわかりやすいだろう。
【02】とはいえ、あなたが何者なのか、この文章の書き手にはわかるはずもない。だからこの箇所はかなり適当な当て推量だ。もしくは希望に満ちた祈りだ。その件についてはまた触れることもあるだろう——ヘプタポッド曰く、あらゆる一瞬の出来事は永遠にそこに居座り続けているのだから 【註2のb】 。
【02のb】
はて、彼らはそんなことを言っていただろうか?
ただし、古典も新作も、上記の作品では主に「接触のあと、いかなる事件がまきおこったのか、そして主人公の運命は?」に重点が置かれる 【註03】 。もしくは、接触そのものの不可解さ、理不尽さ、不条理さに焦点が当てられる。
【03】
たいがいは大戦争と、最終的に二つの種族のあいだにもうけられる新生児なのだが。
『メッセージ』は、そのどちらでもない。というところが、ファースト・コンタクト愛好家にとっては——さらに言えば言語マニア、なかんずく架空言語マニアにとっては、大変よろこばしい。
ファースト・コンタクト、という看板を掲げるからには、やはり実際の手順に、その詳細に、重点を置いてほしい。
コンタクト——意思疎通という課題、さらには意思疎通手段という難問に。
『未知との遭遇』についてのもっとも美しい逸話に、次のようなものがある——映画を創ったのはスティーヴン・スピルバーグ監督だが、幼い頃に彼の両親は離婚していた。いかなる行き違いがあったのか。言葉がヤイバとなって飛び交ったのか、それとも二人はある日静かに別れたのか。いずれにしても幼いスティーヴ少年は深い傷を心に負ったに違いない。彼の映画(とくに初期のそれ)に「うまくいかない夫婦」像がたびたび登場するところからも、それは十分に推察できる。
ちなみにその別れた両親の職業というのが……コンピュータ技師と音楽家。
そしてもちろん映画では、コンピュータ技師がキーボードを叩きながら、ついに来訪した異星人と音楽で意思疎通を果たすのだ。
公開インタビューの場で、そこに秘められた(監督自身も気づいていなかった)象徴性を指摘して、監督を含めた万座の観客に衝撃と感動を与えたのは、『アクターズ・スタジオ・インタビュー』の司会進行役ジェームズ・リプトンだ 【註04】 。
【04】
今でもその動画はYouTubeで観ることができるはずだ——おお偉大なるインターネットよ!
では『メッセージ』のヴィルヌーヴ監督の場合はどうだろう? あるいは原作短篇に惚れ込んで映画化を長らく熱望していたプロデューサー兼脚本のハイセラーは?
それに類する逸話があったとしても、この文章の書き手は驚かないし、今後そうした裏話はさまざまなメディアを経由してあなたのもとに届くことだろう。あるいは、すでに届いているだろう。
ただし過剰な象徴を読み取ることは禁物だ。もしくは、慎重に歩を進めたほうがいい。なにしろこの映画はアメリカの商業映画なのだから 【註05】 。
【05】
もちろん実質的にはカナダ映画と呼んだほうがいいのかもしれないが、商業ベースであることに変わりはない。
原作短篇では、異星人との意思疎通が困難である状況とその解決策に、「フェルマーの最小原理」を用いている。映画版では、これに代えて「サピア=ウォーフ仮説」が使われる 【註06】 。商業映画は、もっとも多くの観衆がもっとも手っ取り早く把握できそうな最短の説明法を表現経路として活用する……フェルマーならぬハリウッドの最小原理だ。
【06】
ここでこの文章の書き手は、生理的嫌悪と懐かしさの入り混じった複雑な寒気を感じている……仄聞するところ、原作者テッド・チャン氏は大意「仮説の結論自体はアレだけど、でも前提は惹かれるよね」と発言したとか。実に大人である。チャン大人[たいじん]と呼ばせてもらおう。
そして『メッセージ』の中でくり返しあらわれるのは、ヘプタポッドの(当初は解読困難な)「言語=文字」に限らない 【註07】 。無数のスクリーンが、映画館のスクリーンに映し出される。TVに映るニュース映像。ネットのイカれたトークショーでがなり立てる男の動画。米軍のコンピュータ画面。異星人たちと人間たちのあいだに存在する透明な壁。異星人の船の内部に穿たれた穴の寸法すら、懐かしの横長70mmシネマスコープに見えてくる。
スクリーンの中のスクリーン。画面の中の画面。
意思疎通の中の意思疎通。あるいは誤解。
【07】
ちなみにこの「言語=文字」(原作では「ヘプタポッドB」と呼ばれる媒体)は、じつに見事に映像化されている。台詞では「非線形non-linear」と解説されているが、言語マニアに言わせれば、むしろ非・一次元的かもしれない。
そして……その大半が(一見、円環を描くように見えながら)じつは小さな隙間を持った弧としてデザインされているのは、はたして製作者側からの重要なヒントなのだろうか? それとも、すでにこの文章の書き手は過剰な読み込みへの危険な第一歩を踏み出してしまったのだろうか?
『メッセージ』は——スタッフはもちろんのこと、その製作費を提供した資本の論理も——相互理解を求めている。映画の成功を求めている。その真剣な誠意が、あらゆる細部から読み取れる。
あなたも、あなた以外のあらゆる存在も、意思疎通を求めつつ手段に困惑し、相互理解を求めつつ誤解し合う。
言語が異なっても。思考形態が異なっても。思考の前提となる生物学的基盤が異なっていても。
われわれは手を差し伸べる。取ろうかもしれないと思いつつ。祈りを込めて。スクリーンの向こう側へ。3000年の時の彼方へ。
狭義の「ファーストコンタクトもの」の醍醐味だ。
*
となると——『メッセージ』をご覧になる/なった/なっているあなたは、こんな思いにとらわれるかもしれない。
人類が来訪した異星人・ヘプタポッドを理解できた以上に、われわれはハリウッドの文法を理解しているだろうか? あるいは……ここで無謀にも主語が大きくなる……英語圏そのものを?
作家ラインスター 【註08】 が、「ファースト・コンタクト」と異星人との接触を表現したのが、1945年後半であること……すなわち第二次世界大戦(の最後まで燃え上がっていた太平洋戦線)が、大日本帝国の降伏によってようやく終結した時期であることは、どこまで象徴的に読み込まれるべきだろうか?
こうなると、むしろ「あれこれの結果として大戦争に避け難く至ってしまう物語」のほうこそが「ファースト・コンタクトもの」の保守本流なのでは、とすら疑われてくる。
【08】
すでにこの日本語表記すら微妙に間違っているのでは……という話は、以前からある。
彼のペンネームの由来であるアイルランドの地名からすれば、苗字は「ライン」スターではなくて「レン」スターと書かれるべきだろう。
名前の「マレイMurrey」のほうだって本当にこれで良いのやら。綴り自体は、あのビル・マレー……奇しくも異なる言語文化同士の相互誤解を扱った『ロスト・イン・トランスレーション』の主役を張ったことでも知られる……と同じだが、聞きようによっては「ミュレイ」もしくは「モュレイ」と聞こえなくもない。
実際、「ファースト・コンタクトもの」の最良の形態は、最良の戦争映画・スパイ映画・サスペンス映画と区別し難い。
たとえば『第三の男』。
たとえば『レッド・オクトーバーを追え』 【註09】 。
【09】
この作品中、サム・ニール演じるソ連最新潜水艦「レッド・オクトーバー」副長は、モンタナ州に住みたがっていた。そこは彼にとっての〈帰り着くべき新天地〉なのだった。『メッセージ』において異星人の「船」が出現するのも同じ土地だ。なぜモンタナ? ちなみに『未知との遭遇』のクライマックスであるワイオミング州は、モンタナのすぐ北にある。オマージュなのか、それともこれもまた過剰な象徴の読み込みだろうか?
あるいは『13デイズ』 【註10】 。
【10】
物語の舞台は1961年、ケネディ政権初期。キューバ危機の緊張が高まり、米ソが互いに手持ちの艦船と兵器でもって牽制し合う、そしてついにほんの小さな手違いから「砲弾」が撃ち出され……登場人物の一人が叫ぶ。「これ(=米ソがそれぞれの兵器でもって無言のうちにおこなう鍔迫り合い)は新しい言語なんだ!」。この「言語」を正しく用いなければ惑星規模の核戦争になってしまうのだ、と。
それらの根底にあるのは、いつだって、とてつもない希望だ。あるいは楽観主義だ。
たとえどれほどの齟齬が、諍いが、すれ違いがあろうとも。薄幸の運命が、別離が、危機が待ちかまえていようとも。
相手と(まがりなりにも)意思の疎通ができる……できていると自覚できるのだ、相手にも意思があるのだ、そして我々にも意思だか自我だか知性だかがたんまりあるのだ、という巨大な希望的観測。
「かれら」(その言葉の指し示す先が異星人だろうと異国の政権であろうと血を分けた娘であろうと)が、「われわれの人生の物語」について、僅かなりとも気にかけてくれているかもしれない……という祈りのような希望。
さもなければ——そもそも、相手が知的存在として実在しているのだと、どうやったら我々は認識できるというのか 【註11】 ?
【11】
「不可知論というからには、その前提となる認識はどこにある?」と、これはゼンゼン・シティー 【註11のb】 に「神」としてコンピュータの台詞だが——はてさて!
【11のb】
くわしくは光瀬龍『百億の昼と千億の夜』もしくは萩尾望都によるコミカライズ版を参照いただきたい。
われわれのほうも知的存在だと、どうやったら認識してもらえるというのだろう?
どうやったら確信できるだろう?
その確信は誰が与えてくれるのだろう? 科学者の発表? 大統領の声明? ネットのニュース?
我々はどこまで高慢で自信過剰になれるのだろう?(いや、そもそも「我々」なる塊が、この惑星上に、どこまで実在していると胸を張れるのか?)
誤解、理解、認識、実在。実在しているという誤解。
ファースト・コンタクトへと辿り着くまでに、なんと多くの課題があることか! まったく我々ときたら、いつだって8月31日の小学生だ。あるいは〆切前の小説家だ。
*
映画であれ、原作の小説であれ、物語を創ることが——あらゆる公刊された文章が、編集と校正を経ることで、直線的で一次元的な時の流れを超越する。
あなたが読んでいる、この文章は——あらゆる文章は——すでに(もしくは始めから)過去と未来を行ったり来たりしながら、無数の決断と運命によって綴られた意味の塊なのだ。
『メッセージ』を観終えて、この文章の書き手は次のような妄想を抱かずにはいられなかった。
——1492年以前に、「新大陸」の「先住民」たちが、葦で織り上げた無数の、そしてひどく小さな舟を、幾つも幾つも海に向かって流している。
それらの大半は大西洋(と数百年後に命名されることになる、南北に細長い荒海)の波間に消え、ぶくぶくと海底へ消え去ってに度と人目に触れることはない。
けれど、実に多くの舟が編まれて流されておかげで、かなりの数が対岸に、すなわちアフリカの西岸へ、ジブラルタル海峡へ、アイルランドの南岸へ、コーウォールの崖やノルマンディの岸辺へ、数百年、数千年にわたって流れ着いていた……のだがしかし、「旧」大陸の住人たちは誰一人その重要性にも由来にも気づかず、せいぜいが「どこか近在の漁村の悪ガキが暇にあかせて作っとるんだな、まったく仕事も手伝わずに!」と怒りをあらわにしながら浜辺に捨て去る、という繰り返しが、実は起きていたとしたら。
さて、どうしたものだろう?
そして今日、あるいは今夜、あるいは過去数百万年のあいだずっと、あの美しい星空から、無数の、目に見えぬほど小さなかけらが、実は僕たちの上に降り注いでいるとしたら——さて、どうしたものだろう?