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正法眼蔵 仏向上事 8

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

そしてまた、人の言葉が耳に入る時は、日常会話から全くはずれて第三者的な立場にいるんだと言うふうな頭の中だけの捉え方でもない 。なぜかというと、人の話を聞いている時には一所懸命聞いている、つまり、相手の話し相手になって一所懸命相手の話を聞いている状態であるから。

その点では、 人の話が耳に入っている時、人の話を聞いている時には、日常会話というものがどこかにいってしまって、話している日常会話というものが相手の方にだけいっていて、自分はその日常会話(談話)に参加していないと言う事ではない。

日常会話をしている時に人の言葉が耳に入るという事が、自分が話しているところの中心の中に入り込んで来て 非常に異質なものとして(たとえば雷の響きの様に)日常会話を乱す様な特別なものとしてそこに現れてくると言う事ではない。この様に考えて来ると、仮に僧侶同士の話であっても、お互いに自分が話をしている時には、人の言葉というものは聞こえないのである。



              ―西嶋先生の話―

    つづき--

実体としての仏道が中国に伝わったのは、達磨大師が坐禅と言う修行を中国に伝えられた時が初めてだという事を言われている訳です。我々が坐禅を実際に経験しない間は、この道元禅師の主張が納得しにくいわけです。「仏教には色々な宗派があって、坐禅を中心とした宗派も仏教宗派の一つだ、だからその仏教宗派の一つの型の坐禅が伝われなければ仏教が伝わらないという主張は狭すぎるのではないか」と、こういう感想を持つ訳です。

ただ実際に坐禅をやってみて「ああ、これが仏道か」と言う事がハッキリしますと「なるほど、この体験がない限り仏道は人から人へは伝える事は出来ないんだ」と、こう言う事がハッキリしてくる訳です。ですから坐禅をしない人に対して、坐禅とは何かと言う事が口で説明できるかと言うと、これは出来ない。本を書いてそれで説明できるかと言うと、これもできない。坐禅を実際にやった人と坐禅を実際にやった人の間でだけで、坐禅と言うものはどういうものだと言う事がわかるわけです。

ですから我々が仏道修行をする場合にも、坐禅なしに仏道の勉強ができると言う事は絶対にあり得ないと言う事をハッキリ承知していないと、仏教の勉強そのものが宙に浮いてしまって口先だけの、あるいは頭の先だけの勉強に終わってしまうと言う恐れがあるわけです。そう言う勉強の仕方をしますと、理屈の点では色々な仏教に関する事を知っていたとしても、仏道とは無関係だと、こういう事があるわけです。


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正法眼蔵 仏向上事 7

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

さらに僧侶が「和尚の様にすでに真実と一体になった方にとっては、話をしながら人の話も聞けると言う事があるんでしょうか」と質問したけれども、ここに言っている意味は和尚を問題の対象として「和尚ならば話をしている時にも、人の話を聞くに違いない」と想像したわけではない。またこの質問をした対象が洞山悟本大師自身と言うわけでもない。しかしながらこの僧侶が現に質問しているのは、「日常会話をしている時にも、同時に人の話を聞くと言う事を勉強すべきでしょうか、どんなものなんでしょうか」と言う質問をしているのである。

別の言葉で言うならば「日常会話が日常会話に現になっているのかどうか、日常会話というのは日常会話に過ぎないと言う事なのでしょうか」と聞こうとしているのでもあり、自分が話をしていながら、しかも人の話を聞くと言う事が一体どういう現実の事態なのかと言う事を聞こうとしていると言う意味でもある。この様に質問はしているけれども、単にその質問者の舌の先で言われた言葉と言うだけの意味ではない。

洞山悟本大師が「わしの場合でも自分が話をしている時は人の話が聞こえないが、自分が話をやめた時にやっと人の話が聞こえる様になる」と言われたこの言葉を十分に勉強してみる必要がある。ここで言っている事は、まさに自分が話をしている時は、同時に人の言葉が耳に入る事はないと言っておられるのである。人の言葉が耳に入って来るという現実の事態と言うものは、自分が話をしていない時に初めて可能な事であろう。自分が話をしていないと言う状態をもう一度、無理に否定した上で話していない事態を意図的に具現させようとしているのではない。



              ―西嶋先生の話―
     --つづき

ただ坐禅をやっている時の境地は「大きい」というレッテルで説明がつかない「小さい」と言うレッテルでも説明がつかない「存在する」と言う決めつけも出来ないし「存在しない」と言う説明も出来ない。だから言葉ではどうにも説明出来ないけれども、現に坐禅と言うものがあり我々が現に坐禅をやっているという事実がある。それが何かであるんだけれども、それが何であるかがわからないという事があるわけです。

それが仏道であり、それが道諦の立場だ。坐禅と言う実態が我々の手近にあるから、仏道とは何かと言う事が初めてわかるのである。坐禅がなかったならば、我々は「大蔵経」と言う膨大な経典を毎日一睡もしないで頑張って読んだとしても、とうてい仏道がなんであるかはわからない。それと同時に幸い我々の身近には坐禅があるために、それを経験する事によって仏道を理屈ではなしに、実際の体の体験、実際の心の体験として把む事が出来ると、こう言う問題があるわけです。

中国に仏教が伝わりましたのは、かなり古いわけです。後漢の時代に仏教経典が中国に伝わり翻訳が行われたと言われている訳です。したがって教えとしての仏教は、後漢の時代にすでに中国に伝わった訳です。ただ、それから数百年経ちまして、達磨大師が坐禅をはるかインドより中国に初めて伝えられたという事実があるわけです。道元禅師のお考えによりますと、後漢の時代に教えとしての仏教は伝わったかもしれないけれども、実体としての仏道は伝わらなかったという事をハッキリ主張されている訳です。

                      つづく--


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正法眼蔵 仏向上事 6

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この様な具体的な、舌や耳や眼や体や心とかいうものを素材にして我々の日常生活が行われているのであるから、人が話をしている時には、相手の話が耳に入らないと言うごく普通の日常会話があり得るのである。舌や耳や体や心とかという素材だけを取り上げて、それが会話の実態だと主張してはならない。

人の話を聞いていないということが、自分が話をしているという事と一致しているという事ではなくて、ごく具体的に自分が話をしている時には、人の話が耳に入らないと言うだけのものである。我々の大先輩である洞山悟本大師が「人が話をしている時には、人の話を聞く事ができない(耳に入らない)」と言われているけれども、その言葉の一切は、藤の木の枝がつるで他の藤に巻きついて、藤と藤とが絡み合っている状態である。

また同時にそれは言葉で簡単に説明できないきわめて具体的な複雑な内容が様々に絡み合った実態であるから、藤が藤に寄るという形容も当たっていると同時に、日常会話を「そもそも」というふうな形で説明することはなかなか難しい。別の言葉で言うならば、日常会話が日常会話に縛られていると言う状態でしかない。



            ―西嶋先生の話―

仏教の基本的な考え方として苦諦・集諦・滅諦・道諦と言う四つの考え方があります。その苦諦・集諦・滅諦は比較的わかりやすい。なぜかと言うと頭で考えて理解できる立場だからです。苦諦は頭でものを考えた場合に出て来る立場。集諦は感覚的に外界の世界を受け入れる物質を基礎にした考え方。滅諦は頭の中で考えた問題と感覚的に捉えた物質の世界とが交差する世界、つまり人間が何をするかと言う行いの世界であると理解できる。

ただ道諦とは何かという事になるとこれは大変わかりにくいわけです。なぜかと言うと一切を含んでいるからです。ですから道諦の中には、苦諦の立場も、集諦の立場も、滅諦の立場も含んでいると同時に、それだけではないこの世の全てを含んで道諦と言う捉え方をするわけです。ですから、現実そのものとか、宇宙そのものとか、正しさそのものとかと言う内容を持っておりますから言葉で説明する事が出来ない。

だから頭で理解しようとしても中々理解できないという問題があるわけです。そこで道諦と言うものの身近な実体が何かと考えていきますと、坐禅がまさしく道諦の立場そのものだという事が言えるわけです。坐禅をやっている時の境地を我々は言葉で説明する事が出来ない。したがって「正法眼蔵」ではよく「大にあらず、小にあらず、有にあらず、無にあらず」と言う説明が出てきます。この言葉を聞いて「ああ、わかった」と言う人は少ない。「一体何を言っているんだろう」という事になるわけです。

                       つづく--


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正法眼蔵 仏向上事 5

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。日常生活における普通の会話を考えてみるならば、聞くとか聞かないと言う言葉にこだわる必要は少しもない。ごく自然に話をし、ごく自然に人の話を聞くという状態であって、聞くとか聞かないと言う事にこだわっているものではない。普通の日常会話と言うものは、聞くとか聞かないとかと言う言葉で区別をしてその事を問題にするような必要は全くない。

自分が話をしていて人の話を聞かないところにも、ものを話している僧侶そのものがいるのであり、また人の話を聞かずに自分が話をしているところにもその僧侶が現に存在しているのである。人を相手にしているとか、自分自身で一人で話しているとかという区別で問題を考える必要はなくて、もっと具体的な、ごく自然な、普通の会話であり、言葉で表す事の出来ない何かだと言うふうな面倒な理論は日常の会話については不要な事であるし、そうかといって、そういうものは不要だと言うふうに事新しく決め付ける必要もない。

ごく自然に僧侶が話をしている時には、まさに僧侶は人の話を聞いていないと言うだけの事である。僧侶が話している時には、人の話を聞いていないという言葉の意味がどういうものであるかということを考えてみると、会話というものは、舌とか耳とか眼とか体とか心とか、そういう具体的なものを通して行われるのであるから、舌に束縛されて僧侶が具体的な話をしていると言う事であり、人に話している場合、耳においては人の話を聞いていない状態であり、人に見詰められながら自分が話をして、人の話を聞いていないという状態があるのである。

自分の体、自分の心、あるいは相手の体、相手の心というものがあって初めて、自分が話をし人の話を聞いていないという状態であるし、相手もまた相手の話をして、その間はこちらの話が聞こえていないと言うふうな、お互いのごく自然な日常会話が行われているのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
おこがましいんですけれど、私は物質的環境にも余裕があり、自分は恵まれているなと言う感じをいつも持ってるんです。先生のお話を伺っていますと名誉や利得と無関係にと言われますが、生活の経済的な面がある程度のレベルになければやはりこういう問題に眼が向いてこないのではないでしょか。

先生
その点では、お金儲けをしてはいかんと言う事ではないんですよ。ただお金儲けが問題にならない様な生き方と言う事を言うわけです。だからその点では、経済的に恵まれているから仏道修行ができるとか、経済的に恵まれていないから仏道修行ができないと言う事ではなしに、そういう世俗的な目標に対してどうしても執着があって離れられない人と離れる事のできる人との違いは、経済的な事情がどうこうと言う事とは別の問題だと思います。

ある程度は関係があるかもしれないけれども、切り離して考える事ができると思います。とにかくそういう経済的な問題、名誉と言うふうな問題を超越できた人を「高貴な人」と言うんですよ。これは「正法眼蔵」に出て来る見方です。「正法眼蔵」一顆明珠の巻の中で、玄沙師備禅師に関連して、仏道を求める事は高貴な人間になる事と同じ意味だと出てきます。名誉や利得から超越すると言う事は中々高貴な事ですよ。そういう高貴な人が初めて仏道修行ができるんですね。

だから、社会的な地位がどうこうとか、金があるとかないとかと言う事と関係なしに、そういう高貴なものを求めるか求めないかと言う事が仏道修行に関連してはあるとこう言う事が言えると思います。から沢木老師が「宿なし興道」と言う形で、寺院を持たずに一生を過ごされたと言う様な事も、そういう問題と関係あるんですね。寺院を持つと、やはり高貴でいられなくなると言う心配があるわけです。必ずそうだとは言えないけれども、そういう心配があるという事と関係があったと思います。


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正法眼蔵 仏向上事 4

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

「仏向上事」というのは、誰が見てもわかるようなものではないし、何もかも押し隠してしまって誰にも見せないというものでもない。人に常にありありと見せているものではないし、人の持っているものを自分のものにすると言う態度でもない。それであればこそ、日常生活における普通の会話の中でごく普通のやり取りをしている時に「仏向上事」と言うものが現れてくるのである。

真実を得た人が、真実と一体になった状態というものが具体的に現実に現れている時には、話をしている時にはその話をしている人は他の人の話を聞くとことがない。話をしている時には話をしている時、人の話を聞く時には人の話を聞く時と言う事である。話をする事と人の話を聞く事とは別々だというきわめて普通の状態と言うものが実際に具現しているのである。

僧侶が自分が話をしている時には、人の話を聞いていないと言うごく普通の日常会話のあり方というものが極めて自然な真実を得た人の態度であって、そういう状態にある限り事新しく、自分は真実を得ておりながらさらに真実と一体であると言う事を意識する必要もないし人に話す必要もない。また事新しく、それを人に見せびらかすと言う必要もない。ごく普通の日常生活の会話の状況を見てみるならば、話す時は話す時、聞く時は聞く時であって、話す時に人の話を聞くとか、人の話を聞いている時に同時に自分も話すと言う状態ではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今までの私の考え方ですと、宗教というのは自分の行為を縛ってしまうと感じていました。で、先生の正法眼蔵の勉強会にお邪魔するようになって、そういう事があんまり感じられなかったものですから、まあ多少ましな人間になりたいと・・・。いわゆる仏教というと、今まで私は何となく古くさいものだと感じがしていたわけですね。そういう事で、仏教というよりは仏道という気持ちで私は今まで来ていたわけなんですが、そういう考え方はどうなんでしょうか。

先生
そういう考え方がまさに仏道修行だということが言えると思います。ですから「多少ましになりたい」という気持ちが本当の事を知りたいという事なんですよ。仏道というものと他の宗教との違いがどこにあるかと言いますと、大雑把に言いますと今日三種類の宗教があるわけです。一つは神とか心とかというものを重点的に考えて、神や心が基準だとい考え方が一つあるわけです。これが従来「宗教」と呼ばれてきたものの特徴になるわけです。

ただ今日では、もう一つ別の宗教があるわけです。それは神とか心とかというものがでたらめだという、こういう宗教がある。この世の中はすべて物で出来上がっているのだから、物を中心にして物を信ずることが正しいという宗教も今日あるわけです。そういうふうな二つの宗教に対して仏教が何を主張したかというと、宇宙というものを基準にして問題を考え直すべきだという事を主張したわけです。

ですからそういう点では、仏教思想の基礎にはいわゆる宗教らしさというものが非常に希薄なわけです。つまり神を大切にするとか、心を大切にするとかという考え方が仏教の中では説かれていない。仏教の中で何が説かれていいるかというと、我々が生きているこの世界というものが、物質的なものを基礎にはしているけれども、非常に精神的な尊いものを同時に含んでいる。我々はそういう世界の中に生きているんだから、我々が住んでいる世界、つまり法の世界を中心にして問題を考え直すべきだというのが釈尊の教えです。

だから釈尊の教えの主張の中には、いわゆる宗教に対する批判と反宗教に対する批判と両方があるわけです。釈尊が何を説かれたかというと、神を信じ心を信じるという事は人間にとって危険な面がある、人間を不幸にする面があるという事を主張されたわけです。そうかといって神に背き心に背くという事も人間を不幸にする。その中間に立って、我々がどういう世界に生きているかをよく勉強して、その世界の実態に即して生きていくべきだという事が釈尊の教えという事になる。

釈尊の心とか神を極端に重視することが人間の不幸につながる、という教えの非常にいい例が今日中近東にあるわけです。キリスト教的な考え方とイスラム教的な考え方とが対立してしまうと、我々の立場から見れば「どうしてあんな殺戮が行われるんだ」という疑問しか出てこないような事実が毎日のように地球の上で起こっているわけです。何のために起こっているかと言えば宗教の違いです。

お互いに「自分たちの神が絶対なんだ」という事を信じこんでいるから、そのためには自分達の神を信じない人々の人命を失わせてもいっこうに差し支えない、自分たちの神に背くような人間は殺すことの方が正しいんだ、という考え方をお互いに持ち合っているから中近東における様な問題が出てくる。

釈尊はその事実に気づかれたから、神とか心とかというものを極端に信じて、それに従っていくことが人間を決して幸福にしないという事を主張されたわけです。だからそういう点では、仏教というものの中には、いわゆる宗教的な雰囲気というものは割合少ないという事は言えるわけです。ただそういう主張の中に、この世の中の真実があるというのが仏教の主張であるし、我々の信仰があると、こういう事が言えると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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