件の論文の著者のうち1名とは知り合いではあり、今回もご挨拶ぐらいはした関係である。
件の論文の話が大きくなり、文系研究者の方の記事も何件か出てきた。
https://srad.jp/~yasuoka/journal/612256/
http://mistclast.hatenablog.com/entry/2017/05/26/203043
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20170526/1495783027
前置きするが、件の論文を正当化する意図は毛頭ない。とにかく、件の論文が不適切であった事は確かだと思う。
私は、家族に文系研究者がいるので、ある程度文系領域についても分かっているつもりである。
文系研究者の皆さんが、大きく勘違いしていると思われる点がひとつだけあるので、指摘しておきたい。
文系では、テクストそのものを研究対象とすることが通例であるので、今回挙げられた小説を「分析対象」や「研究対象」と思ってしまう傾向があるようだ。
しかし、工学の観点からは、今回挙げられた小説は、分析対象でも研究対象でもない。
工学は手法を論じる方法論であるので、分析や研究、そして評価の対象となるのは、あくまで、手法である。
小説の内容自体は、研究・分析・評価の対象ではない。小説の内容については評価しない。
極端に言えば、小説を単なるデータとしてみて、データの中にある文字列が含まれている場合に、手法がどのような振る舞いをするのかを観察しているだけである。
研究対象・分析対象・評価対象は手法である。小説は単なるデータだ。小説の内容については評価しない。
ただし、世の中には色々なテキストがあるので、そのような小説に書かれている表現が入力として与えられる可能性はある。
そういう場合に、「手法が」どのような振る舞いをするのかを観察し、「手法を」評価するのが、工学研究だ。
このように言うと、おそらく、「しかし、有害、という言葉を使っている時点で、小説に対して評価を下しているではないか」という反論が返って来そうだ。
私が、今回の件で、非常に不適切であると思っているのは、まさに、このポイントだ。「有害」というような、内容を評価しているかのような表現は用いるべきではない。
例えば、「わいせつ」といったような、内容に対する評価を含まない表現に置き換えるべきであったろう。
あるいは、有害図書の基準などの参考文献を引っ張ってきて、「その基準に照らせば有害に分類されるデータ」という体で小説を扱い、評価しているのは論文著者たちではないという事を明確にするべきであった。
繰り返しになるが、工学研究では、通常、研究対象は手法であり、今回の論文も、明らかにこのタイプの研究であると思う。
この論文は、「この小説がなぜ書かれたのか」「この小説が社会の中でどう位置づけられるか」といったような、小説自体を対象とする研究ではない。