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発達障害だったわたしへ

発達障害じゃだめなの?発達障害で幼いころから感じてきたことを、これからいろいろ綴っていきたいと思います/1982年静岡県浜松市生まれ。2005年、早稲田大学卒業後、読売新聞記者。2014年、地域おこし協力隊兼フリージャーナリストを経て、16年からNHK記者、今年4月退職。著書に「八幡平への恋文」(岩手復興書店)。

缶コーヒーが楽しみなのか、それとも缶コーヒーしか楽しみがない世界なのか

いま入院している施設の近くには、自動販売機がある。たかが自動販売機、されど自動販売機だ。長期にわたって入所している精神病患者たちにとって、わずか数百メートルにも満たないお散歩コースに、この自販機があるかないかで、楽しみが大きく変わってくるだろう。

お散歩の折り返し地点の自販機で甘ーい缶コーヒーを買って、坂の途中の墓地を背にした公園で、実においしそうな表情で飲む人たち。落ち武者みたいな髪型をした人は、そこでのタバコの一服を楽しみにしているようだ。私は少し離れたブランコに乗ってiphoneで好きな音楽を聴いたり口ずさんだりしながら、気持ちよさそうな彼らを眺める。

でも、どうしてだろう、たかが1本100円の缶コーヒーなのに、私はその光景を見ていて悲しいような気持ちになる。いや、悲しいのではないと思う。悲しいという以外にどんな言葉でそれを表現したらいいかわからない、深い淵がそこには流れているような気がするからか。

その人たちがここの施設に入所している事情は分からない。その人自身がその道を選んだのか、選ばずしてもこういう形にいまなっているのかは、分からない。

だけど、その人には、その甘い缶コーヒーだけでなく、スタバのキャラメルマキアートの味だって、コンビニのマウントレーニアだって、老舗の喫茶店でグァテマラだのコロンビアだのブレンドだのと注文して通ぶる楽しみも、最近はやりのプレスコーヒーだって、同じコーヒーひとつとっても、その味を知る権利も、選択肢を持つ自由もあったはずだ。過去形ではなくて、いまもある。

でも、その人の世界が、こんな半径数百メートルで完結してしまう理由ってなんなんだろうな、と思ってしまったら、途方にくれた気になる。

私もたまに散歩する。彼らがもっぱら自販機コースを散歩するのとは逆方向の、雑木林を通り抜けて、ひたすら海に向かったりすることもある。その雑木林のなかには、地域の人が集う公民館があって、たまに集会がおこなわれている。そんなとき、私が一人で歩いているのに出くわすと、「おめ、ここらでは見ない顔だな。どっからきた?」「あそこさの病院の人か?」などと取り囲まれ、根掘り葉掘り聞かれる。

私は彼女たちの表情から、正直には言ってはいけないものを感じ、雑木林にひっそりと群生する、美しくもあやしげな花の表情を、引き続き観察し続けていた。すると、彼女たちは、「そうか、おめは、植物の勉強をしてる学生さんだな!」と勝手に納得しはじめ、「おー熱心だ。この花はね、シャガっていうんだ。きれいだよなー」などと彼女たちは気がすむまで話し終えると、「じゃあ、勉強がんばれよ」といって、チリンチリンと自転車のベルを鳴らして去っていった。

かつて私が、新聞記者の立場としてそのような施設に取材に行っていたいたときは、まず上役の方たちが、鉄格子で身体拘束された人がたくさんいるこわいイメージという偏見に満ちた時代はとっくに終わって、いまはこんなに地域に開かれた存在になっているんですよと、清潔感のあるパンフレットなどを見せながら、「地域との共生」というのがうまくいっていることを話す。

だけど、表向きはそういうコンセプトになっていても、実際のところは、患者たちは、限られた半径数百メートルの世界で、ひっそりと生きていることには変わりないのではないかなとも思うのだ。社会的入院という言葉があるのなら、全員が全員でなくとも、社会的缶コーヒー好きな患者率というのも、その施設の周辺には多いように思ってしまう。

 

相模原市知的障害者施設「やまゆり園」で昨年夏、殺傷事件がおきた。それを受けて、犠牲になった19人ひとりひとりの人柄を似顔絵のイラストとともに伝える「19人のいのち」というテレビの特集を私は見た。

なぜその話に触れるかというと、そのなかにも、散歩中の自販機で缶コーヒーを買うのを楽しみにしていたという犠牲者の男性がいたからだ。「すれ違ったらあいさつをする礼儀正しいしっかりした子でした」という殺人事件の典型的な被害者周辺コメントとはちがう、寄り添っていたからこそ見える家族や施設の方の「甘い缶コーヒーが好きな人でした」というコメントと、55歳のおじさんというよりも、少年っぽくはにかむ豊かであどけない表情に、私はぐうの音が出ない衝撃を感じた。

たしかに、あるときは記者として、あるときは同じ障害者として、あるときは、その両極を行ったり来たりしていて、またあるときは(というかこれがいちばん多い)そのどちらでもない、ゆらゆらと浮遊した「わたし」という存在からその報道を目にしたとき、やっぱり「缶コーヒーしか楽しみがなかった」と言うこともできる可能性も否定できないんじゃないかなと、いじわるく思ったりもする。

だけど、雑木林でひっそりと咲く花をぼーっと眺める時間は、ここで過ごした私にとってかけがえのない時間だったように、彼らがそのとき、缶コーヒーを心からおいしいと愛していたのならば、それでいいじゃない、と今なら思える自分もいる。

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散歩中、雑木林で見つけたシャガの花