この薄汚れた現実世界で死んだように生きる男。彼を変えたのは『鋼鉄ジーグ』の空想世界に生きる女。現実と空想の世界が重なり合うとき、ローマの人々は彼のことをこう呼んだ。「鋼鉄ジーグ」と!
作品データ
『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』
Lo chiamavano Jeeg Robot 皆はこう呼んだ「鋼鉄ジーグ」/They Call Me Jeeg
- 2015年/イタリア/119分/PG12
- 監督・音楽:ガブリエーレ・マイネッティ
- 脚本:ニコラ・グアリャノーネ/メノッティ
- 撮影:ミケーレ・ダッタナージオ
- 出演:クラウディオ・サンタマリア/ルカ・マリネッリ/イレニア・パストレッリ
予告編動画
感想と評価/ネタバレ有
ひょんなことから超人的能力を手に入れた無職の中年コソ泥親父が、日本のアニメ『鋼鉄ジーグ』に憧れる女性との交流を通して自分自身の役割へと目覚めていく姿を描いた、イタリア映画初となるスーパーヒーローを題材にしたSFクライム・アクションです。
風穴スーパーヒーロー映画
昨年公開されて話題を呼んだ、日本のポップカルチャーから多大な影響を受けたスペイン製ノワール映画『マジカル・ガール』に続き、今年は永井豪原作の日本製ロボットアニメをモチーフにしたイタリア製ノワール映画、『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』がやってまいりました。
元ネタとなった『鋼鉄ジーグ』はボクが生まれる前に放送されていた作品であり、再放送でも観た記憶はないのですが、1979年にイタリアでも放送されてそれはそれは大人気を博したそうです。日本のアニメーションはボクの知らないところでみんなから愛されているのですね。
そんな『鋼鉄ジーグ』に対する愛とリスペクトがあふれた本作。「元ネタ知らないと楽しめないのでは?」と思うかもしれませんが、『鋼鉄ジーグ』はあくまでモチーフであり、元ネタへの愛を突破口に普遍的な人としての目覚めを描いているので、まったく問題ありません。
『鋼鉄ジーグ』と手垢にまみれたスーパーヒーロー誕生譚をモチーフに、ベタでありながらヒーローとして本来あるべき姿をノワール世界で追い求めた異色ビギニングもの。飽和状態化しつつあるスーパーヒーロー映画にウンザリしている人にこそ観てほしい、傑作だと思います!
皆はこう呼んだ「鋼鉄ジーグ」
「また日本の配給会社がダサい邦題を」という何も知らない恥ずかしいツイートが流れてきておりましたが、実はこのタイトルは原題どおりでして、イタリア公開版の正式タイトルは『Lo chiamavano Jeeg Robot 皆はこう呼んだ「鋼鉄ジーグ」』という日本語付きなのです。
これをそのまま採用した配給会社にはなんの落ち度もありませんし、まず何よりどこがどうダサいのかさっぱり理解できません。めちゃくちゃカッコいいですし、映画を観終わったらその意味に泣きそうになりますし、タイトルバックのタイミングなんて震えが来ます!
どうかしてる登場人物
そんなタイトルからして抜群にカッコいい本作の物語は、しがない中年コソ泥男がひょんなことから超人的能力を手にし、その力の使い道、自分に課せられた使命に気づくまでを描いた、いわゆるスーパーヒーロービギニングものでして、真新しさはほとんどありません。
ただもう登場人物がみなどうかしすぎております。主人公のエンツォは40過ぎのおっさんで、無職で、コソ泥で日銭を稼ぐ、孤独で怠惰でコミュ障のどうしようもないダメ人間なのです。自宅にあるのは大量のヨーグルトとエロDVDのみで、黒の極小ビキニパンツ着用。
あんなパンツはいてる40過ぎのおっさんが真人間であるはずがありません。ヴィランであるジンガロもエンツォ以上のダメダメ人間で、いちおうは小さなギャング団のボスなどを気取ってはおりますが、根底にあるのは自己愛と破壊願望のみで、将来の夢は大人気YouTuber。
そんな彼の魂の熱唱がこちら ▼
エンツォが守るべきヒロインのアレッシアも、過去のトラウマによって空想の世界に生きることを選択し、世界を『鋼鉄ジーグ』を通してしか見られないぶっちぎりの不思議ちゃんなのであります。こんなダメ人間ばかりが揃いに揃った映画、面白くないわけがなかろうが!
人間のクズの覚醒
暴力、貧困、利己主義がまかり通る暗黒の現実世界を背景に、そんな現実でただ死んだように生きていた男の身に起こった奇跡。エンツォが能力を手にするきっかけが、川に不法投棄された放射性廃棄物だったというのも、現実の闇を反映させた意味のある設定なのだと思います。
彼が手に入れた超人的能力とは、頑丈な体と人並み外れたパワー。この身の丈感も非常に現実的で、この能力を使って彼が取った行動はもっと現実的なクズっぷり。ATM強盗と現金輸送車襲撃。そうして手にした金で何をするのかと思えば、大量のヨーグルトとエロDVDの購入。
正真正銘、人間のクズです。しかし過酷な現実で孤独にただ生きているエンツォにとっては、この時点ではそれしか選択肢がないとも言えます。彼の世界には彼しかいないのです。そんな閉じられた彼の世界に闖入してきたのが、精神を病んだ空想世界に生きる女性アレッシア。
エンツォのことを『鋼鉄ジーグ』の主役ヒロシと呼び、邪悪な邪魔大国の手からこの世界を救えと執拗に発破をかけてくるアレッシア。彼女の壊れた心の思い込みが、彼の死んだ心を無遠慮に揺さぶってくるのです。この無遠慮さ、弱さ、痛さが大事だったのかもしれません。
なかば壊れた女と、なかば死んだ男。他人との距離感がわからない男と、その距離感に敏感な女。そんなアレッシアとの出会いによって、徐々に自分のなかに他人を取り戻していったエンツォは、彼女の存在と喪失によってようやく、ようやくヒーローとして覚醒するのです。
君こそジーグだ!
エンツォが覚醒するきっかけとなるドラマは、ネタバレになりますがデ・パルマの傑作『ミッドナイトクロス』を思い出させるあまりに過酷な試練であり、これはヒーローへの道を歩み出すための通過儀礼とは言えやりきれません。しかしここを越えねばヒーローにはなれない!
ここからの怒涛の胸熱展開には、最近とんと涙腺が万事尿漏れ状態のボクには耐えがたい大洪水であり、エンツォが初めて自分以外のために能力を使った瞬間にはやすやすとダム決壊。このシーンにおけるエンツォの視線、そして群衆の視線のなんと巧みな演出であろうか。
そしていよいよ展開される、能力者同士の正面衝突。このバトル描写にハリウッド製スーパーヒーロー映画のような派手さはありません。ともに有する能力は頑丈な肉体と人並み外れたパワーだけ。それを真正面からぶつけ合う、なんとも泥臭くて鈍重なものです。
しかしこれがアクションとしての素晴らしい重みを生み出しており、それはエンツォがただ走る姿にも見事に凝縮されています。冒頭でただ自分のために走る姿と、ラストで他者のために命をかけて走る姿とは、同じ動作でありながらその精神性がまったく異なるのです。
ヒーローとヴィランがまったく同じ能力なのも象徴的で、人はその想いによって善にも悪にもなれるということなのでしょう。それを選択するのは自分自身の精神の問題であり、それを後押ししてくれるのは大切な他者の存在。エンツォにとってのアレッシアのように。
彼女との出会い、交流、距離、そして喪失により、なかば死んだような男はふたたび生きる力を取り戻し、自分が手にした力の意味を、その使い道を、そして自分自身の役割に気づくのです。ヒーローとしての在り方に。
この闘いによって、ローマの人々の記憶に一生残ることとなったエンツォという名のヒーローの存在。しかしこれによってエンツォという男は死ぬこととなります。代わりにこの世に誕生したのが、エンツォとアレッシアのあいだに生まれた手編みニットのマスクマン。
皆は彼のことをこう呼ぶこととなります。「鋼鉄ジーグ」と!