よく中学生時代の痛いノートを元に黒歴史だとダメージを受けるタイプの話がネタにされている。
これに筆者は違和感を感じていた。
なぜか。
「黒歴史を作っていた中学生時代の私」と「現代を生きる私」は既に同一人物であって同一人物ではない。
なので過去の私が行ったことは既に現在の私と連続性がないので私が精神的ダメージを受ける理由もない。
(未だに痛々しいノートを量産しているなら別だが)
例え他者が過去の私と今の私を連続性のある同一個体として認識したとしても
それは他者からの評価であり私の内在的自己認識性について何ら変化を与えるものではないからである。
えー、分かりやすくいうとおしめしてた頃の私と今の大人の私は既に違うのでおしめされてて恥ずかしいなんて思うわけもないという理屈。
世話をしていた親からしたら同じかもしれないけど、こっちにとっては別人。
えー、詰まる所黒歴史でダメージを受ける度合によってそのダメージを受ける精神性が中学生時代から実は進歩していないってことになる。
黒歴史に関してはこれに近いことは考えてる。 過去があるからこそ今の自分があるのだと思えば、別段過去は敵愾視したり切り離すものでもないでしょうと。 切り離すやつは今の自分も...
どのくらいの時間の経過の中での話をしているのかまるで不明という文章。 また、増田なりの時間の経過が定義されたとして、黒歴史でダメージを負っている人物の年齢を把握している...
時間は関係ない 極端な話、昨日の自分と今日の自分で明らかに別人であると自覚できる成長性を感じた時点で既に同一人物ではなくなってる 男子3日会わずば…っていうように成長し続...
いや、自分とは全然関係ない他人の黒歴史ノートでもきついわ