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> No.2143[元記事へ]
モウさん横レス失礼いたします
> 日寛上人が人法体一を説いたからというのも同様。仏が迹で衆生が本だというのも、
> 諸法実相抄があるので、大聖人にその思想がないと全面的に排除はできないと思います。
その諸法実相抄での、仏とは、経文上の「仏」ですよね、つまり南無妙法蓮華経で
悟った経文上の全ての諸仏のことですよね、
諸法実相抄で「凡夫」といっているのは、日蓮大聖人であり総じては一切衆生ですよね。
> そしてその意味は、突拍子もない内容でもなく、法華経の思想からきた衆生視点での、
> 「仏は誰のおかげで存在できるのか」という、常識的な見方の一つではないでしょうか。
> 常に衆生の側から見る姿勢は大切ですし、排斥すべきような視点でもないと思います。
>
> 火事になったとします。玄関を入って助けにいくと、廊下の右手の奥には御本尊の部屋が。
> 反対の左手側の奥には小さな子供たちのいる部屋があります。
> さて、貴方は、どちらを助けに行くのでしょうか。どちらも貴方がたの自由です。
> 個人的な思い入れもあるかもしれません。
> こんなとき、どちらも“人法が共に尊い”と説くだけだったら、大きな誤解を生じます。
> 宗教団体がそんな単一の言葉だけを振り回すことは避けるべきだと思います。
あまり、公開で書くのははばかれますが
あの東日本大震災での大津波、
当然、自宅にいなかった方もたくさんおられます
御本尊を津波で失ったかたもおられます。
「あなたが生きていてよかった嬉しいよ」これが、正しい創価学会のスタンスです。
事実そのお話は大会合で大幹部からお聞きしました。
あくまで、曼荼羅に文字で示された「法・南無妙法蓮華経」が「本」であると
述べているわけです。
だからといって、物質的側面である曼荼羅を、故意にわざと、粗末にする方は
いないはずです。
いわんや、全てが、成住壊空の理により、かたちあるものはいつかは壊れます。
そのことは、先生も当たり前のこととして語られております。
形あるものは、壊れるが、「法」は、永遠である絶対である・・これを「本迹」でいえば
「本」であると言っているわけです。
> 法と衆生、どちらが尊いかなんて、よく分かりませんが、
どちらも尊いからこそ、
曼荼羅(南無妙法蓮華経を文字でみえるようにした)が、わたしたち衆生よりも劣っていたら
わざわざ、拝する意義はないわけです。
沖浦さんは、結果として、曼荼羅(南無妙法蓮華経)が、わたしたちよりも
劣っていると、言ってしまっているのです。
「本迹」はあくまで勝劣です。
どちらが優れているか、の判断基準です。
但し、これは当初からわかっていたのですが
沖浦さんが、「迹」という言葉を、正しく使ったかというと、疑問で
ちょっと、感覚で使ったのだということなんですよね。
感覚で使ったらよくないですよね、
「本迹」を、戯れで使うのは獅子身中の虫なる内容もありましたよね。
「本因妙抄」に至っては、「本迹勝劣を知らないものは師子身中の虫」とまで言われている。
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=amagian&dd=33&p=1・・24より
天城さんの記事、しっかり読むといいですよ。
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