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私はここでも、みんな、違うのにって思ってます。
なぜ、どうみてもモノを知らないほうの位置にいる私が、そんな風に思えるのか。
普通に考えて、経釈の意味する所も、御書の意味も、先生の指導も、
いろんな観点で述べられたことを、一緒にして論じようとするのは無理があります。
だから、○○が本だというのはおかしい!というのは変。○○が迹だというのも同様。
これらは、あらゆるものに約して、常にこうだとは言うものではないと思います。
日寛上人が人法体一を説いたからというのも同様。仏が迹で衆生が本だというのも、
諸法実相抄があるので、大聖人にその思想がないと全面的に排除はできないと思います。
そしてその意味は、突拍子もない内容でもなく、法華経の思想からきた衆生視点での、
「仏は誰のおかげで存在できるのか」という、常識的な見方の一つではないでしょうか。
常に衆生の側から見る姿勢は大切ですし、排斥すべきような視点でもないと思います。
火事になったとします。玄関を入って助けにいくと、廊下の右手の奥には御本尊の部屋が。
反対の左手側の奥には小さな子供たちのいる部屋があります。
さて、貴方は、どちらを助けに行くのでしょうか。どちらも貴方がたの自由です。
個人的な思い入れもあるかもしれません。
こんなとき、どちらも“人法が共に尊い”と説くだけだったら、大きな誤解を生じます。
宗教団体がそんな単一の言葉だけを振り回すことは避けるべきだと思います。
平等だと言ってるだけからよいだろうというわけにはいきません。
仮に御本尊が2か所で、子供が2人いて、助けに行ったのが私と阿部日ケ~ンさんの2人
だったら、どうするでしょうか。
阿部日ケ~ンさんもまさか、「平等だ。一人づつ別れて、両側の部屋に分かれて行こう」
とは言わないと思います。
私も二人で子供の部屋へと向わねばと思います。炎の中、何があるか分かりませんもの。
私が子供たちに向かって、「羊や鹿の車が外にあるから・・・」と語りかけてるうちに、
阿部日ケ~ンさんは「そんなことやってる場合と違うっ」と子供二人を両脇に抱えて走り
だすという見事な連係プレーで外に出られることでしょう。やはり二人いります。
法と衆生、どちらが尊いかなんて、よく分かりませんが、私はともかく心の中で
「ごめんなさい」とか言ってると思います。
そして、それもまた真理の一面だとしか言えません。
もし、これが子供たちではなく、取り残されたのが、「私」だったらどうでしょうか。
また反対側の部屋には、今まで誰も見ていない大聖人の真筆が置いてあって、未知の法
門が記されてあって、しかも他にもインドから発見されたばかりの法華経の原典がポン
と置かれてあったとかしたらどうでしょう。
みんなが全員、玄関に揃っていたら、私のほうに来てくれる人なんているのでしょうか。
目をつむると、みんなの声が聞こえるようです。
沖浦さん「すまない。やはり法が重かった。さすがにこれは仕方ないだろう。」
阿部日ケ~ンさん「気持ちはそっちだが、人類の宝を消失させるわけにいかない。」
クジラさん「2,3歩はそちらに向かったんだけど。モウさんはそれを望まないだろ。」
ノブノブさん「おまえは上から目線の人間だったから、自分でなんとかできるはずだ。」
オウさん「言うまでもないことだが、これが正しい選択だ。おまえが燃料となって
こっちに飛び火しないか、それだけが心配だ。」
大河さん「短いつきあいだった。残念だ。」
とか。う、うぅぅ。
※ ピンクが好きさん、会則変更で反対者の教学を聞いて、私は驚く点がありました。
私が馬鹿すぎてそう思うだけかもしれませんが、私なりにもいらぬ責任を感じています。
なので次は基礎教学をやりたいのです。どこかで連載させてもらおうと思ってたのですが
すでに数十頁を軽く超えたので、もう少し整理してそのうち誰もいない所にアップします。
また、登場人物の区別にメリハリが無い点、言われると気付くことが多く、
ご指摘いただいたこと、本当にありがとうございます。
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