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灰かぶり
「それに飼うのなら、仔猫から飼いたいです。八右衛門さん、仔猫が生まれたら私に譲っていただけませんか?」
そう尋ねると、八右衛門さんはほっとしたような表情をして頷いた。
「もちろんでございますとも。その折にはすぐにご連絡を申し上げます」
あ、でも雄もいないと繁殖できないよね。誰か飼ってる人の猫を借りるか、それか捕まえるか、だよな。
「雄の猫を捕まえるのなら、マタタビの木を燃やして煙を出したら寄ってくるかもしれませんよ。あまり大量に燃やすのはよくないので、気をつけてください。それからマタタビを使うのは、月に一度か二度くらいが良いでしょう」
「おお。では猫の隠れていそうな山の麓で燃やしてみましょう」
野良猫ならぬ、山猫なんだね。目つきの悪そうな猫が山から下りてくるのか。
「では兄上。その猫はこちらの美和さんに返してあげてください」
「返せなどと、俺が取ったような言い方だな。逃げ出したのをわざわざ捕まえてやったのだというのに」
ちょっとむくれる信長兄上に物申したい。さっき、寄こせって言ってたの、どこのどなたでしたっけねぇ?
「あ、あの。黒丸を捕まえてくださって、どうもありがとうございました」
シラーっとした目で兄上を見ていたら、下からおずおずとした声が聞こえてきた。まだ座ったままの美和ちゃんだ。こんな信長兄上にお礼を言うなんて、なんていい子なんだ。
「ふん」
信長兄上は抱いていた黒丸を美和ちゃんに渡すと、ドスドスと音を立てて廊下を歩いた。
「八右衛門、喉が渇いた!」
「あちらにご用意しております」
俺はそのまま信長兄上の後を追わず、立ち上がる美和ちゃんに手を貸した。猫を抱いたまま立ち上がるのって大変そうだったからな。だけどそれに驚いたのか、美和ちゃんは「きゃっ」と小さな声を上げて、俺の差し出した手を振り払った。
「も、申し訳ございま―――」
謝ろうとして頭を下げた瞬間、その腕の中から猫が飛び出してきて、元来た方へ駆け出して行った。
えーっ。せっかく捕まえたのに、また逃げられちゃったよ。
これってアレか。ドジっこ特性ってやつか!?
って、そんなこと言ってる場合じゃないか。追いかけないと。
俺は黒丸の後を追いかけて廊下を走った。その後ろを、熊が「喜六郎様!」とか叫びながらついてくる。
「それがしにお任せを!」
「いや、これくらいなら私にも捕まえられるよ」
多分ね。
追いかけていくと、黒丸はひょいっと開いていた部屋に入り込んだ。中を見ると、どうやら台所だ。食材を入れてある籠の後ろで小さくなっている黒丸に、おいで、と声をかける。
でもなかなか出てこないから、台所にいた家人に、魚の干物を少し分けてもらった。そして後から追いかけてきた美和ちゃんに、干物を手の平にのせて、黒丸をおびき寄せてもらう。
「おいで、黒丸。好物の魚をあげるわ」
黒丸がゆっくりと籠の後ろから出てきた。そして美和ちゃんの手の平の魚を食べる。
よし、今だ。
俺はそーっと横から手を伸ばして、黒丸を捕まえた。
「捕まえた」
さっきは信長兄上に負けたけど、俺だってやればできるんだよ、やれば。
ドヤ顔で熊に自慢しようと思って振り返ったら、ちょうど中に入ってきた女中とぶつかってしまった。
「きゃあっ」
そしてぶつかった拍子に、器に入れていた物が落ちる。
うわっ。やばい。これ灰だ。
そういえば、生駒家って藁灰を扱ってる家だっけ。
足元に散乱した灰は、置いてあった壺の中にも入ってしまったようだった。
「あ、やば。灰が入っちゃったよ」
壺を覗き込むと、その中にはしっかりと灰が入ってしまっていて、表面に浮かんでいた。
うわっ。どうしよう。水が汚れちゃったよ。あ、いや、でも灰だから、そのうち下に沈めば普通に飲めるかな。
「申し訳ございませんっ」
俺に灰をかけちゃった女中さんが、平伏して謝った。だけど、これは急に振り向いた俺が悪いよね。
「いえ。私の不注意ですので、気にしないでください」
着物はちょっと汚れちゃったけど、洗えばいいしね。
洗うっていっても、この時代の洗濯って、着物の糸を切って一度反物に戻してから洗うんだ。現代の洗濯機に入れてスイッチポンとは違うよね。だからこそ、高度成長時代に洗濯機が三種の神器なんて呼ばれたわけなんだろうけど。
洗った反物をまた着物にするには仕立て直さないといけないから、洗張っていう職もあるくらいだ。これは着物を乾かす時に貼り板に糊付けして乾かすから、洗「張」なんだな。
金持ちは、着物が汚れたら、もうそれを下げ渡して着なくなることもあるらしい。でも下げ渡される方も反物の形でもらったら、お古って感じがしなくて良いのかもしれんね。エコだな。
「すみません。水瓶に灰を落としてしまったので、八右衛門さんに伝えてもらえますか?」
一言、言っておかないと、女中さんが怒られちゃうかもしれないからな。
それと水を替えた方がいいのかな。水瓶にしてはちょっと小さいけど、予備の水瓶なのかもね。これなら俺でも水汲みできそうだから手伝ったほうがいいのかな。
あ、力自慢の熊に手伝ってもらえばいいのか。
「喜六郎様。このような場所まで猫を追って頂き、申し訳ない」
「あ、いえ。黒丸は捕まえたのですけど、私がうっかり女中にぶつかってしまって、この水瓶に灰が入ってしまったのです」
「水瓶、ですか?」
「ええ。この瓶なんですけど」
もう灰が沈んでだいぶ濁りはなくなったけど、まだ少し残ってるなぁ。これは、やっぱり水を替えた方がいいかもしれんね。
俺が水瓶を覗き込むと、同じく覗き込んだ八右衛門さんが「えっ」と驚いた。
えっ。なんだ? もしかして特別な水だったのか!?
「誰じゃ! この瓶に水を入れおったのは!」
あ、そうじゃなくて、別の物が入ってるはずだったのか。ほっ。だったら灰入りの水を捨てても構わないな。
「いえ。その瓶には水など入れておりませぬ」
だけど、八右衛門さんを呼びに行った女中さんは必死に首を振った。
「だが、この中に入っているのは―――いや、待て」
八右衛門さんは、瓶に顔を近づけて匂いを嗅ぎだした。そして横に置いてあった柄杓で水をすくって飲む。
「さ……酒でござる」
「ん? 水じゃなくて清酒だったのか」
灰が入って少し濁ってるから、どっちなのか分からないよね。入ってなくても透明だから分からないけどさ。
そう思ってうんうん頷いていると、なぜだか八右衛門さんと熊と女中さんと、それから美和ちゃんまで俺の事を凝視していた。
え?な、なに? どうかしたのか?
清酒ができました。
このお話で参考にした、清酒ができたといわれる伝承をご紹介します。
尼子三傑の一人、山中幸盛が尼子家再興に失敗した後、息子の新六は武士をやめて摂津国川辺郡鴻池村で酒造り商になります。
ある日、素行の悪い使用人を新六が叱ったところ、その使用人は逆恨みして酒樽に灰を投げこみました。それによって樽の中の濁り酒は、芳醇な清酒に変わっていたのでした。
これはどういうことかというと、酒造りの過程でアルコールと共に酢酸が生じます。この酢酸が増え過ぎると、腐敗が進んだりよけいな酸味が加わったりします。
この酢酸は、アルカリ性の灰を加えると中和され、腐敗を抑えるばかりか酸味まで抑え芳醇な香りと味に変え、色まで美しい透明に変わる性質があるのです。
とはいえ、ただ灰を加えさえすれば良いというものではなく、酒にあった性質の灰をちょうどいい量とタイミングで加えなくてはいけません。逆恨みした下男が投げ込んだ灰は、偶然にも性質・量・タイミング・温度、いずれもぴったりだったそうです。
最初は偶然だったのですが、新六はそのメカニズムを研究し、やがて美味しい清酒を偶然でなく意図的に造り出すことに成功した、ということです。
そして江戸にそれを持ち込んで利益につなげたのです。これが今も続く鴻池財閥の始まりです。
ということで、鴻池財閥は生まれなくなりました。
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