以前、あるアンケートの調査結果についてお話を伺った時に、面白いことを聞きました。「あなたの国の文化といえば何ですか?」と質問したところ、日本の人々は「折り紙」や「こけし」といった、ものや祭礼について答えるのですが、インドの人は「強い信仰」や「我慢強さ」といった性質や気持ちについて答えるといったものです。どちらも文化といえば文化という気がするから不思議です。
「文化」というのは曖昧な言葉で、だからこそ使い勝手がいいということもあるでしょう。例えば、国際的な問題や組織間の衝突が起こった際に、「文化が違うから」と言ってしまえば、何となく丸く収まったようにも思います。一方で、無限に使えるかというとそうではありません。「体育祭」と「文化祭」は明確に違う内容を指していますし、いくら「日本の文化」と称されるものが広いからといって、こけしや折り紙と自民党政権を同列に論じないでしょう。
あいまいで、とらえどころがない。でも確かに何らかの限界や範囲を有している、「文化」を社会学はどのように捉えてきたのでしょうか?その一部分だけではありますが、漫画を通じてご紹介します。
「文化」というのは曖昧な言葉で、だからこそ使い勝手がいいということもあるでしょう。例えば、国際的な問題や組織間の衝突が起こった際に、「文化が違うから」と言ってしまえば、何となく丸く収まったようにも思います。一方で、無限に使えるかというとそうではありません。「体育祭」と「文化祭」は明確に違う内容を指していますし、いくら「日本の文化」と称されるものが広いからといって、こけしや折り紙と自民党政権を同列に論じないでしょう。
あいまいで、とらえどころがない。でも確かに何らかの限界や範囲を有している、「文化」を社会学はどのように捉えてきたのでしょうか?その一部分だけではありますが、漫画を通じてご紹介します。
無限にみえるカルチャーに潜む有限性
わたしはあの子と絶対ちがうの
作者 | とあるアラ子 |
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出版社 | イースト・プレス |
出版日 | 2016年01月07日 |
主人公はそれまで、どちらかというとメジャーな趣味を愛するタイプの女性だったようですが、知る人ぞ知るような雑誌の編集者として活躍している、いわゆる「サブカル」系の彼氏と出会うことで、ミニシアター系映画や批評といった分野に没頭していきます。
彼らの言う「サブカル」を通じて、それまで付き合うことのなかった人々と出会うことで、主人公の世界は無限に広がっていくかのように見えますが、実は明確な限界を有しています。主人公は元カレの購入したブルガリの腕時計を、理解できない「ダサい」ものとして一笑に付しますし、おそらく主人公がいくら世界を広げてもオペラや歌舞伎を鑑賞しに行くことはないでしょう。批評家や評論家が活躍するロフトプラスワンやゲンロンカフェのトークイベントには顔を出しますが、大学教員や実務家が喋る大学や市民センターには行かないのではないでしょうか。
前回、「若者」のお話で『デトロイト・メタル・シティ』(若杉公徳)を紹介しながら、カウンターカルチャーがサブカルチャーとして、他の音楽分野と並列に扱われる現代のありようを紹介しました。今回紹介する『私とあの子は~』を通じてわかることは、こうした文化の、一見無限に見えてしまう有限性です。
「モテキ」や「ゼロ年代」といった固有名詞を媒介として、そこでしか分からないコミュニケーションが繰り広げられ、そこで人脈がどんどん出来る。その中には、「有名な偉い業界人」や「みんなから可愛がられる若い女の子」など、例えば会社や学校といった社会でも見られるような存在もいます。その一方で、コミュニケーションの言語や生活様式は、ごく限られた領域に通じるものへと限られていくことも忘れてはいけないでしょう。
上位文化に対する文化のあり方として、「大衆文化」という概念があります。大衆文化は、上位文化や伝統文化に対する概念であり、営利目的で普及される娯楽を主とします。まさにこの漫画の登場人物たちが楽しんでいるような映画や漫画、アイドルは「大衆文化」と言えるでしょう。こうした文化は、誰にでも享受されることによる「平準化」の作用を有しています。実際に、アラ子さんとその周囲は文化の有するコードを同じように享受し、共有し、自分の生活を形成していきます。しかし一方で、現代の「大衆文化」は、受け手と作り手の嗜好や属性に応じて限りなく細分化される「下位文化(サブカルチャー)」であり、他の下位文化との間には大きな溝があるのです。では、その「溝」を超えられるのはどのような人々なのでしょうか?
彼らの言う「サブカル」を通じて、それまで付き合うことのなかった人々と出会うことで、主人公の世界は無限に広がっていくかのように見えますが、実は明確な限界を有しています。主人公は元カレの購入したブルガリの腕時計を、理解できない「ダサい」ものとして一笑に付しますし、おそらく主人公がいくら世界を広げてもオペラや歌舞伎を鑑賞しに行くことはないでしょう。批評家や評論家が活躍するロフトプラスワンやゲンロンカフェのトークイベントには顔を出しますが、大学教員や実務家が喋る大学や市民センターには行かないのではないでしょうか。
前回、「若者」のお話で『デトロイト・メタル・シティ』(若杉公徳)を紹介しながら、カウンターカルチャーがサブカルチャーとして、他の音楽分野と並列に扱われる現代のありようを紹介しました。今回紹介する『私とあの子は~』を通じてわかることは、こうした文化の、一見無限に見えてしまう有限性です。
「モテキ」や「ゼロ年代」といった固有名詞を媒介として、そこでしか分からないコミュニケーションが繰り広げられ、そこで人脈がどんどん出来る。その中には、「有名な偉い業界人」や「みんなから可愛がられる若い女の子」など、例えば会社や学校といった社会でも見られるような存在もいます。その一方で、コミュニケーションの言語や生活様式は、ごく限られた領域に通じるものへと限られていくことも忘れてはいけないでしょう。
上位文化に対する文化のあり方として、「大衆文化」という概念があります。大衆文化は、上位文化や伝統文化に対する概念であり、営利目的で普及される娯楽を主とします。まさにこの漫画の登場人物たちが楽しんでいるような映画や漫画、アイドルは「大衆文化」と言えるでしょう。こうした文化は、誰にでも享受されることによる「平準化」の作用を有しています。実際に、アラ子さんとその周囲は文化の有するコードを同じように享受し、共有し、自分の生活を形成していきます。しかし一方で、現代の「大衆文化」は、受け手と作り手の嗜好や属性に応じて限りなく細分化される「下位文化(サブカルチャー)」であり、他の下位文化との間には大きな溝があるのです。では、その「溝」を超えられるのはどのような人々なのでしょうか?
多様な嗜好を理解できる「文化的雑食」な人たち
誰も寝てはならぬ(1) (ワイドKC モーニング)
作者 | サラ イネス |
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出版社 | 講談社 |
出版日 | 2004年04月23日 |
新宿を中心としながら、中央線沿線で活動する30代前半の「アラ子」さんに対して、赤坂を中心にデザイン会社を営む30代後半の「ハルキちゃん」と「ゴロちゃん」がこの漫画の主人公です。
全体に交わされる関西弁中心のやりとりや、突飛すぎない設定など、なんとなくリアリティを感じてしまう一方で、全体に登場人物の階層は高めです。大阪のキタ出身で日本画家の子息・ハルキちゃんと、オフィス「寺」の社長・ゴロちゃんはもちろんのこと、銀座の画廊が実家である亜美さんや女社長のヨリちゃんなど、またそれを取り巻く友人たちもハイクラスな人揃い。しかし、どちらかと言えば彼らは「すごい」というより「変」な人たちです。しかし、この「おかしさ」が、彼らの階層の高さを引き立たせているとも言えます。
この漫画のトピックは、というか登場人物たちの趣味は、非常に多様です。もちろん、仕事柄美術やデザインなどを楽しむことも多いのですが、例えば野球(ヤーマダ君)や料理(ヨリちゃん)、家庭農園(岡ちゃん)やバス(マキオちゃん)、果てはゲテモノ食や左翼文化、重機まで、この漫画のメンバーの趣味は非常に多様だし、あまりこだわりなく他者の嗜好を理解できています。さらに重要なこととして、これらの趣味はかかるお金や時間、知識の点でも様々です。つまり彼らは、何か活動をする際に、その活動が「上流」か「下流」か、庶民的かどうかといったことも問うていないのです。
オフィス「寺」のメンバーとその周辺人物たちは、たんに多趣味というよりは、様々な文化への適応性が高い、言わば「文化的雑食」な人々というほうがしっくりくるでしょう。じつはこうした特徴は、高学歴・高階層、また都市の人々に多く見られる文化受容のあり方と考えられています。逆に言うと、既に現代社会においては、高収入・高学歴の人々(あるいは低収入・低学歴の人々)のみが享受する文化というものはあまり見られないということになります。
この漫画の「雑食性」を示すキャラクターとして、ゴロちゃんとハルキちゃんの友達・ヤーマダ君がいます。彼の趣味の一つは「重機」。重機というと労働者の文化(というか、「文化」として趣味的に消費するのかどうかも怪しい)のように感じますが、ヤーマダ君は高額で小型ユンボを購入し、私的に使うほどの重機好き。上か下か、高級か大衆かというレベルでなく、趣味や文化と見なされづらいものすら余暇や娯楽に使ってしまう、「寺」のメンバーの文化的雑食性、あなどれません。
全体に交わされる関西弁中心のやりとりや、突飛すぎない設定など、なんとなくリアリティを感じてしまう一方で、全体に登場人物の階層は高めです。大阪のキタ出身で日本画家の子息・ハルキちゃんと、オフィス「寺」の社長・ゴロちゃんはもちろんのこと、銀座の画廊が実家である亜美さんや女社長のヨリちゃんなど、またそれを取り巻く友人たちもハイクラスな人揃い。しかし、どちらかと言えば彼らは「すごい」というより「変」な人たちです。しかし、この「おかしさ」が、彼らの階層の高さを引き立たせているとも言えます。
この漫画のトピックは、というか登場人物たちの趣味は、非常に多様です。もちろん、仕事柄美術やデザインなどを楽しむことも多いのですが、例えば野球(ヤーマダ君)や料理(ヨリちゃん)、家庭農園(岡ちゃん)やバス(マキオちゃん)、果てはゲテモノ食や左翼文化、重機まで、この漫画のメンバーの趣味は非常に多様だし、あまりこだわりなく他者の嗜好を理解できています。さらに重要なこととして、これらの趣味はかかるお金や時間、知識の点でも様々です。つまり彼らは、何か活動をする際に、その活動が「上流」か「下流」か、庶民的かどうかといったことも問うていないのです。
オフィス「寺」のメンバーとその周辺人物たちは、たんに多趣味というよりは、様々な文化への適応性が高い、言わば「文化的雑食」な人々というほうがしっくりくるでしょう。じつはこうした特徴は、高学歴・高階層、また都市の人々に多く見られる文化受容のあり方と考えられています。逆に言うと、既に現代社会においては、高収入・高学歴の人々(あるいは低収入・低学歴の人々)のみが享受する文化というものはあまり見られないということになります。
この漫画の「雑食性」を示すキャラクターとして、ゴロちゃんとハルキちゃんの友達・ヤーマダ君がいます。彼の趣味の一つは「重機」。重機というと労働者の文化(というか、「文化」として趣味的に消費するのかどうかも怪しい)のように感じますが、ヤーマダ君は高額で小型ユンボを購入し、私的に使うほどの重機好き。上か下か、高級か大衆かというレベルでなく、趣味や文化と見なされづらいものすら余暇や娯楽に使ってしまう、「寺」のメンバーの文化的雑食性、あなどれません。
文化を流通させる人たちの役割とは
大東京トイボックス(1) (バーズコミックス)
作者 | うめ |
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出版社 | 幻冬舎 |
出版日 | 2007年03月24日 |
ソフトハウス「スタジオG3」とそこで働くゲームクリエイターたちを描く熱血業界ドラマです。テンポが良く、熱いネームが心に残る名作です。主人公・天川太陽は、面白いゲームを作りたいという理念のもと、「仕様を一部変更する!」という決め台詞とともにスタッフたちを困らせます。徹夜や長時間労働は当たり前(どうやらこの業界ではそれほど珍しいことではないようですが)、クライアントや他のステークホルダーにも、無茶ともいえる交渉を繰り返します。それでも、彼が多くのスタッフに慕われているのは、その理念を必ず遂行しているためでしょう。
もちろん、そうした純粋さに支えられたゲーム作りは、必ずしもそういった理念だけで成り立っているわけではありません。スタジオG3の前には、いつも納期や表現規制といった課題が立ちはだかりますが、とりわけ後半になるにつれて見えてくるドラマには、ゲームが「作り手」や「ユーザー」、あるいは販売店や取次といった存在だけで成立しているのではないことをしみじみ感じさせられます。
例えば、音楽や絵画といった芸術や学問など、いわゆる「文化」として称されやすいような活動やそれをとりまく業界のあり方が、いかにその文化のありように影響を与えるのかを検討した分野として、「文化生産論」があります。芸術や学問、あるいはエンターテイメントなどは、作り手や受け手の存在ばかりがクローズアップされますが、実際にはそれを流通させる人々や、競合する同業者集団、法律などの制度など多くの影響を受けています。
この漫画の中でスタジオG3の面々の前に立ちはだかるのは、大企業「ソリダスワークス」の品質保証部顧問である卜部・ジークフリート・アデナウアーです。彼の「健全なゲーム」に対する執念はかなりのものです。言うなれば「規制推進派」のアデナウアーなのですが、その背景にはある事件が関与しているのです。アーティストや芸術家が社会問題についてのメッセージを発したり、政治活動をしている人々がロックフェスに参加したりといった動きを許容できない人もいるのではないかと思います。ただ、文化は文化のみで独立して成立しているわけではありません。社会に存在する、私たちが時として忌避したくなるような事柄の連続によって構築されたものが文化だ、という解釈もできるのです。それを、太陽たちとアデナウアーの戦いが教えてくれるでしょう。
もちろん、そうした純粋さに支えられたゲーム作りは、必ずしもそういった理念だけで成り立っているわけではありません。スタジオG3の前には、いつも納期や表現規制といった課題が立ちはだかりますが、とりわけ後半になるにつれて見えてくるドラマには、ゲームが「作り手」や「ユーザー」、あるいは販売店や取次といった存在だけで成立しているのではないことをしみじみ感じさせられます。
例えば、音楽や絵画といった芸術や学問など、いわゆる「文化」として称されやすいような活動やそれをとりまく業界のあり方が、いかにその文化のありように影響を与えるのかを検討した分野として、「文化生産論」があります。芸術や学問、あるいはエンターテイメントなどは、作り手や受け手の存在ばかりがクローズアップされますが、実際にはそれを流通させる人々や、競合する同業者集団、法律などの制度など多くの影響を受けています。
この漫画の中でスタジオG3の面々の前に立ちはだかるのは、大企業「ソリダスワークス」の品質保証部顧問である卜部・ジークフリート・アデナウアーです。彼の「健全なゲーム」に対する執念はかなりのものです。言うなれば「規制推進派」のアデナウアーなのですが、その背景にはある事件が関与しているのです。アーティストや芸術家が社会問題についてのメッセージを発したり、政治活動をしている人々がロックフェスに参加したりといった動きを許容できない人もいるのではないかと思います。ただ、文化は文化のみで独立して成立しているわけではありません。社会に存在する、私たちが時として忌避したくなるような事柄の連続によって構築されたものが文化だ、という解釈もできるのです。それを、太陽たちとアデナウアーの戦いが教えてくれるでしょう。
生活の中にあるものが、人と人とを結びつけるメディアになる
新装版 茄子 上 (アフタヌーンKC)
作者 | 黒田 硫黄 |
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出版社 | 講談社 |
出版日 | 2009年01月23日 |
筆を使用した力強いタッチ、ページ全面にあふれる迫力ある絵が印象的な黒田硫黄氏は、「天狗」や「戦争」など、歴史的で重厚なモチーフを用いる漫画でも印象深いです。どちらかというと深く掘り下げるタイプの世界観にもかかわらず、どのようにも受け取れる含意を持った作品群が多いように見えるのは、取り上げられるモチーフがきわめて「メディア」的だからではないでしょうか。
文化と切っても切れない関係をもつものとして、文化の創造や構築、伝達に関わってきた「メディア」があります。このメディアとは、テレビやラジオ、インターネットや書籍でもありますが、一方で直接対面しない他者同士を結びつけ、関係を変化させるようなものであれば、何でもメディアと言い得るものでもあります。ここでメディアとして紹介したいものが、黒田硫黄が用いている「茄子」というモチーフです。
アフタヌーンで連載された『茄子』は、毎回茄子が出てくる以外は特に共通点のない連作集です。ナスを育てる元大学教授のもとにやってきた駆け落ちカップル、故郷を離れた自転車選手が、故郷に帰って食べる茄子(これは『茄子 アンダルシアの夏』としてジブリで映画化されたため、ご存知の方も多いと思います)、久しぶりに会った異性の友達と食べる弁当に入った茄子……。いずれも、茄子は食べられたり、育てられたり、料理されたりする「モノ」ではあるのですが、それをネタにして、あるいは傍らに置かれて、人間ドラマが進んでいるのです。そういった意味では、ひととひとを結びつけるメディアとして茄子が成立していると言えるでしょう。
生活の中のあるモノが、人と人とを結びつけ、その関係を変動させる「メディア」となる――こうした議論を行っている論者の一人に、民俗学者・柳田國男がいます。例えば柳田は「酒」を、それを飲む祭礼やイエといった「場」とのかかわりの中で論じることにより、単なる「モノ」ではない、人々を結びつける「メディア」としての酒を論じました。また、行燈やランプといった「火」が、居間のような家族が集合する場からどこにでも運んで用いられることにより、イエの中の空間がそれぞれの部屋へと分かれ、人々がそれぞれ別個に本を読んだり物を書いたりするような空間が成立し、それによって家族が同居しつつも個人のスペースの中で生きるようになったと論じました。こうした観点から、あなたの身の周りのモノも、様々な役割を担っていることに気づくでしょう。
文化と切っても切れない関係をもつものとして、文化の創造や構築、伝達に関わってきた「メディア」があります。このメディアとは、テレビやラジオ、インターネットや書籍でもありますが、一方で直接対面しない他者同士を結びつけ、関係を変化させるようなものであれば、何でもメディアと言い得るものでもあります。ここでメディアとして紹介したいものが、黒田硫黄が用いている「茄子」というモチーフです。
アフタヌーンで連載された『茄子』は、毎回茄子が出てくる以外は特に共通点のない連作集です。ナスを育てる元大学教授のもとにやってきた駆け落ちカップル、故郷を離れた自転車選手が、故郷に帰って食べる茄子(これは『茄子 アンダルシアの夏』としてジブリで映画化されたため、ご存知の方も多いと思います)、久しぶりに会った異性の友達と食べる弁当に入った茄子……。いずれも、茄子は食べられたり、育てられたり、料理されたりする「モノ」ではあるのですが、それをネタにして、あるいは傍らに置かれて、人間ドラマが進んでいるのです。そういった意味では、ひととひとを結びつけるメディアとして茄子が成立していると言えるでしょう。
生活の中のあるモノが、人と人とを結びつけ、その関係を変動させる「メディア」となる――こうした議論を行っている論者の一人に、民俗学者・柳田國男がいます。例えば柳田は「酒」を、それを飲む祭礼やイエといった「場」とのかかわりの中で論じることにより、単なる「モノ」ではない、人々を結びつける「メディア」としての酒を論じました。また、行燈やランプといった「火」が、居間のような家族が集合する場からどこにでも運んで用いられることにより、イエの中の空間がそれぞれの部屋へと分かれ、人々がそれぞれ別個に本を読んだり物を書いたりするような空間が成立し、それによって家族が同居しつつも個人のスペースの中で生きるようになったと論じました。こうした観点から、あなたの身の周りのモノも、様々な役割を担っていることに気づくでしょう。
ジモトという文化 —— 「ローカル型雑食」のあり方
GIANT KILLING(1) (モーニングKC)
作者 | ツジトモ |
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出版社 | 講談社 |
出版日 | 2007年04月23日 |
東京都台東区浅草をホームタウンとする、「元」強豪プロサッカークラブ・イースト・トーキョー・ユナイテッドが、その名の通り「GIANT KILLING(強い奴らをやっつける)」という爽快感あふれるサッカー漫画の本作。プレイヤーやチームワークといった部分でなく(勿論それらの部分も精密に書かれていますが)、「監督」や「戦略」に焦点を当てたという点でも新規性の高い漫画です。この作品が焦点を当てている珍しい要素のもうひとつに「観衆」があります。
とりわけ、サポーター集団「ユナイテッド・スカルズ」のキャラクターである羽田のエピソードは、サポーターである地元民の面々も皆それなりの人生のストーリーの中でETUを応援していると分かる、素晴らしいストーリーです。親子二代でサポーターをやっている「江戸前応援団」のゴローとコータ、久しぶりにサポーター活動を再開したシゲなど、ETUは単にサッカーをプレイし、その場において観客を魅了するだけでなく、家庭や友人間の話題を提供してくれたり、一緒に何かに熱中させてくれたりするような、そんな存在なのです。
実際に、日本のプロ野球球団やサッカーのクラブチームは非常にローカル性が高く、「地元にある」という理由から特定のスポーツチームを応援している人も多いでしょうし、ファン感謝デーなどのイベントに参加する方には「会場が近いから」という人もいるでしょう。しかし、地元にあって、特定のサービスを地域住民に対して提供する集団はスポーツだけではありません。例えば「××市民交響楽団」などもそうですし、もっと範囲を広げれば「××大学」なども入るでしょう。でも、この作品に出てくるサポーターたちは、「ETU」に声援を向けることはあっても、「浅草市民交響楽団」のコンサートを鑑賞することはないのではないでしょうか。
これは『大東京トイボックス』の紹介で挙げた「文化的雑食性」とも重なる部分ですが、社会学者の山田真茂留と小藪明生は、とりわけアメリカにみられる文化的雑食性を「ローカル限定の雑食性」と論じました。地元のNBAやNFLのチームを応援し、地元のオーケストラが開催するコンサートに行き、ローカルなフェスがあればそれに行く……。この場合、地元にさえあれば、どのような興業でも足を運ぶ可能性があるとも言えるわけです。
そういった意味で、文化は人の嗜好や生活背景から選び取られるだけではなく、所与のものとして存在し、地域や都市住民の凝集性を高める役割を担うこともあります。山田と小籔は、日本においてはローカルな雑食性が発揮されることは少ないと主張していますが、では日本においてどのような文化が「ローカル型雑食」の対象として見なされているか、考えてみるのも面白いかもしれません。
とりわけ、サポーター集団「ユナイテッド・スカルズ」のキャラクターである羽田のエピソードは、サポーターである地元民の面々も皆それなりの人生のストーリーの中でETUを応援していると分かる、素晴らしいストーリーです。親子二代でサポーターをやっている「江戸前応援団」のゴローとコータ、久しぶりにサポーター活動を再開したシゲなど、ETUは単にサッカーをプレイし、その場において観客を魅了するだけでなく、家庭や友人間の話題を提供してくれたり、一緒に何かに熱中させてくれたりするような、そんな存在なのです。
実際に、日本のプロ野球球団やサッカーのクラブチームは非常にローカル性が高く、「地元にある」という理由から特定のスポーツチームを応援している人も多いでしょうし、ファン感謝デーなどのイベントに参加する方には「会場が近いから」という人もいるでしょう。しかし、地元にあって、特定のサービスを地域住民に対して提供する集団はスポーツだけではありません。例えば「××市民交響楽団」などもそうですし、もっと範囲を広げれば「××大学」なども入るでしょう。でも、この作品に出てくるサポーターたちは、「ETU」に声援を向けることはあっても、「浅草市民交響楽団」のコンサートを鑑賞することはないのではないでしょうか。
これは『大東京トイボックス』の紹介で挙げた「文化的雑食性」とも重なる部分ですが、社会学者の山田真茂留と小藪明生は、とりわけアメリカにみられる文化的雑食性を「ローカル限定の雑食性」と論じました。地元のNBAやNFLのチームを応援し、地元のオーケストラが開催するコンサートに行き、ローカルなフェスがあればそれに行く……。この場合、地元にさえあれば、どのような興業でも足を運ぶ可能性があるとも言えるわけです。
そういった意味で、文化は人の嗜好や生活背景から選び取られるだけではなく、所与のものとして存在し、地域や都市住民の凝集性を高める役割を担うこともあります。山田と小籔は、日本においてはローカルな雑食性が発揮されることは少ないと主張していますが、では日本においてどのような文化が「ローカル型雑食」の対象として見なされているか、考えてみるのも面白いかもしれません。
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