かつて女性を「子供を産む機械」などとおっしゃった無学の輩がいたが、生物学的に見ると、オスの方が余程「子供を作る機械」だ。
だって、カマキリのオスは交尾中にメスに食べられちゃうんだよ?
アリのオスは交尾以外何もしないんだよ?
まぁオスにとってはそれはそれで極楽本望、と言えなくもないが、生物全般を見てもオスはなかなかに役に立たない生き物だ。
ライオンもオスはボス面して全然働かないし。
まぁそんな話の是非はともかく、僕は他の生物同様、人間も男女問わず、ただの「子供を作る機械」だと、考え始めるようになった。
所詮は、その程度のものだと。
歴史上、それ以外の意味付けができなかったし、今もできてないし、これからもできないのだと思う。
その哲学的根拠を、「ヒューマニズム2」で分析してみた。
これは若い頃からずっと思ってきたことだが、子供は生まれてきたい!と願って生まれてきた訳ではない。
どんな世界に、どんな環境に生まれてくるかも解らない。子は親を選べない。
つまりそれは、親のエゴでしかない。
でも一方で、親は愛情を感じたい、本能的に愛情を確かめ合いたい、と、ある意味自分のアイデンティティ、レゾンデートルをそこに集約するような恰好で、子供を作り、産む。
そうして生まれた「愛情の結晶」としての子供を、必死に育てる。
そうして育った子供はやがて大きくなり、同じように愛情を感じたい一心で、子供を作る。
こうした、乱暴に言ってしまえば「負のスパイラル」のような状況で、僕らは生まれ、生き、育って、子供を作って、育て、死ぬ。
「ヒューマニズム2」でのたけしの発言と通底するところだ。
しかし、たとえば不妊の症状に悩まされる人もいる。実際知り合いに不妊治療をしている人が(しかも男)いる。
そういう人達に「じゃあ俺達は生きる意味がないのか!?」と言われると、立つ瀬がない。
でも敢えて言おう。僕だって仕事の成果だとかクリエイティビティとか、そんなところで存在価値を見出したい。しかし、やはり原理的には無理なのだ。
原則、人間とは「その程度」の生き物なのだ、と観念しておくことは、無駄ではないと思う。
所詮は子供を産んで、種を残して、だから何?何の意味があった?
その程度なのだ。
種を残せない人々を低く見るつもりはない。せいぜい人間は、そこまでのもの、ということだ。
齢42にして、それをひしひしと感じるようになった。
だからこそ、今こそ、「愛」について考えなければならない。
その真実を、哲学的な意味を問い続けなければならない。
そう思っている。
僕はアニメは「真実の器」だと信じて疑わない。
だから美辞麗句や綺麗事を超えた、異性を拒絶するようなホモセクシャルな表現に耽溺することなく(いや同性愛を否定するつもりはないけれど)、人間の「真実」を抉り出す作業は、絶対に必要だと思う。
宮﨑さんも高畑さんも富野さんも庵野さんも、アニメに「殉じた」先達は、皆そうしてきた。
アニメは今こそオタク文化の中で、リア充死ね!とか言ってごまかす場合ではなく、人間の意味を、「愛」の意味を教えるべきだと思う。
あんた達は何のために生きてるの?
僕らは今こそ生きている意味のなさを痛感し、翻ってそこから「愛」を渇望すべきなのだ。
僕らは今こそ生きている意味のなさを痛感し、翻ってそこから「愛」を渇望すべきなのだ。
それで伴侶ができるかどうか、「リア充」になれるかどうかなんか関係ない。
「愛」を渇望し続けること自体が肝要なのだ。
アニメは今こそ「愛」を渇望する表現にならなければならない。
それができない作品は、悉く歴史に忘れ去られるだろう。
アニメが「人間の観るもの」であったのかどうか、究極の選択は、もう目の前に来ている。
「愛」を渇望し続けること自体が肝要なのだ。
アニメは今こそ「愛」を渇望する表現にならなければならない。
それができない作品は、悉く歴史に忘れ去られるだろう。
アニメが「人間の観るもの」であったのかどうか、究極の選択は、もう目の前に来ている。