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佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

心が傷ついたときによく考えること

自分の親はひどかったけど、あの人のことを憎むのは時間のムダだし、そういう自分になりたくないから、憎むことはしない、という言葉を聞いたことがあります。

それは憎んでいる、のではないだろうか、と思わないでもないのですが、同時に、それはどこかしら危険なことではないだろうか、と頭をよぎります。

私は、親が憎い。ということであればこれは、憎しみが「私の側」にあるのであって、つまり何らかのネガティブなエネルギーが「自分の中にある」ということを意味します。

しかし、私は親を憎まないが、親は悪かった。となるとこれは、「悪」が「私の外」にあることになり、「私の側」は悪から切り離されてしまう。このように切り離してしまうことによって、怒りとか憎しみといったエネルギーはしかし、どこへ行ってしまうのだろう。

私もどちらかと言えば感情というものが苦手な方で、比較的「自分の感情とは距離を置きたい」と思う人間です。

しかし、感情と自分とを切り離してばかりいると、痛烈な感情を自分が発しつつあるとき、意外とその対応力において自分は未熟であるなと思い知らされることがあって、もっと幼い頃や若いときに、ネガティブな感情を自分と切り離さずにおくべきだったと思ったりもするわけで、そうであれば今もまた、「悪を外に置く」のではなく、怒りを内に感じるべきなんではないかと思ったりするわけです。

しかしネガティブな感情を、人はもてあます。怒りや憎しみを自分から切り離さず、それでどうしたらいいのか?と問われるかもしれません。人にぶつけることもせず、理性的に自分と距離も置かなければ、とても苦しくてやってられないではないか。

スポーツで発散するとか、まんがや小説を読んで忘れるとかいった対処の仕方もあるでしょうが、ことが深刻になればこれは、どうしようもない気もします。自分のものとして保っておくより他はない。でもそうやって時間を経過させることが、感情への対応力そのものなのではないだろうか。

なんとなく心がけるようになったのは、「切り離さない」ことのほか、「体に背負わせないこと」でしょうか。感情は感情として保つのであって、それを体の負担に切り替えると、それもできるのですが、体を痛めてしまいます。40すぎて、そのことを実感として理解できるようになりました。