私はお酒をやめたアルコール依存症者だ。
そして、お酒をやめる前は自他ともに認める意地悪オヤジだった。
だが、本当は意地悪なんかしたくなかった。人に意地悪く接する度に自分を責めた。
「なぜ俺は人に優しくできないんだ!」
なぜ故、私は人に優しくできなかったのか?
結論から述べよう。
それは「依存」していたからだ。酒ではなく「依存」だ。
依存していたから人に優しくできなかった。
もひとつ言うなら妻や子供など「大切に想う人」にこそ優しくできない。本当は優しく接したいのに・・・。
そして、その葛藤・イライラから更に意地悪く接してしまう悪循環。
もっとも解決方法は明白である。「依存」を手放すことだ。
ただ、依存といっても人により対象物は様々であり、「依存」か「好み」かの境界線は明確にしておきたい。(私の場合はたまたま依存対象が酒)
自身の「依存対象」を把握しないと解決として「依存を手放す」こともできない。
そこで順を追って進めていくが、まず「依存」について。
少しだけ掘り下げて考えてみる。
依存と好みの境界線
ここでは個々人がハマり込んでいる、アルコール・くすり等の「物質」。またギャンブル等の「行為」を次の二点の基準で仕分けしたい。
- 自分の子供(大切な人)には薦められない。
- 後ろめたい気持ちがある。
私がかつてハマッた「物質」としての酒で例えるならばこうだ。
1=人間として「崩壊」するほどの習慣飲酒を自分の子供にススメられるか?
当然、ススメられない。※該当!
2=常識を外れた飲酒行動に後ろめたさはないのか?
常に、後ろめたさがある。※該当!
この様に上記の二つに該当していれば、そのハマり込んでいる物質・行為は「依存」と断定して間違いない。
そしてその依存は「手放すべき依存」とも言える。
もっとも定義としての「依存」を述べると若干異なるものとなるが、前述した「手放すべき依存」を特定するという趣旨では最良であると断言したい。
そして次に「依存」と 「意地悪」の関係に話を進めるとする。
お酒(依存)と意地悪
一般的に依存状態とは「何かに依存してしまうと、それなくしては心も体も平常を保てない」ことである。
そして自覚の有無に限らず、「依存」状態にある人は大半の時間を「不足」と「不安」を抱えて過ごさねばならない。
実際に依存していられる時間は大変短い。最終的には依存している最中でさえ「不足感」を感じるようになる。
アルコール依存症の場合(私)においても当初はアルコール摂取で満たされていた。
だが、加齢が主たる原因で摂取できるアルコール量(体の許容量)が低下してしまい「できる限りの大量飲酒」をしても全く満たされなくなった。
こうなってしまっては常に「不足」と「不安」から逃れることはできない。
そして自身に対しての不足・不安は、他人に対しては「怒り」として表現される。
そう、怒りを抱えた状態では「人に優しく」など不可能である。
そして、この怒りを「依存症患者としての私」の主観で置き換えてみよう。
すると、怒り=SOS。「助けて!」である。
「助けて!」であるが故に「大切に想う人」にこそ、その矛先が向いてしまう。
ただこれは他人には「意地悪」としか映らない。もっとも当の本人でさえ気づかないのであるが・・・。
とまあ、ここまで私の主観を元に述べさせて頂いたが、実際に「依存を手放した」からこそ感じられる事かもしれない。
しかし現在、何かに依存の自覚がある人。
また、「なぜに我が子に意地悪を・・・。」という人は実行に移して頂きたい。
手放すべき「依存」を見極める。そして「手放す」。
「お酒(依存)をやめたら人に優しくなれた!」
ーENDー