2017年、5月号「能楽タイムズ」の批評と感想のコラムを担当された村上湛氏の「三月の舞台から」に第100回粟谷能の会(3月5日)『石橋』シテ・粟谷明生の舞台の批評が書かれています。

もとより一個人の批評と感想ですので、批評された者としては、批評、感想は真摯に受け止め改善を心がけたい、と思います。が、しかし記載の一部に喜多流本来の型で勤めたにも関わらず、さも私が喜多流らしからぬやり方、まるでサボリ、ズルをしたかのように思わせる文は憤り覚え、放置しておけず、ここで読者の皆様には真意をお判りいただきたく、私の考えを記すことにしました。

~舞アト、末尾「獅子の座にこそ直りけれ」は本来であれば台上に一気安座、気を調えて台から下り終曲のところ、最近間々あることではあるが、事故を懼れて飛び上がらず舞台上で処理したのは良くない(例え替ノ型にあったにせよ、それは台上に飛び上がれない者が一時を糊塗する便法である)加えて、台に上がってもいないのに台から下りる足遣いばかりを真似て見せたのはさらに良くない。(これでは便法のさらに表面模倣となる)~
上記が村上氏の記載文の一部です。

今回の『石橋』一人獅子の披キは、我が師・友枝昭世師より直伝の型で勤めました。型(動き)に関して、私自身の新しい工夫などは一切ありません。



獅子舞は九段構成で、最後の「獅子の座にこそ直りけれ」は一畳台に飛び上がるのは替えの型で本来は、舞台中央にて飛び安座をして、囃子方の囃す残り止め(地謡が謡わずに囃子方のみの演奏)にて立ち上がる、と教えていただいています。

村上氏の演者への批評と感想と忠告に、いちゃもんをつける気は毛頭ありませんが、以前にも『経政』の小書「烏手」の装束に関して同様に伝書通りに勤めたにも関わらず「喜多流に外れている」と、能楽タイムズに記載された過去がありましたので、ここで演者としての私の気持を投稿しました。

文責 粟谷明生
写真 『石橋』シテ粟谷明生 撮影 新宮夕海





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