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ふしぎーく!

博物館のへっぽこ展示解説員が不思議を求めてあちこち行ったり行かなかったりするブログ

源義経=チンギスハン伝説の謎に迫る!

「源義経は実は生きていた。大陸に渡りチンギスハンとなった」

これ、ものすごく有名な伝説ですよね。夢があっていいな~と思う一方で、デンカはまったく信じていません。資料の信ぴょう性以前に「政治力も経済力もない人間が言葉すら通じない大陸に渡って覇者となった」なんて無理ゲーです。こういう小説書けって言われたら辻褄合わせでとんでもないことになりそうな予感。チート能力使っていいならアリですが……。

というわけで、今回は義経=チンギスハン伝説の謎に迫ってみます。「なぜ信じてないのにわざわざ?」と言われそうですが、実は極東ロシアに行ったとき、偶然撮った写真が義経伝説にかすっていたからなんです。

(極東ロシアに行ったときのお話はこちら↓)

 義経の墓がロシアにあった!? 

さて、この義経伝説ですが、調べてみると江戸時代からあったようです。それが全国的に広まったのが大正時代。小谷部全一郎という牧師兼教師の方が『成吉思汗ハ源義経也』という本を出したからなんです。

この本、さまざまな学者から猛反発を受けたにもかかわらず、一般大衆には大ヒット。ちょうどそのころ、日本は大陸進出を目指していたので世相とマッチしちゃったんでしょうね。

で、この本に書いてあることが興味深いんです。ウラジオストクから100キロほど離れたニコラエフスクという町には亀石があり、その甲羅には石碑が載っていたとか。で、その碑にはなんと、「大日本源義経墓」と彫られていたそうなんです。

のちにその場所は公園となり、石碑は亀から取り外され、ハバロフスクの博物館に保管され、しかも大正10年、日本軍がハバロフスクから撤退後、石碑は表面にセメントを塗られ、文字が見えないようにされてしまったそうです。

謎の亀石を探せ! 

いやぁ、おもしろい! ハバロフスクの博物館にまだこの石碑は残っているのかなぁ?

展示してあったらぜひ見たいところですが(たとえコンクリートが塗ってあっても!)、調べてみてもそれらしい話が見つからないということは、収蔵庫に眠りっぱなしなのでしょうか?

これはどうやら石碑そのものを探すより、まずはニコラエフスクの公園にある亀とやらを見つけたほうが現実的だと思い立ち、いろいろ調べてみました。

が……そもそもニコラエフスクが地図にない! 「どういうこと!?」とさらにしつこく調べたら、現在のウスリースクだということが判明しました。

いやぁ、これだけでかなり時間をかけてしまいました。 地図だとほとんどウラジオストクと重なって見えますね。

で、問題の亀石のほうは……見つけました!

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(著作権者:User "Golubka" of the site http://foto.mail.ru/さん CC by-sa 3.0 File:Ussuriysk-Stone-Tortoise-S-3542.jpg-Wikipedia)

とぼけた顔がかわいいですね。この甲羅のくぼみに石碑が立っていたのでしょう。

ちなみにハバロフスクの博物館前で私が撮った写真がこちらです。

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ウスリースクの公園にあるものよりも作りが荒い……というより、砂岩らしいので雨で溶けてしまったんでしょうか? 亀の後ろの壁にロシア語の説明文らしきものがついていたので頑張って訳してみました。

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『石の亀の記念碑  女真族のエスイクイ将軍は契丹を破るために大いなる貢献をしました。記念碑は1193年、ニコラエフスク(現在のウスリースク)の丘に建立されました。この記念碑は1895年に博物館に運ばれました』

うまく翻訳できない部分もあって(もし誤訳の部分がありましたら一報求ム!)、かなり大雑把な訳なんですが……。というか、ニコラエフスク=ウスリースクってこっちに書いてあるじゃないか! 私の苦労はいったい……うぅぅ(T_T)

女真族と言えば、金という国を建てた北方民族ですね。金は1125年に契丹を滅ぼしています。(ちなみに義経が討たれたとされる衣川の戦いは1189年)そして、この亀も義経の亀と同じくウスリースク産。ということは、ウスリースクには何かあるのでしょうか? 

ウスリースクの歴史を調べる!

いろいろな論文を調べていたら、ウスリースクの周辺には耶懶完顔部(やらんかんがんぶ)という金の建国時から多大な功績を残した忠臣の一族がいた、という記述にぶつかりました。

――うーん……。勇猛果敢な忠臣の一族がいた場所に義経が行ったら返り討ちに遭っちゃいそうな気がするんですが、どうでしょう?(汗)

そして、五代目皇帝、世宗(せそう)の時代には建国の忠臣を称える完顔忠神道碑(かんがんちゅうしんとうひ)なるものが建てられたそうです。ぶっちゃけこれが亀石の正体のような気がします。

ちなみに世宗の在位は1161~1189年。ハバロフスクの亀が1193年のものだとするとタイムラグがありますが、在位中に命じた石碑が退位後に完成したというのなら辻褄は合います。

さらに義経伝説の謎を解く! 

義経伝説の元となったのは亀石だけではありません。実は、ウスリースクには義経が建てた城、蘇城(そじょう)なるものもあるそうです。ですがこの一帯、金代の城郭が数十基も残っている地域なんです(汗)。そのうちのひとつを当時ロシアに渡った日本人が義経の城ということにしちゃった、なんてこともありそうです。

なぜなら、居留民が渡航した先で自分の故郷の伝説を広める話、実は結構あるんです。例えば、江戸時代初期、江戸の町を普請しに行った周辺地域の村人が、自分の村の伝説を江戸に根づかせたりしています。

さらに、ウスリースクには義経の紋、笹竜胆(ささりんどう)によく似た紋章が伝わっているそうです。ですが、それを言ったら菊の御紋とシュメール文明の紋章が似ているという話はどうなるんでしょう?w 問題はウスリースクの笹竜胆に似た紋にはどういう謂れがあるのか、ということなんですが、こちらは残念ながら調べてもよくわかりませんでした。

ぐるりとまわって亀石に戻る!

さて、話は亀石に戻ります。

――そもそもこの亀石、どうして石碑を背負わされているの?

そう思ったデンカは調べてみました。するとこの亀、本名は贔屓(ひいき)と言って、竜が生んだ九匹の子どものうちの一匹なんだそうです。重いものを背負うのが大好きで(不思議な性格だなぁ)、石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と呼ぶそうです。

亀は長寿の生き物とされたため、石碑に彫られた功績が永く後世に伝わるようにとの願いも込められているとか。元は中国の伝説から来ていて、日本には江戸時代に広まったそうです。

つまり、義経が生きた時代、日本に亀趺は伝わっていなかったのです。いやいや、現地で埋葬したのだから日本に伝わっていようがいまいが関係ない、大陸のやり方に倣ったのだ! と言うのなら、そもそも「源義経墓」とあるのはおかしなことです。だって、大陸のやり方では、亀趺の碑はその人の功績を世に知らしめるもので、墓石とは別につくるものなんですから。

結局のところ、ウスリースクの亀の正体は?  

――と、いろいろ調べてみましたが、とても興味深い話を知ったので、その紹介を最後にこの話を閉めたいと思います。その記事は『浦潮瓦版』という、ウラジオストク日本人会の方が発行しているホームページの平成20年9月号にありました。

要約すると、「ウスリースクの公園には大きな亀が置いてあり、本当は一対で、片方はハバロフスクの博物館前に置いてある」と……。

ハ……ハバロフスクの博物館前に置いてあるぅ!? それって私が写真に撮ったやつじゃん!

源義経=チンギスハン説は夢がありますが、調べれば調べるほど現実味を失っていきました。いや、私だっておもしろい話だとは思うんですけどね。現実はそれほど甘くない、というお話でした☆