滝沢誠
権藤成卿
ぺりかん社 1971・1996
ISBN:4831507458

 農本主義者、アナキスト、漢学者、復古主義者、東洋的無政府主義者、ファシスト、制度学者、皇典学者、ニヒリスト。
 これが五・一五事件の直後の権藤成卿に冠せられた特徴である。まったく実像がつかめない。ごく初期に蝋山政道と丸山真男が権藤の思想と行動に関心をもったほかは、ほとんど研究もない。いったい権藤成卿とは誰なのか。
 本書の著者も、そのような関心で権藤成卿の人物像にとりくんだらしい。

 わかりやすい順に説明することにする。
 権藤は、明治元年に福岡県三井群山川村に生まれている。いまの久留米市にあたる。祖父の権藤延陵は、日田の広瀬淡窓、筑後の笠大匡とならんで筑後の三秀才とよばれた医者だった。延陵を教えたのは儒者亀井南溟で、南溟の門下には、かの女傑で名高い向陽義塾の高場乱がいた。
 父の権藤直は真木和泉・木村赤松とともに、勤皇党の領袖である池尻葛覃に学んだ。直は品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣とも親しく、そこには志士的な情熱が渦巻いていた。そこがこれから始まる数奇な縁(えにし)の発端だ。なにしろ高山彦九郎は権藤家の久留米の親類の家で自決したのである。
 これでだいたいの家の雰囲気がわかるだろうが、成卿の兄弟姉妹も変わっている。
 次弟の震二は東京日々・二六新報などの新聞記者をへて日本電報通信社を設立し、宮崎来城とともに「黒竜会」の創設に関与した。末妹の誠子は平塚らいてうたちと「赤瀾会」をおこした。のこりの兄弟姉妹も漢詩や和歌を得意としている。

 権藤の思想と行動に影響を与えたのは、これらの家族の血と、明治4年の明治政府転覆未遂事件(明四事件)にかかわった連中である。
 この事件は、のちの佐賀の乱や西南戦争の九州反乱の序曲にあたるもので、立案まもなくたちまち鎮圧されてはいるものの、明治初期の事情のカギを握る動向として特筆される。そこに、松村雄之進、武田範之、元田作之進(のちの立教大学創設者)、漢詩人でもあった宮崎来城、渡辺五郎らの久留米勤皇党のメンバーあるいはシンパサイザーが陰に陽に動いていて、権藤の心に少なからぬ影響をもたらした。
 青年権藤はこうした背景のなか、大阪に丁稚に出たり二松学舎に漢学を学んだりしながら、ふたたび久留米に戻って24歳で結婚をする。ちょうどそのころに、久留米青年義会が父の直の煽動によって結成された。いわゆる「久留米派」である。
 久留米派は、頭山満・平岡浩太郎らの「福岡派」、宮崎滔天・清藤幸七郎らの「熊本派」にくらべると、知性派ともいうべき特色をもっていたが、それでも今日からみればきわめて血気に富んでいた。

 こうしたなかで、権藤をダイレクトに刺激したのは親友・武田範之の行動である。
 武田は朝鮮問題に強い関心をもって朝鮮にわたり、東学党にかかわって日韓協会の設立に動き、さらに日清戦争の直接の原因となる「東学党の乱」に介入するにしたがって、内田良平らと「天佑侠」を組織したりした。そのとき武田が三浦梧樓らとくんで閔妃事件をおこしたことはよく知られている。
 権藤はこうした武田に呼応して朝鮮を舞台とした漁業に手を出すのだが、すぐに失敗、その後は長崎に入って武田らの活動を物心両面で支援する。
 時代は朝鮮問題を火種に日清戦争へ、さらに三国干渉に対する臥薪嘗胆の時期をへて、日露開戦の機運がたかまってくる。開戦派の内田良平が「黒竜会」を結成すると、権藤は矢も盾もたまらず上京、内田の動きに合流する。
 内田や権藤が、李容九(一進会)・黄興(華興会)・宋教仁・孫文(興中会)とのアジア的革命のための連携を始めるのはここからである。

 やがて日露戦争がおこってポーツマス条約が結ばれると、明治政府は朝鮮統監府を設置、伊藤博文が初代統監となった。
 このとき伊藤は内田良平と矢上錦山を統監府嘱託にして京城におもむいている。このことを助言したのは玄洋社の杉山茂丸だった。ここには、やがていっさいの厄災の元凶となる日韓合邦運動が芽生えていた。この密かな運動計画は、一進会の財団結成とともにしだいに濃いものになっていく。
 そのシナリオには、日韓合邦が成就した暁には、一進会100万の会員を率いて満州移住を実現し、やがておこるであろう“支那革命”に乗じて満州独立をかちとろうということが書きこまれていた。
 これはのちの昭和になって肥大する“東亜連邦構想”の第一歩にあたる。ロシアの極東進出を阻むシナリオがそこに下敷きになっていた。
 また、ここには奇妙な「鳳の国」構想というものも描かれていた。「鳳の国」というのは大高麗国建設の夢ともいうべき破天荒なもので、古代の沿海州に勢力をはっていた扶余族の版図をふたたび蘇らせようというものである。そんな天一坊めいた計画もあったのである(ここにはのちの五族協和や大東亜共栄圏の骨格もあらわれている)。
 しかし、当時はこれらの奇々怪々の構想には、黄興も孫文も、かれらを支援した宮崎滔天も松永安左衛門も、さらには康有為も梁啓超も、また犬養毅も柏原文太郎も賛同していた。熱心だった。ようするに当時のアジア主義者の大半がこの構想の裡にあったのである。
 こうした運動が進むなか、権藤はどうも内田良平への資金援助を担当したらしい。

 明治43年(1910)、ついに日韓併合がおこる。明治政府は韓国内におけるいっさいの政党を認めないという方針をとったため、一進会は解散させられた。
 日韓合邦運動は表面的には半ば成功したかに見えたものの、半分は挫折した。満州移住を計画していた多くの韓国人が、このときの挫折をきっかけに、その後ぞくぞくと日本に流れこみ、下積みの生活を強いられることになる。武田範之も失意のままに死んでいく。福沢諭吉のいう「悪友としてのアジアとの交わりを断つ」という、いわゆる“脱亜入欧”の認識がはたして妥当だったかどうかは別として、内田や武田は「悪友としてのアジア」に付き合いすぎたのである。
 権藤はこのようなのもとで、独自に構想を切り替えていった。これが「自治学会」運動である。

 大正3年、麻生飯倉片町の南葵文庫に変わったメンバーが集まった。
 中江兆民らとフランス留学し日本人としてマルクスと唯一会ったといわれる飯塚西湖、黒竜会の文筆担当者の小沢打魚、東洋社会党の設立者で『大東合邦論』の著者である樽井藤吉、自由党左派で加波山事件と大阪事件で有名を馳せた大井憲太郎、自由党幹部で後藤象二郎の娘婿の大江卓、内田良平、山口弾正らである。
 中心に権藤成卿がいた。この権藤サークルは、大正7年に満川亀太郎を世話人として結成された「老荘会」の輪の中に入っていく。老荘会はすぐに満川・大川周明・北一輝らの「猶存会」となるのだが、権藤サークルはこれらを母体としながら、大正9年に「自治学会」となっていった。
 自治学会こそは権藤が主宰する権藤独自の結社であった。そこでは「社稷国家の自立」が叫ばれ、明治絶対国家主義が徹底して批判された。社稷とは、土の神の社、五穀の神の稷を併せて言葉で、古代中国の社稷型封建制に由来する共済共存の共同体の単位のことをいう。日本の歴史のなかの例では「郷」にあたるだろうか。「社稷は国民衣食住の大源であり、もって国民道徳の大源である」と、権藤の『皇民自治本義』にはうたわれている。
 けれどもそこには、あまりにも儒教的で孟子的な日本主義が謳歌されていた。

 権藤は大真面目であった。権藤は大化改新のクーデター構想に思想的な確信をあたえた南淵請安に理想をもとめ、それを“日本最古の書”である『南淵書』として発表したほどだった。これはたちまち学者たちの批判を浴び、ほとんど黙殺された。
 けれども、『南淵書』は北一輝の『日本改造法案』とともに、昭和維新のひそかな“バイブル”となったのである。なぜなのか。そこにクーデターの理念と根拠が綴られていたからだった。

 これで権藤成卿の前半生のアウトラインが見えてきたとおもう。はなはだしく波瀾万丈であり、過激な紆余曲折がある。
 しかし、いろいろ覗いていくと、そこにはひとつの一貫性がある。
 本書の成果がそこにある。著者の滝沢誠はその一貫性を、権藤家の家学ともいうべき「制度学」に凝視する。そしてその制度学が権藤によってさらに拡張されるにいたったのは、権藤が戊戌の政変をおこした康有為の「新学」と「新法」に影響をうけたせいではないかと推理する。
 このくだりが本書のいちばんの白眉である。この康有為と権藤成卿の関係で、さまざまなことが解けてくる。康有為は「大同」を理想とし、権藤はその「大同の世」をつくりたかったのである。

 権藤はますます独自の道を進んでいく。その特質が鮮明になっていくのは、大正12年の関東大震災前後からだった。
 とくに大杉栄の虐殺について、内田良平が「大杉栄が殺されたのは国家のためによろこばしい」と言ったのが権藤にはカチンときた。権藤には多分に無政府的なところがあり(社稷は自治主義である)、そのため大杉栄にはシンパシーを感じていたからだった。
 こうして権藤は内田との交流を断つ。加えて、権藤には関東大震災や東北飢饉が天保の飢饉や安政の地震にも似た改革への予兆に見えた。権藤は自身の構想を少しずつ講演しはじめた。国士館での国史を担当したのもそのひとつである。この講座からは武田煕の「甲子会」が発足している。
 ちょうど同じころ、酒井忠正の後ろ盾で、東洋思想研究家の安岡正篤が「金鶏学院」を設立した。これは、のちに昭和の政治を動かした安岡思想の人脈上の拠点となるものだった。開校は昭和2年、全寮制で20名ほどの学生がいた。権藤はここで制度学の講義をうけもつことになる。
 金鶏学院での権藤に共鳴した学生に野口静雄がいて、その野口が卒業後に就職した茨城県庁学務課時代に知りあった青年に藤井斉がいた。藤井は海軍兵学校から国家革新運動に強い関心をもっていた青年で、西田税の「天剣党」に関与して海軍内部の革命分子を結集させようとしていた。

 昭和4年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越した。
 1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まった四元義隆らを下宿させ、さらにその隣に苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。井上日召の本拠は茨城県の大洗であるが、そこにはのちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年が集まっていた。その青年の一部も代々木上原の権藤の家にさかんに投宿した。
 藤井斉はその井上日召と日本革命の理想で意気投合したのだが、上海事変に出征中に戦死してしまった。「一人一殺」をスローガンとする過激な井上を権藤に紹介したのは、「愛郷塾」をつくって農村自作革命をおこそうとしていた橘孝三郎だったようである。

 昭和7年2月9日、井上日召の「一人一殺」を胸に秘めた小沼正が打ったピストルの銃弾が民政党の井上準之助を貫き、菱沼五郎の銃弾が三井の団琢磨を襲った。いわゆる「血盟団事件」の勃発である。
 つつぐ5月15日、海軍の古賀清志によって第2弾の計画が実行にうつされた。犬養毅首相の射殺、牧野伸顕への襲撃、愛郷塾農民決死隊による変電所襲撃、川崎長光の西田税襲撃などである。これらは一斉におこなわれた。五・一五事件である。
 かくて昭和維新は発動された。その行動はまったく幼稚なものであったが、不満の意志はついに白日のもとに曝されたのである。そして、そのいずれにも権藤成卿がいろいろな意味でかかわっていた。
 しかし、その権藤の立場をはじめ、これらの昭和維新の発動にかかわった者たちの思想と行動には、それぞれ微妙な差異がささくれだっていた。たとえば北一輝、大川周明、西田税、安岡正篤らの思想と行動も、この昭和維新がすこぶる複雑な人脈の上に成り立っていたことを語っている。

 五・一五事件ののち、権藤は目黒中根町に移り、そこで私塾「成章学苑」をひらき、農本自治主義を深めるための「制度研究会」を発足させた。もはやテロリズムだけで革命はおこらないことを悟ったようだった。
 これには、平凡社をおこした下中弥三郎らがつくった「新日本国民同盟」、そこに犬田卯や武者小路実篤や橘孝三郎を加えた「日本村治同盟」や「自治農民協議会」の活動が後押ししていた。権藤はあいかわらず、これらの自治学の思想的中心だったのである。
 昭和9年、権藤は「制度学雑誌」を創刊、制度学研究会を発足させ、機関紙「制度と研究」も出した。翌年は二・二六事件が勃発、時代は国体明徴運動へと大きく迷走していった。
 権藤はもはやこうした動向に背をむけ、社会の自治的進歩のみが構想されるべきだと言いつづけた。また、高まる戦争の不安のなか、日中開戦の決定的不利を予告しつづけた。が、誰も権藤の言葉などに耳を貸さなくなっていた。

 だいぶん長くなったが、以上が知られざる権藤成卿の生涯である。その思想は一に社稷自治の歴史を顧みて、その発展を現在に定着させることにある。
 が、本書の著者は権藤の思想をけっして論評しない。わずかに孟子の伐放論に傾倒していたことを説明するだけだった。それで十分なのである。その理由を、ぼくは「あとがき」にしるされた著者の仕事の遍歴から納得したものだった。

参考¶滝沢誠には『評伝内田良平』(大和書房)、『武田範之とその時代』(三嶺書房)、『近代日本右派思想研究』(論創社)などの著書がある。ぼくが納得した著書の略歴については本書の「あとがき」を参照。

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