「くるり」のフロントマンが挑戦した、交響曲の大作 岸田繁(後編)
- 2017年5月23日
ロックバンドでありながら、ポップス、R&B、ヒップホップ、そしてクラシックと、ジャンルを超えて縦横無尽に挑戦を続け、音楽シーンにその存在感を発揮してきたくるり。結成20年を迎えた昨年、岸田繁さんは自身の活動として交響曲の作曲という新たなフィールドにも挑んだ。くるり、そして岸田さんの、これまでと今。
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デビューは「牛丼屋で、牛丼よりカレーが売れてしまった感じ」
――デビューが決まり、どんな気持ちでしたか?
曲を作ったら誰かが聴いてくれるという状況ができたし、何よりバイトを減らせたし、ライブとかで東京に来て遊べたし。以前の生活と比べたら断然楽しかったですね。まだ大学生だったんだけど、そもそも普通の企業に就職する気はなかったんで、ちょうどいい、これで言い訳つくわ、と。
京都って地下鉄掘ったりマンション建てたりするときに地質調査をすると、あちこちから遺跡が出てくるんです。その遺跡発掘の日雇い仕事が、バンドマンの受け皿みたいになっていて。俺もそれをやるんやろうなぁとずっと思ってたから、やったー、これで遺跡掘らんでいい! と(笑)。もし失敗しても、そのときは遺跡掘ればいいやぐらいに軽く考えてました。
――98年、シングル「東京」でメジャーデビューしました。
「東京」は、文字どおり東京にレコーディングに出て来たときに書いた曲で、もともとはインディーズのファーストアルバム「もしもし」に収録した曲でした。メジャーデビューで出したのとは歌詞が違うし、音も悪いし下手くそだし、全然よくない。でも、この曲ができたときは何かが踊っているような気がして、とてもスペシャルな感覚でした。肩の力を抜いて作った曲なのに、あとに残るようないいもんができたな、って。
とはいえ、あくまでもたまたまできた曲で、そのころのくるりの音楽かというと違ったんです。だから、周りのスタッフがやたら反応して「この曲だ!」って騒いでいる意味がわからなくて。「東京」のカップリングが「尼崎の魚」という曲だったんですが、この曲がくるりの音楽やと思っていたんです。だから売れたは売れたけど、俺らからすれば「こっち?」って感じ。牛丼屋で牛丼よりカレーのほうが人気が出てしまった、みたいな(笑)。
戸惑いもあったし、「東京の人や大人って、俺らの音楽聴いてへんのやな」って悪く捉えたりもしました。でも今思えば、スタッフが俺らのやりたい音楽に全部向き合っていたらあんなに売れなかったでしょうね。それがメジャーデビューする、ということだと。自分たちだけでなく誰かと一緒に仕事をすることの意味を、あのとき知ったような気がします。
くるりが目指す音楽とは
――その後アルバムをリリースするたびに「様々な音楽のジャンルを越えたサウンド」「ボーダーレス」などと評されてきました。
そのときどきにやりたい音楽をやってきただけで、意識的にということはないです。ただ、家ではチャイコフスキーがかかってると思えばハワイアンも流れてきたし、映画館ではSFから大河ロマンまでいろんな映画音楽に触れ、宅録で訳わからない音楽を作ってるのにディープ・パープルを演奏して……。小さいころからずっとそんな感じで、何か一つのものを突き詰めるよりは、色々なものが混ざることに興味があった。今もそう。食べ物だったら、フレンチなのにシェフが出てきて、「実は……昆布だしを使っております」なんて言われると、結構やられるタイプなんです(笑)。
料理なら自然にさりげなくやるのがカッコいいんだけど、僕らはバンドなので、そういうのが笑いにつながるのが好きで。過剰なものや変なものを混ぜて笑う、みたいな。かと言って闇鍋だとやりすぎる。鍋から靴下が出てきたら……まぁオモロいけど(笑)。オーセンティックなのに大胆で、フレッシュな笑いが起きる。志村けんさんのコントみたいな感じが理想ですね。
海外でレコーディングするということ
――4枚目のアルバム「THE WORLD IS MINE」(2002年)以来、海外でレコーディングを続けています。それもまた、くるりの多彩な音楽性に影響を与えているのでしょうか?
そうですね。民族、人種、ものの考え方や文化の違いという、ネタにしやすい要素を目の当たりにするので、何らかの影響はあると思います。とはいえ、曲自体はどこで作ってもそうは変わらない。たとえば豪徳寺駅周辺で作る曲と、ノイシュヴァンなんたらで作る曲と、僕の中ではそんなに違いはないんです。ただ、その曲に対してどう考えるかというときに、自分が立つ地平に大きな違いがある。大きな刺激というよりは、漫画のスクリーントーンみたいな。主人公は変わらないけれど、背景がパッと変わる。海外に行くとそうした感覚はありますね。
――07年にリリースした「ワルツを踊れ Tanz Walzer」は、日本のロックバンドとして初となるオーストリアのウィーンでのレコーディングや、「クラシックとロックの融合」を掲げるなど話題に。ウィーンを選んだ理由は?
中央ヨーロッパに行ってみたくて、ウィーンええんちゃうかなって勘が働いて。それで旅に出ました。メシはうまいし、どこか上海やNYを思わせる文化のるつぼ感もあり、すごく街が好きになったんです。そして、毎日のように有名なホールでクラシックのコンサートが行われていて、聴きに行きましたね。中でも、高名なニコラウス・アーノンクールが指揮するウィーン・フィルの演奏に強く感銘を受けました。その興奮冷めやらず、翌年の07年、ウィーンのレコーディングが実現したんです。
頭が完全にクラシックモードだったので、曲作りもサウンドもクラシック的なアプローチが前面に出た作品になりました。そして、直接的な影響かどうかはわからないけど、くるりはロックバンドだからその時代時代のロックンロールスタイルなり、R&Bやダンスミュージックの解釈なりを常に意識してやってきたんですが、それがこのアルバムを作ってからはあまり考えなくなりました。自分たちにかけてきた何らかの「タガ」を外せたように思います。
目的のない巨大建築物のよう「交響曲第一番」
――それから約10年を経た昨年、京都市交響楽団からのオファーを受け、50分を超える長尺の「交響曲第一番」を作曲されました。イメージやコンセプトは? 岸田さんにとって初めてのクラシック作品、どのように作っていったのでしょうか?
イメージもコンセプトもありません。あまりにも長時間にわたってダラダラと作り続け、いろんな要素が散見される作品になったので、あえて名前も付けませんでした。大規模なオーケストラだから、セレナーデやデヴェルティメントでもなく、シンフォニーなのかな、と。演奏するのが京響で指揮をしてくださるのが広上淳一先生、ということだけを自分の中の決まりに、あとはもう思いつくまま、目的のない巨大建築物をわーっと作っていった感じです。
とにかく頭の中で鳴っている音をスケッチしていきました。僕は譜面を書くのが苦手なので、一音一音コンピューターに打ち込んで作っていったんです。クラシックの作曲は対位法と和声法が大切で、それを知ってるか知らないかが、書く速度やアレンジの仕方などに大きく関わってくるんです。僕は、和声法はちょっとかじっただけで、対位法は全然勉強していないので、対位法を使ったら5分で書けることが、50日ぐらいかかったりもしました(笑)。作りながら発見し、発見しながら作る。そんな感じでした。
――昨年12月、ロームシアター京都メインホールで初演されました。
うれしい気持ち半分、あぁ、ついに生で演奏されてしまうんやという感慨半分、でしたね。頭の中で鳴っている音を寸分の狂いもなく曲にして、こんなに大きい建物を作ったんやという自信はあったけど、曲を作っているコンピューターの音っていうのはショボくて人に聞かせるようなものじゃないんです。だから、すごい建築物も写真で見ると大したことない、みたいだったら嫌やなと危惧していました。 それが実際のオーケストラの演奏や録音したものを聴いたら、目の前には巨大で立派な建築物が堂々と現れた。「ようやった」って思えました。
――「第一番」ということは、続きもある?
そうですね。京響の方とは2年にいっぺんぐらいやりましょうと話していて、ちょこちょこスケッチは始めています。数字が増えてきたらいったん別の音楽性、コンチェルトとかにしようかな。
くるり結成20年の先にあるもの
――一方でくるりは昨年、結成20周年を迎えました。感じたこと、この先のビジョンは?
あんまなくて(笑)。ベスト盤や本を出すなど記念っぽいことがひと通り終わって、思ったのは「あぁ、つかれた」。人間関係とか自分たちに対するいろんな評価とか、そういうのを反芻(はんすう)することに疲れたというか。今はそんな感じです。
20年って成人式を迎えたようなものなので、成人したからには好きなことを好きなやり方でやりたいとは思っています。バンドに変な使命感を持たすのはやめよう、と。僕、使命感が強いんですが、いろいろやっているうちに、使命感が悲壮感に変わっていくネガティブな人間なんで。それを20年やってきたから、これからは気負わずにやりたい。何か新しいことをのんきにできたら。気負ってなければすごいことができそうな気もします。
あと、一緒にやってる人たち、特に佐藤くんはものすごくいいプレーヤーなので、そういう人とやれることはすごく意味があることやと改めて感じていて。もはやオリジナルなんかやらなくてもええんちゃうかな、って思うぐらい。バンドマンとして演奏者としての視点に立つと、くるりはこれからまだまだ可能性のあるバンドやなぁ……なんて、訳わからんことをしみじみ思ったりもしています(笑)。
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岸田 繁(きしだ・しげる)
1976生まれ、京都府出身。立命館大学の音楽サークルで「くるり」結成、ボーカル、ギター、作曲を多く手がけている。98年にシングル「東京」でメジャーデビュー。特徴である多彩な音楽性には変わらぬ叙情性があり、多くのファンを持つ。
映画のサントラ制作、CMやアーティストへの楽曲提供も多数。2016年4月から、京都精華大学の客員教授をつとめている。
自身初の交響曲作品「交響曲第一番」が、2016年12月に京都で初演。その模様をおさめたアルバム「岸田繁『交響曲第一番』初演」が、2017年5月24日にリリースされる。
岸田 繁オフィシャルサイト:http://www.shigerukishida.com/