右翼はどこがうまくいっていないのか
原著:Where the Right Goes Wrong
著者:ハンス=ハーマン・ホップ
日付:1997/5/7
原典:Rothbard Rockwell Report
アメリカの右翼は一般的に三つの陣営に分けられる。グローバルタカ派、伝統保守主義者、リバタリアンだ。グローバルタカ派は国際戦争と軍事政府を好ましく見る者たちで、帝国的世界国家の同盟者であり、見込みがないので脇においておくとしよう。なぜ彼らが保守だと見なされなければならないのかまったく明らかではない。我々には、伝統主義者か伝統保守主義者、およびリバタリアンが残されている。リバタリアンは自由市場を好むが、しかし実に頻繁に社会的かつ文化的な「何でも自由」に賛成して伝統を投げ捨てる。
なぜ現代保守主義と現代リバタリアニズムが文明的社会秩序の回復に相応しいイデオロギー的な乗り物ではなくなっているのかには強烈な理由がある。実際、故意にではないにしても、右派に関する慣習的なイデオロギーの分類には頭の冴えた者の居場所が自由と財産権を愛する者のためにも福祉戦争国家を憎む者のためにも残されていない。それはなぜかを説明し、対案を提供しよう。
内容
- 保守主義の正しいところと間違い
- 心臓の社会民主主義
- ブキャナニズムは可能か?
- 家庭への猛攻
- 補助金病
- 正常回帰
- リバタリアニズムの正しいところと間違い
- カウンター文化資本主義
- 差別の必要性
- 約款の中心性
- 不寛容の美徳
保守主義の正しいところと間違い
何が保守主義者と他の政治哲学の提唱者を区別するか? 第一に、彼らが自然秩序を信じていることだ。秩序は地震や災害によって、あるいは戦争や暴政によってかき乱されるが、決して廃止されることはできない。そして、環境が何であれ、正常は常に異常と区別されることができる。
この伝統において保守主義者は、私有財産権に基づき共同体で他の家庭と協調する家庭を、最も基本的で自然で古代以来の不可欠な社会的単位だと見なす。彼らはまた家庭を社会秩序のモデルとも見なす。階層的な秩序が家庭に存在するように、それは家庭の共同体にも存在する。とりわけ、保守主義者は家庭および血縁関係と権威階層に基づいた社会階層を保守しようとしてきた。
これらのすべては自然な秩序が自然な自由から流れてくるものと考えるリバタリアンの伝統的な教義にも良く適う。しかし我々の時代の保守主義は深みまで腐敗してきている。第一次世界大戦以来、保守主義は決してアメリカやヨーロッパを大衆民主制への変貌から回復させようとはしない。民主主義のまさにその根っこに異議を唱える代わりに、国家が行うグローバル戦争と民主主義に同意をしたのだ。結果として、保守主義は制度的な文脈から剥ぎ取られ純粋に道徳的な教義に落ち込み、民主国家主義の他の変種に賛成する運動へと漸進的に変貌された。
今日の保守主義者は、たとえば離婚と非嫡出子、親の権威や精神的な権威の喪失、多文化主義と代替的ライフ様式と乱交、および犯罪のことを、すべからく心配する。みな自然秩序からの逸脱だ。しかし保守主義的な支配層のスポークスマンは正常性を回復させるという目標が徹底的な反国家主義政策と社会の切り替えを要求することを認識していない。
心臓の社会民主主義
たとえば、パット・ブキャナン[訳注:代表的なペリオ保守主義者]は道徳的堕落と文化的腐敗の問題を直すためにいかなる提案をしたか? 彼は幾度か、芸術基金や教育省のように道徳的、文化的な汚染に一部の責任を負う連邦リバイアサンを切り詰めなければならないと言うだろう。それは良いことだが、しかし十分に成功しはしない。教育への政府関与は根本的に反対され廃止されなければならない。教育の自然秩序とはそれが完全に家庭の問題であることを意味する。
さらに悪いことに、道徳的堕落と文化的腐敗が福祉国家に深い原因を持っており、国家カリキュラムや大統領命令では癒せない、という認識がない。実際、伝統主義者は福祉国家の三つの核心的制度を明示的に擁護する。社会保障、メディケア、および失業保険を、だ。そして、彼らは輸入や輸出の規制という手段でアメリカ人の仕事を「保護」する職務を国家に割り当てて、国家の社会的責任を拡張させたがる。
伝統主義者は自分が国家主義者であると率直に認める。彼らは文化保守主義とナショナリズムと社会主義を合併して新たな無産保守主義を提唱し、100万ドル超の全資産への連邦徴発政策で、資本主義および自由市場と自由貿易を、そして富を嫌悪し、嘲弄する。
指導的な伝統主義者が記すには、「かたや左派はその経済政策で中流アメリカ人を勝ち取れるものの、しかし社会的かつ文化的なラディカリズムで負けてしまい、かたや右派は法と秩序と性的正常性、慣習的な道徳と宗教、伝統的な社会性制度およびナショナリズムと愛国主義の呪文に訴えて中流アメリカ人を魅入らせるものの、しかしその古い有産階級的な経済的解決策をくだくだ言うとき中流アメリカ人を取り損ねてしまう。」彼の解決は「分離と統合の政治運動において、無産化した中流階級の文化的・民族的な忠誠と経済的利益の両方を総合する新たなアイデンティティ」を作るために左派の経済政策と右派のナショナリズムおよび文化保守主義を結合することである。
ブキャナニズムは可能か?
しかし現在の経済社会主義を維持し文化正常性を回復することは可能なのか? 伝統主義者は政治を意思と権力の問題だと考えているからこの疑問を問いただす必要性を感じていない。もしも指導者が何かを欲し、そして意思を実行する政府権力を掴み取れさえすれば、すべてが達成される、と。彼らが「死んだオーストリア経済学者」と非難するルートヴィヒ・フィン・ミーゼスは彼らの信念を「歴史主義」と特徴付けた。それは、どんな、あるいはあらゆる国家主義的処置をも正当化したドイツのアカデミックな社会主義者の知的姿勢である。
しかし、経済学に関する歴史主義的な軽蔑と無学は容赦ない経済法則が存在するという事実を変えらない。ケーキは食べたら無くなるのだ。あなたが今消費するものは将来には消費されない。ある財を多く生産することは他の財を少なく生産することを要求する。物欲しげな考え方も政府の命令もそのような法則を消し去ることはできない。
それは違うと信じることはただ実践的な失敗に終わるだけだ。ミーゼスが書き留めるように、「経済史は失敗した政府政策の長い記録だ。なぜならばそれはずうずうしくも経済法則をなおざりにして計画されるから。」かんがみるに、社会民主ナショナリズムの伝統主義的プログラムはまさにもう一つの不可能な計画である。というのも、福祉国家の核心的制度を維持しつつ伝統的な家庭と規範と行動と文化を回復することの不可能性のせいで。あなたは福祉か伝統的な道徳かのどちらかを抱くことができるが、しかし両方はできない。伝統主義者が元のまま保存したがる福祉国家の支柱が文化的かつ社会的な堕落の原因なのだから。
これを認識するには最も根本的な経済法則の一つを思い出すことだけが必要である。すなわち、強制的な富の再分配は、持てる一方から取り上げて、持たざる他方に与えることに従事する。したがって、所有者であることへのインセンティブが減少し、そして非所有者であることへのインセンティブが増加する。実際、他の「死んだオーストリア経済学者」ヘンリー・ハズリットは福祉国家が援助をすると解決すべしと主張されるところのまさにその問題を悪化させると指摘した。
人々が貧しいからといって税資金で援助したら、将来更なる貧困が起こる。人々が失業しているからといって援助したら、将来更なる失業が起こる。未婚の母を援助したら、将来更なる未婚の母と更なる非嫡出子の出産が起こる。以下同様。
家庭への猛攻
これは西欧が1880年代から、アメリカが1930年代から患ってきたいわゆる社会保障のシステムでほぼ明白である。老齢、病気、業務上災害、失業、貧困などに対する政府の強制的な「保険」。さらに古い公教育の強制的システムとの結合で、社会保障は家庭と個人責任への巨人的な猛攻撃となる。
自身の所得、健康、安全、老齢、および子供の教育に備える責務を個人から取り除くことは、また私的支給の現世的展望と射程を減少させる。くわえて、結婚、家族、子供、および血縁関係の価値を低下させる。それは無責任、近視眼、怠慢、病気、そして破壊主義さえも促し、他方では責任、先見、勤勉、健康、そして保守主義を罰する。
わけても、強制的な老齢保険システムは若者への課税を通して老人を援助することで、親と祖父母と子供の間の自然な世代間の結束をシステマチックに弱まらせる。家庭内での正常であるさまとは違って、老人はもはや自身の老齢のための貯蔵をしなくても子供に頼る必要がなく、そして特に、典型的には少ない富しか持たない若者が典型的には多くの富を持つ老人をあべこべに支えなければならない。
したがって、人々は子供をもっと少なくしか設けたがらず、実際に社会保障の開始以降で出産率は半分にまで落ち込んできただけでなく、また若者が伝統的に年輩に抱いてきた尊敬は傷つき続けきた。離婚、非嫡出子、児童虐待、親虐待、妻虐待、片親、独身、代替的生活様式、および堕胎のような家庭の崩壊と機能不全を示すものすべてが増加してきた。
補助金病
さらに、メディケイドとメディケアの健康管理システムの社会主義化および(特に保険業者の拒否する権利を廃止することによる)健康保険産業の規制は、無責任で高リスクな集団のために責任ある個人と低リスク集団の支出で再分配するの怪物的な仕組みを作り出してきた。病状“ill”、不健康、および障害の血統的な病気“disabled breed illness”、疾病“disease”、および障害“disability”のための補助金は、健康な生涯を生ようとし、生きるために働こうとする願望を殺ぐ。
ミーゼスが言うように、「病気であることは意識的な意思に依存しない現象ではない。」政府の「傷害保険や健康保険の破壊主義的な面は、そのような制度が傷害や病気を促し、回復を妨げ、非常に頻繁に病気や障害に続く機能性障害を生み出し、またとにかく永く重くさせる、というあらゆる事実の上に横たわる。……健康を感じることは、医学的な意味で健康であるということとはまったく異なる。……社会保障は、働けるままでいようとか健康でいろうとかする意思を弱めたりまったく破壊したりすることで、働けない無力さや病気を創造する。そして不満を言う習慣を生じさせる――これ自体ノイローゼであり、また他の種類の神経症である。……それは社会制度として人々を身体的に病気にさせ、また少なくとも障害を増やし、引き伸ばし、悪化させる。」
伝統主義者の保護主義の大昔からある誤謬の詳細を説明する仕事は容赦してほしい。もしも彼らが正しかったら、経済的保護を好む議論は結局のところあらゆる貿易への起訴に等しく、そしてもしも他の誰とも貿易しなければ各家庭はもっと裕福だろうという命題の擁護に等しい。確かにこの場合、誰も仕事を失わず、「不公平」な競争のせいでの失業はゼロに減らされるだろう。しかしそのような完全雇用社会は繁栄せず、貧困と飢餓を運命付けられるだろう。
国際的保護主義は、個人間保護主義より控えめな破壊であれ、まさしく同じ結果に終わるだろう。なのでこれは真正の保守主義ではない。保守主義は家庭が繁栄的かつ強力であることを望む。保護主義は経済的な破壊主義である。
我々を取り巻く道徳的退廃と文化的腐敗のほとんどは福祉国家の避けられない結果である。古典的保守主義者はこれを知っていたし、公教育と社会保障に厳格に反対した。彼らは中央国家が常に自身の力を伸張するため家庭と家庭ベースの共同体の自然な成長である権威階層を引き裂き究極的には破壊しようとするのを知っていた。そうしようとするために、中央国家が親の権威に対する青年の自然な反抗の力を利用することを、古典的な保守主義者は知っていた。そして、社会主義化された教育と社会主義化された責任がこれをもたらす手段であることを知っていた。
社会教育と社会保障は、親の権威から逃れ、続けざまの無作法をやってのける、青年期の反抗への道を提供する。オールド保守主義者はこれらの政府政策がただ個人を国家の直接支配に服属させるだけのことによって個人を家庭や共同体での人生に課せられた規律から解放してしまうことを知っていた。そしてこれが情緒的にも心的にも大人から子供へとシステマチックで社会的な退行を不可避的に引き起こすことを知っていた。
対照的に、無産保守主義はこのすべてに無知である。アメリカの道徳的堕落を心配し、社会と文化の正常性を回復したいならば、根、幹、枝まで福祉国家に反対しなければならない。
正常に戻ること
[訳注:おそらく題“A Return to Normalcy”はウォーレン・G・ハーディングのアメリカ大統領選挙1920年でのスローガン“return to normalcy”から。彼は「正常回帰」で、世界大戦以前の正常なメンタリティに回帰することを訴え、アメリカの経済的自由と孤立主義を保守した。]
正常性を取り戻すには現在の社会保障制度の除去が必要である。失業保険、社会保障、メディケア、公教育などだ。もしも我々がいずれは正常性を回復すべきならば政府の財源と権力を縮小させるか少なくとも19世紀の水準にまで落とさなければならない。したがって真の保守主義者は、リバタリアン、すなわち反国家主義者であるべきだ。彼らは無産保守主義やネオ保守主義には従うことができない。伝統的道徳の破壊と逸脱にまさに責任があるその機関を是認するのと同時に伝統的道徳を取り戻すことは求めることができない。
当代の保守主義者のほとんどは、わけてもメディアのお気に入りは、もちろんまったく保守主義者ではなく、むしろ社会民主主義者であり、そして国際主義者かナショナリストかのどっちかだ。他方で真の保守主義はただラディカルなリバタリアンでのみありえ、そうして社会保障の全構造の道徳的・経済的な倒錯の打破を要求する。
リバタリアニズムの正しいところと間違い
リバタリアニズムの単一の原理は原初の収用である。すなわち、希少資源の所有権は、資源を自然状態から取り上げて文明状態に持ってくる原初収用の行為をとおして獲得される。原初収用の原理から、原初収用された資源の変形や交換に関するルールを導出し、そして処罰の原理を含むすべての法が財産権の理論の見地から再構成される。
私はこの点でリバタリアン正義論を更に分析したり一層定義したりしようとはしない。私はそれが真実だと信じているし、実際それは反論不可能だ。むしろ、私はリバタリアニズムと保守主義の関係性を調査したい。ラッセル・カークのようないくらかのコメンテーターはリバタリアニズムと保守主義を敵対的なイデオロギーだと描く。だが彼は間違っている。リバタリアニズムと保守主義の関係性は、論理的な補完性、社会学的な互恵性、自然な先行前提である。
最初の点を指摘させてほしい。大抵の先導的なリバタリアン思想家は伝統的な道徳とマナーの燃えるような擁護者だった。最も著名であり、単独で最も重要かつ有力なリバタリアンの思想家であるマレー・N・ロスバードは、率直な文化保守主義だった。そしてロスバードの最も重要な教師ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスもそうだった。これは十分な証明ではないにせよ、二つの教義の間には実質的な親近性の徴候がある。
加えて言えば、保守主義的な社会観とリバタリアンな社会観の間には完璧な互換性がある。たしかに、両者の方法は異なる。一方は経験的、社会学的、記述的であり、他方は合理的、哲学的、論理構成主義的である。しかし保守主義とリバタリアンは、前者が家庭、血縁関係、共同体、権威、および社会的階層に焦点を合わせ、後者が財産権とその収用、変形、および移転に焦点を合わせる、という風にそれぞれの目標に限ってみれば、彼らは正確には同じものに言及していないけれど、同じ目標の異なる側面を語っている。同じ目標とは社会的協調だ。
すなわち、家庭の権威や共同体および社会階級は、財産権、生産、交換、契約といった抽象的な概念の経験的・社会学的な具体化である。財産権と財産関係は家庭や血縁関係と切り離されては存在しない。後者は財産権と財産関係の特定の形態を形作り決定するが、しかしそれらは同時に稀少性と財産権の普遍的かつ永遠的な法に制約される。
保守主義的な標準によって正常と見なされる家庭は家計的な家庭であり、現代的保守主義者が非難する道徳的・文化的な腐敗と家庭崩壊は福祉国家による家庭の経済的基礎としての家計の破壊の結果である。したがってリバタリアン的な正義の理論は実際のところ保守主義がかねてから自分で提供してきたものより保守主義自身の目的に対してもっと厳密な道徳的擁護ともっと正確な定義を提供できる。
カウンター文化資本主義
現代リバタリアニズムの多くの知的創造者が文化保守主義者であり、リバタリアン的な教義が完全に保守主義的な世界観と互換的である一方で、リバタリアン運動は保守主義とは頑迷に異なっている。広い範囲で、この運動はラディカル反国家主義と市場経済学に、うんざりすることに、文化左派主義と個人的快楽主義を結合している。すなわち、文化保守的な社会主義の伝統主義的プログラムとは正確な反対だ。しかしこの種の保守主義のように左派リバタリアニズムもまた虚偽であり反生産的である。
多くの現代リバタリアニズムが文化的左派であることはその支持者の多くによるリバタリアンの教義についての皮相的な理解の結果であり、福祉国家が知的かつ情緒的な幼稚さを促進していることによって説明することができる。
アメリカの現代リバタリアン運動の始まりは1960年後半にさかのぼる。同じ時に市民権と貧困撲滅戦争に促されて新たな大衆現象が発生していた。かつてなく広がった社会主義教育のシステムが生み出した、知識人および知識人化された若者のニュー・ルンペン・プロレタリアートが起こり、主流の道徳や文化を疎外していた。
多文化主義、文化相対主義、平等主義、反権威主義が、精神発達(青年期)における束の間のフレーズから、成人した知識人やその生徒の間の永久的な態度まで持ち上げられたのだ。
ベトナム戦争に対するリバタリアンの節操ある反対は、ニュー・レフトによりいくらか広がっていた[節操のない]反対と同時に起こっていた。加えて、リバタリアンな教義の無政府主義的な結論はカウンター文化左派に受けた。いわく、誰もが自分の生活様式を自由に選べやしなかったか? そしてこれは、下品な猥褻さ、冒涜、薬物中毒、乱交、同性愛、ポルノ、売春、または他のありうる倒錯がまったく犯罪ではなく、完全に合法的であり自然であるということを含意するんじゃなかったのか? と。
リバタリアン運動は異様なほど大量に異常なタイプの者を引き付けた。運動のカウンター文化の雰囲気と相対主義的な「寛容」が次々にはみ出し者や平凡な負け犬を捕らえていった。ロスバードはうんざりしながら彼らのことを「モーダル」な(典型的な)リバタリアンとして言及した。彼らは、誰もが何であれ自分の望む不侵害的な生活様式やキャリアや性格を自由に選べる社会を、誰もが一般的な繁栄の水準でそうできる自由市場経済の結果として夢見る。国家を解体し私有財産権と市場経済を回復するべく着手した運動は、皮肉にも、主として福祉国家の心的・情緒的な産物が、永久的青年期の新階級が形作ったものである。
差別の必要性
この知的結合はどう見てもハッピーエンドでは終わりそうにないし、終わらなかった。私有財産資本主義と平等多文化主義は社会主義と文化保守主義の結合と同じだけありそうにない。結合できないものを結合しようと試みることで、(ちょうど当代の保守主義のほとんどが家庭と伝統的道徳の侵食に寄与したように、)現代リバタリアン運動のほとんどは私有財産権の更なる侵食に寄与してきた。
カウンター文化リバタリアンが認識しそこなったことと真のリバタリアンが十分に強調できていないことは、私有財産権とレッセフェール経済学が社会差別の鋭く劇的な増加を含意することである。これは、すべてではないにしても左派リバタリアンの心に近しい生活様式実験のほとんどをすみやかに除去するだろう。言い換えれば、リバタリアンはラディカルな妥協なき保守主義者であるべきだ。
ポルノグラファー、児童虐待者、薬物中毒者、および反差別的な自由移民政策を求めたり、多様な反差別政策を施行するように中央政府を急きたてたりする者に誇らしげに支持される、ベルトウェーの組織の周りに集まる左派リバタリアンとは逆に、真のリバタリアンは国内的・国外的な差別を奉ずるべきだ。実際、私有財産権とは差別を意味する。私がではなく、あなたが何かを所有する。
あなたには、あなたの財産から私を排除する資格がある。あなたの財産への私の使用に、あなたは条件を付け加えるかもしれず、そしてその財産から私を退去させるかもしれない。さらに、あなたと私は、私有財産所有者として、制限約款に加わるかもしれない。私たちと他の人々は、私たちのそれぞれ(および私たちの相続人)が私たちの財産に行える将来の使用に制限を課すかもしれない。
現代福祉国家は私有財産所有者の排除する権利を広く剥ぎ取ってきた。雇用者は雇いたい従業員を雇えない。家主は貸したい借家人に貸せない。売手は売りたい人に売れない。買手は買いたい人から買えない。私有財産所有者の集団は何であれ互いの利益になると互いに信じる制限約款に加われないかもしれない。したがって、中央国家は我々から多くの個人的かつ物理的な保護を奪ってきた。他人を排除できないことは自己保護できないことを意味する。民主的福祉国家の下における私有財産権のこの侵食の結果は強制統合である。
アメリカ人は隣人に欲しくない移民を受け入れなければならず、教師は怠惰で無作法な生徒を除去できず、雇用者は下手で破壊的な従業員に取り付かれ、家主は悪い借家人を住まわせるよう強制され、銀行と保険の企業は悪いリスクを避けることを許されず、レストランとバーはありがたくない客を歓迎しなければならず、私的なクラブや契約的な結社は彼ら自身のルールと規制に違反するメンバーや行為を受け入れるよう強いられる。さらには、特に公有財産、強制統合が無規範と無法の状態の永遠の危機を招き込んできた。
自身の財産から他人を排除することは、財産価値が低下する出来事をその所有者が避けられるようにする手段である。もしも無作法で怠惰で信用ならない腐敗した生徒や従業員や消費者を自由に排除することが所有者に許されなければ、それらの増加および財産価値の下落が起こるだろう。実際、すべての種類の強制統合は無作法と悪い性格を仕立て上げる。文明的な社会では無作法の究極的な価格は排除であり、多方面にわたる腐敗した性格は(犯罪的な攻撃をしなくても)どこからも誰からも直ちに排除される。彼らは文明から排除された浮浪者になるだろう。
これは支払うにはべらぼうな罰金だ。したがって、そのような行動の頻度は減らされる。対照的に、いつであれあなたが彼らの態度を望ましくないとみなすときに、もしもあなたがあなたの財産から他人を排除するのを妨げられたら、腐敗した特性は低い費用で振舞われ、ゆえに励まされる。孤立して社会から究極的に排除されるよりも、――浮浪者と思しきどんな面だろうと――浮浪者にはどこであれ人を不愉快にさせることがむしろ許されており、浮浪者のような行動が蔓延する。強制統合の結果はあまりにもはっきりしている。すべての社会関係が――私的であれ商売であれ――ますます平等主義的かつ非文明的になってしまうのだ。
はっきりと対照的だが、排除する権利が私有財産の所有者へ完全に回復されている社会は深く非平等主義的かつ差別的であろう。左派リバタリアンに緊密な「寛容」だの「偏見のなさ」だのは、ほとんど、あるいはまったくないだろう。すべての経済的な交換や社会的な関係は、財産権、契約、協調、および排除の原理の厳格な支持者により統治される。
ヨーロッパやアメリカが19世紀まで当然のこととしてやっていたことを町ができるならば、私有財産権の制度に含意される結社の自由を回復するための途上は申し分ないだろう。町への入場条件に関するサインがあるだろうし、そして一度町に入ったら、特定の財産部分に入るための条件(たとえば、乞食や浮浪者、ホームレス禁止)があるだろうから、入場条件を満たさない人々は侵入者として追い出されるだろう。ほとんどすぐに文化的かつ道徳的な正常性は自身を再主張するだろう。
カウンター文化的な生活様式の実験者たちは再び自身の行動のための価格を支払うだろう。もしもそれを続ければ、文明的な社会から広く締め出され、物理的に隔離されてゲットーや社会の周辺部で生活しなければならず、多くの立場や職業が彼らの使用を中止するだろう。他方では、もしも彼らが社会に進出して生活したがるならば、加わりたい社会の道徳的かつ文化的な規範に調整せざるをえないだろう。
かくて、同化することとは必ずしも人が異常な生活様式を諦めるべきだということを含意しない。しかしながら、それは人々が承認しない代替的な行動をもはや陳列しないということを含意する。それは公衆の目から隠されるべきであろうし、彼自身の四つの壁のプライバシーに制限されるべきだろう。それを公開することは社会からの排除を引き起こすだろう。
すべての社会秩序は自己執行メカニズムを要する。もっと正確には、社会秩序は自動的には保たれず、社会のメンバーの側での意識的な努力と目的的な行為を要求する。リバタリアン社会では一般的に、高い文化的な基準と社会規範に反する行動への差別の急激な増加があるだろう。
約款の中心性
社会についてのリバタリアン的モデルは私有財産所有者のものであり、彼らは他の人から孤立して生きる代わりに、隣人などの他人と協業して生きる。私有財産権理論の言語では、孤立よりも近所付き合いを選択する美徳により、独立した財産所有者が相互拘束と制限的・保護的な約款に加わる。
この約款を通して、彼らは自身の財産と個人的な振舞いについて、(始めのうちは当該の共同体の設立者に設定され定義される)特定の制限に同意する。そして、そうするという信念に基づく規制の合意へのあらゆる自由保有者は、彼自身の個人的優位を他の全員と同じだけ有し、彼および他の全員の財産価値を増加させるだろう。
社会についての完全に調和的な保守主義的モデルは、自然・経験的な事実の問題として、典型的には家計が家庭をなし、そして普通は共同体が血縁と血縁関係からなる、という根本的な洞察をこれに加える。実際、恒常的な傾向性はこれらのために、遺伝的に関係する言語的・文化的に同質的な人々を構成するだろう。
リバタリアンにとって、約款の強制はそのとき自己利益の問題であり、その結果は自然エリートと彼らの権威に決定的に依存する。保守主義者にとって、執行は家庭と血縁の利益の問題であり、その成功は家計、家族、氏族の行為に依存する。
どんな場合でも、社会のメンバーは、わけても自然エリートと家庭の長は、社会を維持するために――私有財産の価値を保護し増加するために――保護的処置の二つの形態を快く引き受けるに違いない。第一に、外的な侵略者と内的な犯罪者に対しては、彼らが自身を物理的暴力と処罰で守ろうとしないわけがない。第二に、等しく重要なことだが、誰であれ財産と家族と血縁を守るための契約の目的そのものと両立しない行為を提唱する者に対しては、彼らが自身を追放や除籍で守ろうとしないわけがない。
この点で、社会は常に平等主義と文化相対主義の二つの相互結合連絡する脅威に直面する。平等主義は、どんな形態や調子であれ、私有財産権のアイディアと両立しない。私有財産権は排除性と不平等性と差異を含意する。そして文化相対主義は家庭と世代間の血縁関係についての根本的な事実と両立しない。
家庭と血縁関係は文化的絶対主義を含意する。社会心理学的な事実の問題として、平等主義的かつ多文化主義的な感傷は未成熟な世代の間での支持に出会う。まだ不完全な心的発達のせいで、男の児童はいつも特にこの両方のアイディアに影響されやすい。未成熟さは、家庭の生活と家父長的な権威で課せられた規律に若者が反抗する、正常な――そしてこの段階では普通な――反乱として特徴付けられる。
文化相対主義と多文化主義は、これらの制約から自身を解放するイデオロギー的な手段を提供する。そして、財産権が個人的に収用され生産される(そしてゆえに公正に分配される)よりむしろ「与えられる」(そしてゆえに恣意的に分配される)ものだという幼稚な見解に基づく平等主義は、反抗的な青年が家庭と共同体の訓練上の枠組みの外で生きるための経済的手段を請求できるようにする知的道具である。
契約の執行はもちろん大部分が賢慮の問題である。いつ、どう反応するか、そして取るべきはどの保護的処置かは、社会のメンバーの側および自然な社会エリートの側の判断を要求する。したがって、道徳相対主義と平等主義の脅威が、(家庭に束縛された大人に落ち着くまでの)人生の短い期間のみにわたる青少年のわずかな割合に制限されるかぎりは、ほとんど何もしないだけで十分かもしれない。ちょっとの嘲笑で十分だろう。
状況はとても異なるが、道徳相対主義と平等主義の精神が社会の大人のメンバーに抱かれたとしたら。民主主義(多数派支配)の形態であれ共産主義の形態であれ、もしも平等主義的な感傷を習慣的に提唱するならば、他のメンバーが、特に自然な社会エリートが彼らを排除し強制退去させる準備がなされることがきわめて重要になる。
財産所有者の私有財産を保護するために彼ら自身に決定された約款においては、無制限の言論の権利のようなものは存在せず、自身の財産の上でさえ無制限の言論はできない。人はお天道様の下で夥しい物事を言うかもしれず、ほどんどどんなアイディアも提唱するかもしれないが、しかし人々はちょうど約款の目的そのものに反する民主主義や共産主義のような観念を提唱することをもちろん許さないだろう。同様に、家庭や血縁を保護するために結ばれた約款においては、そういう快楽主義や寄生主義のような社会的規範に反する生活様式の実践や提唱に対する寛容はありえない。
不寛容の美徳
[訳注:おそらく題“The Virtue of Intolerance”はアイン・ランドの『利己主義という気概』“The Virtue of Selfishness”から。彼女は『利己主義という気概』で、利己性が利他性の先行前提であることを説明し、利己性という政治的にインコレクトな概念を妥協せずに称揚する。]
リバタリアンは最も妥協しない種類の道徳的かつ文化的な保守主義者であるべきだ。現在の道徳的退廃と社会的崩壊と文化的腐敗の状態はそもそもただ財産共有の蔓延と再分配国家の拡張によってのみ可能にされる過剰な寛容の結果である。リバタリアンは、文明から排除されたすべての生まれついての民主主義者と共産主義者と代替的生活様式主義者よりも、むしろ社会の真っ只中で寛容だった。
もちろん、なおも平等主義的で相対主義的な感傷にけしかけられたこの寛容は、中央政府の権力が強制統合の明白な表現として同時に成長してくるにつれて、誰かを何かから排除する権威が効率的に蒸発されてきたところの終着点まで達した。
リバタリアンは自由で自然な社会秩序を設立する試みにおいて、私有財産権に本来備わる排除の権利を国家から取り戻そうと励むべきである。しかしこれを成就するだろう前であっても、なおそのようなありうる達成をするために、リバタリアンは日々の生活で自由結社の権利とそれが必然的に意味する排除の権利をできるかぎり再断言すべきである。
リバタリアンはそのとき、平等主義者・民主主義者・社会主義者・共産主義者・多文化主義者・環境主義者に反対し、悪いマナー・非行・不完全・無礼・下品・および猥褻に反対し、不寛容と差別を提唱し実践する道徳的義務を負う。
真の保守主義者が右翼社会民主主義的な伝統主義者と絶交しなければならないだろうように、真のリバタリアンは左派生活様式リバタリアンと絶交しなければならない。将来の家庭と繁栄を、道徳と財産を気にする人々には、私有財産権の信奉を、および文明のちょうど基礎としての私有財産権の含意のすべての厳格な信奉を妥協なく提唱することの他にどんな代替案もない。
(出典: unz.org)
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