左翼の考え方

原題:The Mindset of the Left
著者:トーマス・ソウル
日付:1013/7/5

左翼とレトリック

十代の凶悪犯が政治的左翼の人々に「問題を抱えている若者」と呼ばれるとき、この言葉遣いは若い凶悪犯のことよりもむしろ左翼のものの考え方の方を我々に多く伝える。

凶悪犯が問題を抱えているという証拠はわずかなものもめったになくて、他人に迷惑と危険を作り出して彼ら自身楽しんでいるという十分な証拠なら実際のところよくある。ではなぜ言い訳のときに、若いチンピラが「問題を抱える若者」と呼ばれる一方で、大量殺人犯はただ「正気でない」と想定されるのか?

少なくとも18世紀以来、左翼は邪悪に関する明白な事実――いくらかの人々はそうするのが悪いことだと知っていながら単純にそうすることを選んでいること――を正視するのを避けるために苦労してきた邪悪を説明し許容するために、貧困から不幸な幼少期まで、あらゆる種類の言い訳が左翼に用いられている。貧困や不幸な幼少期の生い立ちでありながら礼儀正しく生産的な人間に育ったすべての人間は無視される。いわく、邪悪とは、王や征服者や奴隷所有者を含む、富裕と特権のうちに育った人々が犯すものなのだ、と。

なぜ邪悪は左翼にとってそこまで受け入れがたい概念なんだ? 左翼の基本的なアジェンダは外部の条件を変えることだ。しかし問題が内的であったら? 現実の問題が人間の強情さだったらどうなるんだ? これを18世紀にルソーが拒絶し、それ以来左翼はずっとこれを拒絶してきた。なぜか? 保身のためだ。

もしも政府が支配したがるもの――制度や政府政策――が世界の問題のもっとも重要な要素ではないとしたら、左翼に何の役割がある? 左翼が常に追い求める明るく新しい政府「解決策」よりも、家族や文化や伝統のようなものがもっと積極的な力を発揮するとしたら? 「犯罪の根本的原因」を探すことが、犯人の監禁より効果的ではないとしたら?

冷厳な事実

硬い事実が示すのは、左翼の明るく新しいアイディアが1960年代に実施される前は、左翼が軽蔑する古い伝統的慣習の下で殺人率が数十年間にわたって下がり続けたことだ――実施以降は犯罪と暴力の率が空に飛び立つロケットのように跳ね上がった。

性についての古臭い観念が、十代の妊娠と性交感染症を減らすためだと想定されて、1960年代に「性教育」で導入された左翼の明るく新しいアイディアへと置き換えられたとき、何が起こったか? 十代の妊娠と性病は長い年月をかけて下がっていた。なのに、その傾向は1960年代にひっくり返り、新高値をたたき出した。

左翼のクルーセイドで最も古く最も教条的なものの一つは、個人と国民の両方の武装解除(軍備縮小)だ。左翼の焦点はまたもや外的であった――この場合は武器だ。かりに武器が問題であったとしたら、そのときは国内的な銃規制法と国際的な軍縮条約が答えになるかもしれない。しかしながら、問題は法律や条約を他の人より気にしない邪悪な人々であるとくれば、武装解除が意味していたのは、邪悪な人々に礼儀正しい順法的な人々を傷つけやすくさせることだ。

武装解除の信念は18世紀から世界中の国々で左翼の主要な呼び物であり続けてきたから、今頃あなたは左翼の信念を実証するたくさんの証拠があるのだろうと思っているかもしれない。実際に銃刀法が一般犯罪率を減らしたのか、わけても殺人率を減らしたのか、その証拠は銃規制の提唱者にはあまり言及されていない。もっと厳しい銃規制がもちろん殺人率を減らすだろうと単にもののついでに仮定されるだけだ。しかし硬い事実はその仮定を支持しない。この理由が、ジョン・ロット“John Lott”の『銃多くて、罪少なし』“More Guns, Less Crimes”とジョイス・リー・マルコム“Joyce Lee Malcolm”の『銃と暴力』“Guns and Violence”のような本での、経験的証拠に重度に頼る銃規制批判にある。

国の軍備縮小はもっと酷い記録をもつ。二つの大戦の間でドイツと日本が完全武装している間に英米両国は軍備を怠った。英米国の多くの兵士は第二次世界大戦の初動で不十分な軍備の報いを受けた。しかし左翼の向こう見ずな展望と比べられる単なる事実は何か?

政治的左翼は永らく「貧者」の保護者たる役割を請求してきた。これが、政治的権力のための中心的な道徳的請求の一つである。だがこの請求はどれだけ妥当なのか? 多くの国で左翼の指導者は貧者にもっと快適な貧困を可能化する政策を推進してきた。しかし根本的な質問が立ち上がる。誰が「貧者」なんだ? 貧困について、政府が定める恣意的な所得水準以下のあらゆる個人や家族を含んだ官僚的な定義を用いるならば、政治やメディアで投げ散らかされる「貧困」に関する統計の種類を得るのは簡単だ。しかしこういう統計は現実と関係あるのか?

かつて「貧困」には具体的な意味があった――たとえば、食べるに十分な食料がない、着るに十分な衣料がない、或る集団からあなたを守るに十分な防壁がない、など。今日では何であれ統計的基準を定める者たる政府官僚が意味を選ぶ。彼らには、福祉国家の支出を正当化する十分な人々を含めるように貧困を定義するあらゆるインセンティブがある。公式貧困線以下の所得のほとんどのアメリカ人はエアコンとテレビと自動車を所有しており、飢餓とは程遠く、他のアメリカ人より肥満であるというのはありそうなことだ。しかし言葉と数字の恣意的な定義が彼らを納税者の金に接近させる。

この種の「貧困」は今日の貧者だけでなく、簡単にまた彼らの子や孫の生き方にもなる。彼らが社会の生産的一員になれるときでさえ、そうなろうとすると、彼らの稼ぎへの暗黙的な「税」が福祉国家の利益のために課せられるが、それはしばしば億万長者への明示的な税を超える。もしもあなたの所得が$10,000まで増加することで、政府の利益のためにあなたの損失が$15,000になるなら、あなたはそれをやるだろうか?

要するに、政治的左翼の福祉国家は、貧困から脱出しようとする試みを処罰する一方で、貧困をもっと快適にする。幾人かの人々が貧困に運命付けられていると我々が信じないかぎりは、左翼のアジェンダは社会を害するのと同じだけ彼らを害する。無駄になった莫大な金額もその最悪ではない。

厚生の現実

もしも我々のゴールが人々を貧困から抜け出させるためのものであれば、世界中の国々でそれをやってのけた個人や集団の、たくさんの元気付けられる事例がある。

数世紀前から何百万もの大抵読み書きできず貧しい華僑が中国から移民してきた。定住先が東南アジアであれアメリカ合衆国であれ、彼らは底辺から始め、厳しく、汚く、しばしば危険な仕事を引き受けた。普通、架橋はほぼ支払われなかったけれど、彼らはそれをちょっとずつ貯蓄し、多くの者は結果的に小さい商売を開いた。彼らは長い時間を働き質素に生きることで、小さい商売をもっと大きい繁栄した商売に変えることができた。それから彼らは自分自身には大抵欠けていた教育を自分の子供に受けられるようにした。1994年までに5700万人の華僑が中国住みの一億の人々に匹敵するたくさんの富を創造した。この社会的パターンの変種は世界中に住み着いたユダヤ人、アルメニア人、レバノン人、および他の移民の、初めは貧しかったが世代を通して繁栄した歴史にも見出される。

彼らはめったに政府に頼らなかったし、普通は道すがらの政治を避けた。そのようなグループは経済学者が「人的資本」と呼ぶものを開発することに集中する――自分の技術、才能、知識、自己規律。彼らの成功は普通左翼が政治的社交界でめったに使わない四文字の一語に基づいている:「はたらく」ことだ。貧困から繁栄までのし上がる類似のパターンに従う個人が、実質的にすべての集団のなかに存在する。しかし、異なる集団に含まれるそのような個人のうちどれだけ多くの者が集団全体として繁栄か貧困かに大きな違いを生むというのか。

左翼のアジェンダ――他人が生産したものへの「権利」を大声で要求しながら嫉妬と不平不満の感覚を促進すること――は、世界中の国々で広範にわたるパターンだ。このアジェンダはめったに貧者を貧困から救い上げなかった。しかしながら、それは社会的に反生産的な結果を伴う政策を促進しつつも、左翼を権力の地位と自己誇大化に押し上げた。

政治的左翼の基礎的な問題は現実世界が彼らの先入観に合わないことであるように思われる。そのために、一見して自分たちの先入観は間違っていないはずである以上、彼らは現実世界の方を間違っていると見なし、変化が必要であると見なす。

左翼にとって決して終わることのない不平不満の源は、望ましい職業、制度、所得の階層に、いくつかの集団が過剰相当“over-represented”しており、他方で他の集団が過少相当“under-represented” しているという事実にある。これについて左翼の側で表現されたあらゆる憤懣や憤慨からして、異なる集団が単に他の集団より良いということはありえなかったことだと思われるかもしれない。

しかし、ケニアからの走者はアメリカ合衆国でのマラソンの不釣合いな幅を利かせ続けているし、インドから来た両親や祖父母の子供は綴り字競技で過去15年間ほとんどのアメリカ人に勝ち続けてきた。それに、人口のほとんどが白人の国での主動的なプロバスケットボール選手が長い間黒人であったことに誰も気づけなかったのか? 世界の先導的な写真レンズのほとんどが――数世代にわたって――日本人かドイツ人かのどちらかの人々にデザインされてきた。世界の先導的なダイアモンド・カッターのほとんどはインドのジャイナ教徒かイスラエルからのユダヤ人やその他のところにいた。

人だけでなく、物もまた全体的に等しくない。全世界のあらゆる竜巻の3分の2以上がアメリカ中部で起こる。アジアには20,000フィート以上の高さの山頂が70以上あり、アフリカにはない。世界のあらゆるオイルの不釣合いなシェアが中東にあることは耳寄りなのか?

本の全体は人々の不平等な行動や性能で満たすことが、あるいは人種、国民、文明が発展してきた不平等な地理的環境で満たすことができる。だというのに、政治的左翼の先入観は、なぜ国民毎に結果が等しくないのかの不吉で悪意的な理屈を宣言しつつ勇敢に進軍する。

左翼の実態

この道徳的メロドラマのすべてが左翼の政治的アジェンダの背景として用いられてきた。左翼のアジェンダは貧者を貧困から救い出すことができ、そして一般的に世界をもっと良いものにすることができると主張してきた。この主張は数世紀にもわたって世界中の国々でなされてきた。そして数世紀にわたって世界中で失敗してきた。

左翼のもっとも徹底的で壮観なレトリックのいくつかは18世紀フランスに現れたが、そこで特定の見解をもった人々が下院の左側に座ったという事実からまさしく左翼だといえる概念が始まった。フランス革命は欲するところの権力を得た左翼が何をできるかを示す機会だった。彼らが約束したもの――自由、平等、友愛――とは対照的に、彼らが実際に生み出したのは、食糧不足、暴徒の暴力、そしてギロチンの下で死んだロベスピエールのような彼ら自身の指導者にまで及ぶ、恣意的処刑を含む独裁的権力だ。

20世紀には左翼のもっとも徹底的なビジョン――共産主義――が世界中の広大な地域に広がり、10億以上の相当な人間を包囲した。もちろん、10億人はスターリン下のソビエト連合とマオ下の中国で餓死した。

社会主義の比較的穏やかな変種は、国民経済の中央計画を伴い、インドや色々なヨーロッパの民主制国家に根付いた。

かりに左翼の先入観が正しかったとしたら、指先に莫大な量の統計データを携えた教養あるエリートによる中央計画と、すぐに利用できる専門知識と、政府権力の裏打ちこそは、何百万もの個人が自分の個人的利益を否応なしに追求する市場経済よりも成功していなければならなかったはずだ。しかし20世紀の終わりまで社会主義的・共産主義的な政府すらも中央計画を諦めたり市場競争を許可したりし始めた。

それでも、不可避な現実へのこの静かな幸福は左翼の煩い主張を終わらせなかった。アメリカ合衆国では、これらの主張と政策は、アメリカ人の生活への未曾有の進入と経済部門全体を引き受ける政府によって集約され、新たな高みに達した。オバマケアはただのもっとも明白な例にすぎない。

世界の左翼的ビジョンの心臓は他の人々が自分たちで自分たちの意思を決定するよりも左翼たちのような高潔な第三者が他の人々のためにもっと良い意思決定をしてやれるという暗黙の仮定である。この恣意的かつ擁護不可能な仮定が都市再開発からオバマケアまでの法律・政策の広いスペクトラムを長年にわたって下支えした。

左翼のでしゃばりによる多くの国際的クルーセイドの一つに、多国籍企業が経営するビジネスの、余所の国での――得に相対的な貧困国での――人々の労働時間を制限する運動がある。或る国際的監視集団は中国の人々が法的に規定された週49時間以上働いていないか確認する仕事を引き受けてきた。アメリカ人やヨーロッパ人に導かれた国際的監視集団が、なぜ自分よりはるかに少ないオプションしかなく自分より貧しい人々にとっての最善を自分たちは知っていると想像するのかは、でしゃばりエリートの多くのミステリーの一つである。

ソウルと最低賃金法

17歳で家を出て、高校卒業証書も労働経験も技術もなかった者として、私は貧困がどんなものかを学ぶ厳しい道に数年を費やした。この数年間の割と幸福だった時間の一つは、 私が週60時間――昼は電報を接いで40 時間、夜は機械工場のパート・タイムの仕事で20時間――働いていたころの短い期間だった。

なぜ私は幸福だったか? これらの仕事に就く前に乏しい貯金が文字通り最後のドルまで減じたまま、私は必死にどんな仕事でも探して数週間を費やしてきて、最終的に夜の機械工場でのパート・タイムの仕事を見つける前のことだ。私は給料日が来るまでパンが食べられるよう最後のドルを貯めておくために、住んでいるハーレムの部屋からブルックリン・ブリッジ真下の機械工場までの幾マイルを歩かなければならなかった。それから日中に電報を接ぐフル・タイムの仕事を見つけたときは、二つの仕事からのお金でかつてよりも多くを稼ぐようになった。私は借りていた部屋の延滞家賃を払うことができたし、ものを食べて、行き来で地下鉄に乗ることの両方ができた。雨の日のために若干のお金を貯めておくことすらできた。それは私にとって涅槃寂静にもっとも近いものだった。でしゃばりたちが考えた私の働くべき時間よりも多くの時間をかけることが、でしゃばりたちに邪魔されなかったのだ。ありがたい。

最低賃金法があったが、しかしこの体験は1949年のことであり、1938年に公正労働基準法で定められた賃金は往年のインフレで意味がなくなっていた。効果的な最低賃金法が欠けていて、1949年不況期の十代黒人の失業率は1960年代やそれ以降のもっとも繁栄的な年々の率の端数でしかなかった。最初は1950年代に、道徳的に聖別されたでしゃばりたちが最低賃金法を上げると同時に、十代の黒人の失業率はロケットのように跳ね上がった。事態は常にこうなのではない、ましてやでしゃばり左翼の政策が産んだこのような破局的な帰結なのではない、という観念は多くの人にはなく、いまや、この集団内での悲劇的に高い失業率に慣らされてしまった。

 もしもそのような出しゃばった政策が1949年に効果的であったら私がどうなっていたかは分からないが、最後のドルをやってしまう前に仕事を見つけるのを妨げてられていた。私の個人的な体験は、あなたのオプションがとても限られているときがどんなものかについての、ただの一つの小さな例だ。左翼の好都合なでしゃばりは貧しい人に存在するオプションをかつてよりも減らす政策を恒常的に促進している。

でしゃばり政策が貧者のオプションを狭めている一方で、多国籍企業が第三世界の貧者のオプションを拡張していることは、でしゃばりたちには夢にも思い浮かばない。多国籍企業が貧困国に払う賃金は典型的に地方の雇用者が払うよりも高い。さらに、被雇用者が現代企業で仕事を得る体験は、彼ら自身をもっと価値あるものにするし、たとえば中国では毎年百分率で二桁の賃金上昇を引き起こしてきた。

学位のある人々にとって、自分は貧者や無教養人より物事をよく知っているのだと想像するほど簡単なことはない。しかし、かつて誰かが言ったように、「馬鹿だって賢者に着せてもらうより上手に自分のコートを着ることはできる。」

(出典: archive.lewrockwell.com)

トーマス・ソウル

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