バークの『自然社会の弁護』についてのノート
原題:A Note on Burke’s Vindication of the Natural Society
著者:マレー・N・ロスバード
出典:http://www.lewrockwell.com/1970/01/murray-n-rothbard/the-conservative-anarchist/
http://mises.org/document/1014/A-Note-on-Burkes-Vindication-of-the-Natural-Society
1756年、エドマンド・バークは彼の最初の作品『Vindication of Natural Society(自然社会の弁護)』を刊行した。まったく不思議なことに、現在のバーク復興においてこれはほぼ完全に無視されている。この作品はニュー保守主義の父としてのバークの現在のイメージにほとんど合わないという点で他の著述とはっきりとした対照をなしている。これより保守主義的でない作品は想像することもできない。実際、バークの『弁護』はおそらく合理主義的で個人主義的な無政府主義の最初の現代的な表出であった。
内容
- 保守主義者にとって厄介な作品
- 「すべての帝国は血糊で固められている」
- 国家は自然の法を破る
- 合衆国もまた専制
- バーク的なカースト分析
- 彼は無政府主義者だった
- バークは私有財産制無政府主義だったか?
- まじめな作品
- もちろん、彼は弁護士を嫌った
- 風刺にあらず
保守主義者にとって厄介な作品
『弁護』と正反対の見解のために戦うことにバークが己の残りのキャリアを費やしたことはよく知られている。後からなされた彼自身の説明によれば、『弁護』はボーリンブルク卿のような合理主義的有神論者の風刺であり、理性への傾倒と啓蒙宗教への攻撃が論理的に政府自体の原理への破壊的な攻撃に終わりうることの証明であった。伝記作家とその支持者であるバークのホストは彼の説明を無批判に採用する傾向があった。さらに、彼らはせわしなくて、『弁護』におけるバークの議論とその正当な理由へとめったに言及しない。人はたいていこの作品にまごつく。というのも、いくら熟読しても皮肉や風刺の跡をほとんど現さないのだ。実際、これは彼に特徴的な文体で書かれた実にまじめで誠実な論文である。本当に皮肉を意図していたのかどうかという基本的な問題をうち立てることなしに、バークの伝記作者はこの作品の皮肉としての効果不足についてコメントしてきた。
バーク自身の説明は実際ちっとももっともらしいものではない。彼は風刺したのではなく、単に後年になってそのような著述だとされるよう試みたのだ。『弁護』はバークが27歳のとき匿名で刊行された。9年後に著述業が発覚したあと、バークは有名な議会のキャリアに乗り出していた。そのような見解を彼が本気で主張していたのだと認めたために、初期の頃は政治的に壊滅的だった。彼の唯一の脱出口は、自分自身を合理主義と政府転覆の永遠の敵であると弁護することによって『弁護』を風刺として払い捨てることであった。
バークの『弁護』は探求の狙いを定めることから始まる。政治的制度もしくは「政治社会」の一般本性を真実の明かりで調査することが狙いである。彼は初めに、一般的な信念と古代の伝統を取り入れることへの保守に典型的な渋りを拒絶する。彼は十八世紀合理主義の気高い信条を掲げる。幸福は、長い目で見れば、真理に、かつただ真理のみに基づく。そして真理は人間活動と人間関係の自然法である。いつであれ人間本性の法として知られるものの道を外れるとき、国家によって押し付けられる実定法は人を傷つける。いかに自然法を発見するのか? 啓示によってではなく、人間の理性の使用によってである。
「すべての帝国は血糊で固められている」
歴史の探求を通して国家についての検討を発展させる仕方はバークの特徴である。まず、国家間の外部関係がある。彼は典型的関係が戦争であることを発見する。戦争は国家のほとんど唯一の外部表面である。そしてバークは、皇太子の勉強のための戦争についてのマキャベッリの強調が、君主制だけでなくすべての国家形態に適用されることを指摘する。バークは明け透けにむかむかしながら、国家がふけってきたいくつかの著しい「屠殺」を年代順に記録し続ける。「すべての帝国は血糊で固められている」し、相互破壊の試みで結ばれている。自然状態における人間についてのホッブスのぞっとする見解は、普通の人間行為に関するホッブスの観察に由来するのではなく、国家に束ねられたときの人々の行為についてのバークの研究に由来する、と彼は機知に富んだ仕方で推論する。
殺人のカタログはあまりにも印象的だ。バークは古代から3600万人の人々が政府により虐殺されたと見積もる。しかしバークはそこで止めて満足しない。彼は尋ねる。なぜ、国家に邪悪が集まるんだ? 彼は国家の本性そのものに答えを見つける。すべての「政治社会」は一方の従属と他方の圧政に基づく。
国家は自然の法を破る
バークは国家の本性を検討する。諸個人が正当には行えない物事を政府は「国のために」行う、というおなじみの事実を指摘する。しかし、これらの不正義はまさに国家自体の本性に基づいているのだと、すなわち国家が必然的に暴力に支えられるという事実に基づいているのだと彼は言い加える。
これらの種類の政治社会が自然からの逸脱と人間の心への制約であるということを証明するためには、彼らを支えるために至るところで使われる血なまぐさい政策と暴力の装置を見るだけで事足りる。どの社会にもたくさん備えられている地下牢、鞭、鎖、拷問台、絞首台の再検討をしてみよう……。確かに、私はそのような施設におけるそのような処分の必要性を認めよう。しかし、そのような処分が必要であるところの施設について、わたしはまさしく平凡な意見を持つべきなのだ。 [1]
バークは、専制・貴族制・民主制という政府のタイプについての有名なアリストテレス的類型論に進む。それぞれが取り上げられ、調べられ、そして欠点を見出される。専制は明らかに邪悪である。しかし貴族制がもっと良いわけでもない。実際、貴族制の支配は一人の男の気まぐれに依存せず専制より永続的であるから、もっと悪くなりがちである。そして民主制はどうか? ここでバークは古代ギリシャについての彼の知識の蓄えに頼る。民主制は単に圧政的なだけでなく、また上位の諸個人への憎悪で崩れる運命にある。人々による支配は好戦的かつ専制的であり、税金と助成金を多用する傾向にある。
合衆国もまた専制
最後にバークは、特に現代の共和主義の理論家に見惚れられている、政府の混合形態を取り上げる。共和政府は権力の分割と均衡によってこれらの三つの形態のすべてを混ぜ合わせたのだから、それぞれは他の超過を監視して均衡できると思われている。バークは自分が先述のこのシステムの支持者であると自認するが、その分析に打ち込み、どこであれ引き起こされるだろう真理を追求する。彼が言うには、第一に、この均衡は必然的に非常に繊細であらざるをえず、そして一つの権力もしくは他の権力により簡単に覆される。第二に、権力の重なり合う領域は混乱と論争の恒常的な源泉を生む。第三に、多様な権力間の紛争の結果は、始めに一つの部分が、それから他の部分が、それぞれ終わりなき戦いで優越的権力を得て、かわるがわる人々に対して圧政化してゆく。どの一団が権力を得ても圧制が結末だ。
……いま一方で、また他方で、均衡が覆される。政府は或る日にはただ一人の恣意的な権力であり、また他の日には王子を騙す数人の手品する同盟となって人々を奴隷化し、また三つめの日には気も狂わんばかりに熱狂した手に負えない民主制である。…これらの交替のすべての大いなる道具は……党だ。すべての党を駆り立てる精神は同じである。権力欲の、自己利益の、圧制の、そして裏切りの精神である。 [2]
バーク的なカースト分析
『弁護』は富者と貧者の不平等についての多くのレトリックを含む。しかし詳細な検討が明らかにすることは、バークが書いているのは社会階級についてではなく、社会カーストについてであって、すなわち、彼は自由な行為から生じる不平等にではなく、国家の行為から生じる富の人工的な不平等に言及しているのである。バークは「政治社会」によって持ち込まれる奴隷制と貧困と不徳を非難している。
「政治社会」によってバークが「社会」一般を意味しているのではないことはこの作品から明らかであってしかるべきだ。真剣にせよ風刺にせよ、これはジャングルへの回帰のルソー主義的な要請ではない。バークの攻撃は社会に対しては向けられておらず、つまり平和な人間の相互関係と交換の枠組みに対して向けられてはおらず、国家に対して、つまり人間関係における唯一の強制的要素に対して向けられている。彼の議論は、我々が人間の本性を観察するときに我々は国家が反社会的制度であることを見出す、という信念による。
彼は無政府主義者だった
「無政府主義」は極端な言葉だが、しかし他にバークの主題を十分に記述できるものはない。彼はほんの特定の形態の政府だけではなくて、あらゆるすべての政府を断固として繰りかえし繰りかえし非難する。政府についての見解をまとめて彼が宣言するには、
政府のいくらかの種属は、彼らの憲法の不合理と、彼らが国民に耐えさせる圧政を互いに競い合っている。ぜひともあなたを組織するもののもとに彼らを連れて行ってみよ、彼らは事実上専制以外の何物でもない。……
宗教と政治の党は、自分の敵に関する適当な警戒をまじめな人に与えるために、互いに関する十分な発見をする。君主主義者の、そして貴族の、そして大衆の、熱心な党派一味は、誰も彼もがとことん政府に軸を据えており、代わるがわる互いの不合理と不都合を証明してきた。無駄なことに、あなたは人工政府が良いものだと私に告げるのだが、しかし私はただこの濫用でのみ口論しているのである。濫用! 論点は濫用だ! [3]
バークが言い加えるに、すべての政府は「壮大な思い違い」に基づいている。いわく、人々は時々互いに暴力を働くことが観察され、ゆえにそのような暴力への守りが必然的である。結果として人々は彼らのうちから統治者を任命する。しかし誰が人々を統治者から守るんだ?
バークは私有財産制無政府主義だったか?
バークの『弁護』の無政府主義は、積極的であるというよりはむしろ消極的である。バークが理想的と考える社会のタイプの積極的な青写真からよりは、むしろ国家への攻撃から出来ている。帰結として、共産主義者と個人主義者の比翼の無政府主義者がこの作品から糧を引き出してきた。ウィリアム・ゴドウィンという十八世紀イギリスの共産主義的無政府主義の創設者は彼自身の視点の先駆として『弁護』を歓迎した。かたや、ジョサイア・ウォーレンの個人主義的無政府主義のイギリス人門下は余白にコメントを注して1858年に『弁護』を再刊行し、これがベンジャミン・R・タッカーに高く称えられ、1885年の『Liberty』に再印刷された。すべてを鑑みるに、確定的ではないものの、公平に言って『弁護』は個人主義者陣営に置かれるだろう。私有財産権への敵意の気配がないのだから。
まじめな作品
これがバークによるまじめな作品であり風刺ではないという多くの内的証拠がある。第一には理性の処遇である。後年のバークの最も特徴的な見解の一つである、彼をニュー保守主義者に殊更慕わせるものは、理性への不信である。特に、機械をビルドするエンジニアの仕方で人々の生活を計画せんと望む合理主義者は自生的で非計画的な変化に頼む保守主義者と対照される。したがって、『弁護』におけるバークの理性への依存は単純に合理主義者の見解についての風刺であるかのようだ。しかしこれはまったく真相ではない。バークが極端なリバタリアン的見方の砦として理性を掲げる際に、彼はまた計画を望み社会を圧政化する合理主義者をも攻撃する。しかし彼らへの攻撃は彼らが合理主義者だからではなく、彼らが理性に対して偽だからというのが正確である。彼らは自由の合理性を十分に理解する合理主義者ではない。彼らは「自然な理性」の代わりに「人工的な理性」に従事しているのだ。
私の探求の間、あなたは、私の推論の仕方と人工社会の教唆者のうちで用いられる推論の仕方の間に具体的な違いを見て取ったことだろう。彼らは人類に命ずるために、彼らの空想に最もふさわしいような計画を形作る。私は、それらの計画の思い違いに由来する現実に知られた帰結からそれらを発見する。彼らは私たちの本性の明白なルールから逸脱するほどに分際をわきまえておらず……理性を理性自体に戦わせるために徴用してきて、また我々が人類の愚かさと惨めさを募らせるほどに分際をわきまえておらず、理性を理性自身に敵対させてきた。 [4]
第二に、もしもバークがボーリンブルクの有神論観を論駁したかったなら、彼は政府を非難するのと同等かそれ以上に「人工宗教」を非難しただろう。しかし、反対に、バークは政府をはるかに邪悪であるとあからさまに言い立てた。 [5]
もちろん、彼は弁護士を嫌った
『弁護』の由々しさのもう一つの証拠は弁護士と法的手続きへの厳しく公然たる批判である。我々は、バークがこの期間に不幸な法学生であって、法に飽き飽きし、文学と文学的仲間に熱心に振り向いていたのを知っており、『弁護』における法についての彼の苦々しい緒節はこの期間の彼の感情について我々の知っているところに申し分なく合致する 。[6]しかしもしもこれらの節がバークの心からの意見に忠実であるならば、作品の残りについても同様にそうであるとは言わないのはなぜか?
歴史家は『弁護』が先に死んだボーリンブルクの文体を真似て書いたことを強調し、そしてそれを風刺的な性癖の証明として取り上げてきた。バークが後の作品でも似た文体で書き続けたことを、同じ伝記作者は認めるのに! 実際、当事至るところで偉大な名文家や演説家として知られていた男の文体を若きバークが真似ようとしたはずだということが驚くことか? 公共からバークのアイデンティティを守るための、ボーリンブルク死後の作品であったという印象を与えるための、彼の手の込んだ努力が、異なる説明で仄めかされている。これは『弁護』で表現されているそういう見解が酷く罵られ非難されるだろうことへの彼の気付きである。この作品が無政府主義の最初の表現であったことを、おそらくもっとも「急進的」でありもっとも「保守的」でない信条であることを思い出そうじゃないか。『弁護』の全体の語調は、実際、自身の見解を刊行することによる個人的な帰結を恐れて躊躇いさえするが、しかし、新しく大いなる真理が発見されたという信念によって自らを前方に駆り立てる男のものである。バークが暴露するには、
私はこれらの点および更なる多くの点を、その完全な範囲まで広げるには程遠い。あなたは私が私自身の強みの半分も出していないことに気づいており、その理由のために当惑してはいないはずだ。議題のちゃんとした選び方を知っているならば、人は十分に思考の自由を許されている。あなたはたぶん中国の政体を自由に批判するだろうし、不合理なごまかしや坊主の破壊的な偏狭を同じだけの厳しさで好きなだけ観察するだろう。しかし、場面が変わってあなたが本国に来たるや、無神論や反逆罪が、中国では理性や真理であると主張される事柄に英国で付けられている名前かもしれない。[7]
次の一節が特に胸を打つ。
真理を今耳にするよりも世界がもっとそれにふさわしい調子のときや、私がその調子にもっと無関心なときに、私の考えはもっと公然となっているかもしれない。そのときまでは、これらを私自身の胸に、そして真理と理性のまじめな謎から着手するにふさわしい人々の胸に眠らせよう。 [8]
風刺にあらず
おそらくこれらの言葉は『弁護』の謎への鍵を提供する。もしもこの作品が本当に風刺であるならば、上りつつある政治的キャリアが危うかったときになぜ単にそのように風刺だと公言しただけだったのか? なぜ出版後すぐに大声で公告しなかったのか? そしてもしも『弁護』のバークがひどく本気であったのなら、彼は本当に彼の早期の見解を変えたのか、それとも、賢慮の偉大な提唱が、賢慮によって公共の調子に屈服したのか?
[1] Edmund Burke, Works (London, 1900), I, 21.
[2] Ibid., 35.
[3] Ibid., 46, 32-33.
[4] Ibid., 37.
[5] Ibid., 46-47.
[6] Ibid., 38-41.
[7] Ibid., 36.
[8] Ibid., 32.
(出典: mises.org)
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